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『職業の倫理学』

田中朋弘 200206
丸善,加藤尚武・立花隆監修「現代社会の倫理を考える」4


目次

第1章 仕事と遊び/余暇

仕事と遊び/遊びとはなにか/自由な行為としての遊び/遊びの堕落/定義不可能なものとしての遊び/仕事と余暇/仕事的な時間感覚/働くことの意味

第2章 仕事と家事

家父長制と家事/家事労働に賃金を/日本のフェミニズム/家事から家事労働へ/家事は<労働>か

第3章 仕事とボランティア

ボランティアと労働/有償ボランティア/わたしと他者/自分を差し出すこと/ボランティアと有償サービス/相互扶助としての有償ボランティア

第4章 「勤勉」という思想−「勤勉」は死語になったか

二宮金次郎と勤勉の思想/勤勉思想の源泉/バブルと勤勉/資本主義の精神/伝統主義的な生活態度/恩恵による遊びの教説/天職

第5章 理想的な労働−労働主義と社会

疎外された労働/承認と労働/自分の代理不可能性/貨幣と媒介形式/生産的労働とサービス労働

第6章 ものを作る人と労働する動物−仕事と労働

労働/生産的労働と非生産的労働/仕事/転倒する世界観/世界の自然化

第7章 すり切れるわたしたち−消費という新しいモラル

大量消費社会とサービスの消費/記号と差異の交換システム/労働としての消費/近代啓蒙と消費社会/普遍的均質国家

第8章 <労働>からの撤退−働かないこと/働けないこと

労働主義の彼岸/労働の選択/時間の開放/エコロジー的合理性/労働概念の転換点/労働の解放というユートピア/社会的きずな/<政治的きずな>の復権

第9章 職業の倫理性−売春する自由

売春と社会/<ドグマ>と選択の自由/道徳の理由/自由のアポリア/<価値自由>な言説

第10章 仕事の条件−誰のために不正を行うのか

雪崩/薬害エイズ事件/三菱自動車工業欠陥・リコール隠し事件/雪印食品食肉偽装事件/信頼の条件

第11章 社会/組織/個人−内部告発は反倫理的行為か

内部告発の倫理性/忠誠心/守秘義務/誰を裏切るのか/どう徳的な咎め/道徳的感情の葛藤/内部告発の条件

第12章 職業の倫理学−いい加減の倫理学

何のために働くのか/労働社会と倫理/仕事だから/どれだけ消費するか/いい加減の倫理学

あとがき


参考文献


索引



第1章 仕事と遊び/余暇

 仕事と遊びの違いはどこにあるのだろうか。不確実性という言葉を手がかりにするならば仕事は不確実性を排除する活動といえるのではないだろうか。仕事が不確実ならば勤勉さや努力は報われないかもしれないからである。仕事はなすべきことであり、職業は生計ために、労働は苦労して働くことという意味を与えることができるだろう。しかし遊びということはむしろ不確実であることを楽しみにしているところに遊びの本質がある。つまり遊びとは仕事とは正反対に生産や利益などの達成目標と、その手段が度外視されている。遊びは遊ぶことが目的であるあり、遊びの始まりも終わりは大切なことではない。だからといって遊ぶことと真面目であることは必ずしも対立しない。なぜなら遊びはまじめにしなければ成立しないからである。 
 遊びは本質的に効用や利益と無関係なのだろうか。遊びという活動の多義性を遊びと遊び以外の概念で区別することはそうやさしいことではないだろう。
 
 遊びの本質とは聖なるものと俗なるものとは独立して存在することだとカイヨワは主張する。しかしミラーやホイジンガによれば、遊びは単体で独立してありえるのではなく、「遊戯的」に行為することというふうにある行為の状態を表しているのだと主張する。つまりミラーやホイジンガの指摘では、遊びは様々な行為と結びつく可能性(遊戯的な精神、遊びごころを備えた行為)があるという。
  
 仕事と余暇は対立する概念だろうか。仕事と遊びを比較すると仕事は余暇に寛容である。なぜならば余暇によって仕事の疲れを回復させるという関係において仕事は余暇を手段としているのだ。
  
 時間を切り売りできるという感覚、時間を節約すること、効率的に時間をつかうという感覚と単線的で合理的な時間感覚は表裏一体にある。この時間感覚によって余暇の時間はいっそう多く作り出すことができたかもしれない。だが現実には仕事的な時間感覚が支配的であり、余暇の時間までを仕事的な時間感覚で過ごすこととなった。仕事的な時間感覚とは余暇の時間に仕事持ち込むことではなく、余暇の時間にすべきことが仕事のように整然と決められている。なぜ決められているのか。それは余暇を効率的に過ごすために他人のサービスを買うことで仕事的に余暇の時間を過ごすからである。こうした仕事のための余暇、仕事にのみ込まれる余暇という時間感覚がわたしたちの倫理にどのような影響を与えているのだろうか。
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第2章 仕事と家事

 この章では家事を労働として認め、賃金を支払うべきかどうかについて考察する。家事は労働ではないとする主張には、賃金を支払うべき仕事を公私の区別で判断するというものがある。つまり公的な仕事は賃金労働であり、家事や育児などの家内の(私的な)仕事に賃金を支払うべきではないということである。   
 1980年代イヴァン・イリノチは、家事を「影の労働(シャドー・ワーク)」と呼び、賃金支払いの対象となっていない現状を指摘した(玉野井芳郎・栗原彬訳『シャドウ・ワーク』岩波書店,1982)。またマリアローザ・ダラ・コスタは家事を賃金支払いの労働と見なすべきだと主張し、その普及運動をイタリアで展開した(伊田久美子・伊藤公雄訳『家事労働に賃金を』インパクト出版会,1986)。
 ダラ・コスタは女性は二重の搾取を被っていると主張する。ひとつめの搾取とは無償労働としての家事、配偶者の性的充足として女性が扱われていること。もうひとつは将来の労働者となる子供を出産、養育を余儀なくされているてんについての女性からの搾取である。そしてダラコ・スタはこの二重の搾取を拒否し、家事労働の有償化を主張した。また無償労働としての家事を放棄することは先進国で着実に根付きつつあり、その表れは先進国での少子化、晩婚化、非婚化にあるのだと述べる。
 
  
 日本のフェミニズムには三つの過渡期があるという(金井淑子「男性と女性の差異は差別か」佐藤康邦、溝口宏平編『モラル・アポリア』所収、ナカニシヤ出版,1997)。ひとつめは「形式的平等論」(与謝野晶子)と「特性的平等論」(平塚雷鳥)とのあいだの論争であった。両者の争点は男女間の性差をどのように受け入れるべきかということであった。形式的平等論は男女をまったく平等に扱うべきだと主張したのに対して、特性的平等論は性差を認め、男女の機能的特性を重視した平等観を展開した。   
 第二のフェミニズムは選挙権などの制度的平等が確立されてもなお、実質的には男女が平等に取り扱われないことが問題となった。その根拠は生物学的な性差にあるという主張が「生物学的還元論」であった。 
 男女の生物学的性差は否定しようのない事実である。しかし人間の扱われ方を社会的役割としての性差(ジェンダー)に還元しているのではないだろうか。家父長制はこうした社会的性差を生物学的還元によって説明し,その結論を男性に有利になるように運用してきたという主張によって第二のフェミニズムは不平等とジェンダーの関係を明らかにした。   
 また第三のフェミニズムは男女の性には生得的な本質があるという主張と、性差とは社会によって構築されたジェンダーとして意味を持つのだというセクシュアリティの主張がある。
  
 家事労働、無償労働の拒否と家事労働の有償化という主張は戦略としてすでに政策に影響を与えている。世界女性会議の行動要領策定(1995,北京)、男女共同参画会議答申(1996,日本)がその一例であり、経済企画庁経済研究所が無償労働の賃金換算した統計結果を発表した(1997、1999)。家事一般は個人的な営みであり,境的価値のないものという見方を覆した。   
 このように家事を割に合わない無償労働と見なし、家事を拒否する考え方を介護とジェンダーの関係でも同様に見ることができる。今日では介護は女性の手から離れ、有償の行政福祉サービスとして定着しつつある。家事労働は介護サービスと同様に有償化の流れに飲み込まれていくのだろうか。   
 ふたたび家事を労働と見なすべきかという論点に戻ってかんがえる。ダラ・コスタの主張には家父長的な資本主義制度が洗練化された社会が前提となっている。つまり労働力を人間の本質的な価値の中心概念においているのである。労働を価値の中心に据えることによって、家事を含むあらゆる仕事を賃金労働としてみなす結論に至る。そして有償化することは家事の再評価、女性の地位向上という主張につなげられていくのである。しかし賃金を仕事に対する評価として据えつける考え方によって、生命や人間自体は労働のための生産力であるという一元的な価値に置き換えられてしまうのではないだろうか。ダラ・コスタの主張は家事や育児の献身を正当に評価すべきだと指摘した点は見逃すべきではないが,それはあくまで有償化、賃金支払いで仕事の価値を評価するという枠組みの中にとどまっているといえるのではないだろうか。
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第3章 仕事とボランティア

 ボランティアを無償活動と定義するならば、有償である「仕事」はその対極にあるといえるだろう。ボランティアはその名の由来どおりに活動への参加は他人から強制されない、その場で活動するかどうかも本人次第の自発的活動であるという意味において自由な活動である。また社会活動としてのボランティアは道徳的な価値と結び付けられている傾向がある。仕事は必要に応じた活動であり、ボランティアは道徳的な活動であると対置して理解されている。  
 ボランティア(自発性の自由)とは選択の自由ではなく、道徳的な自由である。カントの言う不完全義務のように、それをしないからといって非難されることはないが、「功績になる義務」として見なされているといえるだろう。  
 ボランティアへの奉仕と仕事への奉仕について。日本語の奉仕(サービス)という言葉は仕事としての奉仕として使われることが多い。奉仕ということばは自己利益だけではなく自分以外の利益を考えるという意味で使われている。しかしボランティアが無償の活動として見なされる傾向があり、仕事としての奉仕は常に有償である。そして有償である仕事が労働であり、ボランティアを労働とは呼ばない。  
 介護や家事援助への必要経費や謝礼を受ける有償ボランティアをどのように考えることができるのか。経済的な見返りがあることによって活動が目に見える形で評価され、意味を与えられる。また相手に一方的に奉仕してあげたという「負い目」を感じずに済むということを見逃してはならない。  
 だが無償の奉仕活動とは特定の個人「わたし」が特定の相手「あなた」のためにすることに意味があるのではないだろうか。そしてその「見返り」は物質的な償いや購いを期待することではなく、特定の相手「あなた」をわたしの奉仕によって成り立たせている、存在せしめている万感の思いに求められるのではないだろうか。つまりボランティアとは人間関係を浮き彫りにする活動であり、わたしをあなたに差し出すことということができるのではないだろうか。金銭を媒介するのこで「わたし」と「あなた」の関係を問わないままに、むしろ金銭とわたしを交換することを目的化してしまうのである。  
 わたしをあなたに差し出す奉仕にはデカルトの自分像が精神と身体、わたしとあなたという二重の分裂を持つという発想ではなく、ヘーゲルの相互承認の具体的な形である。つまり「わたし」の確信は自分の意識だけでは成り立たず、「あなた」の自己意識を「わたし」の自己意識と同じようにみなし、「あなた」の自己意識で「わたし」の自己意識を確認すべきなのだということである。つまりボランティアとは一方的で優劣関係のもとの活動ではなく、わたしをあなたに差し出すだけではなく、あなたも同様にわたしに差し出す関係のなかで行われるという相互承認を純化させた活動である。わたしの輪郭は<わたしでないもの>によって「縁取られて」いる。  
 有償ボランティアと無償ボランティアの違いは単に金銭の授受にのみ表面的な違いがある。また無償ボランティアの「負い目」は対価を目に見えた形で交換できないことにある。だが有償に夜評価とは道徳的価値を金銭の価値に還元してしまうことはできるのだろうか。金銭に換算し、等価を同じこととして交換することはは恐ろしいほどに徹底した「平等主義」である。むしろこうした均質的な価値の統一基準があること自体、極端に例外的な事例とみなすべきなのではないだろうか。  
 ボランティアは中世の「結」に似た相互の利益を目指しているが、同時に相互扶助として人間関係を維持している。だが貨幣という均質な価値の交換によって相手を評価し、相手に依存することは人間関係を均質化させ、極小化させててしまうのではないだろうか。
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第4章 「勤勉」という思想−「勤勉」は死語になったか

 「勤勉」を道徳的な善さと直結させる価値判断がある。「勤勉」の思想は現代でどのような扱いを受けているのだろうか。  
 かつて二宮金次郎は初等の学校教育のなかで「勤勉」の象徴とされていた。彼は至誠(公益性)、勤労(勤勉性)、分度(収支上の分別)、推譲(利益の社会還元)からなる報徳思想を説いた。日本では近代のある時期に勤勉思想が国民全体に教育され、その多くが労働者として高度経済成長の一翼を担った。  
 バブル経済期には「二十四時間闘えますか」というキャッチフレーズや「過労死110番」相談所の開設に象徴されるように、勤勉さを限界にまで加速させ、人間を死にまで追い詰めていった。このように勤勉は必ずしも理想的な善さではなくなりつつある。過労死という現象は美徳としてではなく、強迫観念を伴った義務感としてわたしたちが共有していることを示唆しているのではないか。だが勤勉の対極にある怠惰を素直に受け入れるべきではないという感情もまた否定できない。  
 マックス・ウェバーの関心は資本主義の精神を解明することにあった。彼はその出発点を信仰と職業の関係に求めた。当時の統計的な調査の結果、近代資本主義の発展した地域ではプロテスタントが大勢を占めていることがわかった。このことから彼はプロテスタント信仰の本質に近代資本主義の原動力の鍵があるという仮説を立てた。つまり、近代資本主義の精神を分析するという軸となる動機のなかで、プロテスタント信仰について分析することはひとつの具体的な例示研究であると位置付けることができる。  
 ウェバーがプロテスタント信仰を分析することによって説明した近代資本主義の精神とは、貨幣の獲得を自己目的すること、つまり天職として貨幣の獲得を義務化することを重要視する倫理観であった。そしてこの倫理観によって信用と貨幣と幸福とが結びつく方向性を持った。  
 マルティン・ルターが「職業」という語を「神から与えられた使命としての天職」ということばに翻訳することによって、カトリックの職業観を揺さぶる最初の契機となった。カトリックの教義では利潤の追求には否定的な価値が付与されている。つまりカトリックの美徳とは必要以上に働かないことでであったのだ。  
 カトリックの職業観を決定的に転覆させたのはカルヴァンの予定説だとウェーバーは考える。なぜならこの説には自分が最後の審判のさいに救済の対象となるかどうかを職業を実践することで確めるという教義であったからである。カルヴァン以前では救済を確認するのは教会の修道士だけであり、その方法は禁欲主義の実践であった。カルヴァン以後にはあらゆるプロテスタントが対象となり、生涯のすべての営みが審判の対象となった。この営みとは常に蓄財に励むこと。そして休息や時間の浪費は神の名のもとに道徳的な悪とされたのである。  
 プロテスタントの精神が近代資本主義に与えたもうひとつの原動力は世俗内においては禁欲を奨励したことであった。これは職業の実践による蓄財を浪費するのではなく、資本として職業実践に再投下されることとなった。つまり天職とは企業家にとっては終わりのない営利の追求であり、資本を持たないものには労働そのものが天職となった。  
 だがこの教義が矛盾をはらんでいるのは蓄財によって救済がを願うのではなく、蓄財が現世への執着を生むこととなった。つまり天職としての労働が、宗教的な説明を必要としない独自の市民的な禁欲主義へと変形していったのである。この禁欲主義こそが資本主義精神の本質であるとウェーバーは考えた。
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第5章 理想的な労働−労働主義と社会

 わたしたちはなにのために働いているのか。マルクスは近代資本主義の労働を「疎外された労働」と呼び、賃金労働を批判した。マルクスの言う疎外とは、労働者がどんなに労働に励んだとしても決して暮ら向きがよくなることはなく、むしろ悪化する。そして食う、飲む、産む、住む、着るという程度で労働者に選択の自由が与えられているのだと彼は言う。この程度の選択の自由は動物的な諸機能であり、労働者はいわば労働動物に変貌していく。また生産者は自分の生産物に意味や思いを込めながら仕事するのであるが、賃金と引き換えに資本家の支配下で仕事をすることで労働者に変化させられる。つまり均質な労働量で計られる労働者として等価の諸生産物をつくりだすこととなる。生産が自分のためではなく、資本家のための行為となり労働者は労働の目的を見失う。それと並行して労働者の生活は人間としての生活から、単なる生存のための動物的な生活へと変容していく。人間として生活するための生産活動がその人から引き離されることによって労働者は人間性を失ってしまうのである。このような段階を経て労働者が資本家に売り渡しているのは労働力ではなく、労働者自身であるということをマルクスは「疎外された労働」と呼んだ。  
 マルクスの労働疎外論はヘーゲルの『精神現象学』に影響を受けている。主人と奴隷との関係において主人は奴隷の生命を握る絶対的な支配権を持っている。主人は奴隷を働かせているかのように見える。しかし同時に主人は奴隷の労働に全面的に依存しているのである。このことから労働者は労働によって代理不可能な自分への確信を強める。しかし主人は奴隷の労働によって快楽を得るものの、労働の機会からも遠ざかっている。つまり主人は自分の確信から遠ざかっていく。  
 自分は仕事をせずに生産物の消費だけに専心することでより多くの心地よさを享受することができる。しかしそうした心地よさは自分を確信することにはつながらず、むしろ消費の無目的化を招くのである。  
 資本化も労働者もまた「仮想された奴隷制」といえる資本主義によって、生産や消費が自分にとってよそよそしいこととなった。  
 マルクスの労働疎外論は労働者の生産からの疎外が問題であった。しかし今日の先進諸国ではサービス業が全産業の半数以上を占めている。サービス業は物質的生産物と労働との関係にあるのではなく、消費者への奉仕が売買の対象となる。この意味においてサービス業の労働は労働者の資本家への奉仕と、消費者への奉仕という二重の売買対象となっている。つまり労働による生産物を売買するのではなく、労働そのものがが商品であることを社会的に承認されているということである。
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第6章 ものを作る人と労働する動物−仕事と労働

 ハンナ・アレントは古代ギリシャの思想をもとにして労働と仕事の違いを説明する。むしろ労働と仕事とはもともと無関係な活動であった。ギリシャの都市国家では私的な領域(家族)と公的な領域(政治都市国家)との区別すること、そして公的な領域が私的な領域より優先することの意識が明瞭にあった。また生命維持、生存のための肉体的労働は奴隷のなすべき労働として蔑まれ、職人の仕事とは一線を画していた。そこにギリシャ人哲学者たちは公的領域についてあらゆる命題を自由に考えること(観照的生活)を提唱しはじめた。これによって生命の維持と生存のための肉体労働(活動的価値)の蔑むべき価値が相対化されるにいたった。そして労働と仕事、公私の区別が必ずしも重要視されなくなっていったのである。  
 アレントは芸術こそ最高の仕事だという。芸術の創作物は作品であり、生存のための目的を持たない。本人の使用物ですらない。しかしそれゆえにその作品は時間を超えた耐久性(普遍性)を持つ可能性を秘めているのである。  
 このようにかんがえると近代とはかつて尊重されていた観照的生活と蔑まれていた活動的生活の評価が正反対になった時代なのだといえるだろう。つまり仕事は労働の区分は曖昧となり、綯い交ぜにされていく。そして生産的活動と非生産的活動で区別されるようになったのである。アレントはスミスもマルクスも労働の基本は生産であるという点では共通しているのだとのべる。ここでの生産とは生存のための活動である。そして生産のみが価値の重要な尺度とされていくのである。  
 マルクスは生産がどのように生じるのかを労働力の「剰余」概念で説明しようとした。生存のための生産物を消費しても労働力にはまだ剰余があることに注目した。そして労働力が生存のための生産生じるとするならば,人間のあらゆる活動は労働を目的としているという。つまり労働が剰余を生むかどうかが問題であり、そのために均一的な労働時間が生産のための価値基準として受け入れられた。  
 労働と仕事との違いは生産物に耐久性があるかどうかである。労働からの生産物は生産の直後に消費されるのにたいし、仕事による生産物は耐久性のある使用物として見なされる。今日のわたしたちは生産物そのものが持つ価値ではなく、自分の生存のための必要と交換価値でのみ生産物の価値をはかっている。だが労働の目的がただ生命の維持だけのためにあるならば、人類の滅亡まで労働は半永久に続くだろう。アレントとマルクスはともに人間の活動が耐久性を持つ生産をする仕事から、刹那の消費のための労働と変容していったことを指摘している。
 
 またアレントはギリシャ以来西洋人の世界観はふたつの転倒を経験してきたと考えた。ひとつめは第三者的な視点から自分を見つめること、疑う自分を疑うことができないことという観点の移動ふたつの「アルキメデスの点」を発見したこと。そしてもうひとつは活動的生活の内部で仕事と労働の関係が逆転したことである。つまりある一人の仕事が全体のうちのある部分だけを担い、仕事の始まりや終わりを問うこともなく、一部仕事を目的化することが定着してきた。それは生存のための要求に強制される反復運動である。それは仕事する者が仕事の過程において主導権を失うことを意味した。  
 仕事が労働化することは人間的な世界に動物的生存の目的が加わり,人間の世界が非人間化してしたということである。その世界は生命の生存過程を維持することが唯一の目的であり、客観性や心理,究極目的という概念が消滅した世界である。そしてキリスト教の生命至上主義は生命を維持することを補強する機能を持っている。  
 もはや生産の過程を支配できなくなった仕事という活動が最後にできることは人間の活動と言論にある。なぜならば活動と言論は生産の過程についての物語を作り出す手段となりえるからである。だが人間の活動と言論には三つの欠陥を持つ。それは結果を予見できないこと(不可予言性)、活動過程を元に戻せないこと(不可逆性)、活動過程を作る者の匿名性である。アレントは人間の能力によってこうした欠陥を克服できると述べる。すなわち結果を予見できないという不可予言性は、確実性を期待できる「約束」の力によって克服される。また、元に戻すことができない不可逆性を「許し」によって、結果を弾劾する無限の報復を防ぎうるのである。こうしたふたつの人間の能力によって世界と人間の唯一性を取り戻すことができる。人間性の世界を動物の世界から取り戻すことこそが人間の条件であるとアレントは主張した。
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第7章 すり切れるわたしたち−消費という新しいモラル

 資本主義社会の発展には大量生産と大量消費、大量廃棄は見逃すことのできない要素である。消費と廃棄を持続させるためには必要でないものまで消費すること、また物質的生産物ではない「サービス」を消費することが必要である。サービスを商品と見なすことで他人のあらゆる活動が購買と消費の対象となった。消費社会においては消費の対象と見なされることがすなわちその売買を正当化している。  
 消費とは記号と差異のコードを絶えず交換しつづけるコミュニケーションの体系とボードリヤールは考えた。わたしは他人と根本的に違うということを確認するために消費をする。その都度新しく個別化している自分を確認するために生産システムは生み出されたというのである。こうした差異化の果てには「幸福な消費時代」があるのではなく、生産システム内で労働力を組織化していったのと同様に消費システムを組織化していくことが消費社会の正体であると彼は説明する。  
 消費社会では消費は促進すべき善であり、義務とみなされる。反対に消費を抑制することは悪徳であり、忌避されるべきだと見なされる。つまり消費が義務となることとは消費を制限することはよいことではないという社会の価値観である。そしてわたしが他人と違うことを確かめるために消費することを常に迫られる。消費者はひとりひとりが消費活動をする労働者である。  
 消費システムは物質としての生産物だけではなく、出来事や流行も消費の対象となる。そしてその果てには多元的な価値の体系が消費の観点から序列化され、均質なカスになるとボードリヤールは述べる。消費システムのなかで「お金で買えないものがある」ということばは逆説的に「ほぼすべてのものはお金で買える」ことを示唆し、そのことを確信させるのである。  
 
 知を消費システムに組み込むこと。啓蒙主義は合理的な知を手段として抑圧的な権威主義や専制主義、宗教から知を解放した。それは同時に人間を「野蛮」から解き放つことでもあった。しかし、そうした合理的な知がもたらしたものは戦争と大量殺戮であった。啓蒙主義は理由さえあれば人間はどんなことでもできることを図らずも立証してきたのである。  
 ローゼンは普遍的で均質な価値を持つ国家が完成したときには、すでにそれは人間の社会ではなく、獣の社会となるだろうと述べる。獣は善悪の価値を持たず、快と不快に基づいて「今」だけに生きる。啓蒙を極限まで押し進めることは合理性を唯一の普遍的基準として受け入れることである。そしてその基準を受け入れるかぎりで自由と平等をわたしたちは享受できるが、そこから逸脱する判断には合理的な知による猛烈な抑圧が加えられるのである。消費システムの完遂は啓蒙の完遂と同じ構造と帰結を持つ。
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第8章 <労働>からの撤退−働かないこと/働けないこと

 アントレ・ゴルツは『資本主義・社会主義・エコロジー』(杉村祐史訳、新評社、1993)のなかで、マルクスが想定した生産的労働者がサービス業の従業員に替わってしまったために、解放されるべき大多数の働主義者はもはや少数派となりはててしまったのではないかと指摘した。そしてそれに代わって台頭してきた階級差を「社会の二重化」とゴルツは呼んだ。たとえば自分が余暇を楽しむことはすなわち他人である使用者の時間と労働を買い取ることである。そして自分が嫌だと思う仕事を他人が引き受けること、他人が自分に奉仕する肯定する。それは下層階級があることを肯定していることになるのだというのである。  
 はたして他人が嫌がる仕事をわたしは引き受けるだろうか。その応答はフリーターの姿に表れていると著者は考える。つまり生存や消費の必要、場所、仕事の内容など自分の都合に適う仕事のみを引き受け、それ以外はひきうけない姿である。  
 ゴルツが考える理想の労働とは、労働の効率性を追求して生産やサービス労働の際限ない向上を拒否することである。さらに労働と収入を安定的に確保することで生活時間を取り戻すこと、つまり経済合理性以外の価値の領域を取り戻すことにある。  
 雇用機会、労働時間、賃金をより多くの労働者で分かち合うことをワークシェアリングと呼ぶならば、ゴルツの理想もそのひとつである。だが彼の意図は労働観を完膚なきまでに変革して、生のための時間を取り戻すことにある。  
 ゴルツは労働観を変えることで経済的合理性からエコロジー的合理性を目指す。エコロジー的合理性とは労働、資本、資源の投入を最小限に留め、より高い使用価値と耐久性のある財を生産することである。ゴルツの主張によると「家事労働に賃金を」支払うことは従来の労働力中心主義的な主張の問題点を助長する提案であることになる。つまり家事や育児などの私的領域は公的領域の生産活動に役立っているから評価されるのではなく、私的領域の価値として評価されるべきだと考えるからである。  
 ドミニク・メーダは『労働社会の終焉−経済学に挑む政治学』(若森章孝・若森文子訳、法政大学出版局、2000)で、労働者自身が労働を自主管理するというマルクスが理想とした労働社会の実現は不可能であることを述べた。なぜならひとつには資本主義制度の論理では労働自体が目的なのではなく、労働は効率性のためのひとつの手段に過ぎないと見なされているからである。ふたつめには、賃金とは雇用や被雇用者の従属関係の中で成立すること。みっつめには、労働とは豊かさや充足感を向上させる手段として機能することを根拠として述べている。労働は資本主義においては生産の手段としてしか見なされておらず、労働の目的を評価することによってしかその価値を見出されないということである。つまり労働は「必然化」された目的に無批判に従うしかなく、自発的であるはずがないというのである。  
 メーダは社会的きずなを取り戻すことを主張する。経済的きずなに還元されない権利や義務の共同体に個人を統合して、個人を承認すべきだと述べる。それは抑圧的な従来の国家主義や共同体主義を批判的に評価してもなお、共同体における共通の道徳的価値を見出すべきだというのである。労働や仕事のあり方はこうした共同体の善に照らして価値を見出すこと。労働を経済的きずなという一元的な魔術から解放すべきだというのである。
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第9章 職業の倫理性−売春する自由

 職業に誇りを持つこととはどのようなことか。特定の職業そのものが倫理的議論の対象と見なされるのはなぜだろうか。この章では売春の是非についての議論の組み立てられ方を通して道徳的価値について述べる。  
 売春は今も昔も賞賛される職業とは見なされてこなかったが、決して消滅はしなかった。日本での売春防止法(1956)は管理売春の取締りであり、個人の売春は問題としていない。その根拠は管理売春は本人の自発的同意を得ていないことが明らかな人権侵害であるということにあった。フェミニズムからの批判は売春とは女性を抑圧している事柄の典型だと論じられた。だがそれとは対照的に、家族制度的な規範によって女性は選択することの自由を抑圧されてきたのだと批判するものも出てきた。そしてそう批判する意図は売春を賃金労働として肯定的に捉えようとすることにあった。  
 橋爪大三郎は売春が否定されるのは売春そのものの是非ではなく、売春に付随する事柄に批判の論点が集まっていることを指摘する。そして売春の是非は合理的根拠が無いので、各自の倫理に任せられるべきだと述べる。  
 合理的な根拠が無いことが判断の是非を各人の倫理に委ねることになるのはどのような根拠によるのだろうか。橋爪の主張には正当な理由が無い限り、わたしたちの自由は制限されるべきではないという隠れた前提があるのではないだろうか。  
 自由そのものが善いということをどのように証明するのか。わたしたちはある明白な理由に基づいた道徳的規範に沿って行動しているのではない。つまり道徳的規範と根拠とは無関係なのである。それは周囲の人間や環境がその子にどのような道徳教育を施すかによって、その子の道徳的価値は大きな影響を受ける。たとえば「公共の福祉」に反しない限り自由であるという原則のなかで、親や周囲の人間たちは「公共の福祉」を何らかの価値観を以って判断し、その子に教えている。  
 近代主義的な自由の議論は自己決定能力を持つ人間像を前提としている。自由主義を標榜する社会では価値の判断を「公共の福祉」に反しない限り個人に委ねている。しかしそこで想定されている社会とは自己決定能力を持つ人間像「大人」だけがいる世界である。そのなかで自己決定能力をもたない「こども」はどのように価値を見出して「大人」となっていくのか。  
 自己決定能力を最高の価値と見なす「大人」は、自分が背負ってきたこれまでの価値観を否定することで新たな価値を創造する。しかし自己決定という価値の根拠すらも自分で決めろという価値環境のなかで育つ「こども」は価値の不在という価値にしか寄る辺がない。そしてある事柄への価値判断を迫られたときには価値の不在という価値観からは動揺と渾沌が生れるだけである。こうした「こども」が「おとな」になる過程で自分を制御できない自分が生みだされる。そしてそのような「おとな」は他人の価値観を容易に刷り込まれる危険性があるのだ。  
 議論の出発点に戻ると、売春や援助交際の是非について自己決定権を根拠とする議論にはこうした点を見逃されている。または論者が意図的に無視しているのである。
 
 価値選択の自由を主張することもまたひとつの価値である。なぜならばその主張は価値は客観的であるべきだ、価値は解体すべきだという価値の表明だからである。  
 啓蒙的自由によってある倫理観が解体されるのであれば、その結末には「歴史を持たない社会」が到来するだろう。判断は個人に委ねられ、家族という集団は存在しない極端な個人主義社会となる。そしてそれはすでに啓蒙主義がわたしたちの社会に浸透した結果として、わたしたちの消費社会で極端な個人主義、倫理観の解体は半ば達成されているといえないだろうか。  
 世界は自由で平等である。全員がそのための権利を持つ。この理念に沿った社会では、わたしたちは自由で平等でなければならない、すべての抑圧からわたしたちは解放されなければならないという新しい抑圧を生み出す。そしてなぜこのわたしだけが常に抑圧されているのだという不満で満たされた社会となる。
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第10章 仕事の条件−誰のために不正を行うのか

 労働主義的な社会では「経済的きずな」が優先されるべき規範となり、それ以外の価値が極端に下落する。そして「経済的きずな」の価値が相対的に上昇すると、法や道徳のもとでの「経済的きずな」はそうした歯止めよりも強力になるため、経済独自の合理性を第一の原則とすることで価値は根本から変容していく。利潤を追求することの社会的文脈や目的を失った「経済的きずな」は利潤の追求を無意味に無限に反復する。その中で労働する人たちもまた社会的文脈や目的を失った労働の中で自分の意図に反した行動へと向かうのである。  

 法律で禁止されていなくとも、道徳的責任や刑事的責任が問われ、社会的制裁を受けることがある。専門職には専門知識を活用する自己裁量権(自由)が認められるかわりに、高い倫理的自律(責任)が要求される。裁量権と責任について薬害エイズ事件とミドリ十字をめぐる問題はその典型といえるだろう。  
 自分の労働を生産の手段を一度切り離して考えるべきである。他人を単なる手段として扱っていないか。自分が単なる手段となってはいないか。誰のための何の労働なのかについてもう一度確認するべきである。たとえばのれんやブランドは「信用」という道徳的価値であり、経済的価値のための手段とすべきではないのである。  
 日本の会社組織では組織のあり方が個人の行動に大きな影響力を持ってきた。責任を特定の個人が追うことで会社組織は免責されてきたのである。しかし、個人の違法行為が会社の信用を失墜させ、その影響で組織全体の存続に関わる可能性もある。つまり組織が個人を管理し、個人が組織に尽くす従来型の組織と個人の関係ではなく、個々の社員が社員自身のために組織と個人との関係を管理すべきである。
 
 信頼や誠実さとは言説や行為において嘘をつかないことである。カントとハーバーマスはともに嘘をつかないこと、誠実さを基本的な価値として認めている。カントは人間の理性的判断において常に誠実である格律を根源的な義務と考えている。またハーバーマスは問題の解決を議論によって行うためには異なった文化、習慣、政治的背景を承知したうえで相互コミュニケーションをする必要があるという。そしてその前提には真理性、正当性、誠実性の三つの条件を満たす必要があるという。そしてこの環境での議論から導かれた合意を「真理」とみなそうとハーバーマスは主張する。  
 
 約束を守ること、他人を騙さないで信頼することの価値は自然発生はしない。こうした価値は人間関係のなかで維持する努力のうえに築かれることである。そのためには自分を信頼する人の顔や視線を具体的にイメージできなければ経済的合理性から逃れる契機をつかむことはできないのではないか。
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第11章 社会/組織/個人−内部告発は反倫理的行為か

 内部告発が「倫理的」であるかについて、「反倫理的」とする判断には内部告発の手段が相互の信頼を損なうものであるという理由を挙げるものがいる。内部告発の是非について意見が分かれるのは、法と道徳の遵守という社会正義に基づく行為と組織の一員でありながら組織に背く行為をすることにジレンマが生じるからである。また個人が内部告発をためらうのは、組織が個人に解雇を含んだ報復措置をすることができるからである。  
 ノーマン・ボウイは内部告発が雇用主への忠誠義務に反する行為だと考える。そのうえで公共的な善を目的とした内部告発はその例外として内部告発行為を認める。  
 ダスカは企業が忠誠の対象としてふさわしい存在ではないと主張する。忠誠とは見返りを期待しない献身に基づく行為だからである。そして内部告発によって組織が個人に報復をするならば、その告発者は内部告発の義務は負わないと述べる。
 
 約束を守り、務めとして果たすべき義務を侵して第三者に味方することを裏切りとするならば、どのような場合で裏切りがおきるのか。守秘義務違反が争点になるのは、違法行為や反道徳的な行為を告発することは守秘義務をに反した行為であるかどうかということにある。  
 組織は遵法義務を負っている。そのほかに組織独自の定款や倫理綱領によって組織は行動の指針を明らかにしている。そうした義務や規範は組織が社会と結んだ契約である。そして契約を結ぶことで組織は社会から存在を認められているのである。つまり社会と交わした契約を履行する義務は組織の利益に優先すべきなのである。また個人が組織を裏切らないという義務とは、組織が社会を裏切らない限りにおいて、個人は組織を裏切るべきではないということになる。内部告発が反倫理的であると意見は、反組織的だということの正当化であると同時に、社会の利益よりも組織の利益を優先すべきであるといっているのである。
 
 メタ倫理学の立場からヘアは嘘をつかない、誠実や親切であるべきだなど一見自明に思われる、類似する事例に幅広く該当する一般性があるような義務を道徳の直感的レベルの原則だと主張する。そしてこの原則が実用的であるためには、命題が学習や教育によって獲得できるのに適当な字数で収まり、かつ複雑さ条件を課さない一般的な内容でなければならないとする。  
 このように道徳的な直感や感情を伴った一般的な原則を価値判断の基準として採用するならば、自分に都合の悪いときに条件や判断をごまかすことを防ぐことができるとヘアは考える。また差し迫った判断を求められたり、判断のための情報が不足しているときに一般的な原則を採用することは、思いつきで判断することよりもよい結果となる可能性が高い。そしてその意味においてこの基準を採用することは合理的であると述べる。  
 しかし直感に基づく一般的な原則には限界がある。ひとつには、ふたつ以上の直感レベルの判断や義務に矛盾が生まれるとき。ふたつ目には自分と他人の直感レベルの判断に矛盾が生じたとき。みっつ目には新しい事例に直面したときに過去の直感的な原則を適用できない場合。そしてさいごには事例に対する一般的原則が成り立たないときの事例を想定することができるとヘア述べる。  
 こうした問題に対処するためには直観レベルでは解決できないので、批判的レベルを導入する。そこでは限定的な原則を導き出すために、道徳的な直観に頼ることはしない。類似するあらゆる条件下で適用可能な普遍性を持つ原則であり、かつ事実によって課せられることに適った原則を最善の原則として採用すべきだとヘアはいう。  
 直観的レベルの道徳判断が批判的レベルの判断と齟齬をきたす場合、より善い普遍性を持った批判的レベルの判断を優先させる。しかし、そのときでさえも直観的レベルの判断が誤りや悪い判断なのではなく、適切な道徳的直観が備わっていることの証左なのだとヘアはいう。  
 ヘアのこの議論を内部告発による裏切りや内部告発者の後ろめたさに則した考察をする。すると裏切り感や後ろめたさの感情は直観的レベルの道徳判断であり、一般的原則として守られる程度の義務であると言うことができるだろう。
 
 ディジョージは内部告発者の意思決定にあたって、告発の対象と告発の段階に条件をつけることで内部告発を正当化する。はじめにすべき告発は組織内の適切な人に不適切な行動を伝えることである。しかし組織内部で十分な解決が期待できないときには組織外に向けた告発をする段階となる。ただし内部告発が道徳的に許されるのは、社会の成員への深刻な被害があり、告発者の道徳的懸念を直属の上司に報告したものの、その上司が有効な手立てを講じない場合に限られるべきであるとしている。  
 ディジョージは以上の条件に適った内部告発は不完全義務であると述べる。だが告発内容の状況判断とその危険性を公平で合理的な第三者に確信させるだけの証拠があり、外部に告発することで状況が改善すると期待できる根拠がある場合に外部に向けた告発はは完全義務だと述べる。
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第12章 職業の倫理学−いい加減の倫理学

 労働社会では労働者である大人が重用される。子供は労働者となることを、大人はできる限り長いあいだ労働者でいることを期待される。労働社会では子供と老人の居場所がない。  
 労働を自己目的化すると、生活のための時間は労働時間に侵食される。膨大なサービス残業や過労死には労働の対価としての賃金という概念すらも侵されつつある。労働が完全な自己目的化したときには根本的な意味でわたしたちには自由が消失する。フリーターという存在は組織からよりどころを受けることを放棄する代わりに組織への忠誠心も引き受けない労働観をもっている。労働を自己目的化していない人たちである。  
 目的が消失した労働には自分の労働を評価するための軸足がわからず、いいさじ加減がわからなくなり、「いい加減」を見極めることができなくなる。生命維持の手段であった労働が生きる上での目的となった。その結果として物質には事欠かない社会が生まれた反面で、労働という目的を剥奪される解雇の恐怖が労働者を生産に加速度的な速度で駆り立てるのである。  
 ビジネス倫理学の対象は組織内部の倫理的問題に限定されてきた。企業が内部の不正行為によって反倫理的に社会を侵すことが論点となっていた。だが、資本主義の枠組みそのものが社会に果す役割について再度検討する必要があるだろう。  
 
 労働に従属するわたしは、なんのための労働、だれのための労働と問う機会を失いつつある。ただ生きるためだけに働き、ただ生きるためだけに食べることが善い生なのか。労働することがわたしの存在意義そのものになったときには、わたしは自分の生きかたのさじ加減、いい加減さを見失っている。私の生活空間は労働空間でうめつくされるのではなく、公共的な空間として再構築されるべきである。
 
 労働と消費の活動は表裏一体である。子供は物質的な生産物に囲まれて育つ。そしてその環境の中で熟達した消費者へと仕上げられていく。どれだけ便利で快適であればよいのか。そこに「よりよく」という言葉で極限にまでその限界を拡張することで「よりよく」とはいったい何であるのかを問う不安から自分を解放しようとしている。  
 判断基準のいいさじ加減、「いい加減さ」は人間の関係のなかで検討され、更新されつづける。いい加減さの検討は自分が働くことの目的を求め、生活空間のないようと時間配分を考えなおすことにある。そして自分がどれだけ消費しているのか子供を含めた未来世代がどれだけ消費するのかを考慮に入れることである。労働と消費以外の価値を生活空間に見出すことが、労働と消費のあり方に変化をもたらすのである。  
 そうした労働観に基づいた社会では、完全でないにしろ、普遍性を持った耐久性のある経験や仕事に敬意が表され、そこに歴史の価値が認識され始めるだろう。
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作成:高田一樹  UP:20030728 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0206tt.htm
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