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『魂の労働──ネオリベラリズムの権力論』

渋谷 望 20031025 青土社,293p. 2200



・渋谷 望 20031025 『魂の労働──ネオリベラリズムの権力論』,青土社,293p. ISBN:4-7917-6068-9 2310 [amazon][bk1] ※

◆表紙
「君たちは働くべきだ」というネオリベラリズムのワークフェア言説は、若者に実際に勤労意欲を喚起させることを本気で狙っているわけではない。やりがいのない、しかも低賃金の労働を若者が率先して行うなどと、いったい誰が本気で信じるだろうか。

◆帯
 現代思想の最前線

 リストラ、ワークシェアリング、賃下げ、雇用不安……。
 資本が最優先され、個人が弱体化するこの競争社会をいかにして生き抜くか。
 グローバリゼーション、ネオリベラリズム、公共圏、管理社会、介護など、現代思想の最重要キーワードを軸に、消費社会の権力ゲームがはらむ様々な矛盾をえぐりだし、まったく新しい労働論を打ち立てる。

◆BOOKアサヒコム評者:宮崎哲弥(評論家)
 「感情労働」が生む親密さという矛盾 (掲載2004年01月04日)
 http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=4954


◆目次

 序章 敗北の考古学
 T ネオリベラリズム
 1 魂の労働
   はじめに−結節点としての労働 感情労働 〈生〉の労働 感情労働者階級の出現?
 2 〈参加〉への封じ込め−ネオリベラリズムの権力論(1)
   ネオリベラリズムの主体−リスク管理のプライヴァタイゼーション
   ネオリベラリズムを超えて−コミュニティの「再発見」
   「労働」カテゴリーの消滅−社会参加する主体 アドヴァンスト・リベラリズム

 U グローバリゼーション
 3 消費社会における恐怖の活用
   グローバリゼーションと貧困の回帰 受難者と傍観者 恐怖の消費社会論
 4 ポストモダンの宿命論
   政治の終焉としてのポストモダン リスクとその分身 リスクを受け入れよ 例外状態を受け入れよ

 V 公共圏
 5 反転する公共圏
   脱周縁化と脱中心化 プライヴァタイゼーション−反転する公共圏 カモフラージュされる人種主義 内なるアウトサイダー
 6 世代と対抗的公共圏
   年齢による社会的差異の消滅 浮上する「世代間の公正」言説 記憶(喪失)の政治

 W 権力
 7 ポスト規律社会と予防テクノロジー−ネオリベラリズムの権力論(2)
   ポストフォーディズムの身体管理 〈規律訓練〉VS〈予防〉 予防のポリティックス 〈ポスト規律社会〉VS〈公共空間〉 統治の実験場としての日本−「内務省化」による公共性の再定義
 8 主権と統治の不分明地帯−ネオリベラリズムの権力論(3)
   難民化する被災者 キャンプ−生政治の実験場 主権権力と統治権力の交差

 終章 〈生〉が労働になるとき
    ポッセ ラスタマンmeetsニーチェ 新たな権力ゲーム

 註
 参考文献
 あとがき


◆作成者による引用

●序章 敗北の考古学

  p.8 「本書の目的は、現在作動しつつある新しい権力ゲームの本質を見きわめることである。」

  p.13 「本書では権力ゲームの変容において、労働や産業といった要素がいかに重要な役割を果たしているかという点を強調している。(…)フーコーが指摘するように、権力はアイデンティティや主体の構築を通じて、そして生のあり方そのものを通じて作動するのであれば、労働や産業構造の変容は権力ゲームのあり方に大きなインパクトを及ぼすはずなのである。それにもかかわらず、労働や産業構造の問題は、現在、文化や権力をめぐる議論においては片隅に追いやられてしまっている。」

  p.16 「とりわけ日本では、何者であれ敗北者のポジションに位置づけられることをかたくなに否認する。それが恥でもあるかのように。こうして敗北は、いわば言説化されないまま八〇年代を通過してきたように思える。言説化されない敗北感、無力感は、消費社会の多幸症的で祝祭的な雰囲気の裏側に沈み込んでいたが、着実にその存在は消費社会のロジックを脅かし続けてきた。」


●T ネオリベラリズム

○1 魂の労働

・はじめに−結節点としての労働
  p.23 「彼女たち(労働市場に進出した女性)は一方において家族における主婦や娘としてのポジションを保持するように呼びかけられ、他方では労働者として職務をまっとうするように呼びかけられる。かくして、女性のアイデンティティは、非決定の空間に投げ入れられ、本質主義的にそれを固定することはもはや不可能になる。同様に先進資本主義社会では、脱工業化の進展にともない、かつてならフォーディズム的工業部門に吸収されたであろう若者の大量失業が常態化し、「労働者」としてのアイデンティティのポジショニングに困難をともなうようになったのである。」

  p.24 「指摘したように労働概念は、生産者と非生産者の区別を前提とし、非生産者にさまざまな補助的−とりわけ再生産−をあてがい、その役割をヒエラルキーとして構成する。人々はこの役割を引き受け、内面化し、それに依拠して自らのアイデンティティを構成するのである。」

・感情労働
  p.32 「このように労使関係に顧客との関係が介在するため、感情労働に従事する者は、産業労働者のように、商品化されたものとして労働を自己からクールに切り離す態度や、労働条件をめぐって経営者とラディカルに対決するインセンティヴが削がれていくわけである。」

・〈生〉の労働
  p.33 「この点を踏まえ、感情労働の前者の側面、つまり労働者の自己感情のコントロールの要請が非サービス・セクターにおいても、特に製造業の産業労働者において拡大しつつある点をここでは検討しておきたい。」

  p.36〜 「第一に、しばしば指摘されることだが、労働にこうした機能的なフレキシビリティを導入することは、テイラー主義的な管理の理念である「構想と実行の分離」を再結合することを意味する。ここでも労働者は、〈感情労働者〉と同じようにもはや自分の労働を自己の全人格から切り離すことは困難となる。このことは一方で、製品に対するかつての職人的なプライドを復活させる契機となるが、他方で労働者の全人格が企業へと包摂される危険をともなう。第二によい重要なポイントとして、労働者は"お客様"の立場に自己をアイデンティファイすることによって、〈労働者〉としての社会的アイデンティティを維持することが困難となっている、あのフライト・アテンダントや介護労働者と共通のディレンマを経験する。」

  p.39 「そこで要求されているのは、個人の〈実存〉や〈生〉そのものの次元とでも呼ぶべきものを生産に投入することであろう。」

・感情労働者階級の出現?
  p.41 「かつて福祉国家は、労働者カテゴリーと非労働者カテゴリー(主婦、被扶養者、失業者など)を峻別し、前者を後者に対して優位に位置づけるヒエラルキーを構成していたとすれば、この「参加型福祉社会」では、対価として賃金を得る行為としての、つまり商品としての「労働」の意味と価値は相対的に切り下げられ、「活動」一般へと平準化される。」

  p.43 「いわば労働の感情化は、感情の労働化および政治化によって補完される必要がある。」

○2 〈参加〉への封じ込め−ネオリベラリズムの権力論(1)

・ネオリベラリズムの主体−リスク管理のプライヴァタイゼーション
  p.47〜 「このことはそれぞれの段階に対応するアイデンティティ──〈子供〉、〈成人〉、〈高齢者〉──の境界が限りなく曖昧化することを意味する。」

  p.49 「総じていえば、ネオリベラリズム社会政策が創出しようとしているのは「ライフスタイル」の主体である。それは個人にライフスタイルの〈選択〉の権利を与えると同時に、その〈責任〉を引き受けることを要請する。それゆえそれは「ライフ・プランニング」(生涯設計)の主体でもある」

・ネオリベラリズムを超えて──コミュニティの「再発見」
  p.49 「ネオリベラリズムのヘゲモニーによる福祉国家の解体とそれにともなうアイデンティティの断片化のインパクトは、このように現在日常生活の隅々にまで行き渡りつつある。」

  p.52 「しかも、スキルを身につけようと努力しない者は、リスク管理が不得意な「怠け者」を越えて、「モラルを欠いた者」とさえみなされるのだ──〈コミュニティ〉の名において。」

  p.52〜 「八〇年代後半から台頭してきたオーストラリアとOECDの政策における同様の失業者対策──むしろこれがブレアに影響を与えたとされるのだが(Higgs 1998)──を分析しながら、ミッチェル・ディーンは、そこで目指されている失業者対策が自己形成、自己淘汰という倫理的領域で機能することを指摘する(Dean 1995)。」

・「労働」カテゴリーの消滅──社会参加する主体
  p.55 「「快楽」ないし「自己実現」の場としての労働を強調するアプローチによって、個人と労働との間の運命主義的な強固な心理的絆は解かれ、組合への結束は解体される。代わって産業構造の変化にフレキシブルに対応可能は労働力が創出される。」

  p.57 「八〇年代を通じて日本では「社会参加」という言葉は、「自己実現」ないし「生きがい」といった言葉に接合し、フレキシブルな労働と、フレキシブルな福祉供給を同一の平面で語ることを可能にしてきた。」

  p.59 「「自己実現」とは「社会のためになる」という点で、単なるエゴイズムから区別されている。」

  p.60 「他方で際立ち始めるのは社会的に役に立つ「活動」と役に立たない「無為」の差異である。「コミュニティ参加」の義務のテーマと「自己実現」のテーマは互いに交差しつつ、受動的なシティズンシップの条件から、「活動」を核としたそれへと、シティズンシップの意味のシフトに寄与しているのである。」

・アドヴァンスト・リベラリズム
  p.65 「つまり、人々が逆境においても「怠惰」や「自暴自棄」にならず、「自発的」に「社会参加」することを促す、そうした知やテクノロジーのさらなる開発が要請されるのである──そしてそのような学問がしばしば「実践的」と形容される。」

  p.67〜 「〈コミュニティ〉への訴えかけによってわれわれが誘われるのは「労働」ではなく「活動」である。この戦略は〈公的なもの〉と〈私的なもの〉に関するわれわれの表象を"脱構築"する。すでに見たように、それは従来私的なものとみなされていた「自己実現」と、公的なものとみなされていた「義務」ないし「活動」(アーレント)を同一の次元に流し込むからである。そこではフレキシブルな低賃金労働が「活動」と称され、これに耐えることが「善」なのである。」


●U グローバリゼーション

○3 消費社会における恐怖の活用

・グローバリゼーションと貧困の回帰
  p.78 「アメリカでは、経済のグローバル化によって製造業部門は海外に移転し、国内における男性の未熟練労働の需要は減少の一途となる。他方、経済の情報化によって新たに生み出された職は高度の熟練──コミュニケーション能力、問題解決能力、自己反省能力(リフレキシヴィティ)──を、したがって高等教育やスキルを必要とすることになる。こうして、教育水準の低い階層は、従来の雇用(肉体労働)からも、郊外に生じた新たな雇用機会からも排除されることになる。」

・受難者と傍観者
  p.86 「こう疑うべきかもしれないのだ。われわれは、たんなるニュートラルな傍観者としてではなく、もっと確信犯的に「敗者」や「余計者」を敵視しているのではないだろうか、と。」

・恐怖の消費社会論
  p.88 「消費者のニーズを最優先させる生産システムへの転換というこの再編過程において、労働市場の硬直性をなんとしてでも維持させようとするなら、大量の失業者を生み出し(とくにヨーロッパ)、雇用にいっそうのフレキシビリティを導入すればワーキング・プアを生み出す(アメリカのように)。」

  p.90 「つまり消費社会においては貧困者は定義上、その存在が──行為がではなく──「欠陥」であり「罪悪」なのである。」

  p.93 「ストリート・ギャングへの加入が「アンダークラス」の若者にとって貧困から抜け出す、ほとんど唯一のオルタナティヴのように見えるのは驚くべきことではない。その結果、貧困者は排除への抵抗として自ら自覚的にアウトローの役割を積極的に引き受ける。バウマンは排除された者が、「排除された者」の役割を積極的に引き受けていくこのプロセスを「自己成就的予言」として理解できるとしている(Bauman 2000 p.43)」

  p.94 「たとえば通りで車の窓拭きを申し出ること、物乞いをすること、あるいは学校をサボること、地下鉄の自動改札を飛び越すこと、これらはもはやれっきとした犯罪行為とみなされ、違反者には容赦なく手錠が用意される。」
    「あるいは脱工業都市の経済環境においてほとんど将来の生計には結びつかない教育システムへの諦めの産物なのではなかろうか。」

  p.95〜 「いずれにせよ、犯罪社会学者イアン・テイラー(1999)がイギリスの若者の犯罪とのかかわりあいを分析しながら指摘するように、消費社会(「市場社会」)の影響を全ライフコースを通じて経験しているのは、若い世代、とくに八〇年代生まれ以降の若者であり、彼らがこのグローバル化された消費社会=排除社会において何を経験していくのかを問うことこそが、むしろ必要である。」

  p.96 「一方の極で資本に要請されるまま、自己の生をくまなく開発し、絶え間ない生活の再編に対して自己の身体、精神、感情をフレキシブルに適応させ続けることを定めとする階級が存在し、他方の極で貧困のうちに排除され、恐怖を喚起させる見せしめとしてしか使い道のない「アンダークラス」が存在する。そしてそのあいだの関係をかろうじて人道主義的な実践が切り結ぶというのであれば、われわれはいったいどんな時代に生きているというのだろうか。」

○4 ポストモダンの宿命論

・政治の終焉としてのポストモダン
p.100 「だが、アノミーが自己の欲望を解放することによって自己の制御が困難になるのであれば、その反対の対応物としての「宿命」は、自己の欲望を徹底的に抑えることに由来するものだといえよう。デュルケームによれば、それは「いかんともしがたい、不可避で、柔軟性のとぼしい」規制による制約である。しかしこの行為類型は、彼の予測どおり消滅し、「未来」の可能性は万人に開かれたといえるだろうか。」

p.104 「ギャンブルは「"大きな物語はもはや存在しない"という大きな物語」としてポストモダンの矛盾を指摘するが(Gamble 2000 p.117)、この矛盾が矛盾にもかかわらずなぜ生き長らえているのかが分析されるべきではないだろうか。」

・リスクとその分身
    p.106 「リスク社会論では、リスク管理が不可能であることを知りつつも、各人にはリスク管理をより確実なものにするエートスが備わっているという前提が存在しているかのようにもみえる。」

  p.107 「リスク社会論に宿命論の回帰を見出すことはたやすい。リスク社会は合理的なリスク計算の主体を要請すると同時に、その分身として、一切のリスク計算を放棄する、宿命論的主体を呼び寄せる。そしてどちらも日常を生き延びるための合理性を有しているのである。」

・リスクを受け入れよ
  p.107〜 「あらゆるものを個人のリフレキシヴな自己決定に委ねる社会は、結局、何も決定できず、市場の圧力だけが唯一の現実的な基準となるのではないだろうか。」

  p.108 「現在、「自己責任」──「リスクを受け入れよ」──のスローガンとともに若者に向けられるメッセージは、明らかに矛盾したダブルバインドのメッセージである。(…)長期的な見通しが不可能となるなかで、自分で長期的な見通しを立てよ。(…)ネオリベラル言説がこの不可能なメッセージで若者に期待するのは、不断に自己を励まし、不確実な未来を臨機応変に積極的に切り開く人間だろう。」

  p.109 「われわれの経験では、自己責任言説は、より低いテンションの宿命論により親和的である。」

  p.110 「宿命論がハビトゥスと化した者たちにとっては、宿命に抗って、欲望を欲望とすること、あるいはリフレキシヴに欲望することすら困難である。」

・例外状態を受け入れよ
  p.115 「生存であると同時に死でもあるような生死のあり方は、例外状態が恒常化した排除の空間において維持される共同体の唯一の条件なのかもしれない。」

  p.116 「宿命論はネオリベラリズムの額面上の教義──リフレキシヴな主体形成──に対する抵抗であると同時に、統治形態としてのネオリベラリズムが、それを通じて落伍者を統治する、そうした機能を結果として併せもっているといえる。」


●V 公共圏

○5 反転する公共圏

・脱周縁化と脱中心化
  p.126 「「白人マジョリティ」の意味を「弱者」へと巧妙に反転させたパウエリズムの新人種主義的言説戦略は、「ポストモダンの条件」にうまく適応するどころか、これを我がものとしているとさえいえるのである。」

・プライヴァタイゼーション──反転する公共圏
  p.127 「七〇年代から顕著になってきた福祉国家への批判は、公共部門のプライヴァタイゼーション〔私化/民営化〕の進行を促した──それが文化や政治におけるポストモダンの傾向とワンセットであったことはしばしば見落とされがちである。」

  p.129 「福祉国家パラダイムにあっては輝かしいものであった公的なものの価値は反転され、いわば〈黒人〉=〈公的なもの〉=〈危険/貧困〉という等価性の連鎖の形成へと再節合されるわけである。この反転は、福祉国家批判を介在させることによって「白人VS黒人」という直接対決のコノテーションを排除する点で、イギリスにおいてパウエルが編み出した新人種主義の戦略と酷似しており、機能的に等価であるといえよう。」

  p.130 「ここにおいて「公共圏」はかつての公共圏として思念されないし、またそう機能もしない。「危険な階級」を監禁する、いわば「監視」付きの公共圏である──「ヴィジブルな」とはその意味である。白人のミドルクラスたちはそのような公共圏をさっさと見捨て、自由で安全な私的領域へと逃げ込む。(…)それに対し、アフリカ系アメリカ人たちは「公共圏」に閉じ込められ、監視される。」

・カモフラージュされる人種主義
  p.134 「合衆国ではいまや、ストも打てなければ組合も組織できない服役労働者から第三世界なみの超過搾取を公然と行うことのできる刑罰産業は、かつての軍事産業を思い起こさせるほどの成長産業となりつつある。」

・内なるアウトサイダー
  p.135 「「新人種主義」や「新たな封じ込めのポリティクス」のロジックが「第一世界」の黒人たちに新たに用意するポジションは、もはや中心に対する周縁と中心という、ヒエラルキー上の位置ではない。それは奇妙にも反転した地位、〈内なる敵〉、〈内部の外部〉というポジションである。このロジックは、従来の二項対立図式に基づく抵抗のダイヤグラムを機能不全に陥れる。」

○6 世代と対抗的公共圏

  p.142〜 「支配的な公共圏においては等閑視され、背景に沈んでいた問題を、討議によって公的な共通の関心事として引き上げることが最初にできるのは、このようなサバルタン的な対抗公共圏なのである。」

・年齢による社会的差異の消滅
  p.144 「年齢は、階級、ジェンダー、エスニシティなどと並んで、近代社会において、個人の社会的地位を表わす重要なカテゴリーであり、それゆえ社会的アイデンティティを形成するコアの一つであった。」

  p.147 「日本においても、同様な若者の状況はとくに近年、顕著となってきた。正規雇用の削減と、非正規雇用の増大によって、新規学卒求人が減少し、それによって若者の新規学卒就職率は九〇年代半ばから急速に低下してきた。その結果、卒業後「フリーター」や「無業者」という不安定な地位を経験するものが急増している。」

  p.149 「とくに「青年(若者)」カテゴリーは、六〇年代の新しい社会運動やカウンター・カルチャーの発火点であり、「労働力」カテゴリー以上に社会的敵対性を構築し、抵抗の源泉とみなされていた。年齢カテゴリーの消滅は、こうした敵対性に基づいた若者の連帯と抵抗のポテンシャルを消散させることに貢献したといえよう。」

  p.151〜 「年齢に基づく敵対性は、階級的な敵対性とともに政治的はけ口を失い、両者は家族や学校内部の個人的な対人関係における対立(「イジメ」)や、あるいは「オヤジ狩り」(?)などの代償行為的なルサンチマンへと転移している可能性も大きい。」

・浮上する「世代間の公正」言説
  p.157 「世代格差の不公平感を解消するイデオロギーとしての若年世代は、能力主義的なネオリベラリズムに頼ることができるが、当のネオリベラリズムの教義は同時に、いっそう若い世代内部での格差を増幅し、若年世代内部の連帯を不可能にさせる。」

・記憶(喪失)の政治
  p.162 「(生)権力は〈現在〉という地平の内部に平等の問題を封じ込めるために、記憶自体を消去しようとする。いったん記憶がリセットされた人間ほど現在の権力の要請──しかもそれは、倫理主義的な様相を呈するので抗いがたい──にフレキシブルに順応できる者はいないのではないだろうか。」


●W 権力

○7 ポスト規律社会と予防テクノロジー──ネオリベラリズムの権力論(2)

・ポストフォーディズムの身体管理
  p.169 「いわば個人は自己自身からリスクを与えられるのである。もはや自分自身すら、本質的に安全で確かな場所ではなく、リスクの源泉、あるいはリスクそれ自体──リスキー・セルフ──であるとさえいえよう。」

・〈規律訓練〉VS〈予防〉
  p.174 「カステルは、近年の合州国とフランスの医療やソーシャル・ワークの動きを見ながら、具体的な個人を対象とした介入の戦略(規律訓練)から、人口を対象にした介入へと、その重心がゆっくりとであるが移行し、いまやついにその閾を超えたのだという。」

・予防のポリティックス
  p.183 「カステルが「監視」という語によって問題化しようとするのは、共在の場を経由せずに済まそうとする「新たな形態の監視」である。この監視はもはや個人を「個人化」し、「主体化」し、「更正」することに何の興味も示さない。その関心は予めリスクを探知することpre-detectionにつきるのである。」
     「すでに見てきたように、規律訓練の消滅は、良くも悪くも権能を与えられていた媒介者──「有機的知識人」(グラムシ)と呼ぶことも可能だが──の消滅を意味しているのだから。媒介の空間を公共空間と呼びうるとすれば、予防のテクノロジーが目指すのは、リスクの名において公共空間を消滅させることにほかならない。」

・〈ポスト規律社会〉VS〈公共空間〉
  p.186 「いったん予防テクノロジーによる〈媒介的なもの〉自体の迂回のチャンスが開けていると知れば、他者とコンタクトし、交渉・折衝(ネゴシエーション)を試みることは、コスト面からも、またリスクの面からも真っ先に省くべきものとなる。かくして「市民社会」は葬り去られる(Hardt 1995)

・統治の実験場としての日本──「内務省化」による公共性の再定義
  p.190 「省庁間のヘゲモニーがここにきて大きく移動してきたのは気まぐれでも偶然でもない。経済のグローバル化のなかで戦後の護送船団方式=企業主義的国民統合は機能不全に陥り、企業はリストラ解雇や雇い止めによって企業主義の中核であった正規社員層を絞り込み、これを代替するものとしてパートや派遣などフレキシブルな労働を活用する戦略を採用した。この結果、現在、低所得の不安定就労層や長期失業者が大量に生み出され、彼らの社会=会社への帰属意識や忠誠──そしてそれを通じた国民統合──の物質的基盤は消滅しつつある。(…)ここに彼らを経済的に「統合」するというよりは、暴力的に「統治」する必要性が生じる。内務省型の統治の復活はこのことの現れである。」

○8 主権と統治の不分明地帯──ネオリベラリズムの権力論(3)

・難民化する被災者
  p.202 「彼に典型的な、多くの「孤独死」に共通する特徴は「生きていてもしかたがない」というあきらめの感情である。それゆえ、それは限りなく自死に近い。額田はこれを「緩慢な自殺」と呼ぶ。」

・キャンプ──生政治の実験場
  p.208〜 「日本では〈人間としての権利〉を実質的に保証するものは、法的な市民権というよりも、労働市場における地位、つまり企業社会におけるその人の地位であるといえる。このような条件において、ある人がリストラなどによって失業すること、すなわち労働市場での自己の価値を失い、そこから排除されることは、「ホームレス」化の危険にさらされることである──とくに排除の緩衝材である家族や親族がいない場合。そしていったんホームレスになった場合、ホームレスであることが人間としての尊厳の剥奪に直結する。」

・主権権力と統治権力の交差
  p.215 「強制収容所、難民キャンプ、仮設住宅、ホームレス、棄民、そして成長しつつある「第四世界」。これらに共通するのは、その住民を、常態化した例外状態のなかで生と死のあいだに永続的に待機させ、彼らを非人間的/動物化することによって生き延びさせることである。これはグローバル化するネオリベラリズム的社会編成が抱えもつ社会的排除という矛盾の開放として、いよいよその効力を全面的に発揮しつつあるように見える。」


●終章 〈生〉が労働になるとき

・ポッセ
  p.219〜 「ヒップホップにおいてポッセは脱工業都市=ポストモダン都市の厳しい環境と渡り合い、生き残る側面をもつだけでなく、共同的な実践を通じて豊かな創造活動──スタイルの生産──を行う。製造業の仕事が消失し、代わって創出された雇用は、低賃金の「サービス」労働である。(…)このような環境のなかで、彼らは強いられた低賃金労働を拒否すると同時に、限られた資源を流用し、協働的で創造的な「生産」を行ったのである。」

  p.220 「社会全体が生産点となるということは、〈労働〉と〈遊び〉の区別が消滅することを意味する。」

・ラスタマンmeetsニーチェ
  p.223 「自己価値化の源泉は自己を最初に肯定することにほかならない。」

・新たな権力ゲーム
  p.231 「ネオリベラリズムにおいては〈怠慢〉は罪である──それがポスト産業社会の現実である恒常的失業によるものであっても。」

  p.232 「彼ら〈マジメ〉なマジョリティに安心を与え、この格差を最終的に正当化するものこそ、勤勉を美徳とする労働倫理ではないだろうか。勤勉な主体としての自己肯定は、〈怠惰〉への道徳的攻撃によってはじめて可能となる。」

  p.233 「〈怠惰〉=〈遊び〉は悪でありながら価値の源泉である。」

  p.234 「だが真に魅力的でやりがいのある労働であれば、外部からのどんな正当化も不要のはずである。」

  p.235 「また同じことは日本においても、近年の「フリーター」や「無職」の若者層が犯罪予備軍としてコード化され、無価値なもの、さらには危険なものに貶められつつあることとパラレルである。」


作成:橋口昌治 UP:20040508
労働 

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