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『「つきあい」の戦後史――サークル・ネットワークの拓く地平』

天野 正子 20050401 吉川弘文館 286,6p.


■天野正子 20050401 『「つきあい」の戦後史―サークル・ネットワークの拓く地平』,吉川弘文館 286,6p. ISBN-10: 4642079408 ISBN-13: 9784642079402 2940 [amazon][kinokuniya]

■内容(「BOOK」データベースより)
戦後の歴史的空間が生んだサークルとネットワーク。メンバーの自由な「つきあい」から、教育、反戦、アジア、女性など多様な主題と取り組み、時代への深い問いかけをしてきた。その軌跡を追い、共同性の新しい形を探る。

■著者紹介
天野正子[アマノマサコ]
1938年広島県に生まれる。1973東京教育大学(現・筑波大学)大学院文学研究科博士課程中退。東京女学館大学国際教養学部教授。

■目次
はしがき
序章 「つきあい」が思想をつむぐ
 1 小集団のもつ意味
 2 「つきあい」は何を生み出すか
 3 つきあいとコミュニケーション
 4 どんな小集団をとりあげるか
 5 時期区分の基準
I 「助け合い」と文化が結ぶ―第一期 サークル揺籃期(一九四五〜五四年)―
 1 敗戦の刻印―第一期のサークル見取り図
 2 群れて生きる―受難の体現者「パンパン」
 3 動けぬつきあいと「ぐるみ闘争」―炭住の主婦会
 4 つきあいが学校を創る―鎌倉アカデミアと京都人文学園
 5 はだしの研究者たちのつきあい―民科「婦人問題研究会」
 6 家族のサークル化―『たいます』
 7 もう一つの家族サークル―「筑豊文庫」
 8 秘密がつなぐつきあい―中井正一と山代巴の地域文化運動
 9 書くことをめぐるつきあい―「生活をつづる会」と「緑の会」
  (1)自己教育の世界
  (2)存在の表現―「生活をつづる会」
  (3)投稿者・読者・編集者を結ぶ人生雑誌サークル―「緑の会」
II 「危機」意識と「異質性」が結ぶつきあい―第二期 サークル開花期(一九五五〜六四年)―
 1 高度成長期の刻印―第二期のサークル見取り図
 2 「まちのすみ」から世界へ―「杉の子会」
 3 語るものをもちすぎたもののつきあい―「原水禁広島母の会」
 4 女性読者のジャーナリズム参加―「希交会」と「草の実会」
  (1)『レイテ新聞』から「ひととき」欄へ
  (2)「お手伝いさん」のジレンマ―「希交会」
  (3)話し合いと行動の間―草の実会
 5 差異を交流の契機へ
  (1)共有と占有の間―『サークル村』と『無名通信』
  (2)差異と持続―山脈の会
  (3)土着と離脱―エミールの会
  (4)「つきあい」の質を問う―仲間の自死とむきあう「『坂ちか子の歩み』刊行委員会」
III 終焉と出発―第三期 つきあいの多元化へ(一九六五〜七四年)―
 1 ポスト高度成長期の刻印―第三期のサークル見取り図
 2 「記憶」を軸としたつきあい
  (1)シベリア抑留者のつきあい―アンガラ会
  (2)シングル化時代の先駆け―独身婦人連盟
 3 アジアへの視線―アジア女性交流史研究会
 4 ライフスタイルを変える「百姓」ネットワーク―「健全な農産物をつくる会」
 5 「さまざまな」リブのつきあい方式
終章 もうひとつのプロローグ―脱力型サークルの時代へ

主要参考・引用文献
あとがき―「わたしとは人びとのつきあいの総和である」
索引


はしがき
「ここでいうサークルは、メンバーの自発性に支えられた小集団として、メンバーが互いの表情を見分けることのできる対面型の相互行為の場(「つきあい」)であり、拘束のゆるい非定型的な集まりをさしている。」(p3)
・歴史的な見取り図を、既成の制度やシステムの側からではなく、生活者の側から描いてみたい
→『「生活者」とはだれか:自律的市民像の系譜』(中公新書、1996年)
「サークルやネットワークは、親密でミクロな関係でも国家・地球社会とのマクロな関係でもなく、その中間に、いわば自他が身体をもった存在としてまみえる生の現場に、協同して小さな公共空間を創出していく営みである。」(p4)
「いま、人びとはつきあい一般を強く否定しているかにみえる。」(p5)
・「動けぬつきあい」と「動けるつきあい」
・サークル内部の「危機」
「近代的合理性を垂直に断ち切るところに成り立つ『動けるつきあい』が成熟していくためには、自他の相互行為の『プロセス』が必要とされる。」(p5)
→「近代的合理性を垂直に断ち切る」とは?

■序章 「つきあい」が思想をつむぐ
1 小集団のもつ意味
・「中間集団」としての小集団―選択縁・対面型
・サークルに集まる契機やそこで取り組んだ課題や社会への問いかけが何であったのかを「内側」から問う。
→「内側」とは、目的意識的な課題におくのでなく、サークルの活力の源泉である自然発生的な「つきあい」におくことを意味している。

対象期間:1945年の敗戦から1970年代半ばまで
<理由>
1.サークルにとって「戦争」が終わった時代としての「戦後」が重要な意味を持っている。
2.戦中やポスト高度成長期以上に日本社会の姿が大きく変化していくこの時期に、人びとのつながりの多様性がみえてくる。
3.この時期以降、次第に人びとが集まる個人的契機や社会的契機、つきあいの輪郭が不透明となり、サークルの実体が見えにくくなっていく。

「サークルの成り立ちの基盤にあるのは「つきあい」である。」(p2)
「『人に会う』ことから共通の関心や課題が生み出されてくるのだというべきかもしれない。」(p2)

「歴史の巨大な流れのなかにおけば、『泡沫』にも似たサークルをとりあげ、それを通して人びとの思想表現をとらえようとするのは、ひとつには、それら一つひとつが、現実との葛藤の過程で生まれてくる庶民の言語化できない沈黙や疑問、願望や欲求の千姿万態を映し出しているのではないかと思われるからである。」(p3)
→谷川雁「日本文明の病識」
・この営みを通して
1.時代のオピニオンリーダーたちの思想の稜線を連ねる形で書かれた「正統的」な論壇史、運動史、学問史とは異なる方向で、「もう一つの」思想史、それも日常思想史の道筋を跡づけることができるのではないか。
2.集まってくる人びとの心の底に埋もれている共同性への願望を掘り起こすことができるのではないか。
3.人びとの創造的なつきあい、停滞的なつきあいとはどんなものであるかを解く手がかりを手に入れることができるのではないか。

・「選べる縁」―集団参加がメンバー自身の自発的な選択にもとづく(「柔らかい縁」)
⇔地縁、血縁、社縁(「硬い縁」)
・戦前と戦後
→サークルの要素としての自発性は程度の問題。日本共産党との深い関係。参加者の選択性・自発性を重要なものとみる「戦後型」サークルの特徴の形成は1950年代以降。

・サークルとネットワーク
70年代後半からの使用、80年代以降に定着した「ネットワーク」
→「場」の共有という点ではより流動的、つながりのイメージは「リゾーム」。上からのネットワーキング、これまでの既存組織や運動体からの脱出と新たな可能性、社会的な分析ツールの発展などの文脈。
「その意味で『サークルからネットワークへ』と、言葉の上ではたしかに分節化している。しかし、サークルがネットワークへと段階論的に進歩したり発展していったわけでなく、当事者の担い手が両者のいずれを自称するかに関わっている点を見落としてはならないだろう。」(p6)

2 「つきあい」は何を生み出すか
・サークルの原型の一つとしての「講集団」
・差異
「『わたし』に固執しながら、『わたし』に閉じることなく、主体としての『わたし』の転生をはかっていく、『わたしとわたしたち』『個と共同性』の発想といってよいだろう。」(p8、鹿野2004より)
・つきあいが成熟するためには「時間」が必要―効率を求めないところにつきあいは成り立つ(「動くコミュニティ」)
・「動けるつきあい」と「動けないつきあい」
表1(p10を参照)
「戦後社会における近代化とは、おおまかにいえば『選べない縁』から『選べる縁』へ、『動けぬつきあい』から『動けるつきあい』への移行過程であったといってよい。」(p11)
→深いところで「動けぬつきあい」的心性に規定はされているが。

3 つきあいとコミュニケーション
・これまでのサークル研究―「大状況」との関わりを重視
「つきあいのもつ情緒的側面は、強い意思の確認や集団の目的志向性にとってむしろ否定的に働くものとして、小集団の周辺的な営みとして位置づけられてきた。」(p12)
→果たして、これまでの研究の問題点を克服する議論を天野はなしえるか?
・サークルにおけるメンバー間の相互作用
1.身体性の解放―サークル論=身体論
2.思想の共有性―「自我」の共同主観化
3.日常性の論理形成―暮らしの思想の形成基盤
4.思想の可変性―サークル論=コミュニケーション論
→「サークルがそこに集う人びとにあたえる自由な感覚の源泉は、こうした相互性のなかにある。」(p14)
・サークルには「何ができないのか」
社会変革を実現していく実践運動(鶴見俊輔)。
⇔「抵抗」としての側面。
「仲間との相互作用の過程で新しい意味を創造し、日常世界の当たり前を疑い、主体としてメンバーそれ自身の態度をつくりかえる」(p14)
→間接的に歴史の方向性に確かな影響をあたえようとするもの(バーガー)

4 どんな小集団をとりあげるか
・分類―図1(p15)―目的志向性と親睦性の大小
・できる限り性格の異なるサークル、人と人を結ぶ多様な結合方式を取り上げる
・その時代の刻印を強く持った典型的なサークルと、そこから逸脱したより強い自発性に支えられたサークルを取り上げる
・価値の序列をつけず、共同的営為として等しく位置づけ、共通の関心をよせる。
・「実体」としてだけ扱わない。
・ジェンダーアプローチの重視
(→『フェミニズムのイズムを超えて 女たちの時代経験』岩波書店、1997年)
「公と私の中間に、自らの実存の深みにふだんは閉ざされている表現を開放し、個人として自由に交流できる意識空間や行動空間をつくることが、女性にとっては男性に比べてより切実な必要性をもっていたのである。」(pp17−18)
<理由>
1.「天下国家」がらみの目的志向に傾斜した男だけの集まりがもつ偏りを避けることができる。
2.男性が中心となるサークルにありがちな、他者(≒女性)を排除したり周辺化したりすることのない「もう一つの関係」性の可能性をさぐることができる。
3.これまでのサークル研究の偏りを修正し、女性を独立のサークルメンバーやネットワーカーとして位置づけ、歴史過程に参画する主体としてとらえ直すことが可能である。
4.70年に始まる日本の「リブ」(第二派フェミニズム)を、外来フェミニズムの輸入や啓蒙としてではなく、サークルやネットワークを通して戦後二十年をくぐり抜けてきた女性たちのつきあいの伝統の文脈のなかでとらえ直すことができるかもしれない。

5 時期区分の基準
・栗原彬「民衆による自治」に関する四つの区分(*「普通の人びと」の区分は適当か?)
→目的志向型の運動集団については確かにあてはまるが、サークルには当てはまらない。
・バラバラな個人がゆるやかに結びついた内部に「分裂」を含みこんだ存在であり、ひとりひとりのなかで「国民」「市民」「住民」を分けることはできない(*本当にそうか?)
・大沢真一郎の時期区分を援用
→「時代の課題」を特徴にした基準
第一期(1945〜54年):サークルの揺籃期―新しい戦後意識の模索(第T章)
敗戦を契機とした生への強烈な欲求の解放が生んだ、助け合いと戦後意識の模索を主題として担ったサークルの次代
第二期(1955〜64年):サークルの開花期―消費型サークルと非消費型サークル(第U章)
「経済の季節」における戦後型サークルの全盛期―ジェンダーの視点も登場
第三期(1965〜74年):サークルの変容と主題の多元化(第V章)
「生活」価値、「市民」や「住民」を新たな主体とするサークルが登場。男性中心のサークル運動が沈静化、女性たちによる80年代のネットワーキングの時代へ向かう。
*この区分は有効か?

・限界
取り上げているサークルは氷山の一角。データの制約からくる恣意性。始まりと終わりが定かでない。分析的というより、「博物学」的・記述的であることなど。

■I 「助け合い」と「文化」が結ぶ―第一期 サークル揺籃期(一九四五〜五四年)―
1 敗戦の刻印―第一期のサークル見取り図

2 群れて生きる―受難の体現者「パンパン」
・敗戦直後の相互扶助という共同体的な原理が呼び戻される
・群れはサークルの原初的なかたちといってよい
→敗戦と占領、生活苦
・生きるために群れをつくらねばならなかったのは、なによりもこうした女性だった。
・ラクチョウ(有楽町)―白百合会、ノガミ(上野)は血桜組
「戦後空間を特徴づける原初的なサークルであり、それはまた、家族・学校・職場という「旧」中間集団からしめ出され排除された人びとのつくる新しい中間集団でもあった。」(p30)
・「助けることで助けられる」互酬の原理、ナワバリという公権力に対する結束
「彼女らが過去を断ち切ったところで開き直って生きることを可能にしたのが、ナワバリというサークル的なつながりだった。そこにはひとり一人が「弱い」から群れるという、集団づくりの原初的な姿がある。」(pp30―31)
・「ラクチョウお時」
・社会構造、性規範・女性観を問題にする視点までは存在しなかった。
・戦後小説に描かれるパンパン―「概ね明朗快活な」
→陽気にふるまわねば性を売ることに耐えられなかったというのが現実
「戦後の闇の暗さと美しさの双方をもっともよく知っていたのは『受難』を引き受けたものとしての彼女らであったにちがいない。その意味で、街ごとにつくられたパンパンの群れは、この時代を鮮明に映し出す助け合いサークルの典型例の一つといえるだろう。」(p33)

3 動けぬつきあいと「ぐるみ闘争」―炭住の主婦会
「この時期の特徴である「助け合い」を求めて自発的に生まれたサークルが、上部団体の支配下にたちまち組み込まれていく過程を端的にみることができる。」(p33)
・主婦たちの非公式な助け合いのための集まりから生れたものが多い
→共同水道のまわり、女性たちの雑談の場・つきあいの場
・炭坑婦人主婦連絡協議会(52年9月結成)―全国で30万人。
・「後ろから支える」妻たちにも光を当てていく、ぐるみ闘争の時代。
・居住地と生活・労働空間を同じくする「動けぬつきあい」から生まれた共同性と結束が大きな役割を果たしていた。
・妻たちは主婦という肩書をつけ、男性の公認のもとに、参加した。
・労組と男性から認められ与えられた自己実現の場であることに「しあわせな」幻想を抱いていた。
・生活と労働が密接に結びついた「社宅」という居住空間が生んだ「動けぬつきあい」の象徴的な事例。
・主婦を返上する道を指し示すことはできなかった。
→フェミニズムからの批判。しかし、彼女たちは独自の活動の場を広げていった。
「そこには男の争議への『丸ごと』の従属というだけではとれえ切れない、女性たちの生活世界のたしかな広がりがあった。ぐるみ闘争の経験は、暮らしを通して女性たちの主体形成の一助となったのである。リブ以前の女性たちの運動をどう評価していくのかは、少なくともそれを複眼でとらえる方法論が必要とされるだろう。」(p36)
・「動けぬつきあい」はその後「組合」から「会社」に置き換わり、家族と企業の新たな関係として再編されていく。

4 つきあいが学校を創る―鎌倉アカデミアと京都人文学園
・鎌倉アカデミア(46年春開校)、京都人文学園(46年6月開校)
「今でも『伝説の大学』『野散の大学』として語り継がれそれらの学校は、学校といっても国家による資格認定とは無縁の教育空間であり、それゆえに教育のユートピアとして自由自在に構想され、またユートピアであるがゆえに数年にして廃校という結末をむかえることになる。しかし、学ぶ場とサークル性、学校とつきあいの場とのかかわりを考えるとき、戦後が生んだこうした教育ユートピアの実験は示唆的である。」(p38)
・啓蒙主義の時代―教える側と学ぶ側とが立場を交換していくダイナミクス
→サークル的人間関係
・「雑多性」「非専業性」「境界破壊性」
・楽しみにあふれた精神はサークル的な学びの場だからこそ可能だった。
・『学園新聞』(京都人文学園)でのフェミニズム論争。
→いいかえれば動けぬつきあい的心性に身をゆだねる時代がやってくる。
・学校のサークル化
→教育ユートピアの消滅。その基底にあったサークル的つきあいの可能性は、「近代の出口」を探る実験として「自主講座・公害原論」(70年4月)や「茅ヶ崎自由大学」(79年)などのかたちで呼び戻される。
「現在の公教育や学校が『サークル』にまで高められる必要性のあることを示唆している。」(p46)

<論点>(山本)
・思想の科学研究会編『共同研究 集団 サークルの戦後思想史』(平凡社、1976年)からどのような点で発展した議論か。
→時期区分や分類の援用について。
・天野の問題意識は実証されているか。
→参考にしている資料の問題。
・サークル全盛期の前史である戦後直後や高度成長期前のサークルが「サークル」と言えるのかどうか。

5 はだしの研究者たちのつきあい――民科「婦人問題研究会」
▼「裏通り」文化の発掘
自由な学問・研究を軸とするつきあい
・自由懇話会(1945年10月発足)・『近代文学』同人(46年1月創刊)・民主主義科学者協会(=民科、46年1月発足)・思想の科学研究会(46年5月発足)
……「悔恨共同体」を基礎にしていた+「普通の人びと」のための学問をめざす

▼「学問と人生」への同時出発
民科・婦人問題研究会 1949年頃〜 発起人:三井礼子 研究テーマ:女性史・労働婦人・農村婦人問題など
男性の歴史学研究者の仕事から / 男性の学問業績をより高く評価……「内なる家父長=天皇制」
解放への気負い / 「科学的」マルクス主義の普遍性・体系性・批判性に酔う
51年、民科の組織的危機 → 婦人問題研究会が部会へ昇格

▼空白の女性史
男性研究者の仕事や既成の歴史学を批判的に乗りこえる本格的な共同研究を志向
男性研究者によって見落とされたり、研究するに値しないとみなされてきた主題群を扱う
民科のなかで、婦人問題研究部会は「女」の集団として一定の自律性を保つ
but 部会に昇格したとたん共産党のフラクション活動の場として利用される
  民科全体の動きや女性運動の内部分裂と無縁ではいられなかった
それでも、◇「断種的発想」が薄かった、◇「空白の女性史」のページを埋めようというメンバーひとり一人の「使命意識」(ミッション・イデー)が存在した、ため、危機をくぐりぬけることができた。

57年民科解散後、婦人問題研究部会は女性史研究会と改名、68年までインフォーマルな形で活動
『現代婦人運動史年表』(1963年)――最大の成果
「はだしの研究者」
「民科の解体後も研究会が持続しえたのは、それがいわば素人の、学界や大学とは関係のない、それぞれに自分なりにテーマを追う、情熱だけをよりどころにした女性たちのつきあいの場であったことと無縁ではないだろう」(p.53)

6 家族のサークル化――『たいまつ』
▼紙上でのつきあい
敗戦直後の数年間:文化発信という点で「地域」が力をもっていた例外的な時期
代表的なものがローカルの新聞
1948年2月、秋田県横田市で発刊されたローカル新聞『たいまつ』(〜78年)
紙上のサークル / サークルとしての家族
発行者むのたけじ(武野武治):報知新聞→朝日新聞社社会部 「私的アジア」への関心
「評伝毛沢東」

▼「パソコミ」の可能性
地域のなかでジャーナリストとしての責任を全うする意志
マス・コミュニケーションへの対抗的コミュニケーションを創りだす
むのの主観に強く彩られた世界を映す新聞 = 受け手の方も積極的な参加を求められるパーソナル・メディア = 書き手と読み手による激しい交流が前提
「『たいまつ』という新聞紙名には、それぞれが自分の身辺で出会う小さな出来事(ローカル)の時代的意義と、それが国や世界の動き(グローバル)にどう連動していくのかを問いながら自分の足元を照らしだす「自前」の「明かり」をつくろうという願いがこめられていた。それは、今でいう、「グローカル」の方向といってよいだろう」(p.56)
読者の約6割が農民 / 読者の5割、広告主の9割が保守層
「パソコミ」(パーソナル・コミュニケーション)
自宅をフリースペースに
紙上サークル、雑談サークルと日常的つきあいが渾然と一体化した地点から

▼妻の力と「補足の精神」史
もう一つのサークルとしての家族
ある文化目標(……家族のそれぞれが戦後社会の現実に目をこらす「仲間」になること)を家族が共有
家族のサークル化という一つの実験
奉仕するものとしての「妻の力」を前提とした、「夫婦一心共同体」

7 もう一つの家族サークル――「筑豊文庫」
▼坑夫長屋の一角から
「筑豊文庫」の主宰者、上野英信を「陰で支え」る妻、晴子
「筑豊文庫の主人公は英信というより、むしろ晴子自身なのではないか」(p.61)

▼絶望と居直り
「こうした夫への「絶望」と、「絶望」に裏打ちされた一種の「居直り」が、晴子を生活する主体的な戦略者、いいかえればもう一人の政治執行者として新たに誕生させる」(p.63)
晴子:奉仕者への道を半ば強いられ、半ば主体的に選び取った

▼「妻の力」のパラドックス
「男性社会それ自体を突き放して対象化し、それによって歪められない自らの生をかたちづくるだけのさめた目を鍛えあげた晴子」(p.64)
「英信との間で「これほど苦しみながら、嘆きながら」、いつしか晴子が身につけてきた人間をみつめる「複眼」と、すべての現象を「冷静に多層的にみる」技法こそが、筑豊文庫を生きながらえさせたのである」(p.64)
◎「たしかにそこで発揮された「妻の力」は、彼女らが強く内面化しているジェンダー規範の発現にすぎないようにみえる。しかし、現象的には「内助」という名の屈従にみえるなかで、二人の女性は心情的に、そして結果的に「妻」をこえて、ローカル新聞『たいまつ』やサークル「筑豊文庫」という、社会的に開かれた場で仕事をしたのである。実際の女性の生の軌跡は、単純なジェンダー規範の解放路線にはとうてい収まりきらぬ複雑さと多様性、そして陰影をもっている。「妻の力」「女の力」は、現実の生活との格闘における、社会規範の拘束性と内発性という異なるベクトルのダイナミズムのもとに解釈されるべきである。 / そこでは家族もまた、一つの「夢」を追う共同体として新たに選び直され、ひとつのサークルとして存在していたのだという面を見落とすことはできない」(p.65)

8 秘密がつなぐつきあい――中井正一と山代巴の地域文化運動
▼抵抗は句友とのつきあいから
地域における文化運動
中井正一が1945年10月から尾道の図書館を舞台に始めた農村文化運動
「集団的実践」=サークル的な社会空間を通して

▼動く「委員会の論理」
「委員会の論理」(1936年):
 ・「動く論理」――人間の実践を通じて
 ・集団的実践――構成メンバーの対等性と開かれた関係 → 実質の伴う集団的思考
 ……「時代と対峙しつつ、人間として生きる論理ともいうべき開かれた関係性の自覚化、集団的思考の方法やそれを可能にする集団の組み方を精密に描いた作品」(p.68)

尾道市図書館や広島県文化協会を中心に展開した集団的実践:
 実践を媒介に「市民糾合を支える市民委員会の論理」のさらなる発展を意図

三つの方法論:(1)人びとの共同経験から生まれる言葉=「土俗的な言語」を使う (2)講演に双方向的なコミュニケーション・スタイル=サークル性を取り入れる (3)「日本」や「日本人論」を論じるとき、自己を含む集団の問題としてしか考えられない形で提示する
中井独自の実践哲学:「農民自身が自らの内部に抱えている病根を知り、内面の痛みを恐れずに立ち向かうことなしには、自分を変えていくすべはない」(p.69)

▼「たった一つしかない窓」批判
中井 → 山代巴の女のサークルづくりに影響を与えた
山代:「日常生活の内側から「人権の折り目」を畳み込むような活動をしたい」(pp.69-70)
共産党・日本農民組合の運動とは一定の距離
「山代の農村文化活動は単なる農村の生活民主化をこえてすすんだ」(p.70)――被爆者の手記作成

▼「秘密話」の民話化
1950年、自主グループ「タンポポ」 → 60年前後「みちづれ」(広島県東部一帯の読書サークル)に合流
「なによりも農家の女性が「家族的な権力の全く外で秘密の守れるグループをもつこと」、「選べる縁」「動けるつきあい」をもつことの必要性」(p.71)
山代の方法論:「農村の女性サークルはなによりも、女性の沈黙の領域を深くさぐり、その底に潜むものを自力で明るみに引き出さねばならない」(p.72) → 独自の方法論の開拓

個別の女性たちの秘密話の民話化・再話化 = 新しい民話の創出
 ……「複数の人びとがホンネに近い心情をさらけ合うつきあいの中から創出される、民話化という形をとった集団創造(集団創作)」(p.72)

「彼女は農民の一人として、「民話を生む人々」の内側に入り込み、自分に突き刺さった体験に呼応するものとして秘密話の民話化を試みたのである」(p.74)

=======[特徴・傾向](村上)=================
◇女性役割の再評価
 ……限定された立場性自体はそのままに(それがフェミニズム的には批判の対象となり、ジェンダー論ではそこしか論じる対象にならないところではあるが)、その立場性の中において、心情が内発され、それに基づいて「自主的選択」を行なう「主体性」が起ちあがり表出してくる過程、を天野は重視。
◇共産党系組織から距離を置いていることを無前提に評価の基準としてはいないか? 表には出てこないが、共産党系組織の中にある「女性」の葛藤も考慮の対象となって然るべきものではある。

9 書くことをめぐるつきあい――「生活をつづる会」と「緑の会」
(1) 自己教育の世界

▼アタマとカラダの分離
生活を記録すること=おとなの生活綴り方
戦後の生活綴り方の実践第一号:無着成恭『山びこ学校』(1951年)
生活記録:戦後「すぐ」ではなく、しばらくしてから注目される
 ――逆コース  「上滑り」の戦後民主主義の限界に気づき始める
   観念(アタマ)と身体(カラダ)のバランスをはかる
『山びこ学校』:生活を「書く」という行為が、自己を含む集団の問題としてより以外には考えられないような形で扱われている――「戦後的な近代方式」への批判的な視点

▼生活記録の実践
『葦』−「葦会」(1949年):無名の若い男女が投稿者でもあり、同時に読者でもある人生記録雑誌
1951年、『人生手帖』−「緑の会」支部
50年代中頃、「生活を記録する会」:三重県四日市市の東亜紡織泊工場で働く女性たち(女工)中心、『母の歴史』 ……書くという行為がそれを書く人自身にとって自己教育の場であり、「自己改造」の過程
50年前後からわずか数年の間に、無数の生活記録の実践

(2) 存在の表現――「生活をつづる会」
▼活字以前の世界
東京・江戸川区平井町  1950年前後、「生活会」:生活上の利益を土台とした主婦の集まり → 「生活をつづる会」(1951年発足)へ合流
「生活をつづる会」:鶴見和子(生活記録運動の研究者)を中心、駒尺喜美、望月寿美子(「声なき声」)、須田はるえ(「山脈の会」)ら
「書かれるものの前に語られるものがあり、その前に経験されるものの総体、さらにはその前に存在するものの総体があ」る(鶴見俊輔)(p.77)
「生活を「書く」という営みは、「考える」という作業を伴う。その「考える」という行為は主婦を、「わたしは、こう思う」と「わたし」を省略しないでいえる「もう一人」の自分に育てあげる。そこから周囲と区別された「自己」が意識されてくる。主婦にとって、その意識された「自己」こそが「近代」という名にふさわしいものであったろう」(p.77)

▼「真実」と「虚構」の間
「生活を「ありのままに書く」ことは、当然、メンバーと所属集団との間に、さまざまな摩擦や葛藤を引き起こす」(p.78)
ありのままに書くという「理想」を貫くことは、きわめて困難 → 生活記録に虚構が入ってくるのも止むをえないとする、サークルの柔らかい綱領
「重要なのは虚構が含まれているかどうかより、虚構を含めた「自分」との対話の深さである」(p.78)

▼モノローグからダイアローグへ
メンバー同士の内側の問題:
・書ける人、書けない人、書こうとしない人との関係
 ……メンバーそれぞれの方法がありうる(書かない表現法、生活の身ぶりよる、あるいはメンバーの存在そのものによる表現法)
・リーダー鶴見和子と他のメンバーとの関係
 ……率直な声 つきあいの深まり

鶴見の、「文体論」としての生活記録サークル論:
文体における「モノローグ」性から「ダイアローグ性」への移行
・モノローグ:自己満足、現状からの逃避
・ダイアローグ:自分自身がお仕着せの概念や表現方式から解放される、「概念くだき」
 「そこには、自分にむかっていく方向と他者にむかっていく方向との交差や往復運動があった」(p.81)

「生活記録サークルは、大衆の一人ひとりが沈黙することをやめ、実生活の流れのなかに消えていく自分の生活を取り出し、みつめ、対象化することで、「知識人」とは異なる自らの生活思想の自立の方向を、「大衆の大衆たる威厳」を模索する営みだったのである」(p.81)

(3) 投稿者・読者・編集者を結ぶ人生雑誌サークル――「緑の会」
▼第三の若者
『人生手帖』(1952年):十代の青少年たちによる人生記録雑誌
誌面のほとんどが読者からの投稿  56年には7万部に
49年発刊『葦』(山本茂美を中心)が母胎
編集者・大和岩雄−寺島文夫(文理書院)
人生雑誌:「第三の若者」層が、「何ものかを求めて」読む雑誌
1955年:人生雑誌のピークに達した年
『葦』投稿者・読者:22歳以下の青年、「地方」居住、非ホワイトカラー =「地方勤労青年」
都市と農村の生活と意識の格差

▼役割モデルの「尊徳」
寺島文夫の思想:生活と実践の統一、尊徳主義と毛沢東主義の無矛盾的統一

▼連帯の儀式
『葦』:読者による「葦会」の全国的な支部結成、「葦会宣言」(1951年)
『人生手帖』を中心とした読者の組織化:「緑の会」
「緑の会は、編集者主導で誕生した例外的なサークルなのであり、その性格を考えるうえで、会内部のメンバーの相互行為だけでなく、編集者とメンバーの相互関係が重要になる」(p.85)
緑の会のメンバーを結びつけるもの:「苦労」という体験縁、苦労縁
儀礼:緑の会の宣言である「緑のちかい」を会員一同で朗読する ――会員の仲間としての帰属意識を確かめ強める役割
「緑のちかい」:「山びこ学校」(49年)の「六つの誓い」がモデル
緑の会、55年前後の時点で、支部数が全国で1000以上にも及ぶ爆発的な発展
「「葦会宣言」の基調音が、ソトに向かっての行動にあるのと対照的に、「緑のちかい」はウチに向かう個人の生活の確立をめざすものであり、それは他ならぬ寺島の哲学に基礎をおくものであった」(p.87)

▼「苦労」縁
「戦後がまだ終わっていなかった50年代半ばの『人生手帖』は、生活のなかに自分の生きている時代の姿と意味を模索する「まじめな(スクエアな)」青年たちのニーズを的確にとらえ、緑の会はそれを正当化し、さらに増幅する役割を果たしていた。投稿者=読者と編集者、サークルと雑誌との一体化がそこにはあった。企業や労組の目を盗んで参加する青少年もあり、私的な心情吐露や主観的な慰めあいだけに終わらない、実感に支えられた体制批判もあったのである」(p.89)

50年代後半、カゼあたりが強まる  「アカ」呼ばわり

▼すすむ『人生手帖』離れ
58年、熱田区緑の会第二期
「経済の高度成長が急ピッチですすんだこの時期は、余暇社会の始まりの時期でもあった。……生活の苦労という体験縁や、生活の苦しさに基礎をおいた人生への問いかけを通して、若者たちが結びついた時代は終わろうとしていた」(p.90)

『人生手帖』の編集内容:「いかに生きるか」→「ハウ・ツー」
「生真面目」なタイプの会員との距離をしだいに広げていく
「そのなかで当初の「自分たちのつくる自分たちの雑誌」という、『人生手帖』との一体感は急速に薄れ、緑の会は『人生手帖』から相対的な独立性をもつようになっていく」(p.90)

▼歌って踊って、「ハウツー」重視へ
62年、安保闘争後、「緑の会」熱田支部の第三期
緑の会の『人生手帖』離れが一段とすすむ  『人生手帖』に占める投稿原稿の比重は急速に減少  発行部数は2〜3万部にまで落ち、いちじるしい不振状態  「豊かに」なり始めた若者たち  彼らのニーズを的確にとらえきれない
「こうして緑の会の活動の中心は、『人生手帖』をテーマに話し合い、投稿し、学習するという求心的・内向的な活動から、「歌って踊ってハイキング」という遠心的・外向的な活動へと移っていった。それは生活のなかに直線的に快楽を求め始めた、新しい世代の若者たちのニーズをとらえるものであり、緑の会内部のつきあいの質は大きく変わり始めていた」(p.91)

▼人生手帖から健康手帖化へ
こうした傾向は、「一九五五年の六全協、さらには安保闘争以降、「歌って踊って」急速な動員力を示した「民青」に象徴されるように、広くこの時期の日本の若者サークル全般、つきあいかた全般にみられた現象であった」(p.93)
cf. この時期、親睦会「若い根っこの会」が会員を着実に増やす
72年頃から『人生手帖』の健康手帖化
緑の会の話し合いでも、いかに健康な生活を送るかの知恵の交換が主流に
「人生論から生活技術論へ、そして健康論へ。『人生手帖』のいわば『健康手帖』化にはおどろくほど直截に、日本の経済成長の過程にみあった生活の変転が映し出されているのである」(p.93)
73年頃、復活のきざし:石油危機とモノ不足 → 節約と耐久ムード  高度経済成長の終焉、物価狂乱と悪性インフレ、尊徳主義が再び現代的意味をもちうるかも……
74年、『人生手帖』→『健康ファミリー』
緑の会支部:最盛期1000超 → 70年代初頭200足らず

■II 「危機」意識と「異質性」が結ぶつきあい―第二期 サークル開花期(一九五五〜六四年)―
1 高度成長期の刻印―第二期のサークル見取り図

・運動のピークであり、停滞とマンネリ化の危機を孕んだ1955年・第二期
→これらにどう向き合っていたのか?

2 「まちのすみ」から世界へ―「杉の子会」
・杉並区公民館長の安井郁をリーダーに、社会科学書をテキストとした地域の主婦中心の読書会としてスタート。
→「戦争をふせぎ平和を守るため」―安井の戦時期の自分に対する自己批判から
「そうした安井を招いて発足した杉の子会に四〇歳代を中心に主婦二四人が集まったのは、個人差はあれ、この世代に共通した戦争体験と、そこから生まれた『冷戦』の現実への危機意識があったためとみてよい。」(p.100)
・『新しい社会』を読み進めている最中、54年のビキニ水爆実験・第五福竜丸被爆
→学習から行動へ―原水爆禁止のための署名運動を開始。ただ単にテキストを受け身で読むのではなく、自らの戦争体験をふまえて日常生活を点検し、日本の社会や政治、生活のゆくえに結びつけて読み返すという、サークル的読書方式。
・この時期は、マルクス主義理論の影響が強いが、日常生活を根底から破壊した戦争の記憶から出発し、「学習」から「行動」へという活動の展開をごく自然に実現した杉の子会は、例外的なケース。
・杉の子会から始まった原水禁運動
→既存の運動論からは批判された署名運動というスタイルの拡がり
・世界の市民との繋がり
・1963年原水禁大会での分裂。対立のなかで杉の小会は1964年4月機関紙『杉の子』11号をもって事実上終止符。原水協理事長・安井郁と命運をともにした、杉並区の中流階級の「奥様方の集まり」(長岡弘芳)。
→その精神は少数のメンバーに引き継がれ継承されていく―ラッセル平和財団・草の実会・平和問題研究グループ

3 語るものをもちすぎたもののつきあい―「原水禁広島母の会」
・1959年第5回原水禁世界大会後に結成。
→戦後の復興のなかで取り残された被爆市民の姿に自分自身を重ね合わせ、その姿に「あまりにも早く裏切られた戦後の平和」への怒りと抗議を読み取った。
・1961年6月機関紙『ひろしまの河』創刊。
→占領期の詩作活動という下地。
・63年の内紛―他の多くの団体やサークルと違って、この会は分裂にまで追いこまれなかった。
→メンバーの日常的なつきあいと被爆者たちの願いを裏切ることはできなかったから。
・熱心な購読者
「『ひろしまの河』のメンバーたちは、自分の思想や主義にこだわって、自腹をきって購入してくれる被爆者の『平和への希求』を裏切ることはできなかった。サークルの共同性は、無名の被爆者である、このひとりの購読者の身の処し方のなかに表現されている。」(p.110)
・1967年8月15号を最後に長い休刊―被爆者であるメンバーたちの沈黙
→語るべきあまりにも多くのものをもちすぎたための沈黙。
「体験のないものにはわからない」―被爆者と非被爆者との溝。
・「被爆者」から「加害者」への転換―封じられた声を解き放つ/74年7月の復刊一号
→軍都としての広島―「アジア」を通して複眼的に「ヒロシマ」を読み直していく試みは、この破られた沈黙のうえに明確な輪郭を結んでいく。

4 女性読者のジャーナリズム参加―「希交会」と「草の実会」
(1)『レイテ新聞』から「ひととき」欄へ

・新聞への投書、投稿を通したジャーナリズム参加。
→全国紙が「書く」場を提供。家電化時代に女性たちが家庭の外にでるゆとりが生まれる。
「投稿欄を契機にした女性サークルの出現は、『時代の方向』と戦争体験をもつ女性たちの志向とが、この時期に大きく重なりあっていたことの象徴とみることができる。」(p.113)
・戦後、全国紙初の女性投書欄―『朝日新聞』の「ひととき」(51年10月→55年1月全社的な企画に)
・生みの親・影山三郎
めざめている女性がおおぜいるという前提からの出発
レイテ島特派員→捕虜、壁新聞『レイテ新聞』の創刊(1946年1月)
→最高でも八部、読者は一時五万人、一部あたりの読者六二五〇人、46年11月までに36号。
「ひととき欄創設には、どんな状況のなかであれ『熱心な読者は表現したいことをいっぱいもっている』という、そうした影山の壁新聞発行の経験があったことは間違いない。」(p.114)

・「ひととき」から生まれた二つのサークル―「希交会」と「草の実会」

(2)「お手伝いさん」のジレンマ―「希交会」
・1954年の夏「薮入り」の日、有楽町・朝日新聞の会議室で誕生
・誕生のきっかけ―「女中さん」のおてるさんの投稿
→98名の「女中」による会が誕生
「『家庭という一つ屋根の下において雇用―被雇用の関係』におかれた、家事使用人である『女中』のサークル(希交会)が、家内管理者の『主婦』サークル(草の実会)と同様に投書欄『ひととき』を母体に誕生したというのは、いかにも『選べる縁』としての戦後的な状況といってよいだろう。」(p.116)
→高度成長期以降、「女中」は消えていく。その寸前に登場したサークル。
・「女中による女中のための会」は希交会が初めて。会員数400名、支部もあり、活動にも幅。
・『あさつゆ』の発行(54年8月・1号〜72年10月・102号)
「発足時の希交会を支えていたのは、なによりも苦しい仕事や現実を忘れて、ほんのひととき仲間と話し合うことの喜びであった。話し手・聞き手の双方の『苦労』という体験縁で結ばれたサークルであったことがわかる。」(p.118)
・投稿を通じて結成された地方出身の若い人たちの苦労縁で結ばれたサークル
→人生雑誌の誌友会(『葦』・『人生手帖』)
・近代的職業への転進、近代的労使関係の要求へと「女中」という職業の自立へと向かう
→仲間との話し合いの過程でまず脱力し、「女中」という仕事を対象化することで辿りついた「女中である私」への自己肯定。そこから、他の職業への転進や労働条件の改善へ向かう。人生雑誌の投稿者にはない特徴。
・「お手伝いさん」
「女中」という呼称の差別性を回避するための「お手伝いさん」―希交会が提案。
→「女中」という言葉や職業が消えても変わらぬ女性が担い手という理由から低い価値を与えられる家事労働やパート労働の実態を見えにくくするという内部からの批判。

(3)話し合いと行動の間―草の実会
・1955年、草の実会結成。
→共通の戦争体験と、そこから生まれた冷戦の現状への鋭い「危機意識」
・発足時は、同じ女性たちが共通の戦争体験をもとに結ばれあうことの「喜び」が原動力。
・「明るい社会をめざして」というスローガン
「戦後民主主義」という「世論の風潮」との一致、活字親和型の主婦たちの「調和と進歩」へのバラ色の期待。
→「中産階級上層に傾斜した中産階級的な気分の支配」という評価。
・幹部中心でない新しい井戸端会議―組織作りの足取りはヨタヨタした危ういもの
「強力な組織づくりや統一された意思決定には適さないこの方式が、他の多くの既存組織が陥った政党や上部団体の指揮下におかれることを免れさせ、草の実会のその後の持続を約束する。」(p.123)
・「隣にすわったひとりの人間のつながり」を重視。地域別のグループづくり。
・地域グループの例会が自体がひとつの井戸端会議、つきあいの場。
・グループ内の親睦を深めていくことに力が注がれた。
・戦争という原体験を基礎にして、これも自己の体験に関わる日常世界のさまざまな問題をとりあげることによって、新しい井戸端会議としてのつきあいが進展。
・1958年頃から新たな契機―一連の政治問題(警職法、勤評、小選挙区制、砂川判決、日米安保)
→「単なるおしゃべりの会に終わらせたくない」―東京グループと地方グループの差異が表面化。地方の草の実グループは、ムラ状況があるなかでは、これまでの学習や話し合いに留まる。都市型の主婦のグループ活動としての性格を草の実会が強めるのはこの頃から。
・「安保」の衝撃
少数意見を考慮し「国会での強行採決反対、民主主義を守れ」という一点で会としての意見を表明し、統一デモに参加。
→安保体制それ自体への批判ができないはがゆさから脱会・「井戸端会議」の枠を超えるゆきすぎた行動という批判から脱会(安保後には1500人から1000人に)。
・「安保」を通じた草の実会のあいまいさの一部を取り去り、性格を明確化させることに。
脱政治化した「ひととき」欄への批判→マスコミをも批判の対象にしていく。
会員は固定化、退会入会の動きもみだって少なくなる→「安保」を通じて体験の重みを大切にする会員が残る。
「話し合い」主義に対する深い疑問→日常生活の内部に食い込んでくる「政治」に対処する手がかりを与えてくれないのではないか。
・二つの方向
1.「政治」に結びつく具体的な学習課題を設定する
「地域の中のベトナム戦争」
2.「一五日デモ」
70年2月からスタート(2004年・104回まで続く)
→新たな分裂の契機―「動く人」「動けぬ人」「動かぬ人」の区分が生まれ始めていた。会員の戦争体験の汲み取り方や「政治」問題の認識の仕方、会への期待、生活条件や家族関係などさまざまな要因に規定されている。
・戦前期の良妻賢母教育をうけた中流階級の主婦が多数派を占める会員のなかには、妻や母、主婦としての役割をおろそかにしたくないという思いが根強い。
・老人問題研究会
「老後の生き方の理想が『愛される老人(=自己主張しない老人)』におかれてきた日本社会への、一つの挑戦でもあった。」(p.133)
「『幸せ』の総和自体を大きくしようとすれば、問題意識は一つ屋根の下の嫁姑関係の枠をはみだして家庭の外へと向かっていく。」(p.133)
→十分な保障をあたえようとしとしない国家の体質に求めていく。老後のあり方と反戦との内的な連関をも見出す。
・70年代に入ると、自分の住んでいる地域へとむけていく―「小金井老人問題研究会」
→「リハビリ相談」や「訪問リハビリ」の実現。『子や孫に伝えたい戦争の体験』の発刊。
・2004年4月、50年の活動に終止符。

5 差異を交流の契機へ
(1)共有と占有の空間――『サークル村』と『無名通信』

▼方向感覚として「下降する」
『サークル村』九州中心(谷川雁、上野英信、木村日出男、森崎和江、石牟礼道子、中村きい子、河野信子)
鶴見俊輔「戦後サークル運動の到達点」
*「炭坑」が多い地域性
→戦後帰国できなかった朝鮮人や中国人、沖縄出身者が多数流れ込み、底辺労働者を形成
(a)(谷川)坑道の地圧を受けながら下へ「降りていく」経験
→底辺労働者の無声の声を表現することにより、意識に埋もれる共同体思考の解放を目指した
(b)(森崎)朝鮮に生まれ、戦後、植民地支配を自分の内側から見据えることから始める
→「女をであることとは何か」を表現することに希望をもつ
→男尊女卑が根付く九州で、女たちがもっとも元気な炭坑地帯で「降りていく」

▼「引き裂かれる」感覚
(a)「さらに深く集団の意味を」(『サークル村』創立宣言)
→「村」:日本的なニュアンス。外国からの輸入理論によってしか労働者を見ない共産党に対する批判
→「日本の労働者は農民であり…内側に眠っている共同体の破片と記憶をめざめさせ…共同体の基礎に」
→戦後啓蒙的な明るく健康な場としてのサークル観への疑問。日本文明の病識を決定する場所
(b)男と女の関係:発刊当初から「労働者と農民」「知識人と民衆」「中央と地方」と同じ地平に
→労働と生活を共有する場で徹底的に干渉しあい、内的な矛盾を克服した後に生まれる相互依存の関係
→キーワードは「コミットメント」
(マルクス主義的な女性解放論:労働者階級の解放⇒女性の解放)
*労働の民主化政策:「婦人労働の保護」→女性の坑内労働禁止
→妻の労働する場所は家庭となったが、夫はそれを労働とは認めなかった

▼『無名通信』の出発
*表現されない無名の女たちの思い、語ろうとすればすべての言葉に「男のしるし」が刻み込まれている
→『無名通信』:『サークル村』の外に生きる女たちの文字や言葉にならぬ世界に下降していった
(編集部:江藤田鶴子、梶塚田鶴子、中間美代子、中本晶子、森崎和江)
→「工作者」:文字の書けない会員の代わりに文字化
*「書く」よりも「会う」、「話し合う」よりも「聴きあう」ことに重心。家族、職場、地域の経験を重視
→「聞き書き」:語られた内容よりも、いかに相手の声になりうるか。他者の体験を自分の生活体験と呼応させ、共同経験として蘇らせていく場となった。

▼共同創造の場
*伝承や聞き書きという方法論は、「女の自立」や「男と女」の関係性に対する近代的原理を断ち切っていく視点を打ち出した
→それまでの女性サークルに対する見方を転換させた
(a)妻、主婦、処女など、男に定義された女の役割を拒絶し、それらを返上する道を探ろうとした。
→「家族ぐるみ」闘争という形で労組が女たちにあたえた自己表現の場が、実は「主婦」という肩書きによる、男公認の闘いや連帯にすぎないことに対する批判(『無名通信』宣言、1959)
→「無名」:他者による定義を拒否し、女を自己規定する無名性においてはじめて、それぞれが固有性を獲得するという逆説
(b)政党や組合が最重要視する階級概念に「女の本来性」を対置し、女性の解放を階級闘争に隷属させてきた運動に転換を迫った
(c)共同創造の場としてサークルの可能性を探った
→内部の繊細なものへの感受性をとぎすますことを重視
*共産党や労組との関係が問題
→孤立した女性による内部結束=閉鎖性 ⇒やがて解散

(2)差異と持続――山脈の会
▼「北の白鳥、西の雁」
「山脈の会」:私の生きる現場を根気よく掘り起こして記録
特徴:(a)「地方」や「辺境」を自分の現場=局地=中央とみなす
   (b)異質性や差異性の対立、交流をつきあいの原理とする
   (c)女性のメンバーが生き生きとしている
   (d)半世紀をこえて続いている
白鳥邦夫−アメリカ流民主主義やソ連流社会革命になじめず、屈折した心情をもつ
→当時のメンバーはみなもと少年ファシスト

▼底辺体験の発掘
(1950〜56−休止)
*四つのグループ
(a)戦中派グループ(白鳥が長野で一緒)、(b)戦後派グループ(秋田の白鳥の教え子)
(c)友人グループ(東京で白鳥と供に大学生活)、(d)その他バラバラ
*戦争体験の継承をめぐって、世代間で論争
→戦後責任をめぐる戦争体験という主題を追及
(山脈の会の唯一の綱領「日本の底辺の生活と思想を掘り起こして、それを記録」)

▼「山脈」の語録
*「君は君の足元を掘れ、俺は俺の足元を掘る」
→二重の意味:(a)掘れば掘るほど差異が明確になり連帯不可能な部分が現れるという悲観的な部分
       (b)掘っていればそのうち共通の地下水脈を掘り当てるという明るさ
*「持続こそ美徳である」
(a)ゆっくりと持続:号を重ねない。毎年全国集会を開かない。テーマの新しさを無駄に追求しない。
(b)決まりのようなものをあえて作らない:会員一人一人が自分の中に決まりを持つ
(c)誌代の負担も運営も、不平等に負担:出せる人が出す、出せなければ出さなくてもよい
(d)各地の山脈の会が、ある時期は休んでいても別の時期に動いていれば、連合体の形をした山脈は細々と持続していく

▼「やまのみの会」と酒の効用
*つきあいの方式
(a)手紙によるパーソナルコミュニケーション:網の目のように複合的に交流
(b)会誌の「会員の消息」欄など
(c)神田の喫茶店、居酒屋:地方から上京してくる会員のたまり場
(d)飲酒:全国集会では、各地から持ち寄った酒を、好みの場所で自分のスタイルとペースで飲む。

▼病気持ちと〈東京やまなみ〉
*60年安保の時期にあったサークルは消滅 →都会のリズムに合わせたため
→再興後、持続を守る:会員に病気持ちが多く、入退院を経験したものが少なくない。

▼記録と行動の往復運動
*須田春江:「無知の責任」という視点から日本社会に対して発言、記録
特徴:直接話法。私が私の生活に即して私の考え方に責任をとっていく →2001年老人ホームに
*塚本輝子
62年上京、夫と個人誌『ぬかるみ』(65〜94)を発行
→男と女の関係学にこだわる夫に対して、アメーバのようにぬかるみをスルスル這い出すことをめざす
72年相模原で「ただの市民が戦車を止める会」参加 →「基地の町の熱い夏」『東京やまなみ』24号、1972
77年以降、議会に生活者の代理人を送る運動にかかわる
⇒行動を丹念に記録して次のステップへつなげていく、行動と記録の往復運動を繰り返す

▼「男性リーダー」と両性具有性
*山脈の会や東京やまなみの女性の生活リズムにやさしい気風
→白鳥邦夫のパーソナリティによる
*サークル活動の第一期、第二期を通して、男性のリーダーや助言者をもつ女性サークル、男女混合サークルが少なくなかった
→リーダーが男性であることに疑問を抱いていなかった
⇒ひそやかな抵抗:男性であっても「無性=中性=両性具有性」か、むしろ女性性に傾斜しているタイプ

(3)土着と離脱――エミールの会
▼戦略としてのシンボル「子ども」――山川和美の場合
エミールの会:保守と革新の立場にはさまれた二人のリーダーが、地域の古い体質や行政もまきこみながら新しい地域文化を実らそうとしたサークル。
→ルソーの『エミール』を読むことを通じて、子どもの幸せとは何かを考える
*戦後のPTA活動、婦人学級:家事と育児に専心する良妻賢母型の女性を家の外に出す役割
→地域的な選挙区の利害に結びつきやすい
*子どもというシンボル:母の活動を正当化
(a)山川和美:背が高くやせ型。旧制高女卒。会社員の夫と息子。
活動の場となった大田区は55年から新住民が流入し、地付きの住民との間に緊張関係を生んでいた
*教師の勤務評定反対運動(58年)
→PTAから追い出され、「草の実会」「太田子どもを守る会」で活動
→地元の保守派の有力者が牛耳るPTAの体質に対する批判は、革新的サークルで受け入れたれた。
→再びPTAを変えることで教育現場の変革を
*エミールの会発足
子どもに過剰に関心を抱くことで、自分の存在を確認せざるをえない母親の状況
→「アカの集まり」という中傷に対して、大田区公認の婦人学級自主グループにすることでのりきる
⇒行政と正面から対立する図式を取らず、むしろ積極的に利用していく戦略
難解とされる古典を十数年読み続けた自信が、地域活動家への成長を準備した。

▼「古くてなぜ悪い?」――桜本栄の場合
(b)桜本栄:背が低くふくよか型。農村出身、学歴不明。工員の夫と息子。
PTA役員をつとめる。
→息子の登校拒否に会い、一度サークルを脱退。後に復帰
→離れるのも、戻るのも自由という気風

▼行政の「鬼っ子」
山川は婦人学級を足場に活動を進め、行政内部で変革を目指す活動を展開
→行政の鬼っ子となることで地域と結びつき、「進歩的」といわれるサークルの限界をこえるねらい
桜本は、同じ地域なのだからいずれ気持ちが通じるという心情を元に活動
→桜本をもう一人のリーダーとすることで、会の幅が広がった。
⇒異なる二人が所属したエミールの会は、古さと新しさが渦巻く地域の現実にどう向き合うかを追求した
⇒母としての役割をシンボルとして最大限に利用した点で、強い現実感覚にあふれていた

(4)「つきあい」の質を問う――仲間の自死と向き合う「『坂ちか子の歩み』刊行委員会」
▼「坂ちか子」との出会い
*58年、女性サークル「いずみの会」(名古屋)に参加
→幼児問題研究会のメンバーに、自宅を開放
*64〜65年、藤の花保育園の母の会会長 →保母の解雇問題
→園が閉鎖された後、公園の片隅で青空保育園をひらく
*68年10月23日、次男とともに自殺

▼「異常な死」
*「『坂ちか子の歩み』刊行委員会」
典型的な母子心中としてメディアで語られることに反対 →結成
→坂ちか子に対する批判
*60年代の母親をめぐる状況
一方で過保護、教育ママ、もう一方で「子殺し子捨て」母、「母性喪失」、「子どもを私物化する母」など。
⇒子育てと家事教育の担い手として「完璧」であることが要求され、ジャーナリズムに定着しつつあった

▼「親しさ」とは何か
坂ちか子の歩みを跡づける作業の中で、メンバーの中にちか子を受け止めることが出来なかったことに後悔
→サークルの中の親しさとは何か?という問い

▼「主婦」サークルの限界
*坂ちか子が直面した問題を、主婦サークルの体質が持つ問題として読みかえ
→60年安保以降、行動範囲を狭めていった「いずみの会」
→坂ちか子を死に追いやった、内なる主婦性とどこまでむきあうか。

■III 終焉と出発――第三期 つきあいの多元化へ(一九六五〜七四年)
1 ポスト高度成長期の刻印――第三期のサークル見取り図

「日本経済が高度成長への途をひたすら走り始めた一九六〇年代半ばからとその終焉のときまでの、「明暗」を含むこの時期、社会が追い求めてきた物質的価値への反省とそれに代わる価値の模索という、時代に固有の主題にとりくむサークルが数多く誕生した。後半になると、「サークル」を避け、「グループ」やネットワークを自称する小集団が増え始めたのもこの時代である」(p.181)
60年〜70年代:日本人の階層意識が急速に「中流」へと収斂
戦争を記憶し再現しようとする集まりが多数登場
戦友会の多くが60年代前半〜65年をピークに設立
再集団化集団――所属縁/体験縁

ベ平連:1960年代後半に生まれ70年代に定着し始めた、わが国の「新しい社会運動」の第一号
・「新しい社会運動」の新しさ
(1)運動の主体が労組や労働者ではなく、マイノリティや青年、女性など、高度産業社会の周辺部に位置する人びとである、(2)運動の争点が労働運動に典型的にみられるような生産点の問題ではなく、環境や人権、平和など生活のなかの一つひとつの問題ごとの解決をめざすシングルイッシュー型の運動であり、「アイデンティティ」「自主管理」「自己決定」などがそのキーワードである、(3)運動の組織方法が一握りのリーダー層によって統率されるヒエラルヒー型組織ではなく、一人ひとりの自発性と共通の価値観でヨコにつながっていくネットワーク型(ネットワーキング)であるという三点で、従来型の社会運動との間に一線を画している点 (pp.183-184)
各種住民運動、反公害運動、フェミニズム運動、在日朝鮮人差別反対運動など
 ……ゆるやかなつながり方  サークルよりもネットワークに近い
「「豊かな社会」と中流意識は人びとの関心を私生活に集中させる反面で、人びとを「私」の権利に敏感にさせ、それを侵害しようとする力への抵抗を生み出す」(p.184)
73年には約3000の住民運動
「自らが慣れ親しみ自明視してきた、生活の質よりも量を誇るライフスタイルや日常性を問う、暮らしの変革をめざす運動」(p.185)

アジアへの関心が深まる  金嬉老事件など
70年代、女性たちが日本の女性の戦争加担の問題を問い始める = 戦争をみる内なるまなざしの、「被害者」から「加害者」への転換
「さまざまなリブ」

2 「記憶」を軸としたつきあい
(1) シベリア抑留者のつきあい――アンガラ会

▼忘却される記憶・際立つ記憶
60年代半ば、共通の「記憶」を軸としたつきあいの形:戦中・戦後の共同所属(所属縁)や戦争がもたらした共通体験(体験縁)をもとに編成されたサークル
・シベリアでの抑留生活を媒介とした親睦サークル「アンガラ会」
・戦争によって独り身で生きることを強いられた女性たちの行動サークル「独身婦人連盟」(独婦連)
「その誕生に、戦前と戦後の価値の断絶から生じた戦後十数年という年月が必要であった点で共通していた」(p.187)

アンガラ会:会報『アンガラ会』(65〜03) 伊藤登志男

▼まんとうと黒パン
「まんとうや黒パン、そして「杏の花」の歌が、忘れることのできない過去の記憶への強力な「架け橋」となり、現実の社会とは別の空間がそこに生まれていた」(p.192)

▼体験縁と再集団化集団
「アンガラ会は、そのイルクーツク第一収容所での共通体験をもち、「生きて帰った喜びを語り合う」人びとの親睦の集いである。それは、見方をかえれば、「悲運のうちに異郷に死んだ多くの友の無念さ」を語り継ぐ追悼の会でもある」(pp.192-193)
「アンガラ会の会員は第一捕虜収容所という所属縁と、そこでの三年間の共同体験という体験縁の両方が一致している点に特徴をもっている」(p.193)
アンガラ会の誕生:戦後20年を経過した65年――戦友会と共通
「戦中・戦後の特殊な、固有の体験を軸とする集団が登場するまでには、戦後、かなり長い時間の経過が必要だったのである」(p.193)
アンガラ会大会:65年〜2003年まで毎年一回開催
 1971年:第7回大会参加者44名、会員数237名

▼選択された記憶の再現
メンバーの過去の記憶から選択された体験のみが懐しまれる
a. 当時体験した生活のディテールの再現
「それは、一つには、黙っていれば失われていく「あの頃」の生活の全体像を回復して構築し、自分の切れ切れの体験を生かす、正当な位置を見つけ出したいという衝動にもとづいている。集団記録の試みである。もう一つは、当時の労働と生活のディテールを昨日のことのようなリアルさで再現することで、自分が「他の日本人」とは異なる体験の所有者であること、つまりマイノリティであることを自己確認し、ひいてはアンガラ会のメンバーシップを確認しあうのである」(p.195)
体験の「語り伝え」という形を信じていない

▼つらかったが、楽しい「あの頃」
b. 収容所の過酷な環境を自分たちはどのように変えようとしたのか、自分がどのような役回りを引き受けたのかについての苦心談、エピソード
抑留時代が、「つらかった」けれども「非常に楽しいあの当時」として再現される
 ――会員たちの青春が、たしかにそこにあったから
「素朴で初々しい初期民主主義」の時代、「創造の時代」

〔*村上:「若さ−青春」という「単純な一つの理由だけで」(p.197)言い切ってしまう危うさ〕

▼つきあいの復活・つきあいの持続
収容所内によりよい暮らしをつくりだすこと――娯楽・文化運動まで
それまでバラバラな兵隊たちの間に「つきあい」が復活

会員の内面に定着した思想:「平和」と「民主主義」

〔*村上:会員たちにとっての、体験にもとづく「平和と民主主義」とは、一般に戦後日本を象徴する言葉として使われるそれと、同質なのだろうか。そこにあるだろうズレにこそ注目すべきなのでは〕

(2) シングル化時代の先駆け――独身婦人連盟
▼社会的シングルズ
「日常的」に戦争とむきあって生活する女性たち:「戦争未亡人」「戦争独身婦人」
戦争未亡人(1949年:60万人)は苦難の生活を強いられた
戦争により、未婚の女性が大量に出現――戦争が生んだ「社会的シングルズ」
・戦争未亡人は、戦争犠牲者として早くから社会的に位置づけられ、公的な保障が整えられていった
・「それに比べて、「戦争のために、配偶者となるべき」相手を奪われ、「敗戦後の社会不安や経済の悪化」のために「余儀ない独身生活を強い」られた女性たちは、社会的に無視された存在であった。日本経済が高度成長への途を走り始め、「もはや戦後ではな」くなった時代に、だれも彼女らを「戦争」と関連づけてみようとはしなかったのである」(p.202)

▼「選ばれて」の独身者
1967年、独身婦人連盟(独婦連)誕生
初代会長、大久保さわ子  「団結しよう、全国のハイ・ミス」
「結婚することが女にとっての一人前規範とみなされる日本社会のなかで、独身で生きる女性たちは不自然な存在とみられがちである。女性たち自身、そうした社会的な視線にもとづいて否定的な自己アイデンティティを内面化しているように、大久保の目には映った。「売れ残り」「はんぱもの」「いかず後家」といった……」(pp.202-203)

独婦連の発足時からの慣習:「つねに調査活動を基本にすえ、その結果をふまえて政府や行政に陳情し、独身女性の労働条件の改善や老後対策を求めていく」(p.203)
調査活動:生活現場と行政や政治との間の厚いかべをのりこえるために編み出した一つの方法論

「独身女性の存在は戦争の結果なのだ、という明確な「被害者」意識と、「ひとり身の女」としての自分の生き方を主体的に開いていこうという内的動機とが結びついて、以後の独婦連の活動を支え展開させていく力となる」(p.204)

▼オールド・ミスとハイ・ミスの間
「ハイ・ミス」という名称と現実とのギャップ
「大久保にとって、「ハイ・ミス」という呼び方は、自分たちが内面化している負のイメージから脱け出すための、一つの戦略だったのである」(p.204)
恋愛や異性関係に前向きな声も / しかし多くの女性は生活保障の手段である結婚を望む
結婚相談部、集団見合い、男女交際のパーティ ……失敗

▼より過激に、よりユーモラスに
70年代後半:結婚だけを女の幸福とはみない確かな目 / 結婚の相対化
結婚の自由は結婚しない自由を含むものでなければならない
「問題は、女性が生涯を通して仕事に打ちこんで生きたいと願うとき、一人で生きることに許容的でない社会の現実であり社会の視線である。そのことへの怒りの持続が、メンバーの結びつきを強いものにしたのである」(p.207)

独婦連の特徴:からっとした「元気さ」
「そこには厳しい現実を相対化し、笑いの対象にしてしまう遊びや、ユーモアの精神があり、それが独身女性をめぐる状況や変化を等身大に見つめる力、活動が挫折しても笑い流し、怒りをためなおし、明日の「元気」の素につなげていく力になっていた」(p.208)

▼「ああ、老後」
横につながるネットワーク方式  小さな地域グループ
「会員を互いにつなぐものは、「戦争」のために青春が奪われたとか、配偶者を得られなかったという「被害」体験ではなく、常時むきあう日々の「戦争」とどう闘うかにあった」(p.208)
「過去」よりも「未来」、「記憶」よりも「予言」
他者の孤独や不安を思いやる「ゆとり」
地域グループの課題 → 会としてのトータルな活動

▼「早う死んでくれてほんとにありがとの」
バラエティに富んだ老後対策
1980年、単身者の入居を認める公営住宅法改正を実現させる

▼終の棲家「女の碑」
2002年、独婦連解散
「独婦連の戦後の足跡は、シングル、結婚、離婚、再婚を問わず、すべての女性の歩みに深く関わっている。「若いうちは独り暮らしもいいけれど、年とったらどうするの」という柔らかい管理の力が作動するなかで、独婦連の歩みは、女性シングル化時代の一つの方向性を映し出している」(pp.212-213)

〔*村上:活動のスタンスが、石垣綾子の「戦争独身婦人」(当時の「三十娘」)に対する提言内容と類似性あり。関係・影響はあったのか?〕

3 アジアへの視線――アジア女性交流史研究会
▼「アジア」という他者
アジアという他者の力を借りて、日本の近代百年を検証しようとするサークル
1966年、「アジア女性交流史研究会」(山崎朋子らの学習サークル)
1977年、「アジアの女たちの会」(松井やよりらの行動サークル)

加害者としての女性
「戦争をみる内なるまなざしの、「被害者」から「加害者」への大きな転換が七〇年代に入って起こることを考えれば、アジア女性交流史研究会はまさに転換のパイオニア的存在であった」(p.214)

〔*村上:「日本社会にアジアへの関心が深まっていった」(p.213)具体的な契機や様相が不鮮明。金嬉老事件はそんなに強い原動力となったのか?〕

▼「お化け屋敷」のなかの「風月堂」
当初のメンバー:山崎朋子・上笙一郎・平林久枝・坂本しげ子
サークルというより、ネットワークに近い
「公的」アジアに対して、「私的」アジアを対置
「それぞれが方法論を求めて、「雑談」のなかで試行錯誤していく過程は、アジアの人びとの力を借りて日本人の自分が日本人や日本という国に否応なく対面させられる過程であり、それが国家という枠組みを抜け出す可能性をさぐる道すじともなった」(p.216)
喫茶店「風月堂」の雰囲気が色濃くひきつがれた集まり

▼創刊
1967年、『アジア女性交流史研究』第一号発刊:のびやかな雑談が生んだ研究ジャーナル
第一号の原稿の多くが〈売春〉の問題ないし歴史にふれている
「〈アジア〉の〈女性〉の民族ないし国際〈交流〉は自らの性を売らねばならなかった女性たちからはじまっているという認識」=「社会の底辺に生活した女性」抜きにとらえることができないという歴史認識が育っていた(p.217)
「女・子ども」を明るみに引き出していく仕事

森崎和江:「加害者−被害者という単純な対応図式では解けない、二つの民族、二つの母国に「はさまれる」という感覚の重視、亀裂や矛盾を深めることのなかからしか交流は生まれないという自覚的な方法論」(p.218)

▼「〈家内〉を越えて〈野外〉だぜ!」
歴史研究者、山辺健太郎との出会い

▼内なるファシズム
研究会内部に思想の固定と指導者が生まれ、他人の思想に対する不寛容が生じ始める
研究会解散、小冊子「アジア女性交流史研究」は山崎朋子の〈個人編集誌〉として存続

▼予告なりの終刊
11号〜18号:新しい主題群、過去と現在を自由に行き来する方法論、誌上での「かみつき合い」
1977年2月、通算18号で終刊
この雑誌の功績の大きさ:「七〇年代後半の、日本男性の「セックスツアー」に対して、男性を送り出す側の加害者の立場と買われる性である女性の立場の重層し、錯綜した関係を複眼的に見据えて展開された「アジアの女たちの会」の活動や、八〇年代の「従軍慰安婦」問題への取り組みは、それによって準備されたと考えられるからである」(p.222)

4 ライフスタイルを変える「百姓」ネットワーク――「健全な農作物をつくる会」
▼開発の光と影
公害の「発生」と公害をめぐる人びとの「意識」との間の乖離:
・近代化への憧れ=近代的価値への信頼
・「最大多数の最大幸福」という功利主義的な考え方

市民レベル、住民レベルで、自分たちが「当たり前」の生活や生き方に疑問をもち、それとは別の新しい生活や生き方を模索するさまざまな動き ――もう一つの生活の論理をさぐるサークルやネットワーク

▼夢は壮大
1975年5月、「健全な農作物をつくる会」発足
  名古屋市内の近郊農村
  会長:村下邦夫(27歳)  メンバー5人
60年代後半〜70年代、都市の消費者の強い要請に促されて、有機農業運動ブーム
村下の有機農法への取り組みは彼自身の「百姓史」による

▼ある青年の「百姓史」
農業改良普及員として活動するうち、行政の指導する農業技術に疑問

▼作物が「育っていく」こと
1973年、「百姓」に

▼「百姓」仲間との出会い
20代の若者たちにとって、有機農法は未知の農業であり、新しい農業

▼明るい愚痴縁
学習を重視  明日につなぐためのグチでつながれた関係

▼消費者との長いつきあい
生産者と消費者がつくりあげる新しいコミューン
「自分のこれまでの当たり前の生き方を疑う、自分と家族の「安全で心地よい」暮らしを守るという一人ひとりの「自己への配慮」に根ざした動き」(pp.233-234)
私生活主義ではあるが、公共的な価値に結びついていく可能性をはらむ
80年前後:受身の「消費者」 → 暮らしの主体の「生活者」であることをめざすネットワークが多数登場

5 「さまざまな」リブのつきあい方式
▼リブ誕生
「六〇年代末から七〇年代にかけて姿を表したウーマンリブ関連の集まりと、生活破壊をすすめる企業の論理・資本の論理に生活の論理を対置する住民サークルやグループ、ネットワークとは、同じ目標をもっていた。戦後民主主義のかかえる矛盾を明らかにし、ひいては日本の近代に内在する矛盾に迫るという共通の目標である」(p.234)
70年秋:最初のウーマンリブ大会
 ――その後女性運動の焦点となる労働、女らしさ、セクシュアリティ、夫婦別姓、母性といった課題がすべて提示されていた

リブの特徴:
1. それまでの主婦・母・妻というジェンダーにもとづく運動(主婦連の運動や母親運動)を否定し、そうしたジェンダーを軸に編成される婚姻や家族という制度のもつ問題性を告発した。
2. 従来の「婦人運動」がタブー視してきた「性と生殖」(セクシュアリティと母性)の問題を重視し、性が両性関係の核心にあること、その性関係が男性主導の社会と文化の産物に他ならないことを批判した。
3. 男性がつくった社会の構成者としてその規範をすすんで受け入れてきた女性自らの歴史性(自発的服従史)を否定し、「女から女たちへ」の意識変革を中心的な課題とした。
4. 生産中心の物質主義的価値から生活中心の脱物質主義的価値への転換を主張し、それを「男の論理」に対する「女の論理」と表現した。 (pp.235-236)

「婦人」でも「女性」でもない、「女」/「おんな」
・男女の格差是正を「男並み」になることを求めた従来の婦人運動との断絶
・女の解放を階級闘争や社会革命に隷属させてきた運動の視点を根底的に転換させる

リブ:独自の方法で活動していた小さなグループの総称
共通点:号令をかけるものとかけられるものとの分離を、極力回避しようとする方法論
全共闘運動において、体制そのままの反体制がつくられていたことへの批判と反省にもとづく方法論

▼つきあいの純粋化――リブセン
72年、リブ新宿センター(通称リブセン)
「ぐるーぷ・闘う女」「エス・イー・エックス」メンバー+「東京こむうぬ」「緋文字」などのメンバーにより誕生した雑居生活空間
リブ運動の特性:強力なリーダーシップの存在やグループの「統合」を否定する
「しかし、その一方で、リブ運動と生活との一体化をはかる生活共同体(コンミューン)への志向は、男を中心に女同士が反目しあってきた長い歴史に終止符を打ち、「女から女たち」への出会いを求める、当時のリブグループが、多かれ少なかれめざしていた理想であった」(p.237)
抵抗と解放の根拠地としての共同体への志向:全国あちこちに

コミューン志向:メンバー同士の身体を媒介にしたつきあいの全面的な開花をめざしたもの
実現していくうえでのハードル:
1. 理念と、諸活動との断層の大きさ
2. 活動の分節化を克服するために必要な、メンバー間の個人的なつきあいの成熟にかける時間の不足
3. 自分たちの思想の結晶化をねらう集団としての理念的な要求が、メンバーの結びつきを窮屈なものにしていった
4. メンバーの孤独感による「まとまり」が、運動としての創造的な活力を失わせた

リブセンは、新しい共同性の実験場として、大きな意味:
女たちの自律的な関係性の追及の、矛盾をはらんだ表現形態
→ 「女から女たちへ」の信頼性のベースに
メンバーに残したもの:「女として以外生きることができない女たちが〈女であること〉を問い詰めることを通して、互いのつきあいを求めるなかで経験した、豊かさと虚無の感覚とが混在する内面世界」(p.240)

▼「滅び」の予感の共有――『あごら』
日本のリブの一つの特徴:「主婦リブ」
背景に、主婦の座をめぐる状況の根底的な変化
主婦像のゆらぎ / 生活構造の変化(「ゆとり」、女性の高学歴化→社会参加意欲の高まり)→主婦という状況のもつ病理
主婦の座を占める女性たちの社会的な疎外感と、それに裏打ちされたエネルギー → 日常生活のなかの「セクシュアリティ」や「エロス」「主婦性」や「母性」の問題に正面から向き合わせる

〔*村上:フリーダンの伝えるアメリカの状況は、日本の主婦的状況と単純にはオーヴァーラップしない〕

主婦ネットワーク:「滅び」の予感を共有
「若い世代中心のリブの「破壊のエネルギー」に主婦たちが引き付けられたのは、「今の状況がつづくはずはない、つづく方がおかしい」という、そうした滅びの予感に裏づけられた、ある種の楽天性のゆえといってよい」(p.241)

〔*村上:実証事例がほしい〕

72年、『あごら』:誌上の「ひろば」
女性たちの経験と情報交流の場としてその視界を広げ、鍛えることをめざす
個別性重視、女性が集合カテゴリーとして扱われることを拒否する
サークルよりもネットワークに近い
「自分の活動目標に向けて一歩を踏み出していく中継地としての、いいかえればひとときの「退行」とそこからの新しい出発への中継地としての役割を果たしてきた」(pp.243-244)

▼つきあいは遊びと共に――『わいふ』
主婦の投稿誌『わいふ』:76年再出発
創刊は63年  「しあわせ」なはずの主婦たちのアイデンティティ喪失の悩みを訴える声がめだちはじめた頃  母である自分と個としての自分との間で引き裂かれた疎外感――共通の感覚
75年廃刊  グループによる責任編集のかたちで再出発
第二次『わいふ』の特徴:遊びと笑いの精神をもっと取り入れ、自由に動き回る精神の伸びやかな空間を創りだしていこうとする点  あせらずゆったりと自分の内面から社会へ
シンドイ現実を相対化し、笑いの対象にしてしまう遊びの精神
「その遊びの精神は、主婦性に呪縛された自分のなかの矛盾はもちろん、女を主観的状況に追い込んでいく社会のメカニズムを客観的に見抜く力にもなっている」(p.246)
『わいふ』:「遊び」から「仕事」へと女たちが転進していく中継点の役割を果たした

▼失語症の共同治療ネットワーク――『新しい地平』
「ことば」へのこだわり
「出来合いでは語りつくせぬ女としての経験の、はみだした部分があり、そのはみだした部分が自分を表現する新しいことばを求めているのに、それを探し当てることができない。女性たちの失語症の時代だった」(pp.246-247)
「女の「感性」はことばをこえたものといってすませることのできない、そうした問いをどう言語化していくのか。その苛立ちが「力のあることば」を求めて、女たちを旅立たせた」(p.247)
お仕着せの表現様式から解放され、自前のことばをもちたいという願い
『女・エロス』:ソトにむかって語ることばを創出していく実験
『女性解放とコミューン 新しい地平』『女通信』:自分自身や「女から女たちへ」問いかけることばを、自らの内面に模索していく試み
『〜新しい地平』:「身の上相談」  「公開」→対話的関係(コミューンの可能性)
「自分のひそかな苦悩をあえて「公開」することによって得られる自己解放、自己肯定の感覚を重視すること。対話を媒介とした複数の参加者の協力による集団的志向を育てていること。そこには自分を正直に語ることば抜きに、聞き手の深い共感をうることはできないという、根底的な方法論が明示化されていた」(p.248)
70年代後半:女たちの使うことばはしだいに力をもちはじめ、身体的な表現も豊かさを増していき、出来合いのことばから解放されていく

〔*村上:70年代後半〜の状況は、ここでの流れの上にあるものなのか? 外因的にもたらされた要素もあるはず〕

▼退行感覚と日常が結ぶつきあい――グループ「女」
京都のグループ「女」:71年、小冊子『女』(73年『女通信』と改名)  一種の退行感覚によって結ばれた30代後半の女性たち十数名の小さなネットワーク
共同体的な営みではない  メンバーの家でのだべりあい  日常性の延長
「女であること」にこだわる――それぞれの「自分史」を語ることからはじめる
一般論を離れて、自分自身の性の問題に真向こうから切り込む作業
「自分はこんなにも「めざめた」女からほど遠いのだという思いが、実は逆に彼女らを厳しい自己点検の作業に向かわせることになる」(p.250)
男と自分の日常的な関係を、自分自身で厳しく問い詰めていく作業
「グループ「女」とは、女が自らの語ることばだけでなく、女から女たちへ伝えることばを、そして男という他者にむかって語ることばを、模索する試みだったといってよいだろう。その試みの方法論はメンバーの数だけ存在したのであり、グループ「女」はそれぞれの方法論を許容するしなやかなものであった点に特徴をもっていた」(p.250)
「個」としての実感に支えられる  日常性から離れることを恐れる
共同保育所づくり:「女も男も子育てに参加できる働き方・暮らし方を」――もう一つの生活論へ
メンバーを結び付けていたのは、「マイゴーイングウエイ」としての「個」の意識
「彼女らを支えていたのは、ごくふつうの女性たちが想像力の領域に秘めている連帯の感覚であり、日々の暮らしのなかにさりげなく生きて働いている彼女らのつきあいである」(p.253)

〔*村上:(『あごら』以降の考察の上で)「主婦リブ」の「主婦性」について、より内在的な掘り下げた分析が必要〕

80年代半ば、女性たちのネットワーキングの全面開花の時代へ

〔*村上:一般に80年代半ば〜に全盛となる「女性たちのネットワーキング」のあり方は、ここで見てきた流れとは、基本的に別系統のものであるはず。資本とメディアの新たな展開過程に留意すべき〕

■終章 もう一つのプロローグ―脱力型サークルの時代へ
◆「見えるサークル」の創造力
「七五年を境にそれ『以前』と『以後』とで、『見える』サークルから『見えにくい』サークルへ、『非』脱力(目的志向)型サークルから『脱力型』サークルへという転換が起こったと、特徴づけることができるだろう。」(p.255)
・戦後的な現象としてのサークル
「このようにサークルを生み出す契機、メンバーをつなぐ基盤、サークルに内在する課題など、さまざまな意味で、この時期のサークル、目的志向型のサークルが支配的な時代だったのである。」(p.257)

◆連続と不連続
・高度成長期以降のサークル
→いくつかの軸が重層的に併存している
1.これまでの系譜をひく目的志向型サークル(ネットワーク)の継承
「集団の発見」(『現代の眼』1970年6月号〜1983年5月号)「ネットワーキング」(『朝日ジャーナル』1984年10月19日号〜1988年12月2日号)
*鵜飼孝造
(1)都市社会への集中
(2)主題としては住民運動の系譜―「環境・反公害」など
(3)「告発・抵抗」型から「提案」型―オルターナティブな生き方を志向するサークル
「こうした『提案』型サークルへの転換が一つの大きな流れであるとして、目的志向型の、それゆえに可視的なサークルやネットワークは今もなお、もう一つの強い流れを形成している。それは人びとの生活や意識のなかに、六〇年代以降の、自分に関わることは自分で決めたいという市民的精神が、「当たり前」として定着し成熟してきていることの表れといってよい。」(p.259)

2.「目的なしはすばらしい」とうたう脱力型サークルの出現。
(1)非常識が生む相互治療集団―社会福祉法人「浦河べてるの家」(1984年〜)
「べてるの家は、互いにつぶさずつぶされずに生きたいと願う人びとが心を通いあわせ、多様な生と存在を肯定していく方法的実験のなかに、サークルとしての創造力を育てようとしている。」(p.262)
「浦河べてるの家のように、『更生』や『社会復帰』を目的とせず、脱力型の相互治療集団としての方法と実質を獲得していった共同体は例をみない。それはまた、六〇年代後半から七〇年にかけて全国のあちこちに生まれた、共同体への志向をもつサークルやネットワークが素通りしてしまった生活と生産との結合、メンバーの経済的自立の問題に自覚的にとりくんでいるという点でも、従来型の共同体論に対する一つの問題提起となっている。」(p.262)
(2)できない自由・しない自由―「だめ連」(1992年〜)
「ダメ連のメンバーとは、ボランティア活動への人びとの関心が強いと知るやすぐにその義務化を打ち出す政治家の言説にもっとも遠い距離にいる、『しない自由』をもつ人たちであり、『できない自由』『しない自由』を『する自由』とどう連関させていくかの方向のなかに、小集団としての活力を求めているかに見える。」(p.263)
(3)電子的サークルと「いい加減」―「隠居研究会」(1998年〜)
生涯現役型・活動型の老人とは対極的な脱力型の隠居をめざす。対面的ではない、回線内の電子サークル(「場所感の喪失」)を形成して「交流」。

・脱力型サークルを生み出したのは…
「物質的な『豊かさ』と目標喪失から生じる精神の空洞化、何でも出来そうでいて踏み出せないみせかけの自由、根強い平等神話とその裏ですすむ『努力しても報われるかどうか』という『希望格差』の二極化、携帯可能なモバイル・メディアの浸透のもとで選び選ばれた相手との間でだけすすむ親密化と他方での疎密化―そうした両義性がさりげない形で重層的に人びとの生活世界を包囲していると特徴づけることが可能だろう。」(p.265)
→「関係」の二極化のすき間をスルスルと抜け出し、その中間に、肩肘張らずに自他の存在を確かめる小さな共同性を構築しようとしている、脱力型サークル。

「目的志向型サークルと脱力型サークルとが併存しながら、しだいに前者から後者へと移行していく。それは、人びとのサークルやネットワークに求めるつきあいの質の変容を意味するのだろうか。それともサークルやネットワークそれ自体の定義の変化を意味するのだろうか。その過程の検証が今後に残された大きな課題となるだろう。」(p.266)

◎論点(山本)
・天野の方法論の是非。
→「ジェンダー・アプローチ」はある程度実現されているように見えるが、人びとの思想史・日常思想史が十分に浮き彫りにされていようには見えない。
・他の書では「思想の科学研究会」に対する批判的な言及もあるが(『「生活者」とはだれか』)、そこでの方法論どまりという感が否めない。
・サークルの全盛期(第二期)と高度成長との関係がいまいちハッキリしない。
・ポスト高度成長が何であるのかも、一般論的な状況分析しかなく説得的でない。
・目的指向型サークルから脱力型サークルへの「移行」は本当か?


作成:山本 崇記〔序章〜1章4節・2章1〜4節・終章〕・村上 潔〔1章5節〜9節・3章〕・番匠 健一〔2章5節〕
   (以上、立命館大学大学院先端総合学術研究科)
UP:20050823 REV:1019,1020,1031,1101 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0504am.htm

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