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特別公開企画
アフター・メタヒストリー
―ヘイドン・ホワイト教授のポストモダニズム講義―
研究報告2 
西嶋 一泰(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
「歴史は誰がなぜどう描くか?―国民的歴史学運動と生活記録運動に即して−」


English Page

◆はじめに

私は一九五〇年代の日本でおきた、ある歴史学的、物語的、ムーブメントについて述べたいと思います。私はこのムーブメントが、伝統的歴史学や科学的歴史学に対抗するものであり、現在においてもう一度検討されるべきものだと考えています。このムーブメントには、ホワイト教授がこの後の講演で話されるポストモダン的な歴史の試みとも共通する部分があります。しかしホワイト教授が論じるものとは別の可能性がみえてきます。ホワイト教授は、歴史について、その前表現的段階つまり詩学やプロットを見出し、分析することで、非常に重要な仕事をされてこられました。ですが、私が今回このムーブメントで注目したいは、歴史について、その前表現的段階歴史を書き、読み、共有する人びとのコミュニケーション空間です。

私は、歴史は、誰が、なぜ、どう描くのかという問題を、「民衆がいかにして歴史を描くことができるのか」という共通のテーマを掲げた二つの具体的なムーブメントから考えていきたいです。一つは歴史学が民衆の中に入っていこうとしたある意味で上からのムーブメントである国民的歴史学運動である。もう一つは民衆の作文運動として広がり歴史もその問題に加えてゆく下からのムーブメントである生活記録運動です。この二つの運動は、基本的には文脈を異にしますが、一九五〇年代という第二次世界大戦後まもない混乱のなかで、人びとがまさに現在の自分のアイデンティティに関わる問題として、歴史を必要としていた時代を共有しています。

私の報告では、この一九五〇年代の日本で起った二つのムーブメントを具体的にみていきながら、その歴史的意義について考えていきたいとおもいます。

◆1.ホワイト教授との接点

事前にいただいたホワイト教授の講演原稿を中心に、もう一度問いを整理しようと思います。ホワイト教授は、ホロコーストの生存者たちが、歴史叙述に強い関心を持ったことに触れています(Paragraph No.36〜Paragraph No.39)。そこでは、ホロコーストという出来事の経験の意味や責任が問題となります。ホワイト教授は、ホロコーストについてだけではなく、他のジェノサイドや脱植民地化の経験、移民、近代戦争の脅威についてもの「目撃」証言の総体が増大したことが示すのは、芸術的な著述(プリーモ・レーヴィの『アウシュヴィッツは終わらない――あるイタリア人生存者の考察』のような)や(ランズマンの『ショアー』のような)映画の方が、慣例的な歴史の語り手による乾いた控えめの人間味のない口調よりも、新しい同時代の経験の「衝撃」を伝えるのにはるかに適しているということである、と述べています(Paragraph No.39)。また別の箇所では(Paragraph No.57〜Paragraph No.69)、ポストモダニズムの現在を志向する歴史的思考について、ふれています。私たちの時代の実用的なニーズの中心として、「過ぎ去ろうとしない過去」とりわけジェノサイドという過去を受け入れます。
そのなかで、現在生きている人が古い誤った信念にとらわれず未来に行けるように、過去は「徹底操作」されねばならない、としています(Paragraph No.64)。また、ポストモダニストが注目する過去と歴史の治療機能や、歴史的知識からいかなる効果が正当に生み出されるのかを決める権威は歴史家だけがもつという職業的歴史家の前提を問題にしています。

私の今回の報告は、ポストモダニズムの現在を志向する歴史的思考の作品である、プリーモ・レーヴィの著作やランズマンの映画に連なるものとして、日本の二つのムーブメントも加えてはどうか、という提案でもあります。ただ、私が想定しているのは、著作や映画といった静的な作品ではなく、ムーブメントが作り出した動的な場、コミュニケーション空間です。このような動的な場でも、あるいは動的な場だからこそ、現在を志向する歴史的思考が切実に取り扱われ、その徹底操作や治療機能が存分に発揮され、職業的歴史家の前提を突き崩そうとしたのではないか、と私は考えます。

それでは、そのムーブメントの詳しい状況をみていきましょう。

◆2.第二次世界大戦前後の日本の歴史学

まず、国民的歴史学運動の前提となる、第二次世界大戦前後の日本の歴史学の状況をみていきます。戦前の日本の歴史学には三つの流れがありました。大学のなかの実証主義歴史学、在野のマルクス主義歴史学、政治と結びついた天皇制ナショナリズムの歴史学です (1)。1930年前後には、この三つの流れが存在し互いに雑誌などを通じて議論がなされていました。例えば、マルクス主義歴史学と天皇制ナショナリズムの歴史学は、ベネデット・クローチェを共通の関心としており、レオポルド・フォン・ランケの影響をうけた実証主義(2)に対する批判はともに行っています(3)。マルクス主義歴史学も天皇制ナショナリズムの歴史学も、歴史の本質主義は退けており、現在の人びとの認識によって歴史が構成されていくものだという見解をもっていました。ですが、当然のことながらマルクス主義の歴史学と天皇制ナショナリズムの歴史学は双方の歴史観が相容れるものではなかったのです。

このような三つの流れが拮抗する状態で議論が行われていたのですが、一九三〇年代半ばからマルクス主義の歴史学は活動の政治的制約をうけて表舞台から退き、かわりに天皇制ナショナリズムの歴史学が、時の政治体制と結託するかたちで歴史学界、歴史教育学界の覇権を握っていきます。一方で、この天皇制ナショナリズムの歴史学が目指したものは、戦時下の日本で様々に論じられたテーマでもある、「近代(=西洋)の超克」でもあったでしょう。西洋の科学主義、物質主義に対抗するものとして、日本の精神主義や神話が注目され、それによって歴史も再構成されたのでした。この天皇制ナショナリズム歴史学の覇権は敗戦まで続きます。敗戦後は天皇制ナショナリズムの歴史学はパージされ、一気に学界から退き、代わりに在野で細々と活動してきたマルクス主義の歴史学が覇権を握っていったのが一九五〇年代における状況です。

◆3.国民的歴史学運動

一九五〇年代の日本は、第二次世界大戦に敗戦してまだ間もなく、大きな社会体制や教育の転換によって、人々はアイデンティティの危機に晒されていました。この社会めまぐるしい変化は何だったのか、自分はどのような立場にいるのか、将来の展望はどのようなものか、そのような不安を持った人びとの関心は歴史へと向けられました。このような時代の要請に答えるべく、当時の日本の歴史学において主流派となっていたマルクス主義の歴史家たちが起こしたのが、アカデミズムの垣根を越えて工場や農村の人びとと歴史を描いていこうとしたのが国民的歴史学運動でした。

一九五〇年代のマルクス主義を中心とした歴史学は、後年の科学主義、実証主義からすれば驚くべきことですが、非政治的な実証主義を批判し、「正しい」政治的な歴史を描き、人々の中に入って実践することが叫ばれていたのです(4)。この運動において、多くの歴史学者や学生が農村に入り、文献史学が取り扱わなかった村の人々の聞き書きによる歴史を描き、現地の人びととおもに古代の史跡は発掘し、また歴史学の成果を反映した紙芝居を農村に担いでいき上演しました(5)。

若い歴史学者たちが積極的に農村や工場に入っていきましたが、彼らがとった歴史叙述のスタイルは、そこで暮らす人びとと少しでも生活をともにすることで、自らもその農村や工場の一員として歴史を書くというものでした(6)。つまり歴史家が対象と一体化して、歴史家自身も含む「私たちの歴史」として歴史を書く、記述対象とのスタンスやコミットメントを問題にする挑戦的なものでした。ですが、結論からいえばこの運動は数年で瓦解します(7)。その原因は、歴史学者と一般の人びとの間の意識の違いであったり、日本共産党の政治的な内部抗争であったり、一部の学生のセクト化であったりしたわけですが、この運動後、日本のアカデミズムの歴史学は、政治性を排し、科学主義、実証主義へと移行しはじめるのです。失敗とされてしまったこの国民的歴史学運動ですが、職業的歴史家たちが自らその殻をやぶろうと試みたという点で評価できるでしょう。

また、この国民的歴史学運動のリーダー的存在であった石母田正は、当時を振り返り、歴史を描く動機についても述べています。「サークルにゆく時間を「研究」にあてれば、能率があがり、業績をあげやすいことはたしかである。それにもかかわらずサークルにゆくのは、それが、まず第一に楽しい仕事だからである。サークルの集まり自体が楽しいだけでなく(中略)共同の責任を負うことから生まれる新しい人間関係の形成は、私たちに集団を創ることのよろこびをあたえる。それは過去の啓蒙家の知らない創造の側面である。」(8)。 石母田は一方的な啓蒙活動を激しく嫌っていました。彼が目指したのは、工場や農村の中にはいっていき、人びとのコミュニケーションのなかで双方が刺激を受けながら歴史を創造していくことこそが、生産的でありかつ、楽しい行為だとしています。石母田は政治的な統制により戦中に自分が思うように歴史が研究できなかったこともあって、この歴史を描く楽しさを強調するのです。このように、現在を志向する歴史家たちは、民衆の中で歴史を書いたことで、このような感覚を見出したのでした。そして、この歴史を描く楽しさ、喜びによって展開していくのが、下からの運動である生活記録運動です。

◆4.生活記録運動

一九五〇年代、国民的歴史学運動が民衆の中へと入っていく歴史学のムーブメントだったのに対して、当時盛んだった労働者たちでつくる文化サークルの活動の一つとして盛り上がった自分の身近な生活を記録していこうというムーブメントが、生活記録運動です。労働者や主婦たちの間で数多くのサークルができ、ガリ版刷りの文集が次々とでき、またそれぞれの文集の感想会や反省会も活発になされていました。この戦後の生活記録運動は一九五一年に出版された無着成恭『やまびこ学校』に端を発するものですが、子どもたちの作文を通じた教育運動としての側面と、大人たち・労働者たちのサークル運動としての側面がありますが、ここでは後者を扱います。この大人たちの生活記録運動のリーダー的存在となったのが鶴見和子でした。鶴見の言ったキーワード「自己を含む集団」、「集団のなかの自己改造」は、生活記録サークルに多くの影響を与えました(9)。

また、鶴見は、生活記録とは、歴史をつくる国民が、国民の歴史を書き、書くことを通して、自分たち自身をつくりかえていく多数軸の現代史をつくる運動であり、それにはさまざまな表現形式があってよく、「日記、手紙、書評、映画評、時評、ききとり書、自伝、伝記、職場や町や村の歴史、ルポルタージュ、学術論文、文芸作品なども、生活記録のなかにとりいれることができる」としています(10)。このような鶴見の生活記録運動は、今までは歴史家のものだった歴史を、自分たちの身近な生活を描くことによって、もっと身近な、自分たちの歴史をつくっていこうとする意欲的なものでした。そして、それは単に客観的な歴史を性格に描こうというのではなく、歴史を描くという行為によって自らが置かれている立場をみつめなおし「自己改造」をしていこうとするものであり、またそれは自分の身近なグループにおいて行われるものでした。

生活記録運動は、歴史家の問題関心の枠外にあった歴史を描く、物語を描く、ということの、コミュニケーション的な、あるいは、いってみれば心理学的な側面に注目した運動といえるでしょう。歴史を描くということのコミュニケーション的側面に注目した生活記録運動は、歴史を語る「場」についてもかなり自覚的です。

例えば、生活記録運動では自分の出身や貧しい生活について「ありのまま、飾らずに書く」ことが目指されていたため、気兼ねなく話せる仲間意識をうたや演劇など当時活動していた文化サークルで培ってから、生活記録サークルに入っていくということがなされていました(11)。ある紡績工場の女工たちが中心となったグループでは、単なる馴れ合いに終らず、労働現場の過酷な状況や、貧しい農村での生活、母の歴史、戦争体験など、一方で過酷で切実な時代に置かれた彼女たちは、歴史家とはまた違う問題意識・叙述をもって歴史を描いきました。その活動の方法は、例えば仲間の間でノートをまわして描くところから始まり、話し合いの中で自分史や母の歴史について描いた文集を仲間とのガリ版刷りという共同作業のなかで製本していきます。そうして製本された文集は、彼女たちの実家に送られ、また全国各地の生活記録サークルの間で盛んに交換され、感想などのやりとりも活発に行われました(12)。

生活記録運動においては、「集団の中で書いていく」ことが重要でした。コミュニケーションをとることで書き手が成長し、集団の中で書くことで新たな「つながり」を生んでいきます。このような素人同士の、書き手と読み手の領域があいまいな生活記録のネットワークのなかで、まさに同時代の、現在を志向する歴史が描かれていったのです。無着や鶴見らによって方向付けがなされた生活記録運動でしたが、それは自分の歴史を描くことで、自分を含む集団、環境をかえていくプロセスであり、無着や鶴見らの言説を離れて、労働者や女工たちのアイデンティティと絡みあいながら独自に展開していったのでした。

◆おわりに

最後に、これら二つのムーブメントから導かれる問いを提示しようと思います。まず、一つ目は、歴史は誰が描くのかということ。ポストモダニズムにおいては、歴史を描く主体としては、職業的歴史家たちのみならず、小説家や芸術家など多様な人びとが含まれていますが、そこに一般の人びとは含まれると思います。例えば、生活記録運動で歴史を描いたのは、工場の労働者であり、主婦たちでありました。彼ら・彼女らが歴史を描く、ということはどのように評価されうるのでしょうか。

二つ目は、歴史をなぜ描くのかということ。「大きな物語」が崩壊したポストモダンにおいては、歴史は現在に役立つ限りで参照されるとのことですが、それは歴史において人びとの動機が重要になってくるということだと考えます。ホロコーストの生存者や、戦後の日本の混乱を生きた人びとが、自らのアイデンティティをめぐってまさに現在の問題として歴史を扱ったことはよくわかります。それでは、その他の歴史を描く人々が動機とは何があるでしょうか。例えば、国民的歴史学運動の石母田正がいった歴史を描く楽しさや、生活記録運動の鶴見和子が歴史を描くことによる「自己改造」といった、動機に可能性はあるでしょうか。これは、なぜ歴史は描かれるのか、という単純な問いでもあります。

三つ目は、歴史をどう描くのかということ。これについては、ホワイト教授は歴史の前表現的段階として詩学やプロットなど主に叙述の問題を長年研究されてきたと思いますが、歴史の前表現的段階として歴史をめぐるコミュニケーション空間を、私は問題にしたいです。
生活記録運動においては、労働者や主婦たちが描いた歴史、個々の作品以上に、サークルで集まり、自らの体験を語り、描き、手作りの本にして配り、サークルの内外で感想や反省会が行われるという場こそが重要な意味を持ちました。

ホワイト教授がおっしゃるポストモダニズムにおいては、詩学やプロットの研究と同じくらい、もしくはそれ以上に、どのような場で、どうやってコミュニケーションがとられながら、歴史が描かれていくのかが、重要になると思いますが、どうでしょうか。

以上で私からの報告を終ります。



1成田[2001:69] 成田は三つの流れを、アカデミズム、マルクス主義、ナショナリズムとしているが、本報告の文脈上わかりやすくするため、アカデミズムを実証主義、ナショナリズムを天皇制ナショナリズムと言い換えた。なお、天皇制ナショナリズムの歴史学とは、平泉澄に代表されるいわゆる皇国史観の歴史学をさす。
2 1987年にランケの弟子のルードビヒ・リースが東京帝国大学に招かれ、日本の歴史学に多大な影響を与えた。
3成田[2001:76-77]
4小熊[2002:314]
5小熊[2002:334, 341]
6成田[2006:131]
7小熊[2002:346-347]
8石母田[2001(1960):368]
9澤井[2009:46]
10杉本[2009:70-71] 鶴見[1998(1961):527]
11澤井[2009:46]
12鵜飼[2009:194-225]

参考文献

・石母田正 2001(1960) 「『国民のための歴史学』おぼえがき」『石母田正著作集 第一四巻』、岩波書店
・成田龍一 2006 『歴史学のポジショナリティ――歴史叙述とその周辺』,校倉書房
・成田龍一 2001 『歴史学のスタイル――史学史とその周辺』,校倉書房
・小熊英二 2002 『<民主>と<愛国>――戦後日本のナショナリズムと公共性』,新曜社
・澤井余志郎 2009 「紡績工員の生活記録から公害の記録へ」西川佑子・杉本星子編『共同研究 戦後の生活記録にまなぶ――鶴見和子文庫との対話・未来への通信』,日本図書センター
・杉本星子 2009「鶴見和子と製糸・紡績で働いた「三代の女」たち」西川佑子・杉本星子編『共同研究 戦後の生活記録にまなぶ――鶴見和子文庫との対話・未来への通信』,日本図書センター
・鶴見和子 1998 『鶴見和子曼荼羅U 人の巻――日本のライフヒストリー』、藤原書店
・鵜飼正樹 2009 「生活綴方からつながる世界」  西川佑子・杉本星子編『共同研究 戦後の生活記録にまなぶ――鶴見和子文庫との対話・未来への通信』,日本図書センター
・ホワイト、ヘイドン著・上村忠男訳 1994 「歴史のプロット化と真実の問題」『アウシュヴィッツと表象の限界』、未来社
・ホワイト・ヘイドン 2009「ポストモダニズムと歴史叙述」特別公開企画「アフター・メタヒストリー」配布資料


UP:20091102