>HOME >DATABASE

Jacques Bouveresse,PRODIGES ET VERTIGES DE L'ANALOGIE,Raisons d'Agir,1999(宮代康丈訳『アナロジーの罠 フランス現代思想批判』,新書館,2003)



ジャック・ブーヴレス(Jacques Bouveresse)

目次


1 人文系知識人に「科学的である」と見せる技術について


2 人文系知識人に科学的教養が欠けていることが、この惨禍の真の原因か


3 いかにして濫用の張本人が犠牲者へ、そして告発者へと変貌するか


4 無知であることの利点、ならびに一種の高度な理解と見なされる混同


5 ゲーデルの災難、あるいは不完全性定理を我田引水する哲学者の技術


6 「貴様も同じだ!」という論法


7 哲学の本当の敵は誰か


8 ソーカル事件とその後−教訓は理解されるのか


9 批判の自由なき思想の自由?


エピローグ



訳者あとがき


人名索引



 ソーカルとブリクモンが『知の欺瞞』で指摘したことは、哲学の営みを記述し、また方向付けるという哲学内部の問題が哲学者自身によって無自覚に、半ば日常茶飯事的に取り違えて理解されているということである。二人の一連の指摘によって、自分がよく知っている事柄を論じているからこそ自分自身が理解できていないこと、また自分がよく知らない事柄を論じているために理解できてしまうことというカテゴリーが問題提起されたのである。具体的には、今日に影響を及ぼしてきた決して少なからぬ思想家たちが、科学用語を粗雑に濫用することで持論を曖昧にしてしまったことが『知の欺瞞』で述べられたのである。
 思想家は自分の主張を相手に理解してもらいたいと望むのであれば、自分がいま何を考えているのかを明瞭に意識して表現するべきである。一部の知識人たちの発言をソーカルやブリクモンが理解できないと主張するのは、彼らの無知や悪意が原因なのではない。そうした指摘を思想家の信奉者や崇拝者は敢えて避けてきたのである。たしかに『知の欺瞞』で批判的に取り上げられている思想家たちの主張が、ある読者層の目からうろこが落ちる思いを引き起こさせたことは間違いないだろう。しかし、そうでなかった読者がいるかもしれないし、また目を眩まされなかった読者は、目からうろこが落ちなかったという事実とその理由を説明する権利が認められることはなんらおかしなことではない。
ページTOPへ

1 人文系知識人に「科学的である」と見せる技術について

 ムージルは彼が書いた書評(シュペングラー『西洋の没落』についての書評)のなかで、比喩を混同させることによって誤解が生じる「証明」の例を取り上げている。それはたとえば犬、テーブル、椅子、4次方程式を「四足類」という同一カテゴリーに認識するような結論付けについてである。『知の欺瞞』はまさにこうした「証明」を批判的に取り上げている。一連の「証明」方法に共通していることは、ひとつめに対象の表面的な類似性が一貫して誇張され、それがあたかも新発見であるかのように扱われていること。ふたつめに対象の根本的な相違が一貫して無視され、瑣末な関心によってそれが圧倒されてしまうことである。
 ドブレはゲーデルの不完全性定理を社会的政治的システムの理論に応用する。少なくとも応用できると考えている。社会的でも政治的でもあらゆる形式的体系(システム)には同じ現象が生じている。個々の現象は異なる形態で認識されるものの、それらにはひとつの統一した説明原理があるというのである。つまりある社会的システムの内部は証明可能であるはずなのに証明できないのはなぜか、あるいは人間社会の土台をなす基本的命題を論理学的に無矛盾に証明できないのはなぜかということの理由をゲーデルの不完全性定理が証明してくれたというのである。
 人間社会の土台をなす基本的命題が完全に証明されるとなどはほとんどの人が信じていないし、本気で証明しようとしている人はほとんどいないだろう。ドブレが述べていることは至極当然の結論である。しかしなぜここでゲーデルが取り上げられているのか。たとえばウィットゲンシュタインのいう「理由の連鎖をさかのぼっていくと終わりにたどりつく」という定理を用いたとしてもほぼ同じ結論に達するのではないか。
 ゲーデルの定理が対象とするシステムは、ある数学的な記号という形式システムの条件下での理論である。政治的・社会的システムがその形式システムに該当するという前提を語らずにゲーデルの定理に応用しているのである。しかし、そもそも政治的・社会的システムがゲーデルの定理が対象とするシステムでないためにこの証明は成立しない。ソーカルとブリクモンは、仮にゲーデルの定理を社会的組織のアナロジーとして用いるとしても、それは論証の手段ではないことを指摘する。
 人文科学の知を数学や厳密な証明を要する科学と併せて論じることによって「博識さ」や「客観性」を確保することに知識人は慎重であるべきである。
ページTOPへ

2 人文系知識人に科学的教養が欠けていることが、この惨禍の真の原因か

哲学には天才的「直観」や衝撃的なカテゴリー化が期待されるべきではないにもかかわらず、今日のフランスの哲学ではそれが少なからず期待されている。そして自然科学の専門的な概念と哲学とでアナロジーを濫用するばかりではなく、ごく普通の概念までも正当な用いられ方をしていない。  
 自然科学者が異なるカテゴリーにあると考えてきた対象にアナロジーを持ちこむときには、まず対象間に共通な特徴とアナロジーの限界について考慮する。たとえば科学でメタファーをつかうのは二つ以上の対象間に重要な類似性やアナロジーがあることを記すに値する重要さがあるときに限るべきである。そしてアナロジーに価値付けをすべきかどうかを、意味のあるアナロジーとして強調しつづけるべきか、瑣末であるために無視するかということを常に考慮するのである。 
 しかし哲学者はそのアナロジーが重要か瑣末であるかの判断を読者に委ねてしまい、むしろ思考の自由を最大限に許すという名目でそのことを敢えて考えないのである。そしてフランスの哲学界では「思考」という名のもとに、哲学以外の領域に向けての説明を免除されているかのようである。ソーカルやブリクモンが指摘した人文科学におけるアナロジーの誤用について快く思っていない人の中には自らもその過ちを犯している者がいるのではなかろうか。   
 こうした事態の原因は人文科学の知識人たちの科学的素養が欠けていたためなのではなく、権力や名声への欲求、自分たちの英雄への信仰が深く関わっているのである。
ページTOPへ

3 いかにして濫用の張本人が犠牲者へ、そして告発者へと変貌するか

 ソーカルやブリクモンに批判された識者たちは、すでにその主張によって栄誉や名声をかちとっている人たちである。実質的な批評が通用するのは知名度と影響力をもち、一切の批判を見下せる立場にある人を対象とするときである。
 デリダは意味(テクスト)における決定不可能性と、形式(ゲーデルの定理内での真理)における決定不可能性を「詩的メタファー」として同一化する。そして「意味的メタファー」に矛盾が生じるとすぐに分野を変えて議論可能な事柄をメタファーを遠ざけようとするのである。だがゲーデルの定理を持ち出すならば、持論の形式化や形式的手続きが示されない限りそれを持ち出す根拠はない。  
 社会システムや政治システム(意味のシステム)において真理を証明が不可能であるのは自明であるが、それをゲーデルの不完全性定理(形式のシステム)で証明することにどのような意味があるのか。そして意味のシステムを形式のシステムと同一視できる根拠はどこにあるのかを示さない限り、この二つのシステムを同一カテゴリーで論じることはできないだろう。(ゲーデルのように)形式のシステムが指す事柄を理解しているならば、ゲーデルの理論をつかって宗教、社会、政治的言説、社会集団を対象にしてそこに意味を「再び見出す」ことはしないだろう。  
 脱構築論には無縁であるはずのゲーデルがその陣営にいつのまにか組み込まれ、論理学や数学までも「脱構築」した功労者として彼を称えるのは理解しがたいことである。
  ページTOPへ

4 無知であることの利点、ならびに一種の高度な理解と見なされる混同

 19世紀の物理学者マクスウェルの文章からは、自然科学と哲学との知識人たちのあいだに理解と説明を前提とする了解があったことが覗える。しかし今日では本当に哲学の方法や思想を理解できるのならば、精密科学を手掛かりとして持ち出すことは必要ではない。つまり科学はその成果を哲学的発見を導き出す手段として哲学者からは見なされているのである。哲学者は科学を理解するのではなく、都合の良いようにつかえる方法論として科学を認識し始めている。だが今日の現状を見れば、ゲーデルの定理を持ち出して文学や形而上学、宗教での決定不可能な問題について考察したとしても、新しい論点が付け加わることがないのである。むしろ本来の目的である人文科学の問題とゲーデルの定理のなにを類比しようとしているのかすら把握できなくなってしまっているのである。それはなぜか。  
 今日「ポストモダン派」は、科学の本質が文学や哲学と変わらないところまで変容したと主張する。そしてその例証として量子力学、フラクタル幾何学、カオス理論、ゲーデルの定理を取りあげている。こうした「ポストモダン派」のやり方に共通しているのは、科学の命題の背後関係に立ち入ることなく、またその定理の科学的意味を知るつもりもなく、科学者が述べている科学の成果から導き出される哲学的意味にも目を向けないことである。そしてそこから導き出される結果は名声ある科学的帰結の信用を借りること、反論に窮すると詩的メタファーという免罪符を得ることなのである。またその結論は無難で平凡であるのだが、読み手はその権威のために易々とそうであることに気づかないのである。
 ただしソーカルとブリクモンはメタファーの役割そのものが悪いと批判しているのではない。問題はメタファーの誤用によって主張の内容に典型的な曖昧さや混同が生じていることである。つまりある命題が意味を持つためには数学的、実証的手段が必要だということでは必ずしもない。経験科学による意味付けが決して非力ではないことを「ポストモダン派」は改めて知るべきだろう。
  ページTOPへ

5 ゲーデルの災難、あるいは不完全性定理を我田引水する哲学者の技術

 セールは『科学史要綱』という彼の著作のなかで「ゲーデル−ドブレ定理」を支持する。ドブレは社会学や科学史の中でもゲーデルの不完全性定理の結論を応用できることを示したとセールは彼を評する。しかしそこにどれだけの確証があるのだろうか。たとえばドブレは集団的狂気の根本が正気では基礎付けられない論理的公理(不完全性)にあるという。しかしドブレのいう集団的狂気が数学的な帰結であるゲーデルの不完全性とどのような関係があるのだろうか。たしかに人間集団の狂気はいくつかの根本的な理由からでは決定できないはずである。そしてそれにあたかも理由付けしてしまっていることをドブレが主張したいならば、それは尤もなことかもしれない。だがそれはゲーデルが証明したこととは無関係である。  
 ゲーデルの第一定理とは、完全に形式化(数学的な記号化)されたシステムにおいてのみ成立し、かつゲーデル命題Gは真であることが証明可能な命題であるにもかかわらず、その命題の真偽を決定することができないということを証明した理論である。また第二定理は、システムが無矛盾であるという命題もじつは決定不可能であるため、システム内で定式化できる論拠によってはシステムの無矛盾を証明することはできないという理論である。  
 ドブレはこのゲーデルの定理と社会的システムとをどのように対比し、また同一化して論を展開しているのだろうか。ドブレが社会的システムを無矛盾に基礎付けることが、そのシステムの内部だけではできないということを証明するためにゲーデルの定理をつかったとしてもそれは数学的な証明とはいえないだろう。  
 ゲーデルの定理は様々な哲学の分野で発想のきっかけとして注目されてきた。だがそのときに活用された決定の不可能性というアナロジーの多くが理論間でどのような対応関係があるのかを研究者が綯い交ぜにするべきではない。ゲーデルの定理が数学の文脈を離れて用いることができるのはなぜなのか、そしてかりにそれが可能だとしてもそこから導き出された新発見や新事実がなんであるのかをアナロジーを用いる者が常に自覚的でなければならないだろう。  
 ドブレはゲーデルの定理を数学の文脈から離れてつかっていること、そしてそれが何らの論拠とならないこと、権威付けにもならないことを認めている。にもかかわらず彼はゲーデルを引き合いに出しつづけるのである。ドブレは否定しつづけるだろうが、彼が持論にゲーデルの定理を引き合いに出しつづけるのは、持論の権威付けのための手段に他ならないのではないだろうか。
  ページTOPへ

6 「貴様も同じだ!」という論法

 自然科学とはなにを対象にする科学であるのか。自然科学の言説が屁理屈だと述べるものなど皆無であり、科学の本質を追究していると信じられていることどのような仕掛けがあるのか。科学の営みと客観的知識の探求とがどれだけ、そしてどのように切り離されてきたのか。自然科学はそれにどのように関わってきたのだろうか。  
 ソーカルとブロワが『知の欺瞞』で取り上げたテーマは二つある。ひとつはこれまで述べてきたポストモダン派によるアナロジーの濫用である。そしてもうひとつはポストモダン派の認識論者が擁護し、偏愛しているある認識論についてである。 
 ポストモダンの認識論者たちは自然科学と客観的知識とは無関係であり、客観的知識とは人間(学者)が意味を生み出した社会的構築物であるという。そして、それが自然界から受ける拘束をより現実的に記述する方法を見つけ出すことが必要だというのである。だが、実際には客観的知識と自然界との拘束関係を厳密に記述する方法を自然科学に期待するよりも、人類学や社会学によって社会的構築物を再統一する原理を探させるほうがより手軽だという。なぜなら人間の特徴は文化研究を通じて明らかになってきたものの、自然科学的な記述の方法としての認識論が客観的事実の特徴をどれだけ捉えてきたのか、その成果は疑わしいとポストモダン科学哲学者はいうのである。
 こうした認識論者の代表としてシュペングラーがいる。かれは客観主義的パラダイムから人間中心主義的(擬人的)なパラダイムへの転換を唱える。つまり今日では自然科学は人文科学と重なり合っており、自然科学とは人間を登場人物として物語であるというのである。そしてポストモダンの認識論者はその主張を実践する。たとえば原子論と倫理学との内的親近関係や熱力学の第二法則を人間社会の変遷や歴史に応用するのである。そしてこれらの主張を擁護する論者はこうした主張の論拠を非可逆性を非難し否定するのではなく、むしろ創造的だとして評価すべきだというのである。   
 自然科学や自然科学者の認識の変容は少なからずポストモダン派の認識論と似通った道筋をたどっているのではないだろうか。人文科学が自然科学をとりこむ主張はゲーテの『色彩論』以来、潜在的には存在していたのだが量子力学の進展以後それが顕著になってきたということなだけなのではなかろうか。その例証のひとつとしてマラ・ペラーは量子力学の相補性の原理を他の分野(生物学、心理学、人類学、哲学、宗教、芸術、政治)に応用し、そこから重要な結論を導こうとしていたのが、ほかならぬ物理学者だったと指摘している。こうした議論がゆきつく先はこれまで見てきた通りである。しかし哲学者が科学について語るよりも、科学者が哲学の領域で語ることのほうが社会からの反響は大きいだろう。しかし、だからといってそれが正しいことでもないし、哲学者が科学の領域に踏み込んでアナロジーを濫用することの正当化にはならない。  
 人文系の知識人や哲学者は持論に有利な部分についてだけを切りとって、科学の成果のつまみ食いをしている。そしてその成果を権威付けとして問題が解決されたかのように論じ始める。たとえば因果律や決定論、客観的現実ということを排除する論拠として量子力学の非決定論を持ちだす。そしてその大元にあるのは自然科学と文学、芸術は同じ原理でお互いを補い合うという主張(融和主義)である。この主張は自然科学にコンプレックスを抱く哲学者、知識人にとって、自然科学が人文科学の方法論と結局同じだということを自然科学の側からもお墨付きを得る意味において哲学者、知識人にとってはありがたい理論なのである。   
 レヴィー・ブルロンは物理学と認識論とのあいだに生まれるメタファーを想像力を駆使して積極的につかうべきだと述べる。ブルロンは空疎なレトリック、駄弁、思いつきや妄想をよしとしているわけではないのだろう。彼は「知の創出においてこそ、思考と言語は自覚的に用いなければならない」と言う。しかし彼はメタファーを用いるものがメタファーの「よい」(適切な)つかい方と「悪い」(濫用まがいの)つかい方とを線引きすることを科学主義的発想として切り捨てる。
 ブルロンはメタファーの活用に良し悪しがあると認めている。しかし彼にとってのメタファーの誤用が本当に存在することだと考えているのだろうか。むしろブルロンの意図はソーカルとブリクモンが指摘したことへの個々の反論ではなく、彼らが人文系知識人の中に蔓延するメタファーの濫用を指摘したことそのものへの反論なのではないだろうか。
  ページTOPへ

7 哲学の本当の敵は誰か

 ファリオン・ヴァン・ランテルゲームは書評で『知の欺瞞』を「知性(思考すること)の価値下落をねらった科学主義的作戦」として紹介した。そして著者であるソーカルやブリクモンは、彼らの哲学、思考への憎悪からそうしたのだというのである。それはどういうことか。かりに二人が著名な哲学者を批判したことは哲学、思考への憎悪が原因だとするならば、哲学を憎悪する哲学者は彼らだけではあるまい。もちろん記述の誤謬やでたらめに対する憎悪と、それを書いた人物に対する憎悪ははっきり区別されてしかるべきである。だがランテルゲームがいうように、哲学への愛憎を理由として哲学者を批判したり支持したりすることに論拠を見出すことができるのだろうか。   
 知的世界での活躍者、識者の言動について「客観的」な説明を試みたとしても必ずしもそれが本人の意図している内容と一致しないのはままあることである。しかし今日では、識者の動機の純粋性とか高潔さを無批判に受け入れることが当たり前とされつつあり、識者の動機を説明しようとする試み自体が認められなくなっている。   
 またこれまでは識者は持論が「科学的」であることを目指し、その過程でたとえある神秘性を剥ぎ取る不愉快な説明がなされたとしても、それは「進歩」として評価されてきたのである。しかし今日ではそれが愛憎の軸で評価されるためそれを嫌って誰もが誰に対しても無批判的に尊重し合い、「お互い愛し合いましょう」といって対立を避けるのである。このように言論を無条件に擁護することで、今度は他人が批判をする権利が認められなくなるのである。今日ポストモダン派がよく持ち出す論点に、哲学と文学とは運命共同体であるから対立を避けて協調しようという主張がある。しかしこうしたコンセンサスや協調を声高に唱えても権力闘争、派遣闘争、領域審判、非合法合併、ジャンルや特権の混同、職務や権威の簒奪、権力の乱用といった現実が一気に解消されるわけはない。  
 ケヴィン・マリガンは道徳規範や政治の価値の存在や重要性が再確認されている反面で、認識上の価値や規範に言及することには否定的な反応が生じることを指摘する。なぜ論理学や方法論などの分野がモラルの例外となるだろうか。それは識者に文章や発言、仕事や責任の果し方に説明を求めることはこれまで以上に敵対行為と見なされる傾向にある。 
 知的世界での行動のモラル向上とは、警察のように取り締まることではない。ソーカルやブリクモンが著名な識者に批判を加えたからといって、今後その識者の議論を止めさせることは誰にもできない。言論を検閲したり、不正を糾弾する組織を作ろうというのではない。だが今日の識者のおおくに「堂々とした戦士」の面影はなく、論争を拒み、ジャーナリズムの力を借りながら不戦勝をねらっているかのようである。最も大切なことは識者のそうした態度ではなく、むしろ識者たちが「なにか意味のあることを本当に言ったのか」ということに向けあれるべきである。
 識者の言動に批判がなされ、当事者が道徳的に憤慨するのはなぜだろうか。それはこれ以上事実を糾弾されることを拒んでいるのか、または周知の事実を指摘したことへの示唆なのか。その識者の心の中で現実が繰り返し確認されるほど、幻想を擁護する向きは強くなるだろう。
  ページTOPへ

8 ソーカル事件とその後−教訓は理解されるのか

 文学と哲学の対象は森羅万象である、なにに言及することにも権利があり、どんな規則をも超越しているという了解(文学的哲学主義・リテラロフィロソフィスム)がある。情報操作が政治の世界ならばプロパガンダと呼ばれるようなことであっても、文学や哲学批評の場では不問に付される。  
 また、哲学のテクストは文学的快楽を評価するものであり、内容の真偽が問題なのではないという主張もある。確かにこの主張は文学の世界ではそうであっても、哲学や科学ではそうではないことを明確にしなくてはならない。内容を評価するための認識的規範を拒否するのはモラルを不問に付す態度(シニシズムの認識版)である  
 ジャーナリズムは恥をかかない程度に識者の人となりや、その主張に解説を加えようとしているのは感じられる。だが、それらの解説でつかわれている言葉にはすでにジャーナリズムの立場からの意図が織り込まれている。たとえば論理学者ということばには「面白みにかけた退屈きわまる事柄について、専門知識を駆使しながら論じる人物」という程度の意味しか付与されておらず、新聞や雑誌誌面での論理学という言葉が意味することは定まってはいないのである。  
 アレキサンドル・ジェノヴィエフは『奈落の高み』のなかで科学的結論そのものがイデオロギー的身分を持っていることを指摘する。たとえば相対性理論は今日でこそ定説としての地位を築いているが、当時は異端として見なされていた。イデオロギー的身分と齟齬する主張は蒙昧や反動として糾弾されてきたのだという。だがすべての科学理論がイデオロギーの身分をもつのではなく、『自明の理』を導き出すのに都合のよい理論の都合の良い部分だけが切り出される。だから言及されずに終わる「不運な」理論のほうが圧倒的に多いのであると彼は述べる。  
 哲学者は科学理論の脅威に敏感であるので、科学理論のイデオロギー化という形で権力の濫用をやすやすと見出す傾向にある。しかし、文学の思考方法が思考そのものを解放するという考えは捨て去らねばならない。つまり哲学者は自分が権力や影響力の濫用の当事者であることに無自覚的である傾向にある。自然科学の成果や成功が目覚しく思え、それにコンプレックスを抱く人文系の識者が少なからずいるだろう。そして人文科学の営みを自然科学のそれと隔絶して考えたがるかもしれないが、科学者の態度はそれを許さない。つまり彼らは科学の概念自体、そしてその命題が承認され、正当化されることを求めてイデオロギーを生み出そうとするのである。
  ページTOPへ

9 批判の自由なき思想の自由?

 『知の欺瞞』の評価を巡る応酬から見えてくる問題点は、思想の自由というお墨付きによって他人の議論を批判する権利が認められなくなってしまったのではないだろうかということである。ここでいう思考の自由とは、いつでもだれでもどこでも思考することの自由ではなく、わたしが自由に考えても良いと認められることである。その自由はときに学問の領域間の「不適切」な応用を可能にし、またその責任から逃れるための免罪符ともなる。つまりそこには識者が思考する対象の自由は認められていても、そのように思考する判断の自由(判断を批判することの自由)は認められていない。だがそうした思想の自由の恩恵を受けた識者たちが本当になにか重要なことを創造したのだろうか。だがこの問いに答える側の当事者は、不当な名声を博している「へぼ思想家たち」は自分であるはずがないと思っているのである。  
 識者の社会が「栄光製造機」の基本原理を以前にもまして認めるようになってきている。つまり個人は「世論」に逆らいたいと思わない。成功や名声が目的となり、それに無批判的に擦り寄ることで自らが栄光を勝ち取ろうとするのである。そしてそれを批判するのは愚者の妬みにしか当事者には思われないのである。  
 議論が端緒となって巻き起こる政治的な影響に言及しないのは公平ではない。しかしその影響を言及したからといって、決して議論そのものが訴える批判の矛先が変わるのではない。  
 ダニエル・シボニーは『知の欺瞞』によって批判された論客の多くが議論の好悪(愛の対象)を判断の軸にしていることを指摘する。これまでの哲学者は理性の問題に感情や情動が重要な働きをしていることを強調してきたのは、そうなるべきではないと考えてきたからである。対照的に今日では理性の役割は確かに非力だが、それでも必要以上に幅を利かせているのではないかという意見が多いように思われる。つまり理性で峻別されるべきである判断を好悪の念に担わせていることに無自覚であり、また無批判である。  
 持論が迫害された識者が訴えることは、議論の余地があると指摘されたメタファーを正当化しないで、指摘されていないメタファーの権利を擁護する。そしてメタファーの活用が難解であるためにその説明や解釈を求める他者の指摘自体を拒む。最も注視すべきことは、批判を受けることが創造の自由(思考の自由)の侵害であると言う論法を採用すれば、それが十分な反論になると考えていることである。ではどうして批判の権利が認められず、批判そのものが自動的に権力の濫用と理解されるようになったのだろうか。  
 それは今日では論拠や批判が嫉妬心の現われとして理解されているためである。だがこれは本当の進歩といえるのだろうか。「創造者」を自任するならば批判に応えていくべきである。また「創造者」ではないからといって批判の権利を認められないということはないのである。にもかかわらず、今日のフランス思想界ではそれとはまったく正反対の状況がある。「思想家」を自負する自分たちが科学や科学哲学から持論を擁護することではなく、むしろどのように内側から思想の擁護に貢献できるのかに正面から取り組むべきである。
 

エピローグ

 『知の欺瞞』を読み終えて考えることは、思想家たちがどうして科学用語をでたらめに用いることとなったのかという背景についてである。科学用語をつかうことで、なにか本質的なことを掴み取ろうとしていたのだろうか。権力の濫用をしているのが果たして糾弾している側なのか、されている側なのかはっきりしないのは、思想の合理性のための民主的な手続きの想定内容が根本的に違うからである。驚くべきことは判断力や論証能力に訴えることが民主的な説得の方法だと必ずしもすべての人が考えているわけではないということである。むしろ巧みな言葉遣いで読者を誘惑することのほうがより思想の合理性に適った民主的な方法だと考えてている識者もいるのである。  
 『知の欺瞞』を巡る一連の応酬から明らかになってきたことは、合理的思考が最後に勝つ可能性はほとんどないが、勝つのではないかと期待する気持ちはその可能性が少ないほどかえって膨らむということである。だが本当に合理的思考が勝つことなく、フランスの急進的な知識人たちがこのままの進路を採りつづけるならば、「理性の専制」「科学の帝国主義」「思想警察」「モラルの回帰」といった自説にとって忌まわしいものの脅威をその理論が破綻するまで糾弾しつづけるのだろう。
  ページTOPへ

作成:高田一樹  UP:20030818 
ビジネス・エシックス関連文献表  ◇BIBLIO.  ◇WHO 

HOME(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/)