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脇田憲一 『朝鮮戦争と吹田・枚方事件―戦後史の空白を埋める』 明石書店

脇田憲一 20040320『朝鮮戦争と吹田・枚方事件―戦後史の空白を埋める』 明石書店 844p ISBN:4-7503-1871-X [amazon][bk1]

目次
まえがき
第一部 吹田・枚方事件
 前章 四国山地から―「野村騒動」異聞―
 一章 枚方事件
  1 枚方は兵器の町だった
  2 旧枚方工廠爆破事件
  3 小松正義襲撃事件
  4 獄窓の中で
  5 枚方を平和の街に
 二章 吹田事件
  1 朝鮮戦争と日本共産党
  2 平和と独立の夕べ、待兼山へ
  3 遊撃隊の攻防
  4 山越部隊と電車部隊
  5 吹田争乱
  6 総括を検証する
第二部 和歌山・奈良山村工作隊
 三章 奥吉野巡歴
  1 野迫川村水害救援隊
  2 北股青春譜
  3 河鹿の宿
  4 山村工作隊の結成
  5 立里の山小屋
  6 最期の日記
  7 大塔村飛養曾を訪ねて
 四章 有田川遡上
  1 花園村から清水町へ
  2 女性町議の誕生
  3 ある工作隊員の生涯
  4 五村の疾風
  5 独遊隊の結末
 後章 軍事方針の行方
  1 「六全協」をめぐって
  2 「八尾飛行場」工作へ
  3 町工場で働く
  4 任務放棄
  5 木の本に行く
  6 中国紅十字会代表団の警護
  7 四九年目の再会
  8 「アカハタ」分局へ
  9 ある工作隊員の死
 解説―抵抗権と武装権の今日的意味 伊藤晃
 あとがき
 資料 「球根栽培法」第二巻・第二十二号(日本共産党「五全協」軍事方針)
 索引


第一章 枚方事件(pp.61―270)

1 枚方は兵器の町だった
・ 明治〜昭和:日本の富国強兵政策のなか、軍事工場の町へ
⇒多くの朝鮮人が居住し働く。爆発事故での多くの朝鮮人の死亡。
⇒1937年〜 大阪造兵廠枚方製造所の建設
・ 太平洋戦争敗戦後:GHPの賠償物件として軍事工場は押収される
・ 1950年6月25日朝鮮戦争勃発:砲弾製造再開の動きが表面化
⇒米軍:兵器砲弾の日本での調達
⇒朝鮮特需契機と日本の再軍備復活(警察予備隊)
・ 1952年1月:旧枚方工廠の小松製作所による払い下げ、砲弾製造再開
⇒反対の声「声明、財産を脅かされたくないということだけだ」

2 旧枚方工廠爆破事件
@民青、共産党への接近
京阪高校 民青班 + 守口居住班 = 民青守口市委員会をつくる
⇒京阪高校班長を引き受ける。守口市委員会の委員長への推薦。
A1952 守口市内 共産党演説会での事件
・朝鮮戦争反対、破防法(破壊活動防止法案)反対の演説会
・演説会会場にスパイ=警察。党員、朝鮮人と警察の「一種の戦争」。
・静かな感動「このような日本共産党への弾圧は、朝鮮戦争のアメリカ帝国主義と戦う朝鮮民族への弾圧であります。それを身体で受けとめているあなたたちのその姿に、私たちは勇気づけられるとともに、責任を痛感するのであります。今夜の勝利はみなさんと私たちの団結と連帯の勝利であります。」pp93
B日本共産党の軍事方針:中核自衛隊
・中核自衛隊の結成:権力(警官)の弾圧に対する党の防衛隊というイメージ
⇔第五回全国協議会「中核自衛隊は工場や農村で、武装するための武器の製作や、獲得、或いは保存の分配の責任を負い、また軍事技術を研究史、これを現在の条件に合わせ、闘争の発展のために運用する。さらに、この実践を通じて、大衆の間に軍事技術を普及させる活動を行う。」pp97
・某労組幹部襲撃計画:「朝鮮戦争に賛成し、革命を裏切る売国奴への制裁」
C旧枚方工廠爆破事件
・朝鮮戦線に運ばれる砲弾⇒日本に3台しかない砲弾製造プレスの破壊・爆破行動。
・1952年6月24日未明:時限爆弾の爆発。
・実行隊:日本共産党員、民愛青北河内地区関係者など⇒全員逮捕
・朝鮮戦争への兵器生産拠点:旧枚方工廠と小松製作所大阪工場
・敵からも味方からも疎外された被告たち「工廠爆破は失敗した。しかし俺らはまちがっていたとは思わん。ここで作られる砲弾で祖国の同胞が殺されるのだ。六全協で日本の同士は自己批判して済むかもしれんが、俺ら朝鮮人の場合はそうはいかんのや」pp120
・1965年6月 日韓協定:禁固以上の刑に処せられた者は韓国へ強制送還=極刑。国籍を切り替えることで大村収容所行きを逃れる。⇔日本共産党「階級的観点のない救援活動は問題がある」⇔脇田:階級的/非階級的という問題でなく、人権問題
・日本共産党の「事実誤認、誇張が多すぎる」言葉:
「六月二五日は朝鮮人民が侵略者に対し、武器をとって立ち上がった日だ!/戦争放火者と売国奴李承晩に対し、決然と闘いに立ち上がった日だ!/彼らは人民の実力を恐れている。だからこそ日本においては破防法をガムシャラにおしすすめようとしているのだ!/ふたたびわれわれを戦争にまきこむために、日本を侵略基地にするために!/われわれは断じて祖国をアメリカに売り渡すことは出来ない!/実力以外に闘う途はない!/市民のみなさん!」pp126-127

3 小松正義方襲撃事件
@小松正義
・ 「小松製作所社長」(共産党関連資料)⇔実際は渇h組の社長
標的にされるほどの人物だったのか?
・ 旧枚方工廠の一時使用許可申請の急な取り下げ⇒小松製作所へ。小松正義を含む政治工作の可能性。

A小松正義方襲撃事件
・1952年6月24日夜〜 一本松の丘に朝鮮戦争勃発二周年記念前夜祭。日本人、朝鮮人青年、学生男女、百数十人が終結
・参加者には非党員も含む。キャンプファイヤーだと信じていた参加者。
・集会:松元保紀(旧枚方工廠爆破隊見張隊長)の演説、河北解放統一戦線綱領(案)と河北解放青年行動隊規約(案)の読み上げ。⇒pp142
・意見の混乱:行動の時間と火炎瓶の使用⇒本音は火炎瓶襲撃を躊躇。時間的心理的経過。
・党指導部からの火炎瓶襲撃の指令があったのか?火炎瓶での放火の命令があったのか?⇒なかったのでは。軍事的行動としても位置付けられていなかったのでは。しかし放火未遂事件としての扱いを受け有罪。
・スローガン:破防法反対、徴兵反対、枚方工廠復活反対、枚方自由労働者への夏期手当2000円至急。
・「一本松の丘」の集会・デモ:軍事行動の旧工廠爆破隊援護のための陽動作戦。工廠爆破行動が1日繰り上げになり、「一本松の丘」集会・デモの位置付けが宙吊りになり、形態は軍事行動、内実は烏合の衆という中途半端な行動。
・山中での乱闘、追跡捜査による検挙者の続出、65名が起訴される。
・判決:7人が懲役3年〜5年の実刑、 49人が2年の執行猶予付き懲役6ヶ月、6人無罪。爆発物取締違反、放火未遂、公務執行妨害。
・1955年 日本共産党 六全協:軍事方針破棄。軍事闘争事件を極左冒険主義として自己批判。
⇒裁判闘争への影響:軍事闘争否定の論理の中での示威行動として位置付ける。憲法違反状態への抗議行動=正統防衛=抵抗権論pp170
・検察・裁判所:刑事事件としての犯行事実の立証を強調⇒実力行動の参加者の有罪
・軍事闘争は爆破行動として失敗し、かつ、行動計画になかった小松正義方襲撃事件を誘発し多くの逮捕者を出すという結果。

■コメント■(大野)
1.近代における朝鮮半島と日本の関係への思考・行動へ
・「日本人」の加害者性は、反帝反戦論を唱えることで隠蔽されているのではないか。すなわち、「反アメリカ帝国主義」ということで非対称な関係性が、「連帯」という言葉で埋められていく。

・共産党が運動・情念を自身の理論へ回収
「帝国主義本国の体制にのめりこんでいる人間が、私に民族問題をさけて通れと説教するとはどういうことなのだ」(梶村秀樹「『差別』と『逆差別』」pp42)

「日本人共産主義者による朝鮮人運動の衛星化・民族問題への取り組みの弱さ」(道場親信『占領と平和』青土社、2005。pp302)
「軍事生産を行なおうとしている勢力に対する視線が、アメリカ帝国主義と結託した『買弁』という形で向けられており、いわば『向こう側』『敵』として位置付けられ、戦争に加担する『日本(人)』自身の問題として深められていなかった」(同上、pp299)

⇒アメリカという帝国主義に対する「民族問題」は語ることができる一方で、日本国内の「民族問題」=在日朝鮮人への「差別」と「逆差別」は語れていたのだろうか?(沖縄復帰闘争との類似点・相違点) 例)脇田pp142-143

「存在規定性を異にするが故に最もよく見うるものである『被害者』によってたえず点検されうる具体的な条件を獲得すること(・・・)私たちの存在規定性と在日朝鮮人の存在規定性をつき合わせる緊張関係のなかでのたえざる思考が必要なものなのだ。」(脇田、pp47)

2.軍事化されていく社会・街

3.トップダウン&軍隊的運動形態をどう考えるか?
・ ラディカルさ:暴力の顕在化による既存秩序の違<法>性を炙り出す
・ 違和感
■コメント 終■

4 獄窓の中で
 1
・国警大阪本部による家宅捜索と逮捕。
・樋口保逮捕:1952年9月25日

 2
・守口細胞から寝屋川細胞へ
・衆議院選挙:議席ゼロに。翌年、川上貫一のみ当選(大阪二区)。
・7・15扇町集会―「火炎瓶を投げた党員はただちに除名」、党への不信。
→徳田論文「闘いは人民の信頼のもとで」:方針転換

 3
・叔母の家に戻る
・脇田憲一逮捕:10月4日

 4
・拘留・尋問→黙秘

 5
・庄内地区警察で10日間拘留
・事件に参加したことを認める
・調書作成
→国警庄内署から大阪拘置所へ

 6
・獄中闘争
・弁護士(東中光雄)接見
・樋口保ほかと再会

 7
・黙秘権について
「黙秘権を考える上で肝心なことは、自分のやった行動に正義の確信があるかないかということではないか。もちろん黙秘か自供かの色分けでいえば、正義の確信の貫徹は黙秘権によって示されることは言うまでもない。だからといって、正義の確信はすべて自供によって崩れたのかといえばけっしてそうではない。」(p211)
→転向論の落とし穴
・第一回全国被告団代表者会議―「黙秘権に関する決議」

 8
・転向について
・松本保紀のこと
「転向とはいったいなんであろうか。権力による強制もあるだろう。思想の変節もあるだろう。貧困や家庭の事情もあるだろう。しかし、党の方針がまちがっていようと正しかろうと、自分を駆り立てる行動の必然があったのか、なかったのかが最後に問われる。」(p218)
→党を裏切ったが、工廠爆破隊は正義の闘いであった


5 枚方を平和の街に
 1
・『枚方市史』(1984年)を見る
→大衆運動の盛り上がり―枚方民主主義擁護同盟

 2
・枚方民擁同とは
1949年7月2日結成―統一戦線のための運動体
→50年6月3日に解散。
・大阪民擁同の結成(50年4月)
→その後、6月には大阪地方平和を守る会が結成。その中で、枚方民擁同も活動。枚方工廠再開反対運動の中心になっていく。相次ぐ市民集会の開催。
・京大同学会「原爆展」(51年7月14日から10日間。場所は丸物百貨店。占領期における先駆的な事例)
→巡回展示で枚方に。主催者が枚方民擁同。京大OB(ママ)たちの手で聞き取り。合同調査に。

 3
・資本論研究会
→枚方の民主運動の支柱、広瀬一家の存在:佐武朗、博次、博忠
・「共愛会」診療所開設
50年11月。枚方民擁同の地域活動の一環として医療相談を開始。
・「平和の声」事件
「アカハタ」の後継「平和の声」配布で、GHQ占領軍政令325号違反により診療所が捜索(51年4月)。福永医師、枚方を脱出。53年、診療所の閉鎖。→民擁同の衰退。
・枚方「原爆展」開催
51年8月20日から31日の間の3日間の開催。民擁同の立ち直りのきっかけ。

 4
・日本共産党枚方市民委員会
民擁同を支える若手の党員で構成。民擁同代表と市委員長は同一人物・川村正春?
→枚方事件後、民擁同など大衆組織や諸組織が自然消滅。
*小松製作所と小松正義の混同(広瀬博忠談)

 5
・旧香里製造所復活反対運動起こる
→民擁同とは関係なく、再開阻止を勝ち取る。

 6
・寺嶋市長「火薬工場反対」を決断
→寺嶋宗一郎の経歴・政治歴の中に「必然」。
→1959―1975年まで社会党市長。平和産業都市・住宅平和都市への転換は52年7月18日の臨時市議会にあったのでは。
・寺嶋市長・提案説明
・交久瀬善雄議員(無所属)・工場誘致委員会報告
・岡市喜太郎議員(社会党左派)・賛成討論
・初田豊議員(社会党右派)・賛成討論
・寺嶋市長・岡市喜太郎議員の質問に対する答弁

 7
・初田豊議員(10期目)の回想(筆者註・1994年10月死去、享年81歳)
→闘争から公団住宅誘致の成功
・「15年戦争研究会」塚崎昌之氏
→「枚方事件」の成果
・大阪外国語大学助教授・藤目ゆき氏
→「正義」の闘争・アジア民衆連帯運動の糧

▼当時の警察の見方
 
▼簡易年表:1945―1955(在日朝鮮人、共産党、国内外政治関連) ※改良の余地あり(山本)
1945
  .0910 在日本朝鮮人連盟中央準備委員会結成
  .0914 在日本朝鮮学生同盟(朝学同)結成
  .1010 金天海、李康勲ら府中刑務所出獄、自由戦士出獄歓迎人民大会開催
1946
  .08 共産党第4回拡大中央委員会―「八月方針」
  .10 在日本朝鮮居留民団(民団)結成
1947
  .0502 「外国人登録令」(旧憲法下)
1948
  .0124 日本文部省、学校教育局長より各都道府県知事宛「朝鮮人設立学校の取扱について」通達、民族教育に対する弾圧開始(第一次閉鎖令)
  .0423 大阪府庁前広場での民族教育弾圧、反対闘争
  .0424 神戸における教育弾圧、反対闘争
  .0815 大韓民国政府成立
  .0908 朝鮮民主主義人民共和国政府成立
  .1004-05 民団第五回全体大会、団名を在日本大韓民国居留民団(民団)と改称
1949
  .09 在日本朝鮮人連盟(朝連)・在日本朝鮮民主青年同盟(民青)の解散
  .10 朝鮮人学校の閉鎖が全国的に始まる
  .1001 中華人民共和国成立
  .1019 民族学校弾圧、第二次閉鎖令公布
  .11 外国人登録令改正、共産党、少数民族部を民族対策部に拡充
1950
  .06 在日朝鮮統一民主戦線(民戦)結成中央準備委員会発足、共産党中央委員公職追放
  .0625 朝鮮戦争始まる
  .08 祖国防衛委員会大阪府委員会結成
  .10 民戦大阪府委員会結成
1951
  .01 民戦結成
  .02 共産党、第四回全国協議会―「51年綱領」「在日少数民族との連携の強化」、軍事方針
  .09 サ条約調印、日米安保条約署名(9・8)
  .1004 「出入国管理令」公布
  .10 共産党、第五回全国協議会―「在日諸民族との提携」「日本共産党の当面の要求」
  →山村工作隊、中核自衛隊の組織化
1952
  .02 祖国防衛在日朝鮮青年戦線を在日朝鮮民主愛国青年同盟(民愛青)に改編
  .0201 球根栽培法「中核自衛隊の組織と戦術」
  .0210 東大ポポロ事件
  .02-04 「韓日会談」(第一次)開始
  .0428 サ条約発効、日米安保条約発効(4・28)、「外国人登録法」公布(指紋押捺条項追加)
  .05 民愛青大阪本部結成
  .06 日朝協会発足
  .0615-0815 民戦中央、祖国解放戦争二周年救国月間
   〃    祖国防衛委員会、平和擁護救国闘争月間
  .0624-0625 大阪府学連「朝鮮戦争二周年記念、伊丹基地粉砕、反戦、平和、独立の夕べ」(吹田事件)
  .0624 枚方事件(最高裁判決は1968.02)
  .0707 大須事件(最高裁有罪確定→1978.0904)
  .0715 徳田論文「日本共産党三十周年に際して」 
  .0721 破壊活動防止法、公安調査庁設置
  .10 衆議院選挙→共産党議席ゼロ、社会党左派伸張
1953
  .0415 第二次「韓日会談」開始
  .0727 朝鮮戦争停戦協定
  .1006 第三次「韓日会談」開始
1954
  .0608 改正警察法公布
  .08 「南日声明」
1955
  .01 共産党指示「在日朝鮮人運動について」
  .03 共産党民対「政策転換と当面の活動方針」決定
  .0427 日本政府、外国人登録法の指紋に関する政令及び外国人指紋押捺規則を施行
  .0524 民戦第六回(臨時)全国大会、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)結成を採択
  .0525-26 朝鮮総連結成大会
  .0724-25 共産党民対全国代表者会議、朝鮮人党員の離党方針を確認
  .0727 共産党第六回全国協議会、「極左冒険主義」を自己批判

▼梶村論文について
・被/抑圧形態における抵抗・連帯の共通性の形成と差異の認識の必要性
・現実の方を観念に強引に合わせようとする怠慢
・「自己の観念の存在規定性への無自覚のなかで語られる「階級帝国主義」はそれ自体、民族的階級的でしかありえない。」(p.43)
・「しかし、一旦抽象の高みに舞い上っていった言葉は、きわめて尖鋭に言葉として空転してゆく、その方が気楽であるために再び具体的なものへと下りてこなかった形跡がある。」(p.43)
・「逆差別」=英雄化、空想的美化
・被抑圧者たちの主体的な自由な選択
・「在日朝鮮人は何も日本人の存在規定性を告発することのために、生きているわけではない」(p.47)
・「自ら進んでつきつけられるようなかかわりを求めていかなければならない」(p47)
・「私たちの存在規定性と在日朝鮮人の存在規定性をつき合せる緊張関係のなかでのたえざる思考が必要」(p.47)
・「相互に存在規定性の違いを意識したなれあいぬきの場」(p48)
・部落研・朝研を中心とする一斉糾弾闘争―『問われているもの』
→部落解放運動における「随伴知識人」という課題を克服する可能性として読めるのかどうか。

▼最近、考えたことの中から
・部落解放運動と在日/朝鮮人運動との関係性
→金靜美の「告発」ではない歴史的実証
・部落解放運動と非部落民
→糾弾闘争の持った意味。同和行政の結末。現在の部落。解放運動の大きな変化。
・問われる、部落差別と民族差別。
→非部落における日本人
・もうひとつの「68年」―<金嬉老事件>と『「1968年の革命」史論』における部落解放運動とニューレフト運動論

▼メモ
・朝連期の在日朝鮮人運動史の欠落
・55年以降の元・朝鮮人党員と共産党員との関係
・吹田事件などの裁判闘争における70年代までの朝鮮人と日本人との関係
・朝連解散以降の日本共産党との関係
・朝連内部の党派争い
・民団内部の争い

<その他、参考文献>
大窪敏三1999『まっ直ぐ』南風社
梶村秀樹1971「「差別」と「逆差別」」『情況』1971年1月号、情況出版
金靜美(きむ・ちょんみ)1989「朝鮮独立・反差別・反天皇制―衡平社と水平社の連帯の基軸はなにか―」『思想』岩波書店
―――1994『水平運動史の研究―民族差別批判』現代企画室
金太基(きむ・てぎ)1997『戦後日本政治と在日朝鮮人問題 SCAPの対在日朝鮮人政策 1945−1952年』勁草書房
小山弘健1972『戦後日本共産党史』(増補版)芳賀書店
鍋山貞親1952「総選挙の結果と共産党」『警察学論集』第5巻第11号、立花書房
朴慶植(ぱく・きょんしく)1989『解放後 在日朝鮮人運動史』三一書房
朴慶植編1991『日本共産党と朝鮮問題』(朝鮮問題資料叢書第15巻)アジア問題研究所
弘津恭輔ほか1952「左翼運動の回顧と展望」『警察学論集』第5巻第12号、立花書房
廣山紫朗1956「在日朝鮮人問題について」『警察研究』第27巻第3号、良書普及会
日向信治1952「吹田騒擾事件について」『警察学論集』第5巻第10号、立花書房
兵庫県高等学校教職員組合・解放教育専門委員会編1972『問われているもの』(新訂版)明治図書
梁永厚(やん・よんふ)1994『戦後・大阪の朝鮮人運動』(朝鮮近代史研究双書13)未来社

<課題など>
『警察時報』,『警察公論』,『警察白書』
◆「アカハタ」(1952年7月15日)→府立図書館
◆『問われているもの』1970年版→同志社大学
◆朝鮮関係資料
◆共産党関係資料
国立国会図書館
米国国立公文書館(National Archives and Records Administration:NARA)
同志社大学アメリカ研究所
吹田市枚方市


第二章 吹田事件 pp61-172
1 朝鮮戦争と日本共産党
「この『五〇年問題』抗争は、党内の分派闘争にほとんどエネルギーを使い果たし、党が直面した大規模のレッドパージや『逆コース』に有効な闘いを組織できなかったのは当然である。」(277頁)
・第4回全国協議会「在日朝鮮人は日本の中の少数民族」
→pp.293―294
・戦後史の「通説」(?)への批判
@日本共産党の「五一年綱領」と「軍事方針」は外国の党(ソ連、中国共産党)から押しつけられた
→現在の日本共産党の責任回避論
A朝鮮戦争下の在日朝鮮人運動(民戦)は日本共産党の極左冒険主義に利用された。
→朝鮮人の独自の運動という側面。四全協・五全協より先行していた動き。
※弾圧も共産党より朝鮮人に対するものが先行している。双方の「軍事方針」の実際にはついては要検討。
B在日朝鮮人党員は日本共産党の犠牲になった。
→日本共産党の犠牲になったわけではない。

2 平和と独立の夕べ、待兼山へ
・検察資料

3 遊撃隊の攻防

4 山越部隊と電車部隊(pp357-)
@ 山越部隊:待兼山⇒西国街道⇒千里丘陵⇒吹田
・ 警察:警備方針の重点は伊丹基地、伊丹飛行場、駐留軍ハウスへの攻撃警戒阻止。しかし「まさか山越をしてまで遠方の吹田へデモを行うこともあるまい」という判断で行方を見失う。
・ 元国粋大衆党総裁の笹川良一宅の襲撃:「ファシスト」「大山林地主ファシスト」
・ 国鉄労働組合幹部の中野新太新太郎宅の襲撃:「吹操を牛耳る売国奴愛労」「国鉄吹工(吹田工場)を牛耳る売国奴愛労」
A 電車部隊:待兼山⇒阪急石橋駅⇒服部駅⇒吹田
・ 「さあ我等もゆくぞ、軍事、軍事基地粉砕の愛国行動へ!」「アメ公かえれ!」「朝鮮戦争を即時やめろ!」「伊丹の軍事基地反対!」「再軍備徴兵反対!」「防空演習絶対反対!」「破防法反対!」
・ 石橋駅発車後の車内、人民遊撃隊の歌声:「五大山の峯から/済州島まで/森の中をゆき/坂をこえて/祖国の自由を血で守る/われらは遊撃隊/人民の息子」
・ 警察:石橋駅の集団の暴力行為は、警備本部の眼前で展開されていながら放任。責任逃れ的な気持ち。臨時電車に追尾する自動車を用意せず。⇒吹田市内へ向けてのデモ行進の確認の遅れ。
・ 最後まで最高指揮者が不在。計画的なシナリオではなかった(阪急電車、警備態勢の出方次第)
・ 朝鮮人部隊の存在:300〜400名はいたと推定。電車部隊の主力部隊として。

5 吹田争乱(pp389-)
@山越部隊と電車部隊の合流
・ 三島郡山田村字下にて電車部隊は山越部隊から大歓声をもって迎えられる。千数百名の大集団へ。山越部隊を先頭に吹田操車場に向かって南下。
・ デモ隊側資料:「アメリカ帝国主義者とその手先吉田売国政府のアジア侵略の軍事拠点吹田操車場の軍事輸送を止めるために身を捨てて前進」「軍事品と軍用列車をもとめて吹田操車場に決死の突入」
・ 騒擾罪・威力業務妨害罪容疑適用のポイント:デモ隊による投石、火炎瓶の投下
A吹田操車場と朝鮮戦争
・ 吹田操車場:第一次世界大戦以来の日本経済の発展、運輸の活発化⇒1919年建設開始、1923年操業。1943年1日8000両を有する。1952年朝鮮戦争向け武器軍事輸送の需要増大。軍用臨時列車の増発。東洋一の操車場へ。
・ 日本における朝鮮戦争準備:1949年マッカーサーによる在日朝鮮人団体、全労連解散命令、国鉄労働者の大量解雇、国鉄労働組合弾圧。日本共産党と左派系労組への弾圧。1950年6月の全産業のレッド・パージ。日本共産党中央委員の公職追放。
⇒吹田操車場におけるレッド・パージと軍需輸送反対の運動。
・ 日本の朝鮮戦争協力⇒共産党:戦争体制との闘争=軍事列車を止めること

B吹田操車場構内へのデモ隊突入
・ 転送作業中止、業務の妨害
・ 駐留軍貨物積載貨車約30両は駅長指示により退避・隠蔽、破壊失敗

C駐留軍西南地区司令官米軍陸軍准将カーター・ダブリュー・クラーク搭乗車、堺キャンプ所属米軍陸軍軍曹ロバート・ゼイ・ビーン搭乗車への攻撃

D茨木市警ウィーポン車への走行妨害、攻撃
上田「日本人は巡査をやっつけろと火炎瓶を投げたけど、殺す気はなかったから、無抵抗になった奴を竹槍で突くことはできなかった。朝鮮人は突いた。止めたら日本人は言うことを聞いたが、朝鮮人は怒った。その差がいまだに分からない。民族が違うからか。私の思想が中途半端だからか。殺してしまってもよいというところまでにはなっていないことは事実だ。ビビった。その差というのが、いまだに分からない。」(pp407)

E警察の対応:警備部隊全員の士気沮喪、取り締まり方針の日和見的な事なかれ主義。

F流れ解散へ:吹田駅北側アサヒビール吹田工場裏の産業道路上で待機する警官隊、避けるデモ隊⇒国鉄西之庄ガード下:驚いた警官たちが道をあける。

G吹田駅構内:ホーム、電車内に警官が乱入、発砲。デモ隊員による応戦。⇒報復

H大阪駅着、デモ隊の検挙へ。

6 総括を検証する(pp419-)
@党大阪府ビューロー文書(<浪速屋ノート>第十八号)
(1)大衆との強固な結合のもとに闘われた
・ 大衆の日常要求と占領制度との関係をあらゆる闘いの中で、系統的に明らかにした細胞独自的活動の成果。4000名の参加。
⇒脇田:4000名は事実誤認
(2)東京メーデーとともに日本の反戦・独立のための革命の道に第二の確固たる道標を打ち立て得た
・ 反米、軍事基地粉砕の闘いの方向と地域との関連性において、意識的・具体的に計画し、軍事行動と結合して行なった愛国的革命行動
・ 敵に対して政治的・軍事的に大打撃を与えた 例)枚方工廠のプレス爆破
⇒脇田:プレス爆破は事実誤認。トン数、吹田操車場の停止時間、軍臨列車を停止させたこと、も事実誤認。
(3)英雄的愛国闘争は国民各階層に大きな感激と感動を与えた
(4)誤った方向
・ 騒擾罪の過大評価して、反撃の行動を具体的に組織することの日和見
・ 大衆の軍事行動を前進させることなく、中核自衛隊が闘争を請け負う方向

A大阪民対報告文書
(1)東京メーデーで発揮された愛国心を国民のものとし。大阪における革命闘争の新たな道を開き、第二の道しるべを立て国際連帯性に答えた。
(2)祖国防衛の一点で前兆先陣の意思統一をはかり、大衆行動を組織、全国の朝鮮人に祖国防衛の闘いを明示、在日朝鮮人運動の質の向上・飛躍
(3)国際連帯性の自覚の深化、日朝両人民の高度な統一行動。
(4)2000トンプレスの爆破、軍事輸送麻痺による打撃
(5)朝鮮人大衆を大きく闘いに動員できた。朝鮮人の素朴な祖国愛・感情を正しくとらえて祖国防衛闘争に向けた
(6)大衆の結合:大衆の具体的要求をアメ帝の占領政策との関係において暴露し闘った

B検察側の報告書
山田村における山越、電車両部隊の合流は吹田デモの一大成功⇔警察の失敗

C評価の検証
(1)党大阪ビューローの総括
・ 東京メーデー闘争との連結:闘争現場の総括でない。党中央での業績・主導権争いの発露
・ 「軍事行動」の意味があいまい
(2)大阪府民対
・ 集会・デモを「大衆行動」とし、遊撃隊を「軍事行動」と区分
軍事行動とは@伊丹総合基地攻撃、A吹田操車場軍臨列車攻撃、B旧枚方工廠攻撃 ⇒ @Aは未遂・中止、Bは失敗。よって「軍事行動」全体は失敗
・ 「軍事行動と結合した革命行動」「敵に対する大打撃」ともに未成立の評価
(3)検察
・ 日本共産党の軍事方針を実践した軍事行動、武力闘争の成功
⇒武力闘争の成功はない。「軍事行動=集会とデモの全体」という考えを成立させる騒乱罪としての認識⇔デモ隊側は憲法で保障される正当な示威行動との認識
・ 判決:騒擾罪無罪。吹田操車場襲撃を集団全体で決意していないため、朝鮮戦争反対、吹田操車場の軍事輸送への抗議のための示威行進であった。集団全体として攻撃的・暴徒的性格を認められない。

D「軍事行動」は失敗し、「示威行動」は成功した
・ 党指導部、検察は吹田事件の軍事行動の評価を誤っている。あくまで示威行動であり、集団行動を軍事行動と認定したのは誤り。
・ 「集会とデモ」の役割は遊撃隊の軍事行動援護のための陽動作戦。しかしその役割が消滅。
・ 『上田総括』:「いろいろの反米闘争をやって、条件がなければやるべきでないということもあるし、条件がなくてもやらねばならないときもある。基本的には力を作っていかなければと思うが、そうそううまいこといくわけがない。失敗の経験ですら積み重ねなければ力にならない。このへんのことが形式主義、教条主義、観念主義者には理解できないし、実践の運動はできない。」
・闘争の失敗・成功の問題でなく、闘争に参加した者が何を経験し何を得たかが問題。「デモ隊と警官隊が対峙した武装闘争のイメージは、わたしの勇気の源泉をなしている」
・警察の失策:山越部隊を追跡せず見失い、電車部隊が伊丹基地関連施設襲撃の本体と想定、人民列車発車までの警備方針の未変更

E吹田事件は「軍事行動」ではなかった
・竹の鼻ガード警官隊襲撃事件、米軍クラーク准将等乗車襲撃事件、茨木市警ウィーポン者襲撃事件、警官の吹田駅突入ピストル発砲事件 ⇒ 集団の一部の行動であり、共同意思による集団的暴行とは認められない(検察)。
・最初から最後まで反戦示威行動を貫徹する意思があった。「具体的に計画された軍事行動と結合した愛国的革命行動」と考えられない。
・軍事行動=パルチザン闘争(ゲリラ戦)。勝算なしに行動するのは誤りとする考えであり、失敗・犠牲を前提としない奇襲戦。伊丹基地関連施設襲撃・吹田操車場軍臨列車襲撃中止判断は正しかった。旧枚方工廠襲撃の一日繰り上げは作戦的に当たったが、砲弾プレス爆破は失敗。 ⇒ 軍事行動未成立

F笹川良一方襲撃事件と中野新太郎方襲撃事件
・全体の集団行動と一部個別行動との共同意思はなかった(判決)

G皮肉にも「軍事行動」の失敗が「陽動作戦」として位置付けた吹田闘争の非暴力性をクローズアップ。行動において「武装」しながら、非暴力闘争で勝利した。党ビューローは旧枚方工廠爆破の結果を確認していたはず ⇒ 吹田デモ行進の役割は反戦独立の示威行動を追及し、警察の弾圧を排除しつつ、無事に解散するか

■コメント■(大野)
1.出会いと連帯
(1)アクター:朝鮮半島の同胞、日米両政府(日帝、米帝、傀儡吉田政権)、日本人、在日朝鮮人、地域の住民・農民


(2)構造としての冷戦体制と朝鮮戦争。戦争へ加担する日本と国内治安強化の連動。

加えて五〇年六月の朝鮮戦争勃発で、在日朝鮮人団体や日本共産党が弾圧され、警察予備隊が国家治安対策を口実に創設された。また、五一年から五二年にかけて日本共産党の軍事闘争が激発して東京メーデー事件、名古屋大須事件、大阪吹田・枚方事件などで自治体警察が攪乱された。五二年七月に破防法が制定され、五四年九月に警察法が改正された。(pp193)


(3)朝鮮半島同胞と日本列島との国際的連帯?

民擁同が準備会結成後次のような運動に取り組んだ。(・・・)四八年以降の世界戦争の不安が深刻化する冷戦体制に反対し平和運動の国際連帯に取り組む。四九年四月に平和擁護に本大会を開催した。世界大会代表派遣は占領軍の反対で旅券が下りず参加できなかった。(pp227)

軍需列車を一時間遅らすと、うちの国の同胞一、〇〇〇名の命が助かると言われたし、実際そうだったんです。現実、住民が寝静まったころを狙って、見計らって、いろいろな爆弾兵器が運ばれたんですね。(中略)それは、列車がこなかったので幸いでしたが、もう、星明りの中に若い青年が並んで、横たわっている姿を見ると・・・・・・(pp353[金時鐘「吹田事件・わが青春のとき」『差別とたたかう文化』No.26、差別とたたかう文化刊行会、2002年からの引用。引用者補足])


(4)朝鮮戦争反対、米軍反対における国内的連帯?
  ⇒占領下・戦争下における被弾圧対象者同士の連帯?運動間の包摂・取り込み?自立か取り込みかの二分法でなく、「連帯」と語られる関係性の内実の思考を。

「お見かけするところ、『朝連』のみなさんと推察いたします。このような日本共産党への弾圧は、朝鮮戦争のアメリカ帝国主義と戦う朝鮮民族への弾圧であります。それを身体で受けとめているあなたたちのその姿に、私たちは勇気づけられるとともに責任を痛感するのであります。今夜の勝利はみなさんと私たちの団結と連帯の勝利であります。」(pp93)

「河北解放統一戦線綱領」(案)(・・・)E朝鮮休戦会談の即時締結、アメ公は日本と朝鮮からすぐ帰れ (・・・)H再軍備に使う税金を払うな、取り返せ I売国傀儡吉田政府打倒 J民族解放、民主政府樹立(pp142−143)

一九五〇年 八月二七日、民対[民族対策部。引用者補足]全国代表者会議を党本部で開き、朴恩哲の情報報告、鄭東文議長で次の事項を決定している。@青年行動隊、祖国防衛隊などを動員して南朝鮮に送る武器弾薬の製造、輸送を中止させる。また軍需品の輸送を妨害し、日本人労働者に朝鮮内乱の真相を伝えて理解させる行動を取る。(pp288)

九月三日、日本共産党臨時指導部は「在日朝鮮人運動について」の指令(四一五号)をだした。(・・・)B党の指導を強化せよ。在日朝鮮人の武器生産、輸送反対闘争は、日本から帝国主義勢力を一掃し、かいらい反動どもの打倒粉砕闘争と一致するので、朝鮮青年行動隊の勇敢な行動性を、党が指導せよ。そのために(・・・)ニ、朝鮮人党員の規律強化と分派について、党臨時中央指導部のもとに、分派活動を粉砕し、党強化のため全力をつくすべきことを全朝鮮人党員に徹底させる。(pp289−290)

一九五一年(・・・)非合法に民戦結成大会が開催された。そこでは、民戦結成準備員会長金薫の情勢報告がなされ、大会宣言、綱領、規約、活動方針が決定された。(・・・)第一に祖国の解放戦線に参加する。また祖国の完全な統一と独立をはかるために、一切の外国軍隊を即時朝鮮から撤退させ、かつ祖国侵略のための日本の再軍備に絶対反対する。
第二に米国と日本政府による基本的人権の侵害と、民族的差別、弾圧と生活権の剥奪の民族的課題に対して闘う対権力闘争を組織する。
第三に米・日反動から朝鮮人民に対して加えられる弾圧は日本自身の問題であり、すなわち日本の独立と平和を破り、日本を戦場にして日本人民を奴隷と悲惨な戦争に駆り立てるものである点を、日本人民に理解させ、共同闘争を組織する。(pp290−291)

石橋駅内はデモ隊の歌声と歓声でうずまった。駅付近には寝間着のままの豊中市民が多数集まり、青年達の話をきいてがんばってくれと激励した。(pp374)


(5)在日朝鮮人と日本人のすれちがい?

閔載寔が保釈出所したのは一九五五年末(月日不明)であった。かれは被告団会議で次のように発言した。「俺たちは工廠に爆弾を仕掛けることに命を賭けたんや。電池の配線の手元が狂えばその場で爆死することも覚悟してたんや。工廠爆破は失敗した。しかし俺らはまちがっていたとは思わん。ここで作られる砲弾で祖国の同胞が殺されるのだ。六全協で日本の同志は自己批判して済むかもしれんが、俺ら朝鮮人の場合はそうはいかんのや」。(pp120)

@日本共産党の「五一年綱領」と「軍事方針」は外国の党(ソ連、中国共産党)から押しつけられた。A朝鮮戦争下の在日朝鮮人運動(民戦)は日本共産党の極左冒険主義に利用された。B在日朝鮮人党員は日本共産党の犠牲になった。わたしは以下の理由でこの見解に同意できない。(・・・)
Aについて、あきらかに運動の実態と相違した見解である。(・・・)「祖防」と「民戦」の戦いは独自の在日朝鮮人運動であって、日本共産党に隷属した運動ではけっしてなかった。指導部が日本共産党の「民対」であったことを指すとしても(・・・)実際には日本共産党とは別の自立した在日朝鮮人指導部であったとみるのが正確である。(pp294−295)


2.コミンフォルム批判⇒所感派/国際派の党内抗争⇒武装闘争路線⇒極左冒険主義としての総括 ソ連・中国との距離の取り方は変更されているのか?

■コメント 終■


◆金時鐘20041027『わが生と詩』岩波書店
「吹田事件・わが青春のとき」pp.119―141(『差別とたたかう文化』No.26、2002年9月所収)
「だから普通の運動意識からしますと、六・二五を記念して反戦・平和のデモを起こす闘いに、その軍需物資輸送を阻害するための活動ですから、身を挺するデモだったわけですから、始めたばかりの学校の大事さを思うと参加してはならない立場の私だったのですが、私たちは心底それを信じていましたし、今でもその信念は揺らいでいません。」(p.126)
「まず一番かなわなかったのは、朝鮮戦争は鉄、金偏(かねへん)ブームと言われました。うちの同胞が一番多い生野区に平野運河というどぶ川、運河がありますが、あんなプツプツとメタンガスが発生するところにですね、うちの同胞たちが腰までつかって川ざらえをしているんですね。あそこは戦争中、ずうっと、挽き物というか、ロクロ工場や同胞の金物工場が運河べりにありましたから、削りくずがたくさん投げ込まれて川底に堆積してあった。それをさらってとるんですね。それが、兵器産業に買い取られていって、また兵器にかわっていくもんなんですね。食うことに追われているとはいえ、承知で同族を殺す側に同族が加わっていたのです。」(p.133)
「在日同胞の亀裂が決定的になったのも、この朝鮮戦争であり・・・」(p.134)
*『新潟』
「休戦協定が成立し、日本がますます平和安定恐慌期に立ち入るに及んで、朝鮮戦争期の私たちは闘いは極左冒険主義という手痛い批判にさらされた。私はこれを認めた。私が極左的であったという過激さにおいてではなく、生命の損傷に差しさわりのない『日本』という安全地帯で勇者であったことの、苦い滑稽さのためにであった。」(p.139「骨片考」)
→済州島から脱出できたことの「後ろめたさ」。

◆吉田四郎19810831「50年分裂から六全協まで―吉田四郎氏に聞く」『運動史研究』8、三一書房
・四全協から五全協
→軍事方針が具体化しない。担当者の能力の問題。
「軍事問題については、いろいろの理解があったと思います。僕らの場合は、要するに第三次世界大戦に発展する、これは必至である、と。ですから日本は抵抗運動をせんといかん、それの軍事組織や、というふうに理解していた。それから決議文を見たら、革命の何やと書いてある。革命て、そんなものおよそ誰でも実感としてわからんかったでしょう。(笑) あくまで抵抗運動という風に僕らは考えていたんです。」(吉田)
「国内でそういう事をしている時に中国では、二千人ほど集めて訓練していた訳です。」(吉田)
「そこへ中核自衛隊と祖防が一体になっていったでしょう。向こうは実際に本国でやっているから激しいですよ。ついつい乗せられるわね。」(吉田)
・伊藤律、神山茂夫、志田重男の除名
→志田派としての除名
・六全協の準備
→54年時に宮本と志田の接触からでは。
「学者や評論家なら別として、政治家としては、ましてや革命家としては、自分の意見が、なぜ実行出来なかったのか、なぜ党内多数の支持をえられなかったのかをまず反省してほしい。六全協後、七回大会、八回大会で大量の人が党から出たけれども、何故本当の党が出来なかったのか、みんな考えないと負け犬の遠ぼえに過ぎないと思う。」(吉田)

◆平野一郎・夫徳秀・西村秀樹・脇田憲一・豊田善次・秋田稔(司会)20020615座談会「吹田事件五十年―朝鮮人の燃える思い」『差別とたたかう文化』No.25、同刊行会編
・「火焔瓶」や「竹槍」というイメージへの反発
→「戦争反対と平和」(夫)
・反戦運動としての「吹田事件」(平野)
・「朝鮮人の燃える気持ち」(夫)

◆文京洙19940515「在日朝鮮人にとっての『国民国家』」『国民国家を問う』歴史学研究会編、青木書店
・在日朝鮮人にとって「悲願」であり「重し」であるところの「国民国家」
・1920年代から本格化する朝鮮人運動
→「階級闘争至上主義」が前景化。1930年代に入ると朝鮮人組織を解消し、全協や共産党などに入ってく。
「こうした『階級』という視点に重きを置く朝鮮人マルキストの原則論は、植民地支配のもとで民族的な自覚を強めつつあった多くの在日朝鮮人の意識からは明らかにかけ離れていたといわねばならない。」(p.208)
→在日朝鮮人大衆の自発的な志向とは結びつかず、「解放」の日を迎える。
・在日朝鮮人二世―「朝鮮人の家」から逃れるための「一視同仁」「内鮮一体」
・戦後、日本政府・占領軍のご都合主義的治安管理制作
・「民族」という価値の絶対性
・1946年総選挙参加表明(朝連)
「日本以外の国民国家への帰属の意志を鮮明にしながらも、なおかつ、特異な歴史的経緯をもつ日本の市民、もしくは住民として、近代的国民国家の主権行為にかかわる『参政権』を求めているのである。」(p.211)
→「自主独立の外国人」(朴慶植)
「朝連や民戦時代の日本社会の変革への参加という路線は、現在では、『在日朝鮮人運動を日本革命に従属させることによって民族的主体性を喪失させ朝鮮の民族民主革命を二次的なものにした』(朴慶植、『解放後在日朝鮮人運動史』)と非難されている。けれども、『火炎瓶闘争』などの極左路線は論外であるにしても、朝連時代の住民・市民としての政治参加という主張は、在日朝鮮人が生み出される歴史的経緯からすれば、それ自体としては首肯しうるものであった。そればかりか、それは、さらに一歩すすんで、この頃、かたちづくられようとしていた東アジアの国民国家体制を相対化しうるような豊かな契機を含むものであったといえるかもしれない。」(p.212)
「そもそも、戦後も日本に残りこの地に定住することになった約六〇万の在日朝鮮人は、そうした国民国家の枠組みには収まりきれない存在であった。問題は、そういう在日朝鮮人が否応なしに抱え込んだ歴史的な可能性に、運動主体そのものが充分に自覚的ではなかった、ということであろう。米占領軍や日本政府が在日朝鮮人の国籍問題をきわめて便宜的かつ御都合主義的に扱ったように、日本共産党や在日朝鮮人の運動主体の側も、在日朝鮮人の存在を、やはり便宜的に、せいぜい革命遂行上の戦術問題の次元で扱っていたに過ぎなかった。」(p.212)
「『一民族一国家』という観念を超えて、国籍を、ある国家領域に生まれ育ったものには当然付与されるべき『権利・義務の束』として理解するような視点は、この当時では、日本人の側にも朝鮮人の側にもなかったといわねばならない。」(p.213)
「在日朝鮮人運動のいわゆる『路線転換』と在日本朝鮮人総連合会(総連)の結成(一九五五年)はこうした『一民族一国家』の理念を一段とおしすすめるものであった。」(p.214)
・「偉大な首領」への従属
→朝鮮人の生活実態から乖離したある種の擬制。「国民国家」相対化の可能性を閉ざす。
「『朝鮮人部落』での共同体的な日常は、伝統社会の安定的で自足的な小宇宙としての共同体のそれとは違って、『民族』という集団意識のたしかな培養基となりえた。そこでは、差別や抑圧にまつわる運命共同体の意識は顕著であり、ナショナリズムは、そうした共同の関係に生き生きとした活力を吹き込んでいた。」(p.215)
・高度経済成長のインパクト
「『高度成長』は総じて在日朝鮮人の生活の質を変え、その歴史感覚や価値観にも大きな変化を引き起こした。」(p.216)
「在日朝鮮人の『民族』にまつわる価値意識や歴史感覚を、それが成り立つ根拠もろとも解体し、風化させたのである。」(p.216)
→新しいタイプの運動や歴史感覚が台頭してくる。「国民国家」という枠組みを超えたより多元的な少数集団の自己主張はまぎれもない世界の趨勢。

◆文京洙19951106「在日朝鮮人にとっての『戦後』」『戦後日本 占領と戦後改革第5巻 過去の清算』岩波書店
・以下の『ほるもん文化』の論考と内容は基本的に同じ。

◆文京洙1996「戦後日本社会と在日朝鮮人 第1回」『ほるもん文化』6、ほるもん文化編集委員会編、新幹社
・1930年代に在日社会の定住性が確立した。
・1946年朝連第3回大会での方針―「帰国の一段落」
→共産党のイニシアティブ。運動の分裂。
・共産党と天皇制
→朝鮮人の認識と発想。

◆文京洙1997「戦後日本社会と在日朝鮮人(2)―日本国籍の喪失」『ほるもん文化』7、ほるもん文化編集委員会編、新幹社
・戦後10年間
日本社会の原点。在日朝鮮人の主体的なあり方を方向付ける。
→「国民」の論理に収斂。
・1952年の国籍の「喪失」
→「解放国民」としての在日朝鮮人にとっての意味。
・戦前の参政権の行使
・戦後の参政権の停止
・「戸籍条項」の誕生
→GHQの追認。占領史のなかでは付随的なもの。
・1947年5月「外国人登録令」
・「選択権プラス送還権」から「回復プラス帰化」
→1952年4月「通達」へ。朝鮮人側にも「強いられた国籍」という捉え方。
「国籍のあり方を固定不変のものとする見方に囚われてはいないだろうか。」(p.220)
・国籍の意義の変化(「臣民」から「市民」)
「私たち在日朝鮮人が国籍上日本人でありながら、なおかつ朝鮮人としてあることの可能性を閉ざしているわけではないわけである。」(p.221)
→より様々な選択肢が在日朝鮮人に開かれているべきだった。

◆文京洙2000「戦後日本社会と在日朝鮮人B―日本共産党と在日朝鮮人」『ほるもん文化』9、ほるもん文化編集委員会編、新幹社
「本国志向か、日本の民主化志向かという論点そのものが意味を失っていった、とみるべきだろう。」(p.196)
「こんなふうに日本共産党の朝鮮人政策が三〇年代前半の方針を引きずっていたのは、三〇年代後半から敗戦にかけての一〇年あまりの間、党の活動がほぼ空白期(もっというと思考停止の仮死状態)にあったことによるものと思われる。」(p.197)
・『日本共産党の七〇年』
*『日本共産党の八〇年』

◆小林知子19961000「戦後における在日朝鮮人と『祖国』―朝鮮戦争期を中心に」『朝鮮史研究会論文集』No.34、緑蔭書房
「すなわち、当時の在日朝鮮人の意識は、状況が変われば朝鮮に帰る、また、状況が変わらない限り簡単には朝鮮には帰れないというものであり、自らの積極的意志で『在日』を選択した、というものではなかった。『仮住まい』的意識のもとでの生活基盤の整備には、日本の地域社会において、当面のよりよい安定した生活を確保していこうという意欲―これは現実的な死活問題でもあった―と、いつかは朝鮮の故郷で暮らしたいという願望とが重なり合っており、こういったアンビヴァレントな意識をそのままに捉えることが、当時の在日朝鮮人の諸行動の源泉を考えるうえで重要である。」(p.17)
・解放後史に関しては資料不足、歴史的検証のないままの証言や回想の利用が行われている。
・文批判(文1994、文1996)
「当時の在日朝鮮人の歴史的状況の把握のなされ方に関しては疑問を感じざるをえない。」(p.18)
・日本に在日朝鮮人が踏みとどまったのは日本での生活に根を深く下ろしていたからか?
→在日朝鮮人の状況を歴史的に検証できていない。
・日本社会へのコミットは「ひとつのナショナリズムであり、統一した『祖国』の実現を願望する行動、国民国家樹立をめざす行動であった。」
・運動主体の責任問題として検証することが妥当か?
→「運動指導論」的観点からのみ当時を論じることはできない。東アジアの再編に伴う冷戦的政治諸力であったことは無視できない。
・日本国籍剥奪の問題は、韓国籍付与問題こそが死活的であった。

*民族解放型のナショナリズムといった観点から検証する必要がある。
「在日朝鮮人は、この日本でどうやって生きぬいていくかという生活防衛的な意識とともに、故郷、『祖国』に対する思いが根底にあったからこそ、さまざまな活動を展開したのである。」(p.40)
・民団、建青の統一派と朝連の統一行動≒民戦
→国際共産主義や反帝国主義運動、冷戦イデオロギーなどから在日朝鮮人の行動を理解することは一面的過ぎる。

◆趙博1989「『左翼』ナショナリズムと在日朝鮮人」『思想』No.786、岩波書店
・階級と民族に揺れた日本人マルキストと在日朝鮮人マルキストの「違い」と通底
・民族差別の階級的性格をこそ問い直す必要
「『民族的対立』を『階級的同化』で《解消》した上で、<三一テーゼ>が定式化されたことは、天皇制を国家の弾圧機構としてのみとらえ、天皇制国家が内包していた民族矛盾と、その融和的性格を見抜くことなく、日本の左翼勢力がブルジョワ民主主義的自由をもうばわれて行く(=ファッショ化)姿を予見させることでもあった。」(p.131)
「つまり、非・日本人、非・日本国民としての在日朝鮮人のあり様は、天皇制国家の合意体系(=全ての臣民の属性を天皇の赤子とすること)を事実として拒否しうるものであったにもかかわらず、戦前においてはそのような形の抵抗を、左翼の側が『ブルジョワ的』『解党的』と規定したことによって公認しなかったのである。」(p.131)
「そして『民族解放』『植民地の独立』という具体的イメージのないままの、つまり、帝国主義という性格の共通性をもつ支配形態が生み出す、具体的性格の異なる各国での民族問題を、『在日朝鮮人』という具体的現実の構成体を通じて自らのうちに対象化することのなかった日本の左翼にとって、この階級解消主義の時代は、次の《戦後》という思想史への前提となってしまったのである。」(p.132)
「極左→民族主義へという転身の図式は、『六全協』『朝鮮総連』ともに共通のものであり、同根の思想を内包していると見るのが妥当である。」(p.135)
→在日朝鮮人・日本人双方のマルクス主義者にとっての問題。
「『全国民』とか『全民族的』とかいうアプローチを試みたことと、極左主義の解消・清算が重なって階級性を喪失した」(p.136)

<そのほか参考文献>
◆警察庁警備局19680101(発行)『戦後主要左翼事件 回想』
「吹田騒擾事件」pp.171―185

<まとめ/論点>(山本)
・占領軍の在日朝鮮人認識の変化(無策→厳しい管理・弾圧へ)
・「軍事行動」「革命運動」ではなく、反戦運動・抵抗運動としての性格
→運動主体(行動を指令した指導部)と権力側の過度な認識
・在日朝鮮人と日本人の温度差と置かれている状況の違い
→運動へのコミットの度合、運動手法への認識の差
・朝鮮人間の差異
→民団と朝連(→民戦)、「アパッチ族」と活動家、一世と二世
・民族と階級―運動のアイデンティティ
→運動概念の錯綜と運動方針の混乱
・国民国家
→形成と相対化の契機として
・日本人、在日朝鮮人コミュニスト・マルクス主義の総括の欠落
→1945年―1955年という「戦後」形成期の捉え返しの意義・意味
         ☆   ☆
・「極左路線」や社会からの「孤立」という指摘は、当時の反占領・朝鮮戦争阻止という課題にアプローチする上での「直接行動」の可能性を閉じ得る議論と言える。
・運動体の方針の非現実さを指摘するより、日本人社会が朝鮮人に対する差別意識を克服できず、「反共」意識を克服できなかったことを問題化していくべきではないか。
・実際に為された行動は戦争機械の回転を躓かせるのに有効性を持っていた。ただ、運動方針の形成過程や実際の行動の出現形態を見たときその可能性が十分開花していたとは言い難い。
・「市民権」「共生」というかたちで進む日本人と在日朝鮮人の関係性は、「階級」が強調された反動として「民族」が台頭した経緯を振り返ることなく、なし崩し的にナイーブな「市民社会」論に突入しつつあるのではないか。
・「国民国家相対化」論は上記のナイーブさを抱えている。

<研究課題>
・元共産党員の在日朝鮮人の聞き取り
・地方レベルにおける共産党の運動方針の推移
(それぞれ京都のレベルで)


製作:大野光明(立命館大学大学院先端総合学術研究科)・山本崇記(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
UP:20050816 Rev:20051031,0821,1012 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0403wk.htm

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