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山下力『被差別部落のわが半生』平凡社

山下力 20041110『被差別部落のわが半生』平凡社 ISBN:4582852513  [amazon][bk1]

目次
はじめに
第一章 記憶と意識
第二章 流浪と邂逅
第三章 差別と糾弾
第四章 教育と責任
第五章 米と肉
第六章 言葉と倫理

あとがき



はじめに


第一章 記憶と意識
最初の記憶
父の苦労

二人にサミット
「被差別部落ということについては、父に限らず、部落内でそのことをきちんと話し合うという空気はまったくなかった。「部落って何や」と聞いても、「大きくなったらわかる」というふうに逃げる。そしてひたすら「出身を隠せ」という一点張りだった。」(14頁)

青々中学野球部キャプテン
「部落解放運動は八十年以上続いてきたけれど、部落とは何か、部落差別とは何かということを明らかにした考え方も文章も何もなかった。「部落差別のない世の中を創ろう」と言うだけで、その実態をきちんと客観的に把握していなかったのだ。」(19頁)

登校拒否
何で怒っとんの?
ブラジリアの夢

部落民とユダヤ人
「私だってそうやって徹底的に隠せば、部落民という証拠は何もない。だから、部落民とは何かと問われれば、自分が部落民であることを認め、それを引き受けているものが部落民だ、というぐらいしか答えようがない。」(29頁)

ポケットに石


第二章 流浪と邂逅
浪人下宿
女の気持ち
東工大入学
ギャンブルと酒の日々
大当たり
釜画崎、飯場、そしてムラヘ
差別糾弾にシビれる

妻の強烈な批判
「私にとって部落問題と真正面から取り組むことイコール「糾弾活動」だった。私は差別に対する怒りを糾弾の場で思いっきり表現し、それが正しいことだと仲間たちにも説いた。許しがたい差別を告発することから、まず始まるのだ。出発点は差別に対する人間としての限りない憤りであり、差別的な言動を犯した人にとっては、自らの言動がどんなに人を傷つけているかということを五感で感じてもらうことだと考えていた。差別される側の深い怒りや悲しみや痛みを直接実感してもらうところからしか話は始まらないと、私は信じて疑わなかった。」(52頁)

「糾弾が怒りや憤りだけに終始しては、もちろんいけない。差別された者の怒りや憤りを突きつけたときに、突き付けられた側がどう対応するのかというのが肝心なのである。」(53頁)

「私自身のことを考えてみても、小さいときから在日朝鮮人・韓国人に対する差別的な意識をいつの間にか植え付けられてきた。私はそういう差別意識は持っていないと思っていたのだが、在日朝鮮人・韓国人の友人たちと話しているうちに、彼らに厳しく指弾されて初めて気が付いたのである。」(53頁)

「つまり糾弾する側のはずの私が、しばしば糾弾されても仕方のないような言動をしているのである。そしてそれは、厳しく糾弾されないとわからないのだ。自分は差別などしないと思い込んでいる人がほとんどだから、やんわりと指摘する程度では決して納得しない。人間としての憤りを思い切りぶつけられて初めて気付くのだ。」(54頁)

映画「橋のない川」上映阻止闘争
解同上但馬支部結成
最後の勝負
荊冠旗ひるがえる
ムラの産業
村営住宅入居騒動
弟・山下博己の死
赤きバラ夏日に散りて


第三章 差別と糾弾
部落内外の生活実態格差
「私の兄も妻の父親もグローブ屋だが、二人とも一昨年でやめた。二人ともそろそろリタイアする年齢でもあったのだが、それを決意したのはミズノが一昨年から、すべてのグローブ生産を中国をはじめとする外国でやるという方針を決めたことが大きかった。」(74頁)

消えぬ差別意識
「こうした経緯があって部落内外の生活実態格差は年々小さくなり、最近はほとんどなくなったと言ってもいい。にもかかわらず、部落差別意識は消えていない。これが問題なのである。」(76−77頁)

「私は、無理してカムアウトしなくてもいいと考えている。」(78頁)

糾弾請負業からの撤退
「差別を受けても「黙って我慢した」という人の多さに驚かされた以上に、私がその調査結果に大きなショックを受けたことがあった。部落差別を受けた部落民のうちで、「運動団体に相談した」人の割合がわずかに四・五パーセントしかなかったという事実である。」(79頁)

「大騒ぎはするけれども、告発した人や告発された人たちの心のヒダに寄り添って心の傷を癒すような営みを、私たちはきちんとやってこなかったのではないか。」(79頁)

「そのような反省が主な動機となって、わが奈良県部落解放同盟支部連合会は、二〇〇一年四月二十二日の第四十二回定期大会において、原則として「差別糾弾の請負業」から撤退することに決定した。」(80頁)

人は誰でも差別したり差別されたりする
「わが部落解放同盟の一九八四年綱領の冒頭に、「全国に散在する六千部落三百万人の部落民は、前近代社会から今日に至るもなお階級的搾取とその政治的支配の手段である身分差別によって屈辱と貧困の中で呻吟させられている」という文言がある。
 よく考えてみれば奇妙なことである。全国水平社の創立から六十年が経過し、運動と組織が最高に高揚していると自画自賛していたはずの時期に、肝心の部落民が「屈辱と貧困の中で呻吟させられている」とすれば、一体われら運動体はこの間何をしてきたのか、ということにならないだろうか。
 「差別糾弾闘争を行政闘争に転化・発展させよう!」という倒錯したスローガンのもとに「被差別の立場」や「被害者意識」を誇張・拡大してモノやカネを引き出してきたわが同盟の「第二期」の運動の欺瞞が、このままこの綱領の欺瞞であろう。
 灘本昌久氏(京都産業大学)の「個々の差別事件は同和事業の必要性を明らかにする証拠物件の役割りにとどまってきたのではないか」という指摘は、悔しいけれども当たっていると言わざるを得ない。」(81−82頁)

八木一男と佐藤栄作
バカ言っちゃいかん!
山川戦争

失われた十年
「「同和対策事業特別措置法」は十年間の時限立法として制定されたので、本来なら一九七九年に終わるはずだったが、まず三年間期限を延長した。三年後の八二年には「地域改善対策特別措置法」と名前を変えて五年間延長、八七年に今度は「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」というやたらに長い名前の法律に変えて五年間延長した。
 さらに九二年に同法を一部改正して五年間延長、九七年に同法は基本的に失効するが、「激変緩和措置」と認められた事業については五年間延長され、二〇〇二年三月、ようやく完全に失効するわけである。
 結局この法律は何回か名前を変えながら制定以来三十三年間行き続け、この間約十五兆円という厖大な公費が関連の事業に投入された。」(94−95頁)

「今になって考えると、最初の特措法が時限立法としての十年間の期限が切れる七九年あたりまでには、部落内外の生活実態格差は事実上ほとんど解消されていたと私は思う。」(95頁)

「一九八〇年ぐらいからのわれら運動体が取り組んできたことは、やや乱暴な言い方をすれば、特措法の延長を繰り返し要求することだけであったと言っても過言ではない。」(95−96頁)

「そういう意味でも私たちはあのとき、部落というバリアを自分たちで取り除き、広く中小零細企業、商店、年金受給者、母子家庭、病者や「障害者」、外国人労働者といった社会的弱者たちと手をたずさえて、一緒に「自由と平等、基本的人権」を求める大きな闘いに着手すべきだったが、そうはならなかった。」(96頁)

特措法という魔法の杖
「蹉跌の原因の一つは、無責任で気楽な運動を保障してくれた「答申」「特措法」という魔法の杖を手放したくない人々が多すぎたことにあった。魔法の杖は部落解放への道の地ならしのためのものだったはずだ。しかし、地ならしが終わって次の肯定に入るべき状況になっても、まだ地ならしは終わっていないと強弁し、使い心地のいい魔法の杖を手放さなかったのである。」(98頁)

奈良トヨタ『日本の部落』購入事件
「戦術としての「糾弾」は、一九八〇年代の半ばぐらいまでは間違いなく有効で正しかったと私は思っている。」(98頁)

「そのときに私たちの武器になるのは、一九五一年に京都で起こった「雑誌『オール・ロマンス』差別事件」への取り組みの際に、後に第三代部落解放同盟執行委員長になる朝田善之助が取った手法と考え方である。」(103頁)

「行政責任を追求するについては、次に挙げるような、朝田氏と京都の学者たちが提起した「三つの命題」理論が不可欠である。
 1 部落差別の本質は、差別によって部落民が市民的権利、とりわけ就職の機会均等を不当に侵害されてきたことにある。
 2 部落差別の存在意義(存在意義があるから存在するのである)は、経済的には、人々をして自分たちよりも貧しい集落・貧しい人々が近くに存在していることによって、あんなところに生まれなくて良かった、ああいうところには移り住みたくないと思わしめるために(沈め石論)、また政治的には、部落民と一般勤労大衆とを対立させるために(分割支配)、旧来の被差別部落を残しておく必要があるのだ。
 3 人々は部落に対する脅迫観念や偏見を、いつ誰から教わったかわからないままに、まるで空気を吸うように身に付けていく。
 この「三つの命題」理論は私が部落解放運動に飛び込み、糾弾闘争に明け暮れた一九七〇年代にイヤというほど頭に叩き込まれたもので、要するに社会意識としての差別観念を身に付けてきたことを差別者に認めさせるのが肝心なのである。」(103−104頁)

赤レンガ差別事件

揺れる「正しい知識と認識」
「お互いに「差別し差別される人間」として話し合い、お互いの違いを了解し合い、出来ればお互いに差別を乗り越えるような方向にもっていきたいと考えるのである。」(109頁)

「カムアウト」すべきか
「私は、部落差別から解き放たれるというのはどういうことかと言えば、部落民であることの劣等感を全く持たず、そのことについて堂々と普通に言えることだと思っていて、オレ自身は今は完全に解放されたと自信を持って言える。」(113頁)

これからの運動体の役割


第四章 教育と責任
私の娘のケース
同和教育

起こされて、何すんねん?
「ところが「起こされて、何すんねん?」という問いに対して、私たちの側が鮮明に設計図を示すことが出来ない。内外の格差がはっきりしていた時代は、まだ「何をするか」は明確だったが、格差がほとんどなくなるにつれて、われわれ自身の展望が不鮮明になった。」(128頁)

能力別学級編成の試み
母・雪の話
妻・初美の絵心


第五章 米と肉
肉食タブーと被差別民の発生
食物と天皇・差別
 →1872年「御岳行者皇居侵入事件」
厳しい貧困と差別は明治から
 →1871年8月28日「賤称廃止令」
「解放令によって部落の人々は法律の建て前上は平民になり、どこに住んでも、どんな仕事をしても、誰と結婚してもいいことになったわけだが、現実には、農民や町民より二年遅れて平民身分になったことから「新平民」と呼ばれたり、住む集落は「細民部落」や「特殊部落」と呼ばれるなどして、むしろ江戸時代よりも陰湿で過酷な差別を受けることになったのである。」(159頁)

真の国際化とは
日本人のおそまつな人権感覚
中曽根・梶山発言
朝鮮・韓国(人)との関係
シビアな関係
アイヌの人たちへの人権侵害
月ヶ瀬村女子中学生殺人事件


第六章 言葉と倫理
語るべき言葉―全国水平社の系譜
「私の言葉はほとんど一方通行だった。彼らはただ嵐の過ぎ去るのをじっと首をすくめて黙って待っているだけだった。彼らが自分の言葉で語ることは、まず、なかった。対話してこその言葉である。こちらから発しても、返ってこない言葉は、むなしい。私は徐々に釈然としないものを感じた。」(193頁)

三分さん
「私自身のすぐ近くでもそういうことが起きた。かつて澄んだ目をして部落解放運動に力いっぱい取り組んでいた仲間が、ゼニカネへの欲望にとりつかれ、その目がまたたく間に濁っていくのを見るのは、辛くて哀しい、そして腹立たしいことだった。」(194頁)

「彼らのような人たちの利権獲得のために、結果的に私たちの糾弾活動が役立っているのかもしれないということに思い至ったとき、水平社以来の古典的な糾弾という手法は、場合によってかなり問題があると思った。」(196頁)

「差別用語」の自己規制と糾弾の行き過ぎ
「例えば「エタ」という言葉を考えてみても、誰かが私に直接「おい、このエタ!」と罵ったとすれば、明らかに差別発言である。直接でなくても、「あいつはエタやで。気ぃつけえや」というのも差別発言だ。しかし作家が自分の作品の中で被差別部落のことを描写するときに同じセリフを使っても、差別を増幅するのでない限り、全く問題はない。もし「エタ」という言葉が悪いからと別の言葉に書き換えたとすれば、「おい、このエタ!」と罵られた部落民のショックや痛みがきちんと伝わないから、むしろ書き換えないほうがいいのである。言葉を発する側に、差別的な意志があるかどうかがポイントなのだ。その原則をしっかりと押さえないと、話はややこしくなるばかりである。」(198−199頁)

部落差別は特別なものではない
「つまり「差別」は、生まれつきの能力・性質であるから、目の前に安易に優越感を得やすいもの(人)が存在すれば、相手が何であれまるでダボハゼのように見境なく食いついて差別したがるというのが、人間のようなのだ。実に正鵠を射た指摘である。そう考えると、部落民に対する差別は決して特別のものではないことがよくわかる。部落民や在日韓国・朝鮮人など、変な言い方だが歴史的社会的に差別対象として「知名度」の高い集団や個人に対して差別がなされやすいということはあるかもしれないが、本質的には世の中に流布するもろもろの差別と同じことなのである。」(203頁)
 →柴谷篤弘

組織名変更
「一九九三年の「山川戦争」以来、奈良県には二つの「部落解放同盟奈良県連合会」が存在し、川口、山下と二人の委員長が存在するようになった。
 二〇〇一年四月の第四十二回解同奈良県連大会において、私たちは「六五答申」路線のみならず、全国水平社以来の基本路線をも根本から見直すという画期的な基調報告を明らかにしたが、同時に組織名を「奈良県部落解放同盟支部連合会」に変更した。
 なぜあえて名前を変えたかといえば、部落解放運動も国政同様「中央集権」が行き過ぎて、その弊害がひどくなっていると考えたからである。運動体も地域地域の実情に合わせてキメの細かい「地方分権」的な運動が必要なのだ。各「支部」での地域活動こそが最も大事だという考え方を強く打ち出したいと思ったのである。私は実は「部落解放同盟」という名前も変えてもいいと思っていた。」(206−207頁)

シゲやんとの最後の「乾杯!」


あとがき



製作:山本崇記(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
UP:20050318 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0411yt.htm

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