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姫岡とし子・池内靖子・中川成美・岡野八代編
『労働のジェンダー化 ゆらぐ労働とアイデンティティ』



姫岡とし子・池内靖子・中川成美・岡野八代編 20020314 『労働のジェンダー化 ゆらぐ労働とアイデンティティ』平凡社,p.345,ISBN 4-582-47229

■著者
 姫岡とし子,浅倉むつ子,木本喜美子,越堂静子,北原恵,
 江原由美子,山家悠平,水島希,池内靖子,金友子,古田睦美,
 イダヒロユキ,林淑美,中川成美,増田幸子,西成彦,岡野八代

■目次
はじめに   姫岡とし子
T 制度化された「労働のジェンダー化」
 1 ジェンダー視点による労働法の再構築   浅倉むつ子
 2 女性保護法における「かよわき女性」の構築   姫岡とし子
 3 労働組織におけるジェンダー分析   木本喜美子
 【エッセイ】ワーキング・ウィメンズ・ネットワークと国際活動   越堂静子
 【エッセイ】皇室と労働のジェンダー化――育児と慰問の表象   北原恵

U セックスワークは「労働」か?
 4 「労働」概念に何がかけられているのか   江原由美子
 5 娼妓制度と青鞜フェミニズム   山家悠平
 6 セックスワーカーの運動――それでも現場はまわっている   水島希
 7 セックスワークの脱神話化?――リジー・ボーデンの『ワーキング・ガールズ』を中心に   池内靖子
 【エッセイ】日本軍性奴隷制と〈再生産〉労働概念の再−再構築   金友子

V ゆらぐ「労働」とそのイメージ 資本制化における労働概念批判
 8 アンペイド・ワークと労働概念の変容   古田睦子
 【エッセイ】わたしにとってのアンペイド・ワーク論   イダヒロユキ
 9 逸脱する女の非労働――坂口安吾「青鬼の褌を洗ふ女」をめぐって   林淑美
 10 女性労働表象としての〈聖なるビッチ〉――ジョーン・クロフォードとハリウッド映画産業の文化構造   中川成美
 【エッセイ】「仕事」としての日本人女性   増田幸子
 【エッセイ】『三四郎』の下層   西成彦

 まとめにかえて――労働の両義性とジェンダー化   岡野八代

 執筆者紹介


■以下、製作者による引用

 9 逸脱する女の非労働――坂口安吾「青鬼の褌を洗ふ女」をめぐって   林淑美

◆「引用にある「近頃」は、この小説が語られている現在を含む近い過去の時間を示すが、同時にそれは、現在とその近い過去を「近頃」とする「近頃」と呼ば ないもっと以前の過去の時間を指し示してもいる。しかしその語りは戦後の「近頃」という時間を特権化して戦前の過去の時間を語ったものではない。この語り 手であるヒロインは、戦時総力戦下の労働動員から逸脱した存在であったが、問題は彼女の非労働が戦後社会においてどのような意味を担うのかというところで あり、戦後を語りの現在時にしているのはそこから必然とされている。非労働はヒロインのセクシュアリティと接続している。女性の〈労働〉と〈性〉、両者共 通の問題として端的に浮上するのが、女性の〈主体〉の問題であった。」(P.222)

◆「小学校五年生、一一歳ぐらいの子供の「作業能力しかない」ということは、労働能力がないということである。それだけではない。「けれども別に怠けてゐ るわけでもなく」、さりとて劣等な作業能力の埋め合わせに「特別につとめる」こともしないし「ヒケメにも思はなかつた」「私」は、労働のモラルからも外れ ている。「だいたい私みたいなスローモーションの人間は、とても世間並みの時間の速力といふものについて行けない」、このような世間並みの労働力をもちえ ない人間は、速度を基準とする近代の生産構造や、労働を価値とする近代社会の価値観からも疎外されることになる。サチ子は労働主体になれない人間なのであ る。」(p.226)

◆「勤勉が日本人の伝統文化に基づく民族性であってそれを体現するのが国体である、そこに欧米との違いがある、つまり文化的民族的優越性を労働観にも反映 させ、したがって日本人の勤勉さは欧米との戦いに勝つであろう、というわけである。こうした無根拠な非論理性は日本主義的言説の特徴であるが、ここからそ の国家主義的日本主義的要素をとり除けば、戦後の高度経済成長期からバブル経済期にかけて効果的通俗的に流通した言説に酷似する。」(p.230)

◆「ところで娘を高価に売ることを最大の重要事とするサチ子の母も、娘を商品とみている。しかしそれは価値を生む特殊な商品としての労働力としてではな い。母にとっては労働は、価値を生むものではなくて価値を消耗するものである。母にとって労働は処女性を傷つける要因であって、傷つけられた娘は、傷がつ けば使用価値として値打ちが下がる宝石と同じ商品なのである(この場合は性的商品かもしれないが)。国防国家は、母にとっての商品=オメカケの存在を許さ ないが、労働する商品サチ子は必要である。しかしサチ子の方が労働能力たりえない。どちらにしても母と娘の非国民性は、まったく違う形であるが、〈労働〉 をめぐって顕現するのである。
 〈労働力という特殊な商品〉に値しないサチ子の非労働は、〈皇国勤労観〉への異議・抵抗であるよりまえに、労働力としての資格の欠落なのだ。しかしその 欠落は能力の欠落であるがゆえに戦後社会においても変わらない。言い換えれば、〈皇国勤労観〉からもそれと通底する近代における労働の価値化からも、サチ 子は彼女の労働能力の欠落によって逸脱せざるを得ないし、またその逸脱によってシステムと対抗する。」(p.233-234)

◆「安吾の〈堕落〉とは、こうした鞏固な意識の制度を打破する方法を言ったものに外ならない。もう少し言えば、道徳という社会制度の再生産過程の連環の自 分一身による切断はどのようにして可能か、という問いの答えが〈堕落〉なのである。」(p.237)

◆「「国民皆働」が叫ばれるのだから、「女子勤労挺身隊」で一二歳の女の子でも「お国のために働くのだといふ崇高な皇国勤労観に徹して働くことが必要」と されるのだから、また、男子の代用品ではない労働をすることによって国民としての自覚につながるのだから、労働力としての資格が欠落しているサチ子は必然 のように「私には国はないのだ」と思う。」(p.239)

◆「サチ子が拒んでいるのはこうした表象作用であるが、しかしサチ子は、反戦や反国家のもとで拒んでいるのではない。「私には国はないのだ」という感懐 は、非国家的ともいうべきもので、彼女の労働を本稿で非労働と呼んだのも反労働ではないからだ。サチ子の天然自然の峻拒は、反労働がたんに国策による強制 労働への異議になることや、反戦や反国家が単に軍国主義への異議になることをも拒んでいる。軍国主義反対や強制労働反対は民主主義国家というものになった 戦後社会において何ら有効性をもたない。サチ子の存在は、戦後批判の困難さそのものを体現しているのである。
 ここにあるのは、現代において統一的な主体なんてあり得ないのではないか、表象され得る主体は誰かに認められた主体だけなのではないか、という根源的な 問いなのである。近現代社会において最も根本的に主体を形成するものは、おそらく、自らを労働の担い手であるとする意識であろう、働くことによって社会の 成員であるという自覚をもち得るからである。」(p.245-246)

◆「国民主体であることも労働主体であることも、つまり自らを「何者かであることを拒」むサチ子は、しかし、戦後社会において自らを「何者たりうるのか」 ものとして構築することができるのだろうか。」(p.248)




製作:橋口昌治 up:20051024
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労働  

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