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道場親信 『占領と平和 〈戦後〉という経験』 青土社

道場親信 20050410『占領と平和〈戦後〉という経験』 青土社 720,32p  ISBN:4-7917-6179-0  [amazon][bk1]

目次
序論―東アジアの冷戦とナショナリズムの再審
  はじめに―「戦後史」の再想像
   1 「ポスト冷戦」の東アジア
   2 冷戦の再審
   3 東アジアにおける冷戦体制
   4 日本における冷戦体制
   5 冷戦の再審を通じた第二次世界大戦の再審
   付 東アジアにおける反徴兵制
T 『菊と刀』と東アジア冷戦―あるいは「日本文化論」のパターン
   第一章 研究課題―『菊と刀』
   1 「単一民族国家」論の「系譜」
   2 戦後「日本文化論」の原型
   3 方法と視点
   第二章 総力戦と科学動員
   1 社会科学的戦争としての総力戦=第二次世界大戦
   2 「無条件降伏」と占領政策
   3 科学動員
   第三章 対日政策の形成と対日心理戦
   1 対日政策形成過程
   2 対日心理戦
   3 OWI―FMADと日本研究
   第四章 ルース・ベネディクトと『菊と刀』の形成
   1 ルース・ベネディクト
   2 ベネディクトの参加
   3 「日本人の行動パターン」から『菊と刀』へ
   第五章 日本の占領と象徴天皇制の形成
   1 占領の開始
   2 憲法制定と象徴天皇制
   3 東京裁判
   第六章 『菊と刀』が消去したもの
   1 降伏後の日本人
   2 日米同盟と文化表象
   3 原爆投下論争
   第七章 天皇制の再定義―津田左右吉・和辻哲郎の闘い
   1 天皇制の"危機"と再定義
   2 津田左右吉における象徴天皇
   3 和辻哲郎における象徴天皇
   第八章 人類学的「日本」と冷戦
   1 脱植民地化=「他者」のいない日本
   2 「文化相対主義」と脱植民地化
   3 「天皇外交」と東アジア冷戦
   第九章 「日本文化論」のパターン
   1 『菊と刀』の翻訳と受容
   2 津田・和辻にとっての『菊と刀』
   3 「日本文化論」のパターン
U 「反戦平和」の戦後経験―対話と交流のためのノート
  はじめに
   第一章 問題関心と視点
   1 「反戦平和」の根拠―戦争になぜ反対するのか?
   2 「反戦平和」の課題と行動―戦争にどう反対するのか?
   3 時期区分
   第二章 東アジア冷戦体制確立期における「反戦平和」(一九四五〜五五年)
   1 「核時代」としての戦後
   2 戦後「反戦平和」の出発
   3 朝鮮戦争のインパクト
   第三章 「平和共存」と「革新」の時代(一九五三〜一九六四年)
   1 「平和共存」下の「反戦平和」
   2 「核時代」に挑む―原水爆禁止運動の出発
   3 戦後「革新」の内と外―「護憲」運動から「新左翼」まで
   4 六〇年安保闘争
   5 「侵略の核」と「平和の核」―原水爆禁止運動の分裂
   第四章 ベトナム反戦運動とパラダイムの革新(一九六五〜一九七四年)
   1 一九六五年
   2 ベ平連運動―その行動
   3 ベ平連運動―その思想とことば
   4 「七〇年安保」をめぐって
   5 ベトナム反戦運動の遺産
   第五章 「新冷戦」から冷戦の終焉へ(一九七五〜一九九〇年)
   1 構造的暴力と「軍事化」―「平和学」の登場
   2 「義勇軍」から「NGO」へ―"国境を超えたつながり"の転換
   3 「原水爆禁止運動」と「反核運動」―運動の再定義
   4 深まる「安保」と「軍事化」に抗して―反戦市民運動の展開
   第六章 ポスト冷戦と現在―「反戦平和」の再定義(一九九一年〜)
   1 湾岸戦争からPKO派兵へ
   2 ガイドライン関連法とイラク反戦運動
   3 「ポスト冷戦」期における問題状況
  おわりに―それぞれの「反戦平和」の根
  
  あとがき
  注
  文献

序論――東アジアの冷戦とナショナリズムの再審

はじめに――「戦後史」の再想像
・「戦後」:日本における歴史意識、「現代史」を支えるキーワード。その自明性・自己完結性への問い。数々の「封印」への問い。
・問題を明らかにする・乗り越える
・「思想」と「運動」の体験の宝庫としての「戦後史」。「対話」へ。

1 「ポスト冷戦」の東アジア
・冷戦体制:容易に解消することができないまま、東アジアの現状を規定する力でありつづけている。「動員解除」は行われない。 例)日米安保体制の維持・強化
・東アジア:アメリカを中心とした軍事同盟によって構成された「東アジア冷戦体制」は未だに支配的レジーム
・冷戦構造(藤原帰一):対ソ関係を基軸にアメリカがつくろうとした国際秩序。「東側」でも同様の秩序が形成。
・東アジア冷戦体制:社会体制、国家体制、国家間関係を規定する冷戦構造・国際秩序の東アジアでの展開。日本の「戦後」は東アジア冷戦体制という枠組みにおいて成立。
・東アジア:朝鮮半島、日本列島、中国大陸から「東南アジア」まで

2 冷戦の再審
・冷戦の再審:同時代性の中でのそれぞれの「冷戦」経験を付き合わせ、対話させる作業
・第二次世界大戦や東アジアにおける植民地経験の意味をめぐるより根底的な考察
⇒冷戦体制下での「史実」の構成過程の追試を通じ、「冷戦」とそれ以前の歴史を重層的に読解。メタヒストリカルな課題。
・「冷戦体制」というシステムに対する反システム運動としての運動経験をつなぐ作業
・東アジアでの民衆経験をつなぐ:個別安保体制論では把握しきれない「冷戦」経験の同時代性、冷戦体制の構造的特質が浮き彫りになる。「国民国家」は自己完結的存在ではなく、冷戦体制のサブシステムとして構築=国家と国際構造との合作

3 東アジアにおける冷戦体制〜冷戦体制の再審から見えてくるもの〜
@東アジアにおける脱植民地化と再編
・東アジア冷戦体制:脱植民地化過程の進展とアメリカによる再編・構築された体制。中国共産党の内戦勝利(1949)と朝鮮戦争(=東北アジア戦)のインパクト
⇒東アジア冷戦体制の基本構図の完成:基本要素としての軍事同盟、経済社会システム、ナショナリズム、イデオロギー装置、軍事基地と基地経済
・体制構築のための暴力の行使 

A社会システムとしての冷戦体制
・社会システムとして機能した冷戦体制
・国家は自己完結的存在ではありえない。アメリカとの協調関係の影響力。
・冷戦体制構築過程での人々の越境⇒越境要因を「国民国家」に抑え込むための暴力の行使 
・冷戦体制の二重性:
(1)第二次世界大戦の戦後処理体制
(2)戦争を前提とし資源の動員を図る準戦時体制
⇒(1)が(2)によって換骨奪胎
・脱植民地化に伴う「国民国家」化と、それがグローバルな冷戦構造の中に位置付けられなければ機能しないという現実的要請によって構築
・前線/銃後の区別無き「総力戦」としての「冷戦」を戦う日常的な体制

B「ナショナリズム」の冷戦的定在形態
・国民統合:公式ナショナリズムの設定。「内政不干渉」のルール
⇒マイノリティの抑圧・同化政策は「国民国家」の枠をはみ出ない限り問題とされない。 例)「従軍慰安婦」
・公式イデオロギーとしてのナショナリズム:アメリカの軍事グローバリズムと民族独立ナショナリズムの混合物・合作
・押し付け/自主という幻想上の対立。ねじれ:アメリカ主体の安全保障体制の中のナショナリズム・愛国
・公式ナショナリズムによって不可視にされたもの⇒公式ナショナリズムベースでの外交交渉によって規定される史実の再検証

C「占領」という経験
・「占領」を一国史的に捉えるのでなく、アメリカ軍という占領者の東アジア全体での体系としての機能の注目へ。
・歴史的連続性としての占領(の継続) 

4 日本における冷戦体制の意味
@冷戦体制への編入
他者のいない日本
・「帝国」の崩壊と人口の再配置 例)引揚者、在日朝鮮人
・「帝国」の記憶の忘却と「単一民族国家」としての表象の生成
・「敗戦」と同時の「脱植民地化」⇒植民地支配経験の忘却、被害者経験の固定化
・「単一民族国家」像の内発性と外発性の合作 例)ルース・ベネディクト『菊と刀』

天皇制と安保体制
・日米合作としての戦後象徴天皇制⇒天皇制維持と「日米安保体制」の構築
・サンフランシスコ体制と戦後日本
象徴天皇制の活用を通じた安全保障の構築⇒象徴天皇制としての完成
沖縄の切り離し(天皇メッセージ)
・日本政府のダブルスタンダード:対外的な必要最小限度の戦争責任の承認と国内における戦争責任問題の否定

講和と冷戦
・東アジア冷戦体制の政治経済的地域内分業
・全面講和を妨げた米軍基地の存在

A沖縄におけるサンフランシスコ体制と復帰運動
・本土:米軍基地の拡張・再編 内灘・砂川での反対運動(戦後の大衆的「平和運動」の最初の盛り上がり)
・沖縄:大々的な土地と利上げと「島ぐるみ闘争」。本土の基地の機能統合としての沖縄での基地強化。
・沖縄に対する日本政府の「存在主権」:沖縄から自己決定権を奪う。日本政府の了解のもと半永久的に軍事利用。
・1960安保闘争と沖縄:新安保条約「共同防衛地域」の範囲か否かという論点⇒沖縄に「本土」が「巻き込まれる」ことへの不安
・「復帰」運動:ナショナリズムの形をとり、冷戦体制下における公式イデオロギーとしての「本土」ナショナリズムの矛盾をあらわにする反システム的問題提起
・ベトナム反戦運動と復帰運動の結合、反システム運動の形成
・「沖縄返還」:復帰運動がもっていた反システム的要素はすべて廃棄、基地集中の形で「完全復帰」する⇒自己決定権を拡大する運動の継続

B戦後日本の平和運動
・ベトナム反戦運動:従来の平和運動の「中立」主義に飽き足らない層の出現
・「中立」という理想:現実には東アジア冷戦体制に深く構造化されていることへの認識不足
・「民族自決支持」:良いナショナリズム/悪いナショナリズムの二分法。国際的状況と国内的状況との連動作用を見過ごす。
・軍事システムがもつ「加害」の構造と加担という問題が不可視⇒発見者としてのベトナム反戦運動

5 冷戦の再審を通じた第二次世界大戦の再審
・聞こえない声:聞くことができない構造的な理由
・公式ナショナリズムの閉域へと退行せず、それぞれが経験した同時代の場に置きなおして、それぞれの側からふれ合い、わかちあっていく作業へ


はじめに:今日的状況

第一章 問題関心と視点
1 「反戦平和」の根拠――戦争になぜ反対するのか?
・「あらゆる戦争に反対」と「この戦争に反対」

@「根拠」を問うことの意味
・さまざまな動機・根拠⇒「反戦平和」の組織やイデオロギーを軸とした整理にとどまりがちな運動史記述の変更という試みを
・「戦争はいやだ」というリアリティがどのように生まれ、人の行動を支えているのか?:組織・動員中心の時代の終焉⇒個人の選択が運動のあり方と深く関わるようになるこれからの社会運動において重要な問い
・「やりっぱなし」を避けるために:異なる価値観をもった人々が共同行動できた/できなかった動機を議論しあう必要性

A「この戦争に反対」の立場――選択的平和主義・個別的反戦論
・選択的平和主義、条件付パシフィスト、相対平和論⇒その根拠とは?

A 「不合理な戦争」
・費用対効果の観点。遂行者の戦争目的に対する合理的反論。
・合理性の基準をどこに置くか?という問題 例)費用対効果、自国民保護⇒条件が満たされれば戦争が可能になる思考

B 「不正な戦争」
・「(この)戦争はなされるべきではない」という不正の判断と正すための行動=反戦平和運動
・「不正」とする根拠の指摘が必要:手続き、背景、必然性、手段・・・
・裏返しの認識としての「正義の戦争」の存在を暗示⇒戦争の封じ込めを本来は目的としている。敵への憎悪や自己絶対化の危険性も。 例)宗教的原理主義、伝統的正戦論、世界政府論(暴力の独占)
・国際法体系の進化:合法/非合法の厳しい峻別⇒主権国家による戦争の権利の否定と国連主体の武力行使の正当化という二重性
・集団的自衛権:安保理が必要な措置を取るまでの間、個別的集団自衛権の行使が認められる。
⇒各国の武力行使の制限を不徹底にとどめる
⇒正義/不正の判断の恣意性を除外できず
・「例外」としての「不正な戦争」 から 「例外」としての「正義の戦争」まで論理的な幅

C 反帝反戦論――「あらゆる帝国主義戦争に反対」
・帝国主義的利害に基づく戦争=不正な戦争(帝国主義戦争論)
⇒1950年代 「平和勢力」論:社会主義陣営の武力(核含む)は平和のための武力。帝国主義的侵略への抵抗の戦争=民族解放の戦いとして支援の対象
・新左翼による「スターリン批判/反スターリン主義」による反戦論
⇒既存の社会主義国家による戦争も批判対象へ。よりラディカルな革命勢力の動向を支持=「正義の戦争」の担保?

B「あらゆる戦争に反対」の立場――絶対平和主義
・すべての戦争を「不正」とする立場。反権力。
例)久野収:平和運動は政治運動ではない。すべての政党への注文・批判。
例)坂本義和:既存の権力を否定するだけでなく、権力一般を否定する。
・絶対平和主義―非暴力主義―市民的不服従:抵抗としての非協力、不服従の必要性
・絶対平和主義の動機(久野・道場):
○宗教的な非協力・不服従の流れ:キリスト者の兵役・軍務拒否
○個人主義の思想に基づく非宗教的不服従活動の流れ:ソローなど
○ヒューマニズムの流れ:戦争の破壊・殺戮へを憎む
○経験的戦争拒否:「私の経験から言って、戦争は二度としてはいけない:経験内在型

C二つの「戦争反対」の立場の関係と「心理主義」的癒着の問題
・両者の対話の可能性
・日本:両者の対話は好循環とは言えない
・憲法に基づく「平和主義」への支持:漠然とした絶対平和主義

2 「反戦平和」の課題と行動――戦争にどう反対するのか?
@「行動史」という視点
  ・ 動機・課題・問題意識に対応して人々がどのような行動をとったのか?
(1)思想と行動の一対一対応という硬直した解釈図式を解除する
(2)思想はしばしば行動の結果として生まれる
(3)行動の歴史分析=社会運動を支える政治文化分析
(4)行動のやり方から経験者間の対話が可能となる
・社会運動史=思想史、組織の歴史として展開されたことからの方向転換

A課題と行動
・256ページの表の通り
・絶対平和主義:戦争の予防を含む幅広い取り組み⇒社会の非軍事化(エンロー)
・戦争への抵抗:複合的・多段階的に取り組まれるべき。相互の取り組みを尊重しつつ、幅広い抵抗の領域を作り出すことが必要。

B「市民的不服従」と「非軍事化」
(1)市民的不服従
・あえて法に違反することで、不正を問題化する
・立憲民主主義体制の肯定(政治体制の変革を目的とせず、特定の法・政策が対象)
⇒権力否定の契機を秘めていると捉えうる
・公的性格をもたねばならない
・抵抗手段の非暴力性という特徴
(2)非軍事化
・狭義:戦争準備、戦争態勢といった戦争を支える社会システムの解体―改編
・男性化、家父長制といったジェンダー秩序の問題と関連
・「軍事化は、社会の一部が軍隊や軍事的な価値観にコントロールされるか、または依存するかによって起きる」(エンロー)
(3)反戦平和の取り組み
個別反戦論⇒あらゆる戦争への反対⇒社会の軍事化への抵抗、構造的暴力の克服、という広がり

3 時期区分
@1945-1955共産党の圧倒的影響力⇒共産党第6回全国協議会
A1953-1964総評をバックとして大衆運動を展開した社会党の時代
B1965-1974ベトナム反戦運動、新しい市民運動/社会運動、新左翼
C1975-1989市民運動の脱政治化、新たな国際的市民活動(NGO等)
D1990湾岸危機以降、ポスト冷戦:国際貢献を名目とした自衛隊の海外派兵


第二章 東アジア冷戦体制確立期における「反戦平和」(一九四五〜五五年)


・戦後の「平和主義」が「冷戦」という政治構造の中でどのように展開したのか。
→「この時代の「反戦平和」経験の特徴は、共産党が持っていた権威と影響力である。」(p263)

1 「核時代」としての戦後
・坂本義和―「原子時代atomic age」→「核時代nuclear age」
・入江昭―「現実主義」vs「新国際主義」
→日本の「戦後改革」を規定したこの「新国際主義」も「冷戦」の激化により後退
*「冷戦」の世界を規定する要因
@核兵器と核戦略体系の存在
A大戦後における戦争違法化の一層の進展と国際連合の結成
Bイデオロギー対立に基づく米ソ二大ブロックの存在
→これらの重層により形成された国際関係は、19世紀型の「主権国家」の拡大(独立国の数的増大)と縮小(国家主権の制限)という二つの流れ。

2 戦後「反戦平和」の出発
@ 焼け跡の「反戦平和」
ポツダム宣言、武装解除、占領、戦争責任追及、憲法制定
→「絶対平和主義」的内容と連合軍の戦争目的として掲げられた「反ファシズム」という正戦論は大きな矛盾なく「日本人」に受容された。
「『反戦平和』という課題は、「戦争はもうこりごり」という意識と、人類絶滅につながる戦争への反対、という意識によって支えられたものとなった。そこでは、「この戦争への反対」と「あらゆる戦争への反対」との乖離の意識は少なかったといえるだろう。」(p267)
*平和運動の二つの方向(佐藤公次)―過去に対する運動は合法/現在及び将来に対する運動は非合法(占領目的違反)
→「原爆による平和」という論理の(強制的)受容(cf.1946年8月「平和復興祭」。翌年「平和祭」)。→被爆者の孤立。次第に米ソの核実験が報じられ原爆被害の実際が知られることで、厭戦観に「核時代」の危機意識が加わり「あらゆる戦争に反対」という論理が生まれてくる。
*「世界連邦」運動―55年の国連10周年を期に「憲章見直し」を要求(軍事力/大国中心の国連を改革)。が、その時期を頂点に衰退。主体は48年8月6日結成の「世界連邦建設同盟」(「国際平和協会」「恒久平和研究所」から成る。左右の知識人・政治化が関与)52年11月には「世界連邦アジア大会」を開催。日本の戦争責任は問われず。むしろ免責が求められている。54年のアジア大会には原水協からも挨拶があるが、原水協が反安保を明確にするにつれて関係は解消。60年代の「反戦平和」が安保問題になっていく過程で同盟も衰退。

A知識人の共同による「平和」論―平和問題談話会
48年7月ユネスコ「平和のために社会科学者はかく訴える」
→『世界』の吉野源三郎が反応。小泉信三・安倍能成と相談し、清水幾太郎・久野収などにより「平和問題討議会」が48年12月に結成。その後、1月に京都で、3月に東京で「懇話会」が誕生。
・49年3月「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」
・50年3月「講和問題についての平和問題談話会声明」
・50年12月「三たび平和について」
→独自の「平和共存論」(「先駆的」)。国際的な文化交流を期す。51年6月に日本はユネスコに加盟。国連加盟より早いのは文化人の動きが大きな影響を与えている。
*「平和共存論」―幅広い合意を取るため後に分岐する多様な要素を包含。「核時代」の認識による「人類絶滅」の恐怖からの平和論。談話会は、全面講和・中立・外国軍事基地反対、再軍備反対という戦後「平和主義」の核となる議論を洗練された形で提起する。
「だが、多くの人々にとって、人類絶滅の危機という意識は、戦争、平和、核、中立、軍事基地といったそれぞれに分析を要する問題を(悪い意味で)ひとつながりのものとし、個々の問題を深めさせない効果をもったということもできるだろう。「反戦平和」の問題はもっぱら「核」の問題となり、反戦=反核という意識の中で、それ以上議論が進まなくなる。」(p275)
cf.原水爆禁止運動―「巻き込まれない」=「被害者的」
「「あらゆる戦争に反対」という意識の根底には、ともすれば被害者意識に停滞しかねない「核時代」への「巻き込まれ」意識があり、戦争を生み出すメカニズムや、一つ一つの戦争に反対していく論理の深化を妨げる要素があったのではないか、と今日的に指摘することができる。個人にとっては「核時代」の現実はあまりにも巨大で、具体的な社会のあり方を変え、戦争そのものを廃棄していくための具体的な想像力を不徹底なものにとどめてしまったといえはしないだろうか。」(p276)
→久野収「市民的不服従」論―市民社会の論理を提起。ベトナム反戦運動の時期に広く共有。「あらゆる戦争に反対」論理の深化。
←他方で、社会主義者の「反帝反戦」論。―戦争の危険を根絶するための社会主義の世界革命。久野の議論は「ブルジョア市民主義」と非難。
*既に40年代末から上記の対立は発生し、戦後の「反戦平和」のあり方を規定する。
→両者の関係は、「心理主義」によって接合。この「心理主義」が「反戦平和」の内実を貧しいものにした。

B「反帝反戦」と「平和」―平和擁護運動
平和擁護運動―48年8月、ポーランドにて「平和擁護のための世界知識人会議」、49年4月20日〜25日にかけてパリとプラハで「平和擁護世界大会」開催。日本側も代表を派遣しようとしたが占領軍不許可。東京で平和擁護大会が開かれる。
→談話会のメンバーも参加したが、基調は「反帝反戦」だった。
←「非武装の平和」(平塚らいてう)からの批判。
その後、「世界大会」では「平和擁護世界大会委員会」が発足。同年(49年)11月には「世界平和評議会」と改称(共産党色が強くなり影響力が低下)。しかし、50年3月には「スットクホルム・アピール」を発し、(1)原子兵器の絶対禁止、(2)禁止を保障する厳重な国際管理の確立、(3)最初に原子力を使用する政府は戦争犯罪人である、(4)このアピールへの署名を、という四項目からなり、世界中で署名運動が取り組まれた。
日本でも「日本平和を守る会」(のち「日本平和委員会」)結成。49年10月の「平和擁護広島大会」では「原子爆弾の廃棄」が要求されている(他の地域では占領軍の圧力まり要求せず)。→被爆地である広島においてこの時期このような決議が上がった意味は大きい。「ストックホルム・アピール」に応じて、日本でも原爆被害の実相を伝え、原爆使用反対のアピールもされる。
「先に見たように、「平和擁護運動」が明らかに社会主義国に加担した運動であったとしても、「戦争はいやだ」という人々の意志を、「署名」という直接的行為で表現する、という社会運動への新たな−低コストな−回路を作り出したという点では、一つの行動上のイノベーションであったといえるだろう。」(p282−283)→その後の原水禁運動に繋がる。
Cf.広島市内にて「平和投票原爆写真展」開催。「原爆の図」巡回展も。

*この運動は革命運動の優先という前提がありながらも、それとは相対的には区別された位置付けを受けるという二重の運動構造を持つ。

C戦没学生と「平和」――第一次わだつみ会
1950年4月 「わだつみ会」発足。
―『はるかなる山河に』(47年11月、東大生のみ)、『こえ』(49年10月)、映画化(関川秀雄監督)50年6月、「わだつみ像」(本郷新)50年9月に完成。全学連も支援。
→50年4月8日「日本戦没学生記念事業会」(のち「日本戦没学生記念会」に名称変更し、平和運動組織体へと発展)設立。
*活動の特徴(岡田裕之)―戦没学生の遺書=手記から発した平和組織/機関紙(『わだつみのこえ』)中心・学生運動組織/過半が高校生。運動の頂点は53年8月の像除幕式(於:立命館大学)
→国際派の学生の吸収工作により運動が停滞、58年9月に解散。翌59年6月に再建。第3次「わだつみ会」時に加害責任の問題が深められる。この時期では、「日本遺族厚生連盟」(46年2月結成)が早い時期から加害責任をその機関紙上で取り上げていた。が、のち保守化(「平和遺族会」は80年代)。

3 朝鮮戦争のインパクト
@反帝反戦論による抵抗/民族的抵抗
1950年6月25日 朝鮮戦争
・和田春樹―「東北アジア戦争」
→戦後日本において初めての具体的な戦争への直面。そして、「この戦争に反対」を明確にしたのは日本共産党と在日朝鮮人。
日本共産党:50年問題直後の党内分裂状況。「東アジア革命の一環」→戦争の「当事者」へ。
在日朝鮮人:阪神教育闘争、「在日本朝鮮人連盟」(朝連)の解散(49年9月)。51年1月朝連の後継団体として「在日朝鮮統一民主戦線」(民戦)を組織、「祖国防衛」のため闘う。
→日本共産党の「民族対策部(民対)」が指導。祖国防衛委員会・祖国防衛隊が結成。朝鮮への武器弾薬の製造・輸出阻止、米軍の朝鮮半島からの撤退、日本の戦争協力への抵抗などに取り組む。*「戦争の機械を止める」
・非合法下の共産党の内部対立
→所感派:朝鮮戦争に介入せず署名運動のみ取り組む/国際派:北朝鮮軍・人民解放軍支持を掲げて署名運動に取り組む。*署名運動の停滞。が、朝鮮戦争にける核使用があり得た状況では、意義があったと評価すべき。
・「平和」を訴える運動の著しい制限―「非合法のゲリラ的集会」
・共産党の武装闘争路線(51年〜)―吹田・枚方事件(52年6月24日〜25日)=「大阪で闘われた朝鮮戦争」(西村)
「この時代がのちのベトナム反戦運動以降の時代と異なるのは、軍事生産を行おうとしている勢力に対する視線が、アメリカ帝国主義と結託した「買弁」という形で向けられており、いわば「向こう側」「敵」として位置付けられ(「敵」とされた中には、国鉄の労働組合で共産党活動家と対立していた「民同」幹部もいた)、戦争に加担する「日本(人)」自身の問題として深められていなかったことである。その背景には、「こちら側」「味方」に「日本人」ばかりでなく沢山の朝鮮人を含んだ「国際的」闘争であったことも関わりがあるのかもしれないが、その「国際性」が逆に「日本(人)」が東アジアの中で獲得しつつあった構造的位置への視点を見失わせることになった。」(p299)
→「掘り起こし」や「対話」は生まれなかった。「反戦」の共同経験(民族を超えて共闘する経験)として歴史的にもきちんとした位置付けが必要。
・武装闘争路線のなし崩し的転換(1953年→1955年)
*日本共産党:「軍事方針」を放棄。責任を死んだ指導者(徳田)と現場責任者に押しつけ「東アジア革命」から撤退。
→日本国内における反戦平和は日本人への純化(「国際冷戦」と「国内冷戦」の分割―坂本義和)
*在日朝鮮人:日本社会のあり方を党運動は「内政干渉」。「在外公民」として距離を置く。
→朝鮮送還反対運動の取り組み。

脇田憲一―「祖防」と「民戦」の闘いは独自の在日朝鮮人運動
武藤一羊―対米戦争の一部としての日本での闘争(武装闘争路線とは別個の問題があった)。当時の大衆運動を全て共産党の指導方針の誤りに帰着させても、大切なものを見落とす。

A「非武装中立」論の出発―平和問題談話会と総評・左派社会党
談話会:49年12月見解をまとめ、翌年3月『世界』に「講和問題についての平和問題談話会声明」と題され発表された。結論は「全面講和」。
→経済的自立(中国との関係)/憲法の平和主義から平和共存を積極的に作り出す/中立不可侵・国際連合加入・外国人基地提供反対*GHQや警視庁から睨み(「研究団体」として)
*独創的な国際政治認識の開陳(高橋進)
しかし→「この戦争」に対する視点の希薄/核抑止と平和共存、核軍拡のパラドクスへの無自覚(平塚他女性グループの反軍主義・加害責任追及)/一国平和主義(坂本)/中立路線の欺瞞(共産党)
→日米関係重視の傾向にブレーキをかける機能は果たした。

社会党:50年4月の党大会で三原則、7月に国連軍支持・北朝鮮軍非難。51年1月の党大会で左派主導により四原則(再軍備反対)を採択。
総評:50年7月GHQの肝いりで結成。
→高野実(津村喬の父親)が事務局長(二代目)になると「中立」へ方針シフト。
51年10月の党大会で、講和・安保両条約をめぐって左右対立が再燃し、分裂。総評は左派に圧力をかけ、分裂を促進。→談話会の議論がこの「平和四原則」を内容的に支える。

・講和=アメリカ主導の冷戦体制への日本の自発的統合
→中華民国、韓国、他アジア諸国との関係「修復」

*一般的厭戦気分と巻き込まれ被害者意識
→消極性と受動性。「特需」のなかで生活のチャンスをつかんでいくのが社会の体勢
「朝鮮戦争を通じて得られた「反戦平和」をめぐる思想と行動は、とくに行動に関してみるかぎり経験として継承されることなく封印された面が大きい。」(p313)
→「あらゆる戦争に反対」の立場は精緻化されたが、「この戦争」としての朝鮮戦争に対する明確な反戦の立場を打ち出せず、全面講和運動も「あらゆる戦争に反対」の延長に終始。
=内政問題を媒介に国際冷戦を意識する「中立」という新たな革新ナショナリズムの形成。

*坂本→国際主義ゆえの孤立主義(基底にある「戦争には巻き込まれない」)
「「日本」という空間が自己完結的な閉鎖空間として表象される回路を「反戦平和」運動が提供することになったのである。」(p314)
→冷戦体制のサブシステムとしての自らの位置を見失う。

B戦後社会運動史における「1955年」
通常の「55年体制」に加えて、共産主義運動/朝鮮人民族運動/労働運動における大きな転換を含む「社会運動史における55年体制」
石井修―「分断による安定」「力による安定」→「冷戦の55年体制」(「競争的共存」可能性の形成)

コメント(山本)
1.分析視角としての「東(北)アジア」の有効性とは
・(非リアリズム系)国際政治学の社会運動史への導入
→導入が単調な気もする。また、それこそマクロ的な歴史的史実の記述が多い(何か戦略があるのか⇔小熊[2002])。
・在日朝鮮人運動を戦後の「反戦平和」の文脈に最定位したことは評価できる
→すると、その後の在日朝鮮人運動の様々な葉脈も追いながら、「日本人」中心の運動との関係をどう描くかは重要(単に、日韓闘争→入管→指紋押捺という流れだけで押さえて良いか)。
・社会党=総評の路線に対する「革新ナショナリズム」規定があるが、左派主導の社会党が多分にソ連・中国にシンパシーをもっていたのは言うまでもないこと。それこそ「中立」主義はポーズでしかなかったという史実があったのでは。
・それでは、米ソ双方にも肩入れしない「反戦平和」の思想と行動の実践として評価できるのは平塚らの女性グループがイメージできるのか。その場合、政党としてどのような立場あり得たのか。高野実の路線に基づく総評をどう評価していくか。それが総評の路線になぜ成り得たのか(高野は「容共」という事実も含めて)その検討はもっと必要(道場の議論に労働運動論はあまりない)。

2.研究/運動の「対話」のために
・「対話」の重要性は分かるが、その内的な例えばどのような形で表出されるのか。或いはどのようなものをイメージしているのか?
・「対話と交流」の一員としての問題提起(p235)
→参考として灘本[2000]http://www.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/20001025.htm
・現在の「共同」志向に釘を刺す議論は大変重要。しかし、「心理主義」(坂本義和)という議論はイマイチ分かりにくい。むしろ、ポジティブな面もあるのでは。
・活動家の回想/総括、運動体の資料、国際政治学者及び歴史学者の知見を様々に配置することで諸運動の特性を多角的に浮き彫りにし、対話の回路を開こうというもの。
→いわゆる「共産党系」の運動に対する一定の評価を試みている。「人々」への眼差しを重視することは成功しているか(p234)。

3.最近の〈戦後〉・〈運動〉研究との比較(まだ思いつきの段階)
・小熊英二―〈戦後〉に自覚的に内在(道場はそれを自らの限界とする)。運動史論ではなく知識社会学・思想史論(『民主と愛国』)。
・すが秀実―56/68年論・思想史論・文芸論・学生運動論
*三者に共通するのはやはり「ナショナリズム」との位置取りの変化というところか。ありきたり?


第三章 「平和共存」と「革新」の時代(一九五三〜一九六四年) p317―437

"共産党の時代"から"社会党・総評の時代"
→「革新国民運動」―反基地運動、原水禁、護憲運動、警職法闘争、安保闘争の時代

1「平和共存」下の「反戦平和」
@「平和共存」と核開発
・アメリカの軍事同盟の叢生
・社会主義勢力の平和論
・戦争抵抗者インターナショナル(WRI)
・核開発の時代
・米ソの政治経済戦争
・「デタント」(一層の平和共存)と「中ソ対立」

A講和・安保体制と基地闘争
A 基地闘争
・行政協定(1952)以降基地闘争が盛り上がる
・基地闘争の幾つかの側面
基地そのものに対する闘争・それを支える安保条約等に反対する闘争
「はじめ個々の「現地」で闘われていた闘争は、多くの場合「超党派」で進められ、「革新」系の支援団体(労組・政党)の介入には懐疑的であったが、これらの支援を受け入れて全国的に注目された地域もあらわれた。「内灘」や「砂川」といった地名はそのようにして全国に知られるようになる。こうして基地反対運動の全国的な連携の動きも生まれている。」(p326)
・基地周辺の被害、子どもたちに与える影響の問題
→教師・父母の役割。日教組第2回教育研究大会、「日本子どもを守る会」(52年5月結成)、「基地の子どもを守る全国会議」の開催。『基地の子:この現実をどう考えたらよいか』『基地日本:うしなわれいく祖国のすがた』など。
・土地をめぐる"民族"感情
「この時期の「反戦平和」の運動としては、この反基地運動と次節に述べる原水爆禁止運動が大きな集約点となっていた。だが両者の間には性質の相違が存在した。反基地運動は、住民の生活防衛という直接的利害と戦争体験に基づく戦争忌避の心情、それに「巻き込まれ」論的な「反戦平和」とが混合したものとなっており、それは相互に異質な運動の担い手の結合をあらわしているとともに、個々人内部においてもそうしたものが混在していたということができるだろう。」(p329)

B 内灘闘争
・金沢市郊外内灘村の砂丘を米軍の試射場とするため接収しようとする計画(1952年)
→組織的反基地闘争の始まり。着弾地点での命がけの座り込み。清水幾太郎のコミット(左派社会党の姿勢を批判)

C 砂川闘争
・東京都砂川町(現立川市)米軍立川基地の滑走路延長のため立ち退き要求(1955年)
→非暴力・無抵抗(直接行動)を方針に。「衝突」―「流血の砂川」(56年10月)。この時期に総評は動員を見送る。全学連は支援。57年6月の測量時に基地の柵を壊し突入した学生・労働者が安保条約に基づく刑事特別法違反で検挙、が「伊達判決」で安保条約が違憲判決(後、最高裁で棄却)。
第1回原水禁に代表を派遣。「個別具体的には異なる課題が、同時代のなかでの連関を見出し、下から、つまり、当事者自身の訴えによって接合していく、という一つのプロセスを見ることができる。」(p334)→政党から持ち込まれる反安保・反基地の主張とは異なる。

D 北富士闘争
山梨県忍野村忍草では、戦後「北富士演習場」として接収された入会地を取り戻す行動(55年6月)→一部使用を認めさせる
・「忍草母の会」(60年夏)
→地元の女性たちの非暴力行動により闘争が継続
・アメリカの東アジア安保体制の転換
「この時期の日本における「基地闘争」は、東北アジア、東アジア大の軍事システムの再編、およびアメリカの軍事戦略の転換という事態を十分に対象化できず、軍事緊張の緩和、非軍事化への志向も弱いものであった。」(p339)
→沖縄、韓国の米軍基地の強化

E 沖縄土地闘争
・既に進行していた「全土基地化」―56年6月「島ぐるみ闘争」
個別の基地接収への反対を超えて、地域住民の主権の回復という特徴(阿波根昌鴻)
*砂川と沖縄の闘争のリーダーの交流

2「核時代」に挑む―原水爆禁止運動の出発
@シングル・イシューの「超党派」市民運動―ビキニ水爆実験と原水爆禁止署名運動
1954年3月 米水爆実験により被爆した日本漁船第5福竜丸―「死の灰」を浴び被爆
→「原水爆署名運動全国協議会」―55年1月までに2200万の署名を集める
<複数のテーマを含んだ原水禁運動>
(1)原爆投下の被害者である「被爆者」に即した救援・援護
(2)原爆投下の責任を問う
(3)核実験の停止と核廃絶・軍縮という課題
(4)核戦争へとつながる戦争への抗議・反対
「反帝反戦」論の立場から(3)(4)について取り組まれて50年代初頭の運動(「前史」)
→「前史」(ストックホルム・アピール署名運動、「原爆の図」巡回展)の組織的運動との断絶―自然発生的な運動。生活圏への危機感。
*東京杉並の署名運動―非被爆者からの始まり
→「この原子戦に反対」という意味での切迫性
・三崎町議会の原水爆禁止決議、衆参両議院、各地方自治体でも同様に決議があがり、同時多発的に署名運動が始まる
→既存の社会運動体はリーダーシップを取れず、それが幸いし、これまで「平和運動」に携わらなかった層も含めて「国民運動」が成立。
*保守系の地盤と思われていた地域が立ち上がったことの意義。
・「原水爆禁止署名運動杉並協議会(安井郁など)」結成―超党派、人道的運動。従来の左翼運動とは一線を画す
→(1)の課題と接合することの欠落。「ヒューマニズム」偏重。杉並方式の意義と限界(今堀誠二)。
→再軍備やMSAなどの問題に徐々に結びつけることが可能となった(藤原修)。
・「原水爆禁止国民大会」の開催―「原水爆禁止署名運動全国協議会結成(事務局長・安井郁)」(於:東京)。
→世界大会の提起。署名集約以降の運動の方向が明確化し、原水禁運動と広島が結びつく。
*54年4月「原水爆禁止広島市民大会世話人会」→54年9月「原・水爆禁止運動広島協議会」発足

A諸課題の連鎖の発見―第1回原水爆禁止世界大会
・「民衆運動による戦後初の国際集会」
・「特定の党派の運動ではなく、あらゆる立場の人々をむすぶ全国民の運動」
・手作りの運動
・被爆者の救援が位置付く―被爆者の語り
「こうして原水禁運動の柱となる第一・第三の課題が結びついた。だが、この二つの課題は担い手を異にするものであり、しばしば齟齬をきたすことになるだろう。第一の課題は「被爆者」としての当事者性において、原爆投下の責任についても追及の権利を得るだろう。これに対し、第三・第四の課題は、誰でも「主体」「当事者」たりうるのであり、その意味でまだそのことばは生まれていないが「市民運動」としての性質を強く帯びることになるだろう。また、後者が前者を「包摂」しようとするとき、原爆投下の「被害」を「国民」「民族」全体のものとする表象が用いられることになる。その要となるのは「唯一の被爆国」という表象である。」(p352)
*基地闘争との接続(前章)

B市民運動から組織運動へ―原水爆禁止運動の制度化
第1回世界大会後、原水爆禁止署名運動全国協議会と世界大会日本準備委員会が発展統合し、9月「原水爆禁止日本協議会(日本原水協)」が誕生(理事長は安井郁)。
→「運動」から「組織」へ。
第2回世界大会へ(於:長崎)
・「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が結成(56年8月)。
・「広島県原水爆被害者大会」(56年8月)―「被爆者援護法」制定要求
→第1回世界大会の成功により、初期原水禁運動から全国的に組織化された運動に発展する過程で、政治的利用価値が高まり大労組や政党などの組織の論理が介入していく。
*「超党派」という枠組みは第4回大会(1958年)まで保持
・58年のトルーマン発言
・第4回大会―「平和行進」、「核武装禁止宣言」

<まとめ>
@原水禁運動の論理―「あらゆる戦争に反対」
→差し迫る「原子戦争」というビジョンのなかで「この戦争」と「あらゆる戦争」が重なり合いもしていた。「あらゆる戦争に反対」することに偏重することでの危険は絶えず内包していた。
A運動の排外性―「唯一の被爆国」
→多様な「ヒバクシャ」、朝鮮人・中国人などの「被爆者」の存在を忘却することに繋がる
*1960年以降、深刻な分裂を経験

3 戦後「革新」の内と外―「護憲」運動から「新左翼」まで
@「新憲法感覚」と「護憲」
公職追放・講和以降という文脈の中で戦前的価値の復古
・1954年3月 改進党・自由党が各党に「憲法調査会」を設置。
→実質的には機能せず、岸内閣になってさらに沈静。
・1953年8月 「平和憲法擁護の会」結成(片山哲など)
→保守系にも働きかけを拡大
・1954年1月 「憲法擁護国民連合」結成(総評呼びかけ)
→左右社会党の統一を課題として。上からの運動。統一後は沈滞。
*55年体制の確立。革新・保守の対立軸が固定化。
→平和運動の原理=「少数派の思想」が体制の原理である憲法に織り込まれることで(憲法化)深化しなかった(坂本)。また、平和のための改憲阻止から改憲阻止=平和となっていった。
・自民党の改憲運動の挫折、共産党の「護憲」軽視。「憲法問題研究会」の発足など。
・1956年11月 愛媛県教委の勤務評定導入、全国化。
→57年1月日教組「非常事態宣言」、他の社会運動体との共闘、闘争も全国化。しかし、58年10月に42都道府県で勤評は導入(*京都府では都道府県では唯一阻止)。この地域共闘の経験は、警職法闘争に生かされていく。
・1958年10月 政府、警察官職務執行法の提出
→安保改定交渉の中での米側からの治安体制強化の要求(「内乱規定」との引き替え)。「警職法改悪反対国民会議」が結成、社共が独立以降初めて共闘関係を組み、組織外の知識人や市民が政党・労組に頼ることなく独自に運動を展開した「画期」(高畠→「市民の登場」)。
「デートも邪魔する警職法」のフレーズにより大衆化。10,11月と統一行動には80万人の参加し、廃案に。
・「革新国民運動」(高畠)
―「社会党・総評を中心として中央で組まれる「国民会議」と各地域での地域共闘とを結合しながら全国的な「統一行動」が展開されるとともに、そこには労組を中心とした大衆の街頭行動(多くはデモンストレーション)という新たな政治参加のスタイルを生み出した。そこには、高畠が指摘するように、「組織」に属さない個人たちが、少しずつ参加できる可能性が生まれていた。と同時にしかし、「共闘」の枠組みはあくまで社会党と総評の加盟労組を中心とした団体間共闘であり、議会政党である社会党の院内行動を大きく超えるとはできない、という限界をもっていた。」(p366)
石田雄:@丸抱えと勢揃いの問題、A自由な連合ではなく、一元的系列化の傾向
高畠:B政党等による大衆組織への影響力拡大と「遠隔操作」の弊害、C日常活動の欠如と組織による「動員」中心の活動
→戦後政治史におけるはじめての左翼政治勢力の結集であったが、個々の運動の積み上げから共闘を組み上げていくという形を取れず、左翼政治ブロックの強化という方向に進んだ。
・「新憲法感覚」の「定着」(松下)―戦後体制の勝利
→他方で、「ミッチー・ブーム」。両立していた。
・「ニューライト」の登場
→"復古"的な権威主義的改憲が頓挫し、「オールド・ライト」からの転換を図る自民党。
・「解釈改憲」により九条の「空洞化」。
→「護憲」運動の側は有効に対応できなかった。
・「護憲」派内部における分岐―民社党、社会党左派(協会系)、社会党右派(構造改革派)
→「構造改革派」:「革新自治体」の叢生。「護憲」論の豊富化と一方での内政に向けた深化。「護憲」運動は、日米安保強化・再軍備強化の動きへの対抗であるとともに、国際的な緊張緩和や国連改革に向けた外交の要求ないし民間外交へとつながるというよりは、軍国主義の復活反対という形で内政問題に終始する傾向を帯びていた。

A戦争体験と「反戦平和」
「反戦平和」の様々な担い手―「革新国民運動」の組織化とは別のベクトル、非政党的ないし政党からの自立を志向する活動
・「草の実会」―51年10月『朝日新聞』家庭欄「ひととき」、52年7月に投稿を受け付け。全国化するのが55年1月。人々を結びつけた「根」としての「共通の戦争体験」。『草の実』創刊(55年5月)、「総会」開催(55年6月)。
→トップダウン式ではなく、「誰も旗をふらない」「井戸端会議」式。のち、勤評・警職法・安保の運動に関わる。「決定よりはプロセスを大切に」「行動の統一ではなく、方向の統一を」という形で、即行動ではなく、勉強して納得してから行動に出る。メンバーの固定化。
「草の実会50年の軌跡は、女性たちの戦争体験から出発した自発的な討論と行動のあゆみでもある。」(p377)
・「日本母親大会」―1955年6月7日〜9日、世界母親大会への代表派遣の選出という動機から。日教組、日本子どもを守る会、婦団連、生協、単婦協など60団体で構成。2000人の参加。「涙の大会」。
「母親大会は戦争体験と「平和」、そして女性の暮らしを結びつけるところから出発した。」(p380)
「この54年から55年の動きをみると、原水爆問題と基地問題を触媒に、教員組合や子どもを守る会と女性の動きが活発化し、これが労組、政党と結びついて「護憲」「平和」の動きが活性化していたことがわかる。」(p380)
・「第二次わだつみ会」―59年9月に再建。正統から距離を置き、学徒兵にこだわることで戦争と平和を考えていこうという姿勢。『きけわだつみのこえ』再刊。『こえ』第2集の刊行。
→「戦争体験の思想化」(山田宗睦)が目標として掲げられる。この時期にはあまり受け止められなかった。60年代後半以降、「あらゆる戦争に反対」「加害者意識」という形で本格化する。

B「新左翼」の登場と「平和共存」批判
・「新左翼」の誕生(1956年)―「平和共存」批判、「世界革命」論
→中ソ対立という文脈。
@「日本革命的共産主義者同盟」―トロツキズムの流れ
A「共産主義者同盟」―学生党員・全学連活動家→60年安保で解体(*第1次分裂)
B「構造改革派」(共産党内)―伊構造改革路線から共産党内分岐として登場(*のち、社会党に合流、もしくは、武装闘争化)。
→@Aは「平和共存」に批判的、Bは支持し、「革命運動」と「平和運動」を分ける。
「いいかえるなら、前二者は「反帝反戦」論に基づいて革命運動をすべてに優先させ、反戦平和運動もその革命戦略の一環として考えられた(いうならばレーニン原理主義)のに対し、最後者は平和運動固有の可能性を追求するという意味で、運動の多元主義的展開を可能にしたのである。」(p384)
・「新左翼」の「反帝反戦」論とそうでない「反戦平和」の行動との近さ―「あらゆる戦争に反対」
*欧米の「新しい左翼」との共時性

4 60年安保闘争
60年安保―「革新国民運動」の頂点であると同時に、その衰退の始まり
@日米安保条約の改定
1958年10月 改定交渉→岸内閣、憲法調査会を設置
1959年3月 「安保改訂阻止国民会議」の結成―134団体の参加
→総評をまとめ役としたあやうい"共闘"。運動はなかなか盛り上がらない(「安保は重い」)
・「安保問題研究会」「安保批判の会」
→キャンペーン、大衆請願と国会行進
・「全学連」
→直接行動(岸訪米時、羽田に座り込み)
・5月19日 衆院本会議での強行採決以降、運動が盛り上がる
・6月4日 総評の政治ゼネスト(計560万近くが参加)
・6月10日 「ハガチー事件」
・6月15日 樺美智子の死
・6月19日 「自然承認」→以後、運動は沈滞に向かう

A動員と参加
・日当300円の労組も動員力は厳しいものがあった
・国会での討議が白熱しだしてから徐々に活気付く(4月20日以降)
・「国民会議」―「国民大行進」「請願署名運動」を展開し、一定の成果を出す(地域共闘組織700→1200)
・「国会請願」―運動参加の意味を個人の内面深く根づかせ、そこ以外には出発点のありようのない運動の最底辺としての個人の自発性をゆり動かそうとする(日高)。
→清水幾太郎「いまこそ国会へ 請願のすすめ」(『世界』)―予定調和的な闘争になることを危惧。「国民議会」の「整然たる請願行動」を批判。全学連との「共闘」。
・竹内好(民主か独裁か)、藤田省三(運動の広がり)
・電話というメディアの活用
・戦後民主主義の担い手―社会党に票を投じる未組織の大衆の可視化(高畠)
→「組織」は自らの民主主義観を反省し刷新すべき(藤田)
・「市民」の登場―「声なき声の会」「地域での市民の集まり」
→「声なき声の会」―「思想の科学」に集まっていた人々。デモ当日は二人。「安保批判の会」の後をくっついて歩き出す中で徐々に人が増えていった。
「こうして「動員」によって運動を組み上げるやり方とは異なる、「市民」としての自発的な動きがあらわれた。それは「声なき声の会」にとどまらず、多様な形であらわれたのである。60年代を通じ、「市民運動」は拡大していくだろう。」(p409)

B市民としての抵抗―安保闘争が残した思想
・荒瀬豊―「国家による戦争をとめるということに、現在の平和運動の基本的な要件がある」「絶対平和主義」「自国の政府に責任を持つこと」
・抵抗権―竹内、丸山、「思想の科学」研究会 
・「思想の科学」―「緊急特集・市民としての抵抗」
久野収:「市民主義の成立」―反安保を通じて思考作業としてのみ設定されていた「市民」像が具体化した
鶴見俊輔:「根もとからの民主主義」―「私の根にかえって国家をつくりかえてゆく」「われわれにはいまから、この憲法をつくることしかない」「非暴力」

・日本共産党の「前衛」神話の崩壊
「新左翼」の登場―「擬制の終焉」(吉本隆明)

C不服従の遺産―安保闘争が残した運動
・戦後の「反戦平和」は幾つかの動きに分解
「一つは前後「革新」主流としての社会党・総評ブロックと共産党による旧来型の「国民運動」。一つは、既成左翼を乗り越え、「世界革命」を復権させるラディカリズムである「新左翼」の流れ。「新左翼」においては、「敵」は「復活」した「日本帝国主義」となり、「反帝反戦」論をリニューアルすることになった。もう一つは、個々人の立場から戦争に反対していく無党派市民の流れ。最後者の流れには、40年代に久野収が提示したような「市民的不服従」の思想と行動を実践していく要素があった。」(p417)

5 「侵略の核」と「平和の核」―原水爆禁止運動の分裂
・「反帝反戦」論的平和論と「絶対平和主義」的平和論との間の本質的差異
@「分裂」の序曲―第4〜6回大会(1958〜1960年)
・1958年第4回大会―勤評闘争をめぐる「幅か筋か」論争
→運動の「幅」を重視して「あらゆる立場の人々をむすぶ全国民の運動」とするか、「筋」を重視して「反帝」闘争の性質を強めるか、といった論争である。結論は、運動の幅を広さをできるだけ保障しながら、運動の方向を具体的に提起してゆくべき。
*武藤一羊の批判(「二者択一にしている現状を克服」)、吉川勇一の指摘(迷走する共産党系運動)
・1959年第5回大会―「嵐の中の大会」
→原水協は「安保改訂阻止国民会議」への参加を決定。安保闘争に忙殺。第6回大会は安保闘争の政治性がそのまま大会の内容に反映され、「反帝反戦」論そのままの内容となった。

Aソ連の核実験をめぐって―第7回大会(1961年)
・1961年第7回世界大会―準備過程における、「日本青年団協議会(日青協)」「全国地域婦人団体連絡協議会(地婦連)」は、これまでの原水協路線(平和の敵と味方を区別)を批判、総評・社会党もいかなる国に対しても原水爆禁止について働きかける。
→世界大会決議は、共産党系の人々が押し切り、「平和の敵」=アメリカ帝国主義という路線。*決議を押し切れたのは共産党系の活動家が熱心に地域で活動してきたことが挙げられる。「四団体声明」(大会後、8月14日)も実質は効力を発揮せず。
・1961年9月1日 ソ連核実験再開
→原水協担当常任理事会声明―核実験再開には反対、しかし、ソ連を追い詰めた情勢にも注意を喚起。広島では実験抗議の集会。共産党は「ソ連核実験支持集会」を行う。
・1961年の大会後、社会党・総評は「体質改善委員会」を作り、原水協の方針転換に介入。
→62年3月原水協全国理事会「原水爆禁止運動の基本原則」を採択。積極中立路線を確認。しかし、第8回大会(1962年)では地方代表が共産党系のため、「基本原則」は「少数意見」として否定された。8月5日、ソ連核実験。ソ連の核は平和の核として、緊急動議も採択されなかった。大会最終日、社会党・総評など11団体が大会から退場、共同声明を発表(今回の事態は遺憾であり、運動を再建する)。

B「いかなる国」と部分的核実験停止条約をめぐって―第9回大会(1963年)
・第8回大会以降、原水協中央は機能停止。社会党・共産党・総評の三者会談。
・広島原水協が世界大会開催に名乗りを上げる。
・63年7月25日、部分的核実験停止条約がモスクワで結ばれる。
→社会党・総評は支持、共産党は地下核実験が禁止されていないことを理由に反対。「いかなる国」問題とともに、三者会談は暗礁に乗り上げる。広島原水協の大会運営を白紙委任することを多数決で押し切るが、代議員の多数派を確保できない社会党・総評は開会総会をボイコット、広島原水協も運営を返上し、共産党系の大会となる。
*社会党・総評の「引きまわし」と共産党の「硬直」
→"党派"から自由なところで議論を始められるような初期条件がない、ということにしばしばなってしまう。
・共産党の"迷走"ぶり
「死の灰は甘んじて受けます」「被害者づらをするな」、ソ連批判・中国支持→中国批判、議会主義政党・第三世界解放闘争支持という「ねじれ」
cf.上田耕一郎論文(『思想』)
・1964年―「原水爆被災三県連絡会議」結成、第10回原水禁世界大会開催
→被災三県連、総評・社会党系が合同し「原水爆禁止日本国民会議」(65年)結成
「規模においては縮小したが、原水禁系では「反帝反戦」論と縁を切って、新たな運動に歩み出すことができたし、原水協では共産党の路線の変動がただならぬ混乱を引き続き起こしてはいたが、献身的な活動家を多く抱えることもあって、規模を維持することもでき(ただしそれは「一枚岩」の組織という「前衛党」類似の「旧い」というほかない組織原理によってであるが)、70年代以降は国連に対する働きかけという独自の運動課題を発展させていく。そういうイノベーションを生み出しながら、しかし、党派に引き裂かれた原水禁運動、というイメージは、運動に対する関心を低下させたことは否めない。」

C分裂の余波
・「母親大会」―66年大会で総評・日本婦人会議・日教組といった社会党系の団体が参加しなくなり、婦人民主クラブ、日本婦人会議、草の実会はいずれも60年代末に脱退。杉の子会は64年12月いっぱいで日本原水協への加盟を中止。
*77年〜85年までの原水禁・原水協両者の「統一」世界大会
・「科学者京都会議」(62年)
→共産主義が当然のものとして発想の根本においていた「反帝反戦」論の宿あ
「元来なされるべきであったのは、いずれの国の核実験を「正義の核実験」とするか、というイデオロギー戦ではなく、核兵器それ自体がもつ破壊性、残虐性を見据え、核保有国に軍縮、廃絶を迫ることであっただろう。また、自国の核武装や核戦略体系への依存を批判していくのも必要な作業である。だが、運動が共産主義の物語によって翻弄され、失ったものはあまりにも大きい。「国家」単位の世界戦略に自らを同化させる「反帝反戦」論の最悪の姿がここにあらわれてしまっているのである。」(p436―437)
*核保有国における自国及び自国植民地への原爆投下―「内戦」「国家テロリズム」

<論点>
・「市民」の登場―警職法闘争から安保闘争へ
・構造改革派に対する評価―多元主義と内政化
・共産党の「捩れ」と「迷走」
・「心理主義」(坂本)について。p358

補足―坂本義和『地球時代の国際政治』(1990、岩波書店)
「こうした観点から、私はかつて権力との関連において民衆運動を二つの型に分けて考える必要があることを述べた(「権力政治と平和運動」『世界』1961年11月号)。あえてそれを繰り返して要約すれば、第一の型は特定の権力を否定して新たな権力でおきかえようとする、いわば相対的な反権力運動で、独立運動と革命運動とがこれに含まれる。第二の型は権力一般を否定する、いわば絶対的な反権力運動で、平和運動と民主主義運動とがこれに入ると考えられる。第二の型は、この意味で、この世に権力政治と権力支配とが存在する限り、いわば無限運動ないし永久運動の性格をもつものと言えよう。こうした区別を自覚していることは、運動が国際的な権力政治に固く編み込まれている現代においては、特に重要な意義をもつこをは繰返すまでもないであろう。」(p171―172)
「ところで戦後日本の平和運動の第一の問題点は、まさにこうした運動の論理構造の区別が明確にされないことに立脚し、それに依存さえするという傾向を持ってきた点にあると考えられる。仮にこれを平和運動における心理主義的アプローチと呼ぶことにしよう。「心理主義」という意味は、論理的・原理的には性格を異にする運動を、ここでは明確な区別や差異の自覚なしに、もっぱら心理的に媒介することによって、運動のエネルギーを調達流用しようとする傾向がリーダーの側に見られるからである。」(p172)
→心理主義の破綻―安保闘争、原水爆禁止運動
「このような状況を克服するためには、先ず第一に、運動のリーダーシップ自体における心理主義的な抱合わせや流用をやめることが不可欠であろう。もしそれぞれの運動の区別が明確に自覚されているならば、たとえ他の運動がどうであれ、戦争と平和に関する運動は、それとして持続することが可能であろう。もちろん運動の論理的差異を指摘することは、性格を異にする運動が本質的に、あるいは常に矛盾し合うなどということを意味するのではない。ある意味では、性格を異にする運動の間でこそ、はじめてエネルギーの真の相乗作用が成り立ちうるとも言えるだろう。また運動の論理に差異があるからといって、運動の究極目的が異なるという意味ではない。平和運動も民主主義運動も革命運動も独立運動も、究極的には人間の解放を目的とするだろうし、またそうでなければならない。しかしここでの問題は、その目的を達成する方法の論理的区別にある。このような区別の自覚を媒介として、はじめてそれぞれの運動の意味が明確になるのであり、このことは、それぞれの運動を、またその複合を、強力に推進するための大前提にほかならないはずである。」(p178―179)


第四章 ベトナム反戦運動とパラダイムの革新(一九六五〜一九七四年)pp438-508

○1960年代中盤以降の「反戦平和」の特徴
・「新左翼」と「市民運動」の大きな伸張。ベトナム反戦運動への取り組み。
⇒「新左翼」:党派・無党派の学生による大学のあり方や近代社会を問う射程を持った「全共闘」運動による問題提起⇒「鎮圧」。
⇒「市民運動」:分野の多様化と「無党派」の運動としての共通認識
・社会党・共産党は健在。市民運動との連携による「革新自治体」が生まれる。
・「新左翼」セクト、「革新国民運動」の衰退。「市民運動」が残る。

1 1965年
・米ソの緊張緩和、中ソ対立の激化、アメリカによるベトナム介入の深化
・ベトナム反戦運動の開始
・日韓基本条約の締結:1952年からの国交正常化交渉。賠償の棚上げ=有償・無償の経済援助による処理。背景としてのアメリカの圧力、冷戦型開発独裁政権=朴政権の日本資本導入による政治・経済安定化路線。

2 ベ平連運動――その行動
@ベ平連運動のはじまり
・1955年ジュネーヴ協定以降のアメリカの軍事介入。1964年8月トンキン湾事件。1965年2月北爆開始。
・1965年2月東京での抗議デモ、4月小田実・開高健ら21名「ベトナムに平和を!」のデモの呼びかけ、1500名の参加。「ベトナムに平和を!市民団体連合」が発足。
・多様な課題(住民運動、反差別、大学闘争・・・)に対する社会諸運動が互いに影響を与え合いながら展開された時代。社会のあり方を複合的に問い掛けていく新しい問題圏。ベトナム反戦運動:「反戦平和」という課題を問題圏に投げ入れ、新たな市民による国際連帯と「平和」を考える視点を散種。
・社会運動の新規参入者が含まれ、戦後日本の社会運動との連続/非連続の両面を備えた運動。
・スローガン:「ベトナムに平和を!」「ベトナムはベトナム人の手に!」「日本政府はベトナム戦争に協力するな!」
・行動原理:組織ではなく運動である=組織の固定化が生み出した弊害を超えるための良識の確保の試み。「本部」―「支部」関係なし。会員制度なし。固定した組織なし。「言い出した人間がする」、「人のやることにとやかく文句を言わない」、「好きなことは何でもやれ」という三原則。

Aデモからの広がり
・行動としてはまず何よりも「デモ行進」 例)毎月デモ、毎日デモ
・「安保反対」すら掲げず、ベトナム戦争に反対する人々を集めていた。「安保」という課題を運動の中で発見していった。安保の主力(労組、政党、その他の大組織)が敏速な行動を起こせないでいるときの大衆的昂揚という背景なしに組織された。
・アメリカの反戦市民運動との連携:市民の国境を越えた連携による国家権力・国家原理を超えることが目論まれる。1966年非暴力運動活動家 ハワード・ジン、ラルフ・フェザーストンとの出会い:非暴力直接行動と直接民主主義に関する理念の衝撃力:市民的不服従の方法(良心的兵役拒否、脱走兵の動きは戦争体制下での個人が国家に言うままにならない不服従の行動)。

B脱走兵援助運動と「反軍」
・第1期1967-68:責任者・栗原幸夫
ソ連経由でスウェーデンに逃すルート。米空母「イントレピッド」号からの脱走海軍兵。映画『イントレピッドの四人』。JATEC(反戦脱走米兵援助日本技術委員会)。
・第2期:責任者・高橋武智
家々を異動しながらかくまい続ける「地味」且つ大変な仕事。多くの女性が担う。エスニシティの多様さ。
・JATECの方針転換:脱走をしない軍隊内の闘争への支援。反戦GI運動の開始:反軍の呼びかけ。
・入管問題や収容所の歴史などの掘り起こし
・基地の解体という課題の発見。例)航空基地の機能を停止させるための「タコあげ」
・戦争機械を止める運動:燃料・弾薬・戦闘車両の輸送阻止闘争 例)1972相模原戦車輸送阻止闘争:市民による非暴力阻止行動と「革新自治体」飛鳥田横浜市長による法令を駆使した遵法闘争

C非暴力直接行動
・ベ平連の行動スタイルへの突き上げ⇒非暴力直接行動を主眼とする「安保拒否百人委員会」の活動開始。逮捕覚悟の座り込み闘争を主軸に、安保条約に抵抗する個人の集合体。70年安保闘争以降、横田基地解体運動、三里塚闘争へ。
・直接行動:暴力/非暴力のきわどい部分を横断。暴力ともなり非暴力ともなる人間の力に向き合う。暴力/非暴力は合法/非合法とは異なる価値軸による⇒吉川pp456。
・デモという場:ベ平連が「革新政党」や「新左翼」諸党派の接着剤役となり、共同行動が数万の単位でデモ行進を可能とした。党派の衛星団体化を防ぐ。
・「この戦争への反対」⇒「あらゆる戦争への反対」へと拡大。「この戦争」の不正追及を通じて「冷戦」(世界の現実)が可視化された。

3 ベ平連運動――その思想とことば
@「加害者/被害者」論:小田実
・戦争:人間を加害者と同時に被害者の立場に立たせる⇒pp459
・加害―被害の連鎖を断ち切ることのよりどころとしての「市民的不服従の原理」。他者との関係を含んだ形での国家と個人の問題を提起。マルクス主義者の構造決定論による加害性の指摘、国家による被害者という個人像を相対化・止揚する。

A「国民としての断念」:鶴見良行
・「国民であることを放棄する」という意味での「国民としての断念」を提起
・鶴見pp461:平和運動=国民としての立場の否定。個人の次元。断念から国家権力への抵抗・反逆。ナショナルなものに向き合いつつ、克服していく考え方。
・日本という国家がベトナム戦争に加担する全体的な構造の把握と離脱・変容の立地点:ベトナム―沖縄―安保―アメリカという日米を基軸とする基本的政治構造への気づきと「わが内なるベトナム」。

B戦後民主主義の再定義:武藤一羊
・武藤pp465:「平和運動」を超える「反戦運動」の可能性:抽象的国民的大義名分に依存しない、現状変革、人民の直接的・自立的運動、判断基準としての行動
・護憲運動としての平和運動への批判:軍事大国日本の加害者性への批判は、平和憲法のベールの欺瞞性の批判へ。
・脱走兵の問題提起:「亡命の思想」が「国家を超える原理」?人間を支える原理、市民的不服従を支える原理、市民的不服従を支える原理としての「憲法」
・安保闘争と平行した沖縄「復帰闘争」:本土の憲法は沖縄をゆずり渡すことによって既に失われているのでは?本土復帰=実体としての「平和憲法体制下への復帰」ではなく、憲法のもつ非戦と国家終滅の理想/可能性の回復⇒「反戦復帰」闘争。条件闘争ではなく、冷戦体制下の沖縄の構造的位置・役割の克服という「反システム」運動。

C「この戦争に反対」から「あらゆる戦争に反対」へ
・「この戦争に反対」する中から「反戦平和」の思想・行動の練り上げ

4 「70年安保」をめぐって
@「新左翼」と「70年安保」
・「新左翼」へのシンパシー:市民運動との重なり、共産党とは異なり特定国の支持なし、反対の強い意志と直接行動、純真さ
(1)反戦青年委員会(「新左翼」系労働者にとっての共闘)
・社会党・総評の指導⇒組合内の急進的青年労働者による活動家集団としての自立(砂川闘争)⇒各党派への系列化と社会党本部からの絶縁(沖縄返還粉砕闘争、70年安保)⇒縮小再生産
・タテ割の労働組合組織の中で労働者による直接行動的な「反戦」闘争をヨコにつなぎ展開
(2)三派全学連:実力闘争を追及した学生運動の結集体(中核派、社学同、社青同)
・反安保闘争(ベトナム反戦、1967佐藤首相ベトナム訪問阻止闘争、1968原子力空母エンタープライズ佐世保入港阻止闘争)、砂川・三里塚闘争
(3)全共闘(全額共闘会議):自治会の代議制民主主義とは異なる、活動的な学生の直接参加による闘争機関として結成。大学という場、近代的な知の制度を問題化。

☆新左翼諸党派:旧左翼以上に革命主義/社会主義的発想を持つ
⇒旧左翼の制約、閉鎖的な平和意識、「平和憲法」の欺瞞を鋭く批判したラディカルな主張のステロタイプ化によって、非武装国家の理念を実践的・具体的につめられない

A沖縄施政権返還と基地問題
・「復帰闘争」の盛り上がり:ベトナム反戦、B52撤去、原子力潜水艦機構阻止、反基地・反安保闘争など
・「返還協定粉砕」を掲げて沖縄の「復帰闘争」と「本土」の反戦市民運動が1969-1971を闘う。70年安保:沖縄に対する日米共同管理体制(片面講和)の確立への闘争。
・日米安保条約に対する抵抗が、沖縄において、反基地・基地被害補償・社会の非軍事化・戦争責任問題といった多様な課題を貫く柱として接合する。
・都市問題としての基地問題:革新自治体の発展による遵法闘争。公害闘争としての読み替え(逗子での「環境権」による反基地運動)。


5 ベトナム反戦運動の遺産
@ニューレフトの「文化革命」 ※ニューレフト:新左翼諸党派と市民運動の総称
・政治文化の相違と社会感覚/サブカルチャーの共通項
(1)好みのスタイルで行動する自発性
(2)自己否定の論理:自己の位置の発見の論理
(3)ニューレフトの主体的条件:街頭と集会場だけが許された行動の場。都市生活者の剰余価値によって支えられた運動。1960年代後半の世界工業資本主義国での新左翼運動の出現の背景?自己相対化できないひ弱な人間の再生産に基づく現代日本社会⇒文化を少しずつ組み替えていく運動へ
(4)ニューレフトの遺産:武藤pp487-488

A非暴力の思想と行動
・石田雄『平和の政治学』1968
・向井孝「非暴力直接行動論ノート」1967、「現代暴力論ノート」1970:「擬似非暴力体制」の解明。<暴力>についての根底的な思考。権力=非暴力/抗議・抵抗=秩序の侵害・暴虐の主体という表象⇒不可視化された暴力の可視化としての「非暴力直接行動」。

B民衆法廷の思想
・ベトナム戦争時のラッセル法廷1967:冷戦対立構造の中で問われない戦争犯罪や人道に対する罪。
(1)アメリカによるベトナムに対する戦争犯罪の違法性の論証・確認
(2)アメリカを裁ける国際法廷の不在
(3)民衆法廷の構想・実現による国際法への問題提起

C諸課題の拡散と深化
・「反戦」=抵抗の根の掘り下げと運動の課題の多様化・拡散⇒共同の抵抗の基点は軍事化された社会構造への抵抗
・アジアと向き合う新しい学問へ:軍事化する世界の検討のフィールドとしてのアジア
・途上国女性の性的搾取を問うフェミニズムの運動/研究:性支配と軍事化の接合の問題化
・原水爆禁止運動における加害者性の認識の拡大(朝鮮人被爆者問題⇒「再び加害者にならない運動」へ)
・「被害」についての検討の深化:わだつみ会
内部での「戦争体験の思想家」⇒天皇制の問題化[1970年第三次わだつみ会]。
『きけわだつみのこえ』を「加害」「被害」の相互検証のための読み込み・語り合いを通じた「継承」の可能性/不可能性に向き合う。


コメント
1.運動の広がりと深化の両義性:
党派の固定的な組織形態による分裂から流動的な場・運動・ネットワークへという流れ
⇒「差異」をふまえた「共同行動」の可能性と限界、運動内部・路上のコンフリクトをどのように捉え、応えるか?⇒吉川pp457

2.内面化している警察力・社会性の強さ:当時とのギャップ

3.憲法の反国家性?可能性としての憲法あるいは構成的権力が「暴力」として骨抜きにされ、<鎮圧>されたプロセスの検討へ。憲法の可能性の条件とは?関係性において表象・コンテクスト化の暴力の発生を細微に検討すること(例:中心―周辺関係の脱臼としての<周辺>と<鎮圧>の歴史。政治権力による「社会的暴力」を「暴力」としては不可視化する「擬似非暴力体制」としての現代社会・国家(pp492)=クリーンなストリートデモ!)


第五章 「新冷戦」から冷戦の終焉へ(一九七五〜一九九〇年)

 「過渡期」

1 構造的暴力と「軍事化」――「平和学」の登場
 @「構造的暴力」
  ヨハン・ガルトゥング「構造的暴力」(1961=1991)
 「消極的平和」→「積極的平和」=「新しい社会運動」の課題と「平和」の課題が連結
 *ヨハン・ガルトゥングから岡本行夫へ

 「開発」の問題 「自由主義的発展論」→「内発的発展」

 A「軍事化」と「平和学」の課題
 第三世界の「軍事化」=緊張緩和ゆえの紛争
 日本の「軍事化」→「非軍事化」を意識した運動

2 「義勇軍」から「NGO」へ――"国境を超えたつながり"の転換
 「正義の戦争」という観念の衰退

 @「NGO」というアクター
 ・1970年代後半から市民権を得る
 ・活動そのもの、というよりも、「NGO」の活動スタイルを認識することで発想を転換すること
 *スタイル
 ・この段階(1986年)では「平和」「軍縮」に関連した「NGO」の像がシンポジウム設定者の側にも十分に見えていなかったのではないか

 A社会運動とNGO
 ・実践的な関わり
 ・新たな課題領域を切り開いた(p.527)

3 「原水爆禁止運動」と「反核運動」――運動の再定義
 ・米ソ核軍拡が再び激化

 @原水禁禁止運動の「統一」とその崩壊
 ・「統一」と多様性の抑圧

 A反核運動の高揚
 ・欧(米)反核運動の高揚とその影響→イラク反戦(p.553)

4 深まる「安保」と「軍事化」に抗して――反戦市民運動の展開
 "地味"な作業

 @ガイドライン安保と反戦市民運動
 ・「社会化された安保」との対決=構造化された戦争体制の非軍事化
 ・自己と他者の"関係の発見"の論理

 ・基地の監視と強化反対&戦争の記憶や戦争責任をめぐる認識&天皇制

 ・具体的な戦争のないところで「安保」の問題を市民に提起することの難しさ(p.572)

 A良心と抵抗――改憲・靖国・天皇制
 ・国家主義の強化や歴史修正主義による戦争責任問題へのバックラッシュ
 ・個人の良心、という領域が「反戦平和」の問題と結びつく重要なテーマ

 ・「歴史」「責任」
 ・「草の根」保守



第六章 ポスト冷戦と現在――「反戦平和」の再定義(一九九〇年〜)   

1 湾岸戦争からPKO派兵へ    
@ 湾岸戦争
「平和協力法案」の国会提出(90年10月)→廃案
「人から呼びかけられる前に自発的に動き出す無数の市民、市民グループを生み出していた。その一つ一つは小さいものであり、大きな運動へと「動員」「流し込み」をすることは難しいが、「ネットワーク」によって同時多発的な展開や、「中央」をもたない運動を作り出すことができる」(p583)→民間機のチャーター運動、市民平和訴訟、意見広告運動
→「憲法の非武装主義と政府の軍事増強のギャップ」(池田五律)を突く運動
小田実「良心的兵役拒否国家」論
文学者による「反戦」声明(⇔産経新聞「多国籍軍に感謝する声明」)

・ NGO活動の活発化
グリーンピース・ジャパンのレポート「湾岸戦争は組織的な環境破壊」、集会「湾岸戦争と環境破壊」、JVC、PARCの中東への調査団の派遣→「劣化ウラン弾」問題
国際戦犯法廷(米・クラーク元司法長官による)

・ 市民運動が直面した問い
A.「国連中心主義」をどう考えるか
B.「一国平和主義」批判や「国際貢献」論にどう批判するか
「このとき「国連中心主義」に対する回答としては、小田のように「良心的兵役拒否国家」概念を提示するか(日本特殊論)、大国協調以外のところに国連の理想を設定し、そこから批判するか(「不正な戦争」)、または問題解決の方法として「非軍事」による方法の有効性を説く(「非合理な戦争」)、という方法が考えられた。」「これに対し、クラークのように、国際法を厳密に適用しながら戦争の「正義」を覆すという戦略も成り立つ。多くのNGOや市民運動が採用したのはこちらの方法であった。」(p588)
「「金も人も」という「国際貢献」論に対し、「人」を送ることは軍を送ることとは別だと反論しながら、「反戦平和」運動は、その「人」による「非軍事」の実績を示すことができなかった。」(p589)

A PKO協力法と海外派兵の時代
ペルシャ湾への海自掃海艇部隊の派遣(91年4月)、「PKO協力法案」成立(秋→92年)
「市民投票」、「自衛官110番」、『派兵チェック』創刊
→NGOと市民運動の連携の動き、各地の運動のネットワーク化、「反派兵」の課題化

・ 「国連中心主義」と「国際貢献」論の問題
「<共同提言>「平和基本法」をつくろう」の発表(『世界』93年4月号)
cf)小沢一郎『日本改造計画』での「積極的平和主義」

・ 沖縄基地問題
95年9月女子中学生への拉致・暴行事件→「県民総決起大会」(8万5000人)
→「本土」の運動系:「新しい反安保行動をつくる実行委員会」の結成
→女性運動系:「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の結成
→韓国との連携:「米軍基地に反対する運動を通して沖縄と韓国の民衆の連帯をめざす会」

B 問いとしての「戦後」―戦後補償運動と「記憶の戦争」
・ 元「従軍慰安婦」の告発と戦後補償の要求
→アジア各国の民主化、市民運動のグローバル化、国際的な人権に関する法の普及と整備
→「バックラッシュ」現象(「自由主義史観」「つくる会」の活動)
→「女性国際戦犯法廷」(2000年)、「ハーグ法廷」
・ 国会における「戦後50年決議」、「歴史主体」論争、「アジア民衆法廷」→「戦後責任」
・ 「アイヌ新法」、水俣病「政治解決」、「被爆者援護法」
・ 原爆をめぐる問い→スミソニアン博物館「原爆展」中止、国際司法裁判所「核兵器の違法性」


2 ガイドライン関連法とイラク反戦運動    
@ ガイドライン関連法以後の安保強化
「日米防衛協力のための指針」策定(97年)→関連法成立(99年)
運輸・港湾関係の労働組合の動きが活発化→「二〇労組」枠組み
→「朝鮮戦争時並みの状況」、民間の動員、後方支援基地化という動き⇔労組の抵抗
「テロ対策特別措置法」(01年)、「有事関連法」(03-4年)

「動員体制づくり」の拡大解釈への疑問:
「「大変だ」だけでは、私たちは必要以上に手足を縛られて、袋小路に入ってしまうのではないでしょうか。だから、「大変だ」と同じくらい大事なのは、そのずれに着目することだというのが私たちの一貫した主張です。」(p604、新倉祐史)
「法案阻止の運動は、「ここで突破されたら最後」という「最大級の危なさ」を意識した「決戦」になることが通常であるが、それに敗北することが、将来の敗北をあらかじめ受け入れることにつながってはいけない、という、"持続"への意思がここにはあらわれているといえる。」(p605)

A 「9・11」以後の「この戦争に反対」
「CHANCE!」 :インターネットを活用したキャンペーンや情報交換
「テロにも報復戦争にも反対!市民緊急行動」
ジャパンプラットフォーム「アフガン復興支援NGO東京会議」
「二〇労組」による有事法制反対の「共同行動」
「NGO非戦ネット」の結成と「真の安全保障を:紛争と貧困の現場から」声明
→これらはWorld Peace Nowの中心的団体に

B イラク反戦運動および以後
World Peace Nowの結成(02年):03年3月には東京で4万人のデモ
→6月に「再出発」宣言:「もっと大きな枠組みでの平和の追求のためのネットワーク」
→「普通の人びとの自覚をどのように引き出し、反戦運動に参加してもらうか」
しかし、自国政府の関与追求や自己への問いかけの志向は弱かった。

各種雑誌による反戦関連特集の掲載
第3回世界社会フォーラムにおけるイラク戦争の重要課題化

「サウンド・デモ」(03年):アート、DJ、ノンセクト・アナキスト系の"合作"
→「ストリート解放」と「反戦」の結合

「九条の会」→多極分散型の運動の広がり
「自衛官ホットライン」→自衛隊への批判
運動の「犯罪化」(弾圧/市民的不服従):「立川テント村」での逮捕事件、『赤旗』配布による逮捕事件、「戦争反対」落書き事件など


3 「ポスト冷戦」期における問題状況     
@ グローバルな文脈から
A. 現代の戦争
1「手段としての戦争」の復活
2「核限定使用」という選択肢の浮上
3「通常兵器」の高性能化に伴う戦争の「合理化」
→1戦争の「非対称」性(「紛争」概念の使用)、2自国民に対する戦争の正当化への腐心
→軍と警察の相互浸透(「警察化と軍事化」の同時進行)
「ここでは暴力・軍事力を行使する側でのみ「前線と銃後が区別され、「非総力戦的」な生活が営まれている。しかし"隔離"された側では、すべてが「前線」である。」「この文脈で引き起こされる「テロリズム」を停止させるためには、まずこの"隔離"という「国家テロリズム」をやめることが第一であって、逆ではないということが重要である。」(p619)
→「新しい戦争」(カルドー)
「「新しい戦争」においては、かつてのような「階級」や「民族」といった正当性のシンボルすら機能せず、そもそも武装闘争自体に「正統政府」を確立する志向がなくて、土地や民衆を人質として搾取したり、国際機関や武装闘争同士の取り引きから利益を得ることを目的化すらしている。」(p620)
→「民間軍事会社(PMC)」の存在

B 「人道的介入」の問題

C 反戦平和運動のグローバル化と反戦運動・反グローバリズム運動の結合
イラク戦争への反戦運動←反グローバリズム運動の蓄積:インターネットによる水平的な情報通信技術の発達と普及

→日本のイラク反戦運動の限界
「しかし、このインターネットは、なぜか日本を素通りしている。[…]/なぜ、日本はこのように世界の現状に取り残されているのだろうか。」(p626、PARCの北沢洋子)
「私も参加していたワールド・ピース・ナウ(WPN)が2001年に始まって、国際的な運動だといいながらも国際的なつながりを持ったり、また、取り組んだりということが弱かったと思う。」「結局イベントを重ねてきた結果、今になって一番イラクの状況がひどいときに、全然運動が盛り上がらない状況になっている。」(大塚照代)

D 非暴力直接行動の浮上
60、70年代における"ニュー・レフト"による「非暴力」への着目
「国際連帯運動(ISM)」:パレスティナ人と外国人活動家との連帯運動
Women in Black:女性たちによる黒服で身を包み無言で抗議(イスラエルで始まる)
「非暴力平和隊(NP)」

A 国内的な文脈から
平和感覚の弱体化、憲法平和主義の分解
全面戦争の可能性の消滅
⇒・ 「なぜ戦争に反対か」を問う作業が求められる
 ・ 為政者が「正義の戦争」「合理的な戦争」という象徴を利用する可能性の上昇
   →湾岸戦争(「より少ない悪」をめぐって運動が分裂)
背景:@ 生活保守主義、A 戦争体験の風化
⇒「強者」の立場での紛争巻き込まれ拒否意識に転換する可能性

A 「フツー」であること?――「NGO・NPO」と「運動」の微妙な関係
NGO運動における「<運動>の疎外」(藤岡美恵子)、「左翼性の廃棄」(東一邦、『季刊ピープルズ・プラン』第28号での特集「NGO・NPOは今、どこにいるか:抵抗か参画か」)
「「自分がフツーと思うことがフツーだ」というのが唯一の根拠になる。その結果、どこでも検証されることのない自分の「フツー」によって他者を排除することになる。」(p633-4、東)
⇒「世代」論でなく、批判性や敵対性をめぐる運動論
ex)イラク人質事件における「自己責任」論(広河隆一の文章p636-7)

B 「暴力」をめぐる論議――「敵対性」の理解をめぐって
WPNの「非暴力」議論(の不在)
「そこでは警察の挑発に対する不必要な反撃行為や、集会に集団としてヘルメットなどをかぶって示威的に参加することなどもご遠慮願うことにした。WORLD PEACE NOWの申し合わせはこのながれと、CHANCEなどの非暴力行動原則が一致してできたものであり、いわゆる「非暴力主義」とは次元がことなるものだ。」(高田健、p368)
⇒弾圧への抵抗の不在、「おまわりさんありがとう」、「警察が作った運動」

「敵対性」概念の理解
「非暴力直接行動とは、より大衆の力を強化するために、要するに、よりラディカルにやりたいために暴力をひかえることなのです。これはいわば、相手の巨大な力、あるいは暴力という物理的力に積算された力を分解や拡散させつつうまくみずからの力を最大限にまで発揮させて対抗する柔術のようなものです。」(酒井隆史、p641)
⇒「抵抗の暴力」の問題
「まず必要なことは自国政府の侵略・抑圧に対する闘いなのであって、侵略されている民衆の内部の問題についてはなにごとも語ることはできない、とする態度は、はっきり言って誤りだ、と私は思う。」(国富健治、p642)
⇒白川真澄による「抵抗の暴力」の五つの定義
@抵抗の暴力の正当性、A「抵抗は、抵抗の形態や手段を深く規定し制約」、B民衆の抵抗=政治的・道義的な優位性、C「民衆の抵抗の中で暴力が果たす役割」=限定的、D非暴力不服従の発展の意味

C 体験の継承と対話
吉川勇一:運動論の不在
「新しい表現に伴う新しい運動の質が生まれてきているのかとなると、残念ながら、私にはそう思えない」「反戦運動論と言えるようなものは非常に少なかった」
天野恵一:運動の断絶
小林正弥:運動スタイルの古さ
「いきなり「過去の戦争責任」とか言われると、とくに第二次世界大戦後に生まれた若い世代は、それだけで引いてしまう人も多いのではないでしょうか。だから二段階の方法を考える必要があります。」

「放っておいても関心のある人は来るし、そこに出会いがあり、発見があり、自己変革があり相互変容がある。これらは運動に対して「段階」も何もなく、一人の人間同士として出会うことから始まるものだ。」p648
「「古い運動」のイメージのみに依拠して架空の運動勢力を描いておき、それと切り離したところに「フツーの人々」なるイメージを置く、という空想上の二元的図式を描くことは、やがて自分を「フツー」だと思う人々からの激しい迫害によって復讐されるかもしれない(「自己責任」騒動を想起せよ)。さまざまな自発的媒介者の登場を待ちうるような、人々のコミュニケーション能力に信頼を置いた開かれた場が必要だ。」(p649)

「戦後」経験を見つめること

<問題提起>
@ 京都の反戦運動での経験から
市民運動:Gesellscaftにおける個の自立/分断のなかでの<結ぼれ>
しかし<対話>する場の存在が喪失しつつある
⇒場を問うこと、共同性Gemeindeを問うこと
⇒市民運動は共同性を構築しえてきたのか?

A 反基地運動の経験から
沖縄・辺野古の闘い
⇒地域社会の分断とインターネットでのつながり


製作:大野光明萩原一哉橋口昌治山本崇記
UP:20050531 Rev:20050628,0725,0726 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0504mc.htm

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