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アルチュセール『再生産について』から脱-再生産に向けて


アルチュセール『再生産について』から脱-再生産に向けて

立命館大学先端総合学術研究科
大野光明(ir002977@gr.ritsumei.ac.jp)

1.問題意識――アルチュセールの社会構成体論に寄せて―― 
アルチュセールにとって社会構成体とは、「矛盾を含む複合性」やその内部で「互いに対立し、その歴史によって表現される、矛盾する諸傾向」を孕んだものである(アルチュセール、2005:53)。すなわち「部分と部分、全体と部分の関係のなかには、しばしば「亀裂」、「ずれ」、「超越的侵入」、「凝縮」、「圧縮」などの言葉で表現するほかはないような関連が存在する」のだ(今村、1993:23)。
よってアルチュセールは「一方は、一つの生産様式内部の生産諸力と生産諸関係とのあいだの統一、他方は、被支配的な生産諸様式と支配的な生産様式とのあいだの(つねに矛盾的な)統一」のメカニズム=再生産を問うのである(アルチュセール、2005:54)。
「AIEが常にズレや矛盾を孕んでいることは、それがしばしば苛烈な階級闘争の場でもあ」り(浅田、1983:50)、「支配的イデオロギーの再生産のための闘いは、つねにやりなおされるべき未完の戦いであり、またつねに階級闘争の掟のもとにある」(アルチュセール、2005:301)。未完の戦いである、ということは、再生産のシステムへの完全な包摂はない、ということも示している。
しかしながら、アルチュセールの『再生産について』はその第2巻が未完に終ったことからも、再生産過程については詳述する一方で、抵抗の論理には書き換えられるべき点が多々あるように思われる。矛盾・抵抗が内在化されたシステムにおいて、脱-再生産に向けた営みをどのように構想できるのか?アルチュセール理論の「際限の無く乗り越える」ために脱-再生産の力学を検討したい。

2.アルチュセールの階級闘争論/プロレタリア革命論
 アルチュセールは資本主義的生産様式を解体するための方法を、階級闘争論/プロレタリア革命論として主張する。資本主義的生産様式の再生産を行なっているのは国家の抑圧装置と国家のイデオロギー諸装置であった。ゆえに、闘争は国家権力の奪取と国家の抑圧装置の解体へと向かう。

「1/階級闘争は、根本的に、諸企業のなかでの労働条件において、また、分業の諸形態において行なわれる。政治的階級闘争は経済的階級闘争に根ざしているのだ。
2/経済的階級闘争は、やむことなく増大する搾取に対する闘争である。賃金の減少という資本主義の傾向である搾取の野蛮な物質的形態、そして生産性の増大を図る階級の「諸技術」(労働のテンポなど)に対する闘争であり、そしてまた、諸企業において支配的な労働の社会的-技術的分割にかかわる闘争でもあり、そしてブルジョア・イデオロギーと抑圧に対する闘争でもある。労働者階級の階級意識が築き上げられるのは、物質的搾取(賃金、労働のテンポ)にかんする経験によるばかりではなく、分業[労働の分割]における「囲い込み」の諸形態にかんする経験によるのである。この意識は、労働にかんするブルジョア・イデオロギーに対するたえざるイデオロギー闘争のなかでしか築き上げることができない。」(アルチュセール、2005:80-81)

 このように搾取という物質的な経験によって、あるいはイデオロギー闘争の真っ只中において、階級意識が形成される。呼びかけによる主体化というプロセスは階級闘争においても同じことが言え、「「労働者階級は、[…]プロレタリア的政治イデオロギーのなかで、つまり階級の廃絶と共産主義の創設のための階級闘争のイデオロギーのうちに、自己を再認する」(アルチュセール、2005:314)のだ。すなわち、階級意識や階級的主体は、形式的には所与の前提とはされず、構築されるものとして捉えられている。また、この闘争が安易にプロレタリアートによる展開へと収斂されていないことも指摘したい。そこで呼びかけられるのは「大衆」である。

「この[搾取に対する]闘争は、大衆闘争として推し進められうるから、本質的に[…]<共産党>と区別される大衆的な組織によって推し進められる。ここで問題となっているのは多様な大衆である。というのも、搾取はすべての労働者と勤労者にいかなる例外もなくかかわり、それは彼らの日々の運命であり、彼らはそれを毎日直接的に経験しているからである。それゆえ、物質的要求のための闘争を通してこそ、資本主義システムに反対する客観的活動へと、大衆を結集させることができる。大衆とは、プロレタリアートの前衛だけでなく、プロレタリアートのみでもなく、都市や地方の非プロレタリア的賃金労働者、貧農、プロレタリア化しつつある小農、っして、国家のイデオロギー諸装置に属する多くの公務員たち(例えば教員)、あるいは特定の国家の抑圧的諸装置の公務員[…]さえ含めた、客観的に資本主義的な搾取の犠牲者であるすべての人びとである。」(アルチュセール、2005:191)

搾取に対する、あるいは資本主義的生産様式に対する闘争過程において構成される「大衆」であり「階級意識」。この「大衆」と「階級意識」のあり様を批判的に検討することを通じて、脱-再生産の射程の拡がりと契機を再発見することが、本発表でのテーマである。

3.今日の再生産とアルチュセールの限界?――植民地主義、労働力化、<第三世界>化
 結論から先に述べれば、社会構成体の再生産における<周辺>と<外部>の再生産過程をアルチュセール『再生産について』では把握しきれていないのではないか。アルチュセールが『再生産について』を一つの社会構成体内部(それは政体としての外延は国民国家であろう)における再生産のメカニズムとして検討する一方で、社会構成体の<外部>、端的には植民地の問題がすっぽりと抜け落ちている、という指摘は繰り返しなされるべきである。
(1)沖縄――プロレタリア化と日本人化の暴力
例えば、<沖縄>をめぐって考えてみよう。冨山一郎は、プロレタリア化と日本人化との相互補完関係を実証的に指摘している。すなわち、戦前期、沖縄の人々が日本社会において生活をするということは、貧困の中にあっては労働力として自らを位置づけることであり、労働力化とは言葉づかいなど日々の細かな規範に形式的に従うことであり、「日本人」になること、という志向性が入ることで、「『近代的労働者』になろうとすればするほど、『日本人』にならざるを得なかった」という歴史があった(冨山、1991:201)。そして、「『近代的労働者』に革命勢力を想定した左派にとって、さしあたりプロレタリア化は『前進』としてうけとめられ、したがってまた、それにかかわる『日本人化』に対しても批判する視座を見失ってしまった」ため「左派自身が『日本人』になるということを推し進めたのである」(冨山、1991:201)。これは戦前期に限定した出来事ではなく、戦後の社会運動(特に祖国復帰闘争)においても別の形で再生産されたメカニズムであった。
いわばプロレタリアや大衆による階級闘争/革命という言説が、社会構成体内部の人種的・民族的な差異化の暴力を隠蔽し、時には再生産するということ。社会構成体の<周辺>、プロレタリアの<周辺>の再生産がアルチュセール理論からはこぼれている。一つの社会構成体を維持・継続させるためには、搾取の構造を再生産することになるが、それは社会構成体の内部と外部との構造的な非対称性の再生産を行なう必要がある(*1)。大衆やプロレタリアという主体が、解放とともに抑圧を伴って現れることについて、アルチュセールは意識的でないと言える。

(2)2005年フランス「暴動」――フランスの<第三世界>化と困難な連帯
社会構成体の<外部>、あるいはプロレタリアの<周辺>という問題設定を考える上で、「先進国における<第三世界>化」というグローバリゼーションにおいて加速度的に進展する過程は主要なテーマとなる。2005年に起こったフランス全土における「暴動」をめぐって、以下のような言及がなされていることに注目しよう。フランスにおける<第三世界>の拡大とは、郊外への移民の流入によって国内の非白人よりも酷い過剰搾取、国外への生産過程の移転による白人の不安定雇用と失業状態の継続化、そして「<不安定な身分のもとで過剰搾取されるアフリカ人労働者>とフランス人労働者との境界線がどんどん曖昧になっていく」過程である。暴動が移民の二世・三世によってなされたのみならず、白人によってもなされた、という特徴の背景がここにある。しかし、「<第三世界>化の波が白人系の労働者をも飲み込むことで、アフリカ系労働者と白人系労働者のあいだで過剰搾取に対抗するための連帯がうまれるかというと、実際はかならずしもそうなってはいない」(萱野、2006:138)。逆に、不安定な雇用状態や失業状態にある白人労働者は、その思いを、人種差別的な言動によって吐露してしまう。そこに社会保障に関する言説を経由したセキュリティに対する過剰な要求が生まれ、治安という観点から住民の生存条件一般の「整備」へと権力の対象が広がり、逆説的に管理対象として自らを位置づけ直すことが生じる。グローバリゼーションというタームが有効となるのは、ある社会構成体の内部と外部とが、差異を孕みつつも同一の力学によって変容しようとする過程を指し示す時である。国境を越えた搾取の再構造化の過程としてグローバリゼーションが顕在化している一方で、搾取される人びと(大衆であり階級)は決して簡単に連帯を叫び、行動を共にすることはできないこの困難性において脱-再生産はアクチュアルな問題として提示される。

アルチュセールの植民地主義に対する無言を批判的に乗り越える作業、それは社会構成体の内と外に「社会のクズ」=<周辺>として再生産される「沖縄」や「移民」を理論の対象として、脱-再生産の射程を広げることである。<周辺>への暴力を解体することを、搾取の脱-再生産の営みとして設定することが必要である。

4.差異の節合・再生産、あるいは瞬間の政治学
(1)差異の節合・再生産から脱-再生産へ
上野千鶴子は語呂合わせのようであるが、と前置きをしつつ、再生産は差異生産である、と述べる。
「言説実践の生起する場であるエイジェンシーは、他者の言語を借りながら、自らの引用の場site of citationとなる。ところで「引用」という行為は、たんなる反復ではない。一回性の行為としての言説実践の場では、引用はそのつど、「異本version」を生産する。語呂合わせのようだが、再生産とは差異生産でもありうるのだ。この過程で生産される差異こそが、構造を攪乱し変革する契機となる。この異本の効果は、意図的な場合も非意図的な場合もありうる。だからこそ、わたしたちは『他者の言語』への従属が、意図せずに抵抗になるような実践や、逆に意図的な抵抗が、構造の再生産を帰結してしまうような言説の政治の磁場に置かれるのである。
 […]アイデンティティは、言説実践の場で生産・再生産される過程的、流動的、折衝的なものとなる」(上野、2005:29)。
 呼びかけに対する応答という日常的な営みと実践に、主体化と再生産の契機が賭けられているのであれば、再生産の脆弱さをも同時に指し示している。イデオロギーによる呼びかけへの予期せぬ応答、あるいは「悪しき主体」(アルチュセール、2005:275)からの呼びかけへの応答の可能性も同時に用意されている。
 しかし、毛利嘉孝が指摘するように、差異それ自体が「力」になるわけではなく、資本主義社会における商品化と消費という節合によって初発のコンテクストを奪われ、無力化されもするということである(毛利、1998)。アルチュセールの言う「歯車が軋む音」(アルチュセール、2005;138)「いくつかの『調子はずれの音』(プロレタリアおよびその組織が出すひどく耳障りなそれ、反対派的あるいは革命的な小ブルジョアジーのそれ、等々)」をさらにどのように節合・コンテクスト化できるのか、ということが課題になる。
「作用と反作用という観念のなかでは思考不可能である――それにはしかるべき理由があり、これらの関係はつねに存在するわけではないだけではなく、存在するときには、相互作用の弁証法的法則と自称するものとは全く別の法則のもとで現実化される」(アルチュセール、2005:134−135)とアルチュセールが言うときの「弁証法的法則」によって統合されるような差異ではない力能としての差異・周辺(*2)を聞き取る・対峙する・応答するという営みの真っ只中でパフォーマティブに構成させること。
社会構成体やプロレタリアの<外部>や<周辺>との連帯とはどのように可能なのかという問いから始めたい。ベトナム戦争時に、沖縄の米軍基地の労働者が黒人米兵(米国における周辺化された人びと?)との連帯を訴えていたという事実、あるいは山谷や釜ヶ崎の労働者と沖縄との奇妙な共振関係…。

(2)瞬間のこの私――新たな階級闘争
 しかし<周辺>や<外部>は、自分の外に生起するだけではない。 
「もっとも暴力的な階級闘争は、現行の合法性によっては公認されていないがゆえに、外からは見えない密やかな方法によってではあるが、生産の実践のあらゆる瞬間において、そして生産の実践を超えて、絶え間なく推し進められている」(アルチュセール、2005:159[下線は引用者])とアルチュセールが述べる際、さりげなく挿入されている「瞬間」という言葉に注目したい。イデオロギーが「直接かつ日常的に、それこそ毎秒のように」呼びかけ続ける限りにおいて、闘争は瞬間の積み重ねなのである。すなわち、「出会い」(アルチュセール、2005:270)の瞬間に、開かれたか開かれていないかが微妙な、異なるイデオロギーの呼びかけを聞いてしまい反応してしまう経験こそ語りたいと思う。瞬間にある「際限なく乗り越えていく」(アルチュセール、2005:409)力能を閉じ込めることなく、再生産し続けること。
 その時、私たちはよりミクロな形で、その瞬間瞬間において、資本主義との対峙、階級闘争の生起を感受するのではないか。

「ネオリベラリズムは、フォーディズム社会の構成要素を一つ一つ切り落としていく。その結果そこに現れるのは、いわば「万人が万人に対して資本家であること」を強制されるような社会である。そのベースには、何よりもまず「自分が自分自身に対して資本家として振るまう」という身振りの刷り込みが必要になってくる。つまり自分の脳という資本家が、生産手段としての身体を資本に転化するためにスキルアップといった本源的蓄積を繰り返し、商品としての付加価値を常に高め、できる限り高く売り込もうとするような態勢を、あらゆる人間たちの行動類型として造型しようというのである。人間の身体はそのまま一つの工場もしくは企業になった。しかし大地のような生態系としての生体には、必ず剰余が生まれ、亀裂が走り、瑕疵が発生する。そこからいやおうなく一人の人間の中で「資本家VS労働者」の構想が始まってしまうのである。
 まず、この「極小の階級闘争」からこそ出発しよう。自分自身の中の資本家が完全に勝利してしまう人間の方がむしろ稀に違いない。労働者としての身体がサボタージュを始める。[…]「極小の階級闘争」を通じて、上からの脳からのコマンドに従うのか、それとも大胆に横へアソシエートしていくのかが問われることになるだろう。」(平井、2005:110−111)


参考文献
・ 浅田彰「アルチュセール派イデオロギー論の再検討」『思想』(1983年5月号)、1983.
・ アルチュセール、ルイ(西川長夫ほか訳)『再生産について』平凡社、2005.
・ 今村仁司『アルチュセールの思想[歴史と認識]』講談社、1993.
・ 上野千鶴子「脱アイデンティティの理論」上野千鶴子編『脱アイデンティティ』勁草書房、2005.
・ 崎山政毅『サバルタンと歴史』青土社、2001.
・ 萱野稔人「郊外と<第三世界>の拡大」『現代思想』(Vol.34-4:総特集「フランス暴動――階級社会の行方――」)、2006.
・ 知念ウシ「なぜ基地の平等負担ができないのか」『世界』2006年1月号、岩波書店、2006.
・ 冨山一郎「自著を語る 近代日本社会と『沖縄人』」『寄せ場』No.4、1991.
・ 平井玄「亡霊的プロレタリア:永山則夫の子どもたちへ」『現代思想』(Vol.33-1:特集「フリーターとは誰か」)、2005.
・ 向井孝『暴力論ノート―――非暴力直接行動とは何か』「黒」発行所、2002.
・ 毛利嘉孝「文化と過剰決定――アルチュセールとカルチュラル・スタディーズ」『現代思想』(Vol.26-15)、1998.

以上

*1:「一方は、南北問題として語られてきた、労働の国際分業を背景とする世界的な収奪と分断の構造である。この構造は、「農民」の継続的再生産のもとで、より複雑になり、深刻さをましている。もう一方のものは、グローバリゼーションのもとで、かつてない規模の労働力移動が起こっている現実である。この現実のもとで、「安価な労働力」の担い手である移動・移住労働者をリクルートしての諸労働は激烈な流動化にさらされ、とくに女性を中心的な対象とした過酷な搾取が起こっている。[…]これは、さまざまな場所と、そこではたらくさまざまな人びととを、多重の<周辺>として再生産していこうとする新たな動きだろう。」(崎山、2005:78−79)

*2:ここで言いたい周辺とは、「中心」との関係においてのみ抽出されるものではない。剥き出しの周辺、周辺としての周辺はつねに「中心」が制御しえない脅威なのだ。それはどこか実体をもつような固定された土地ではない。剥き出しの周辺とは、秩序を画定する種々の境界を越えて入り来る人びと、あたりまえに越境し労働し生活を営み、ときにはふたたび移動し逃散するような人びとの自律的な諸関係である。そして、それらの人びとはつねに脅威(あるいは驚異をもたらす潜在的な力の担い手であった。そうした「異質」を生きる人びと――サバルタン――は、意識的にであれ無意識にであれ、「中心」にしばりつけられることをつうじて馴化された「周辺」にすべてをまかせて甘んじることはない。彼(ら)や彼女(ら)は一個の力能だと言っても良い。(崎山、2001:11)

製作:大野光明(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
UP:20060506 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/060221om02.htm

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