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上野千鶴子編 『構築主義とは何か』 勁草書房


上野千鶴子編 20010220 『構築主義とは何か』 勁草書房  305+10p.,2800+税
*ここでは、序章第2章第6章および第9章を紹介する。

〈目次〉
はじめに             上野千鶴子
序章   構築主義の系譜学 千田有紀
第1章  臨床のナラティヴ 野口裕二
第2章  言説分析と構築主義 赤川学
第3章  文学とジェンダー分析 飯田祐子
第4章  〈文化〉? 〈女〉? ――民族誌をめぐる本質主義と構築主義 中谷文美
第5章  歴史学における構築主義 荻野美穂
第6章  構築主義と身体の臨界 加藤秀一
第7章  構築されるセクシュアリティ ――クィア理論と構築主義 伊田真一
第8章  「資本主義社会はもはや異性愛主義を必要としていない」のか
      ――「同一性(アイデンティティ)の原理」をめぐってバトラーとフレイザーが言わなかったこと 竹村和子
第9章  〈構築されざるもの〉の権利をめぐって――歴史的構築主義と実在論 北田暁大
構築主義とは何か ――あとがきに代えて 上野千鶴子

  
序章 構築主義の系譜学 千田有紀
1 構築主義の問題系
■ constructionismという概念とは
 バーガーとルックマンの要約 「現実とは社会的に構成(construct)されており、知識社会学はこの構成がおこなわれる過程を分析しなければならない」 (Beger and Luckmann 1966=1977)

〈現実〉「われわれの意思から独立した一つの存在をもつと認められる現象に属する一つの属性」
〈知識〉「現象が現実的なものであり、それらが特殊な性格をそなえたものであることの確証として定義しておくだけで十分」

知識社会学
   広義の知識ないし知的所産が、その発生、機能、影響、妥当性などに関して、どのように社会的条件と関連するかを研究する社会学の分野ないし方法。 シェーラーとマンハイムによって学問分野として確立。マートンはイデオロギー論をマス・コミュニケーション研究へと転回させ、知識人論を「科学社会学」へと 展開する途を開く。今や知識社会学は、人文・社会科学に通じる普遍的方法として、その活動領域を拡大しつつある。

■ バーによる構築主義の要件
1.自明性を帯びている所与の知識への批判的スタンスがなくてはならない
2.歴史的、文化的な特殊性が自覚されなくてはならない
3.知識が社会過程によって支えられている点を、考えあわせていることが必要である
4.知識と社会的行為とは相伴う過程なのだという認識を持っていなくてはならない
 これらの仮定のうち、一つ以上を備えるアプローチであれば、「大まかに社会的構築主義social constructionismに分類できる」(Burr 1995=1997)

■ 千田による暫定的な三つの指標
1.構築主義とは社会を知識の観点から検討しようという志向性をもつこと
2.それらの知識は、人々の相互作用によってたえず構築され続けていることについて、自覚的であること
3.知識は(狭義の意味での制度だけでなく)、広義の社会制度と結びついていると、認識しなければならない

■ 構築主義の三つの系譜
1.社会問題をめぐる系譜
2.物語叙述をめぐる系譜
3.身体をめぐる系譜

2 構築主義か構成主義か?
■ 「構成主義」と訳されたconstructionism
 バーガーとルックマン『日常世界の構成――アイデンティティと社会の弁証法』
 問題意識 主観主義と客観主義との対立の解消

■「構築主義」と訳されたconstructionism
 スペクターとキツセ『社会問題の構築――ラベリング理論をこえて』
 問題意識 ひとびとがどのような問題を社会問題とみなし、クレイムを申し立て、クレイムの共有を迫るのか。社会問題の構築主義はクレイム申し立ての 運動過程を記述すること

ミクロからのアプローチか、マクロからのアプローチか

■ 言語論的転回以後における物語論
マクロには歴史学における歴史叙述をめぐる系譜……文書中心主義的実証主義への批判
ミクロには心理学の物語構築をめぐる系譜……ナラティヴ・セラピー論

3 constructionismとconstructivism
■ constructivismの含意
 constructionismはconstructivismを批判して成り立っている。constructivismとは、なにが「現実」として見えるのかはその生物学的有機体に備わった固有の 器官の働きによって決定されるという立場。人間の言語習得以前に知的な活動が始まっているというピアジェの理論はconstructivismにあたる。この考え方は 「人間を情報処理機械として規定するものであり、意味を生成するものとは捉えない点で実用性に限界がある」(Anderson and Goolishian 1992=1997)
 constructivismは主に認知心理学で使われてきた概念で、自己がいかに言語を使って外界を認知するのかという「枠づけframing」の過程を明らかにするもので あった。それに対して、constructionismが焦点を置くのは、いかにひとびとが経験を「語りなおすre-storying」のかという、意味の共同的な達成過程である。 constructivismは生物的本質主義であり、言語による意味生成過程を追わなければ、社会的・文化的本質主義になる。

4 社会問題をめぐる系譜
 社会問題における構築主義は、スペクターとキツセ『社会問題の構築――ラベリング理論をこえて』に始まる。「社会学において、社会問題の適切な定義は存在 していない。また、社会問題の社会学という分野は現在存在していないし、これまでも存在したことがなかった」(Spector and kitsuse 1977=1990)

■ 社会問題をめぐる構築主義の系譜での焦点
1.客観主義批判
2.言説生産者としての専門家の批判的検討
3.社会問題の実在論/唯名論の対立

スペクターとキツセの仮想敵は、機能主義的社会学者 マートン

 マートン「(社会問題である)社会解体の診断は、社会システムの働きについての実証可能な判断ではなく、しばしば道徳的な判断でしかない」  なにが社会問題であるのか?

 マートンのいう社会解体が社会システムの失敗によって定義づけられる以上、システムが分析の単位になる。システムの境界がどのように決定されるのか。 事象の「客観性」とは何かという問題と、「客観的」に「実証」する専門家の問題が生じる。析出されたシステムの目標は誰が決定するのか。システムの 順機能、逆機能は誰が観察し、判断することができるのか。

 社会学者といえども、自分の道徳や価値から離れて、社会問題を定義することはできないはずである。社会学者が、自らの権力性を意識しつつ、問題に 取り組めば、「ひとびとが社会問題とみなす問題が、社会問題だ」と考えざるを得ない。

■スペクターとキツセ、バーガーとルックマンの相違点
 バーガーとルックマンの知識社会学は、日常生活を営む人びとにとって、知識がどのような意味をもつがという問題に焦点を当てたことに新しさがあった。 しかし、専門家集団の中は知識が均一であるという仮定があるため、知識の生産のダイナミズムに焦点が当たっていない。そのため、言語生産における専門家の 握るイニシアティブに関しての批判は、スペクターとキツセに比べて弱い。

 バーガーとルックマンが主観主義と客観主義の結合こそを問題にしているのに対して、スペクターとキツセは、社会問題の実在性を問題とする。スペクターと キツセは、マクロの意味生成過程に着目し、「研究者が社会問題を実証的、客観的に分析できるのだ」という実証主義への批判を込めて、研究者の役割を社会問題の 構築過程を記述することに限定した。

■ スペクターとキツセによる構築主義
 ラベリング論を推し進め、エスノメソドロジーを加味したもの

ラベリング論
 逸脱の原因を、逸脱者の側にではなく、「逸脱者」というラベルを恣意的に張りつけるひとびとの側に求めるもので大きな意味のある転換で あった。ひとびとが恣意的に「逸脱」というラベルを貼ること(第一次的逸脱)により、逸脱者が逸脱者というアイデンティティを獲得するという、二次的な 逸脱の問題が生じた。

 このため、ラベリング論は逸脱行動の真の原因は何かという、原因論の実証主義に引き込まれることになった。スペクターとキツセは、人びとの相互作用の方法を 問いなおすという方法論を加えて、社会問題の構築のありかたそのものを焦点化させた。社会問題の「実在」論を拒否するかたちで、ラベリング論を洗練させた。

5 物語叙述をめぐる系譜
■ 歴史の叙述をめぐって
 1980年代から各国で歴史修正論争と呼ぶべき論争が生まれてきている。日本でも1990年代になって一気に吹き出してきた。日本では従軍慰安婦問題を中心に展開 されてきた。この論争に構築主義を持ち込んだのは上野千鶴子である。

上野の主張
 歴史の「真実truth」や「事実fact」が実在するのではなく、ただ特定の視角からの問題化による再構成された「現実reality」があるだけである。すべての歴史 叙述が現在から構築されたものであることを認めたうえで、文書中心主義的実証主義から離脱しなくてはならない。

 どのような現実もある特定の視角から問題化されたものに過ぎないという主張、つまり、どのような叙述もなんらかの「パラダイム」(T・クーン)に属している。 スペクターとキツセ流の構築主義的アプローチを選択するならば、特定の「歴史の真実」がどのような動きの中で構築されてきたのか、その権力配置をあきらかに することこそが、構築主義の課題である。

■ 物語性への着目 ナラティヴ・セラピー論
 心理学の臨床の分野でも、物語という言葉が重視されるようになる。ホワイトとエプストンが使い出してから、1990年代にはナラティヴ・セラピーに関する論文が 量産された。ナラティヴ・セラピーでは、自己や自己の経験をどのように物語化するかに眼目がある。
 ナラティヴ・セラピーとは、過去や現在の経験を語り、位置づけ、ひとまとまりの物語を作り上げ、カウンセラーやクライアント相互がその物語を共有することに よって、クライアントたちの経験を理解可能なものにしていくという心理療法。ドナルド・スペンスは「歴史的真実」と区別して、「物語的真実」と言っている。 (Spence 1982)

6 身体をめぐる系譜
■ バトラーのconstructivism批判
 身体をめぐる構築主義の新局面を開いたのはフーコーである。フーコーはセクシュアリティの系譜学によって、さまざまな言語実践の配置によって歴史的に構築 されてきたことを明らかにした。バトラー(Butler)はフーコーの系譜学的手法にならい、異性愛中心主義社会における人々のアイデンティティを検討する。 バトラーは行為者が様々な知識を引用し、コピーしていく過程でアイデンティティが構築されると考える。そして、constructivismを批判することにより、社会構築 主義を突き詰めていく。

■ マネーとタッカーによるconstructivism
 マネーとタッカー『性の署名』は1970年代のフェミニズムのバイブルとなった。マネーとタッカーは生物学的な性差を「セックス」、社会学的な性差を「ジェンダー」 として説明した。このマネーとタッカーの枠組みは、生物学的本質主義を斥けるときには有効だが、今度は社会的・文化的本質主義に陥ってしまった。バトラーは マネーとタッカー流のconstructivismを批判する。わたしたちのアイデンティティはつねにいつも、社会的相互作用のなかで、確認され続けられなくてはならない。

■ 方法論としての構築主義
 構築主義は、ある人間の立場、信念を表明することではなく、あくまであるひとつの「アプローチ」に過ぎない。構築主義は認識に対して接近するためのアプローチ であり、ひとつのパースペクティブである。構築主義では、どのように現象が切り取られ、どのように現象が記述されるのかを問題にしなければならない。
 アイデンティティのカテゴリーを唯一の起源や原因になづける本質主義的アプローチに対して、構築主義的アプローチでは、それらを制度や実践や言説の結果として 考える。それによって本質主義的言説はどのような利害関係のうちにあるのかが分析される。乱暴に言えば、構築主義は本質主義の政治性を暴くためにこそ、存在 している。
7 おわりに
 うまくトラブルを起こすこと。トラブルこそ社会問題の所在を示すものである。


  
第2章 言説分析と構築主義 赤川学
1 二つのconstructionism――構成主義と構築主義
■ 「構築主義」(constructionism,constructivism,構成主義、社会構成主義)
「ある事象Xは自然的/客観的実在というより/ではなく、社会的に構成されたものである」

構築主義 → 社会科学や行動科学を支える認識論、ものの見方
 「普遍」や「本質」や「実在」とされていることが人々の認識や活動によって、社会的・文化的・歴史的に構築されたものであること、可変的であることを強調し、 客観主義や本質主義の素朴さを批判する。

■ 構築主義が持つ問題
1.客観主義や本質主義が存立するかぎりにおいて有意味なのか?
2.構築主義もまた、別の意味での客観主義・本質主義ではないかという気がしないでもない。

 構築主義の有力な方法の言説分析を取り上げる。構築主義の方法論を鍛え直す。

2 本質主義 VS 構成主義
■ 典型的な論争
 「ある現象がどこからどこまで遺伝的・生得的な要素であり、どこからどこまでが環境的・獲得的な要素か」 性差やセクシュアリティに関する論争 構成主義の立場に立つことで、はじめてジェンダーやセクシュアリティに関する社会学が成立する。

■ 論争のポイント
1.本質主義は「生物学的宿命論」や「生物学的決定論」が挙げられる。「本質は不変で、構成されたものは可変」という仮定は厳しすぎる。「変化しがたいのは 自然ではなく文化である」という議論すら成り立ち得る。
2.「遺伝か環境か」という二者択一は、単に学問的なスタンス、認識論の違いとも言える。この論争を突き詰めていけば、学界の所領安堵闘争に至るしかない。
3.遺伝的要素と環境的要素の分離に対して慎重な配慮を行えば行うほど、結論は「遺伝も環境も」という両論併記の穏当な結論に落ち着くように思われる。

 構成主義が本質主義に完全勝利したとき、自ら別の本質主義に陥らざるを得ない。

3 客観主義 VS 構築主義
 認識論的対立としてよりは、経験科学のデータ分析方法論として継受する。
 構築主義はアプローチでは、社会問題とは、人々の言語活動、クレイム申し立て運動によって構築されるものと考えられる。構築主義では「問題とされる状態」 ではなく「問題をめぐる活動」が、「実態」ではなく「言説(語り)」が、コンテクストではなく、テクストが、研究対象になる。構築主義では、障害児の分離教育の 「実態」についての判断を留保したまま、「障害児の分離教育は社会問題である」とクレイムする言説活動の継起的な流れを追尾する。

「存在論的ゲリマンダリング Ontological Gerrymandering」(以下OG)の批判
構築主義者は社会の状態や行動について判断を停止すると言いながら、その実、恣意的に「状態」についての判断を忍び込ませている。

■ その応答
・クレイム申し立て活動におけるレトリックの分析に特化する厳格派
・クレイム申し立て活動の社会歴史的コンテクストを重視するコンテクスト派
・批判に拘泥しない脱構築派

OGの批判
1.社会問題の構築主義アプローチの公準は、実際の研究においては公準破りが横行している。
2.そもそも何事かを説明するという営みには、何らかの存在論的な想定が不可避である。

中河伸俊
2.―OG2は不可避、1.―OG1は回避可能。

 「何事かが存在する」という想定を抜きにしては研究できない。構築主義者は、社会の状態や実態についての判断は留保するが、クレイム申し立て活動や言説が存在 するという事実そのものを否定しているわけではない。「クレイム申し立て活動や言説が存在する」と想定するからこそ、それらを同定することができる。
 構築主義者も実態に対する判断をしている。そうでなければ、ある現象を同一のカテゴリーに属する現象として認知することが不可能である。ただし、それを言説の 生成・変容・消滅の原因として採用するかどうかはアプリオリに決まっていない。

 厳格派のキツセは「状態のカテゴリー」の分析を提案する。

 ある社会問題をめぐって意見が対立・分裂しているような状況下(例えば学校教育をめぐる言説?)においては、「実態」の定義も多重化する。どれが本当の実態に より近いのか。

■ 厳格派とコンテクスト派、どちらを選択すべきか?
 客観主義、コンテクスト派は、クレイム申し立て活動とは独立に「実態」が存在すると考える。
 厳格派は、「実態」の存在・当否は問わず、言説やクレイム申し立て活動が存在すると考える。

 認識論的には等価であり、どちらが生産的な研究結果をアウトプットしやすいか、というテクニカルな問題。

4 言説分析の方法
 定型化されなければレトリックとしての有用性を保ち得ない。
 言説分析やイデオロギー分析では、「語る内容」以上に「語る主体」の社会的ポジション(男性か女性か、支配しているか支配されているか、など)が重視され、 「語る主体」の隠された利害関心や言説の政治的効果が問われる傾向にある。言説の「場」のありようも問題。

■ フーコーの場合
1.言説内的な依存関係
2.言説間的な依存関係
3.言説外的な依存関係
 問題意識 言説の出現/排除をめぐる問い

■ 構築主義アプローチ
1.とある社会問題について語る言説のレトリックとその配置
2.とある社会問題の言説が、別の社会問題の言説、あるいはそれ以外の言説間で有している相関関係
3.とある社会問題の言説を算出している社会的・歴史的・時空的コンテクストを明らかにしつつ、「とある時空間において、とある言説とレトリックが語られ、 他のいかなる言説もその代わりに語られないのはなぜか?」を問うこと

■ 構築主義的な社会問題研究の対象の範囲とタイムスパン
1.一続きの〈ここ―いま〉の切片の中での問題をめぐる語りを会話分析や言説分析で解析する。
(会話やテレビ番組などミクロな記録素材の分析)
2.問題に関わる制度的側面をエスノグラフィー(民族誌)で調査する。
(参与観察やフィールドワーク)
3.特定の問題とその解決をめぐる集合表象の場面の問題過程を追跡する。
(公的な機関〔議会やマスメディア〕における言説分析の調査)
4.社会問題をめぐる集合表象の歴史を言説史のアプローチに依拠して調べる。
(言説の歴史的分析〔言説史〕)

 いずれの方法も、一定の言説フィールド(言説空間)を想定し、そこでの言説のレトリックと配置を仔細に観察し、記述するという営みは避けて通れない。


  
第6章 構築主義と身体の臨界 加藤秀一

 身体は〈社会的に構築〉される、とはどういうことか。社会的構築主義という方法論が、われわれの身体について成立するとすればどういうことか。 この途方もないテーマへのアプローチを試みる。

1 客体としての身体、観念としての身体、現実としての身体
 デカルトの方法的懐疑「何らの身体をも私が持たぬと仮想すること」
 私の身体が物質からできていないということではなく、あくまでも、物質である身体を私が持たないという意味

■ 科学哲学者 イアン・ハッキング『何が社会的に構築されるのか』
 「社会的に構築されると言われている事物(things)」の三タイプ
 「客体(object)」・「観念(idea)」・「エレベーター語(elevator words)」
 現在も昔も、客体としての人間は連続的に成長する。しかし、人生の時期区分やその表象のされ方や重要度は歴史的に変化してきた。  例 アリエス『〈子供〉の誕生』

 身体という対象は実在するのか。構築作用以前にはいかなる意味でも「身体」などは存在しなかったのだと有意味に主張できるだろうか。  例 アンダーソン「国民は想像されたものである」
 「観念としての身体」への視線こそが「客体としての身体」への問いを、否応なく、浮かび上がらせる。そして「物質としての身体」、「身体の物質性」という テーマに帰還する。

2 過程としての身体
■ 〈身体そのもの〉を素朴に前提にするのではない。
 自然科学的領域と人文科学的領域の客体と観念の関係の違い

■ ハッキング「自然種(natural kind)」「相互作用種(interactive kind)」
 相互作用種を相互作用種たらしめるもの、すなわち客体と観念との相互作用を可能にする装置、それが「身体」なのである。

 社会的な力を身体的な力に――あるいはその逆の方向に――変換する、むしろそのような相互変換の場として、身体が定義されるのである。自らにあてがわれた 観念や知識を引き受け、それを咀嚼し、また別の観念を産出するというこの性能がいかに現実のものとなるか、これこそが身体論の照準すべき問いである。

■ われわれが定式化した〈身体の社会的構築〉の代表的作品
 フーコー『監獄の誕生』『知への意志』
 身体における物質性と社会性との相互作用を「権力関係」というより高次の〈社会的〉作用から導出している。

「いかにしてこの〈性(セクス)〉という観念が権力の様々な戦略を通じて形成されてきたか」だけでは未だ〈身体の社会的構築〉に届かない。
そうではなく、

「〈性(セクス)〉という観念が権力の様々な諸戦略のなかでどのような特定の役割を演じてきたのか」「〈性(セクス)〉という観念が社会過程を通じて物質としての 身体に還流していくその仕方の解明が目指されている」からこそフーコーの仕事が意義を持つ。

3 二つの本質主義とその批判
■ 〈身体の物質性〉を、なぜ社会的構築主義でとらえなければならないか。
 ヴィヴィアン・バーの本質主義批判
 「本質」=「事物や人びとを今ある通りのものにしている、それらの内部の」要素
 「本質主義」=「諸対象(人びとを含む)は本質的で固有の特質をもち、それは見出されうるという見方」
 クワインの「アリストテレス的本質主義」概念
 対象が「それ自体で」ある特徴を「もつ」

■ 本質主義をめぐる問題群
1.ある属性が、認識主観の活動に先立って対象それ自身に帰属しているのか、それとも認識主観が対象に属性(にみえるもの)を付与するのかという対立軸。
2.対象の様々な属性のなかに、「そのものをそのものたらしめる」という特権的な価値を与えられたもの(本質的属性)とそうではないもの(偶有的属性)とが あるという対立軸。

 性差に特別な意味を与えられ、両性の社会的不平等を強化するために利用されるとすれば、その差別の正当化を可能にする言説のメカニズムこそ分析の対象に しなければならない。

4 身体の物質性、あるいは、身体は存在しない
 まず身体そのものがあって、その諸性質があるのではない。さまざまな性質の総和、諸活動の把捉しがたく動きつづける連鎖だけが現実の、〈物質的〉なもの としての身体なのである。それに先立つ「身体そのもの」とは抽象概念でしかない。

 身体に固定的な本質を認めることは、「身体そのもの」という観念をその物質的存在と取り違える第一歩である。性別も人種も身体の「本質」ではない。 それは多様態としての物質的身体から、ある価値判断のもとに抽出され、凝固させられた特質に過ぎない。そう考えなければ、性差別(セクシズム)や人種 主義(レイシズム)が厳然とある存在する説明がつかない。


  
第9章 〈構築されざるもの〉の権利をめぐって――歴史的構築主義と実在論 北田暁大

1 殺人の制作?
■ 多摩川の《悲劇》
 日曜午後の多摩川べり、草野球で起こった悲劇。打者Bの頭部に向けて「危険球」が投じられ、ベンチにいたAが突然「よけろ!」と大声で叫んだ。 その声に驚いたCが心臓発作で倒れ病院に担ぎ込まれたが、必死の治療もむなしく一時間後に死亡した。

■ 後日の野球仲間の証言
1.Aは声を発しただけだ
2.AはBに警告を与えた
3.AはCに心臓発作を起こさせた
4.AはCを殺したのだ
果たしてAはCを殺したのだろうか?

 過去の出来事に関する表象=記述に、事実との対応如何によって真理値を与える歴史家に懐疑的な構築主義者は、記述の真偽から記述の適切性へと関心を シフトさせ、1〜4の証言の受容可能性――現在入手可能な証拠との現時点での整合性――から問題に取り組む。2と4は真偽の次元で対立するものではなく、適切性の 度合いにおいて相対的に異なるだけである。

 「AはCを殺したのか?」という問題設定自体が錯誤を孕んでいるのであって、「現在において「AはCを殺した」という記述は適切か」と問うべきだった。 歴史記述を真偽の審級から切り離し、適切性(説得/受容可能性)の領野へと連れ出すこと。こうした指向の議論を総じて「歴史的構築主義(Historical Constructionism;以下HCと略記)」と呼んでおく。本稿では、分析の焦点を殺人=出来事の有無から「殺人」記述=表象の現在性へと移行させるHCの 理論的前提について、やや抽象的に検討する。

2 反実在論と構築主義
【1】HCはまず、反実在論の立場に立つ。「文化的には……だけど、ホントーは……」というトロツキストの囁きに断固としてNoを突き付けるものであった。 〈分析素材を徹底して構築物として扱う〉のが、構築主意義の基本テーゼであるなら、歴史学が扱う素材は「過去の出来事」だから、HCの主張は、以下のように まとめられる。

(C1)あらゆる過去の出来事=現実eは、記述がなされる時点tにおける記述者の信念、知識(の表象)によって構成される。

 過去の出来事についての妥協なしのラディカルな構築主義は、当然出来事eの実在を許容しない反実在論を含意する。ここで、「いや過去そのものが構築されると いっているのではない。歴史記述が構築されるのであって、ホントーは……」というトロツキーの甘い囁き、やさしい誘惑から決別しなければならない。

【2】(C1)が伴立する反実在論と、反本質主義の種差を押さえておく必要がある。一般的な構築主義は、あくまで対象の属性の社会的構築を論じるもの であり、その属性が帰属される対象の構築性を云々するものではない。従って、対象に対する実在論とは齟齬をきたさない。対象が存在するということ自体を否定しなくと も、属性(表象)の構築性は十分有意味に語りうる。

 「存在論的ごまかしOntological Gerrymandering(実態を問わないとする構築主義が、実態の存在を前提にしているのではないかという疑義)」も、本質主義/ 反本質主義の軸(属性記述が一意的に特定可能か/不可能か)と実在論/反実在論の軸(述定される対象が存在するか/しないか)とを混同したがゆえの疑義問題と して解消される。属性(表象)の反本質主義は、属性を表現する術語が適用される対象についての反実在論を含意しない。

 しかし分析対象を「過去の出来事」に設定するHCの場合、属性記述/術語は「……が存在した」という存在術語である。そのため、「存在する」という反本質主義は 避け難く、過去の出来事に対する反実在論を呼び込んでしまう。存在に関する反本質主義と実在論は折り合いが悪い。「……が存在する」という述語は他の属性述語 ――最も先鋭的には否定述語すらも――を使用するさい須らく前提とせざるをえないメタ述語、その構築性がいかなるものなのかを我々が到底理解しえないような 述語なのである。

 このようなHCにつきまとう負荷のために多くのHC論者は(C1)を投擲する。構築されるのは、歴史学という言説行為が生み出す表象(言明、文、命題、像) であって、《過去そのもの》ではない――つまり、外部実在論を容認(あるいは括弧入れ)しつつ、記述の一意的な限定可能性=反本質主義を拒絶する。かくて HCの主張は、以下のように弱められる。

(C2)
(a)過去の出来事eについての記述D1、D2……Dnは、記述がなされる時点tにおける記述者の信念、知識(の表象)によって構成される。
(b)eが存在する/しないの判断は態度を留保する。


 HCに親和的な論者の多くは、この穏当な理論を採用している。HCは、歴史学=歴史記述の本質主義に抗うのであって、「歴史の廃棄や破壊を目指すの ではない」のである。

【3】HCは、実証史家のつぶやきにどう答えるか。
 ヴィタール=ナケ「どのようにしてフィクションと歴史の区別はつけられるのか」
《(*)現時点で持ちうる証拠に照らして受容可能な記述Dが、にもかかわらず偽でありうるのではないか》

 この(*)に対して、(C1)型HCは、〈記述Dが真か偽かのいずれかである〉という二値原理を避け、「問いの設定そのものが間違っている」と哲学的治療を 施すことができる。一方、(C2)型HCは、(*)の訴えを正当なものとして認めなくてはならない。

3 存在の金切り声
【1】HCの実証史学批判は実のところ〈実証史学の理論的・哲学的素朴さ〉ではなく、〈実証史学の方法論的素朴さ〉に向けられているのかもしれない。 〈研究者がアクセスできるのは表象しかないのだから、「過去そのもの」の実在を想定することは、否定しないけれども、リランダントである〉というように、 経験的研究を進めていくうえでの方法論的難点を突くのが構築主義による実証主義批判なのだと。はたして歴史記述の場面において、実在論から独立した純粋な 認識論を有意味に語ることができるのか。

【2】「過去そのもの」余剰説
 多摩川の《悲劇》の1〜4の証言は、何について記述したものなのか。
(C1)型の構築主義者「四つの出来事」
〈右手を上げる〉&〈タクシーを止める〉例
妥協を許さない外延主義者「特定の時空的位置を占める一つの出来事」
「(2)と(4)が同じ出来事ならば、AによるCの殺人があったのか」
支持対象なしでも記述そのものは観察しうるのだから、我々は記述にのみ照準すべきか。

5.Aは盗塁を決めた
6.Aはサインを見逃した

 例えば、5や6がAの行為に関する記述だとしても、多摩川の《悲劇》とは無関係だと認知している。〈1〜4と記述されうるような出来事eが存在する〉という 実在論を立てるならば、区別が存在することを説明できる。「現実が接待的であることを否定するからといって、現実を否定することにはならない」のだ。

 その知覚対象が同一であるという知覚を持たなければ、1〜4と5・6の間に境界線を引くことができなくなり、1〜4内の歴史記述の 受容可能性をめぐる論争も起こらない。実在論余剰説は、(C2)型HCの受容可能性という概念装置を壊してしまう。

【3】[存在論の認識論への還元]と[存在論の解消]について
 こうしたHCの議論の方向性は「語り得ぬものは存在しない」という「裏返しの実証主義」を体現していると言えるのではないか。《ホロコースト》が突きつけて くるものは、HCが前提とする《認識論による存在論の抑圧》に対する実在からの抵抗、《存在の金切り声》であり、歴史家はそれに応答する責任を持つ。

 アスペクトの複数性を有意味な形で語ることを可能にする実在論では、〈(7)「AによるCの殺害」と記述されうるような出来事=行為が存在した〉は真たりうる。

「たった一人の証人」への対処
1.歴史のある時点で登場した言説形態の一つとして類型表の中に登記する[厳格派]
 [厳格派]は、1〜4と5・6の区別を「出来事の実在」に依拠せずに説明しなくてはならない。
2.現時点での証人による「ライフ・ヒストリー」を構成するものと捉える[アイデンティティー・ポリティクス]
 [アイデンティティー・ポリティクス]では、言説を等しく取り扱うため、相反する言説を排斥できない。 例 「従軍慰安婦問題」

 ここで「証言の真偽が別として、マイノリティのアイデンティティー・ポリティクスを尊重する」と言ってしまうと、生き残り=証人が発する《存在の金切り声》が 最も傷つけられるのではないか。

4 結語――〈構築されざるもの〉の権利
 歴史の観察者は、自らの立場を「…主義」「…派」と囲み込んでしまう前に、表象の透明性なるものに懐疑を抱きつつも、それでも《存在の金切り声》を抑圧する ことのない文体を模索しなくてはならない。
 リオタールに《ホロコースト》を突きつけられて以来、HCは困難な文体の研究――ホワイトの「中動態」、ラカプラの「過去との対話論」――に立ち向かっている。 高橋哲哉の提言もそこに含まれるのかもしれない。


作成:北村健太郎(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
UP:20040322  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0102uc.htm
赤川学  ◇加藤秀一  ◇北田暁大  ◇上野千鶴子

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