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正義とケア
――個別性に配慮した<公共的ルール>の構築に向けて――

後藤玲子
連続講演会 21世紀・知の潮流を作るパート2 第3回(公共テーマ領域)
2002/12/11 於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館カンファレンスルーム
16:30〜18:30 コメンテーター:西川 長夫立岩 真也 16:30〜18:30


1.はじめに

  <正義>は人と人との関係性に目を向け、「等しいものを等しく、異なるものを異なるものとして扱う」ルール(公共的ルール)の構築を、<ケア>は個人そのものに目を向け、本人のライフ・ヒストリーの文脈で個人をまるごと捉えることを要請する。通常、これら2つは相反する要請として理解されている。本研究の目的は、公共政策の探究において、正義の視点とケアの視点が切り結ぶパースペクティブの可能性と意義を検討することにある。異なるポジションやカテゴリーに属する人々の個別的な観点を尊重しながら、同時に、それらを不偏的(impartial)に秤量し重みづける(weighing)公共的ルールの構築は、はたして可能だろうか。本研究では、異なる属性をもつ個々人の声なき声に耳を傾け、彼らの証言や告発の中から普遍的な人間的意味を汲み上げる作業について、理論的・実践的に検討してみたい。

考察の前提

  はじめに、現代民主主義社会に見られる次のような3つの多元性に注目しよう★01。
  @目的の多元性:異なる複数の目的をもつ個人と集合体(ポジション・カテゴリー、組織・団体、地域共同体、社会、万民の社会)が存在する。
  A規範や道徳の多元性:異なる複数の規範や道徳判断が存在する。
  B自我の多層性:各個人は、異なる複数の集団やカテゴリーに属し、異なる複数の規範理論に直面することによって、異なる複数の目的と異なる複数の道徳判断を併せ持つ。

  これらの多元性を前提するとき、公共政策の課題は次のようにまとめられる。
  1)資源分配システムのあり方(経済メカニズム)
  @多元的な目的、規範的判断をもつ集合体(個人、集団、組織)に対して、(たとえおせっかいだとしても)共通に保障すべき善・財(以下ではそれを公共善と呼ぼう)があるとしたら、そのリストをどのように確定するか。それらが複数あるとしたら、それらをどのように重み付けしたらよいか★02。
  A公共善(関連する諸財の生産・配分)を保障するにあたって、メンバーの間にどのような権利・義務関係(便益・負担関係)を形成したらよいか。
  2)集合的な意思決定手続きのあり方(政治メカニズム)
  1)の@、Aの問題に関する<社会の判断>をどのような手続きで決定したらよいか。各集合体の相対立する判断をいかにまとめ上げて、<社会の判断>を導出するか。

★01 ロールズはこれを多元性の事実(the fact of reasonable pluralism)と呼んだ。Rawls, 1993, p.xix.
★02 本稿では一貫して、集合体が単一の個人から構成される場合も含むものとする。その場合、善のリストは自己のライフ・プランの作成の問題となる。また、2の公正性の問題は、複数の自我の間のバランスの問題となる(1つの自我における複数の善の最大化問題とはことなる)。

問題関心

  社会を構成する各集合体の自律的な決定は尊重されなければならないとしても、集合体相互の自律的な関係を維持するためには、また、各集合体に所属するメンバーを集合体の圧力から保護するためには、それを保証する高次ルールが必要となるだろう。それは異なる複数の集合体から構成される上位集合体(例えば、異なる国家の集まりである国際社会、異なる組織・集団・個人の集まりである国家、異なる宗派から構成される宗教団体、異なる個人から構成される共同体など)に対して、共通に適用される最小限の基本的ルールに他ならない。はたして、それはどのような性質を備えたものだろうか。それは、各々の集合体が独自に有する内的原理とどのような関係性をもつだろうか。
  留意すべきは、公共善に関する判断はかならずしもすべてのメンバーの私的利益と整合的であるとは限らない点である★03。ある種の公共善は、特定のポジションあるいは社会的カテゴリーに属する人々に対してのみ価値をもつ可能性がある。例えば、福祉サービスの本質は、能力に応じた拠出と必要に応じた給付を基本とし、必要性のあるすべての個人に対して共通の品質を提供すること(拠出や給付あるいは両者の対応関係の相違に応じて品質が差別されないこと)にある★04。それは、個々人の相対的な欲求(需要(demand))の充足を目的とする市場とは異なり、人々に共通に保障すべき善の種類と品質を、それぞれの社会的文脈において、人々の公共的合意のもとに特定化することを要請する★05。
重要なことは、公共善に関する判断は、各集合体に属するすべてのメンバーが一定のかたちで、一定の条件のもとで自律的かつ理性的に承認しうるような判断であることである★06。だがはたして、そのような<社会の判断>は構成可能なのだろうか。可能だとしたら、それはどのようなかたちと条件において、可能なのだろうか。

★03 経済学の公共財概念は、財の技術的な性格――消費における非競合性と非排除性――に基づくものであり、公共財から引き出される効用は、私的財から引き出される効用とまったく同様に、個々人の私的な選好体系の中に組み込まれると考えられている。それに対して、ここでいう公共善とは、個々人の私的関心とは異なる関心(例えば個々人の公共的判断に基づく社会の公共的判断)によって評価される点に本質的特徴がある。Musgrave, R. A. and P. B. Musgrave, 1973, p.56-7参照。
★04 これは私的利益と選好を関心として品質を選び、費用を自己負担する消費者の受益パターンに着目したうえで、どのように価格(受益・負担関係)を差別化すれば社会的余剰が最大化されるかを課題とするユニバーサル・サービスとは、根本的に異なる問題を提起する。
★05 品質の良さは先験的に確定されるわけではない。限られたコストの中で、人々はどのような特性を譲れないとするか(例えば給食ならば栄養価、十分な品数、良い器)という問題は、各社会の歴史的・文化的背景をもとに公共的討議で決定される。
★06 「承認のかたちや条件」をいかなるものとするかについても多様な見解が存在する。すべての個人の意見を形式的に等しくカウントする多数決主義、高次原理に関する理性的・公共的な解釈を基盤とする立憲的民主主義、さらには真理の存在とその認識可能性を前提とするプラトン主義(correctivism)など。

2.本研究のアプローチ

モデル・ビルディングとしての経済学

  経済学にはモデル・ビルディングの伝統がある。例えば、近代経済学の中心には自己の利益の最大化を動機として行動する合理的個人と、そのような個人の間でもたらされる自発的な均衡を尊重するような経済メカニズム(市場)を整合的に捉える理論モデルがある。そこで想定される合理的個人とは、かならずしも現実の個人を例えば心理学的な事実として記述するものではない。あくまで市場という経済メカニズムを滞りなく動かすために必要な(そして十分な)性質として考えられている。ここでは経済学のモデル・ビルディングの伝統を取り入れながらも、その具体的な中身を、公共善に関する資源分配メカニズム及びそのあり方を定める政治メカニズムを捉えるモデルへと拡大したい。その中心的アイディアは次のように記述される。

 【理念的制度の展開と現実的制度の展開との相互連関に関する概念図】

        理念的制度2   ← ←   理念的制度1
     ↓(浸透)↑        ↓(浸透) ↑
現実的制度・ルール3 ← ← 現実的制度・ルール2← ← 現実的制度・ルール1
    ↓     ↑        ↓     ↑        ↓
 現実的個人・集団3  ← ← 現実的個人・集団2 ← ←現実的個人・集団1
          ↑              ↑
      個人の公共的判断2  ← ←  個人の公共的判断1

(ただし、↑は民主主義、社会的決定手続き、社会契約を表し、←は制度の歴史的・自生的変化を表す)

  このようなモデル・ビルディングの手法は決して、個人の存在や意識が現実の制度を超越して存在することを仮定するものではない。<現実的>制度はまぎれもなく諸個人の存在や意識を深く規定すると考えられる。だが同時に、個人は、<現実的>制度によって規定されている「われわれ」自身を反省的に理解し、<理念的>制度を構想すること、そしていつの日か<現実的>制度を変容させていくことも不可能ではないと考え、そのような側面に注目するものである。

個人の選好の多層性への着目

  従来、経済学では個人の選好は単層的な枠組みで扱われてきた。選択可能な対象を望ましさの観点から比較評価し序列化するという意味では、消費行動のベースとなる選好も、政治活動のベースとなる選好も変わるところがないからである。ケネス・アローの社会的選択の理論も基本的にはそのような枠組みのもとで構成されている。彼は、あらゆる任意の2つの選択肢に対する評価(二項関係)が、ひとりの個人の中で整合的な順序となる状態をもって個人の(合理的)選好と理解し、その内的な構造や葛藤、整合化プロセスそのものは分析の対象としようとはしなかった。選好の単層性の枠を最初に打ち破ったのは、「合理的愚か者」という言葉を鍵に正統派経済学の情報的貧困さを批判したアマルティア・センである★07。彼は異なる性質や役目をもった個人の選好を区別して、個人の評価構造を多層的に捉えるための分析枠組みを提示した。公共政策の文脈でとりわけ重要となるのは、私的選好と公共的判断という2つの区別である。私的選好とは、通常、経済で想定されているような私的利益や目的への関心に基づく判断である。それに対して公共的判断とは、私的関心から離れて個人が理性的・反省的に形成する判断である。
  通常、<経済システム>と呼ばれているものは、個人間の私的利害の相互調整を目的とする場であり、所与のルールや慣習のもとで、個々人が私的選好に基づく最適化行動をとる点に特徴がある。そのような個々人の行動は主体的・自律的であるとともに、相互依存的・制度負荷的な性格をもつ。個々人は、自己の追求する目的や人生プランをもとに、自己の資源(時間、能力、所得・資産)を様々な対象に合理的に割り振ろうとする。だが、ベースとなる個々人の私的選好はその形成プロセスにおいて他者あるいは既存の諸制度から影響される可能性がある。また、個人の私的目的がどの位達成できるかは、他者がどのような行動を選択するかによって制約されざるを免れない。したがって、合理的な個人は、他者の選択やその背後にある選好、もたらされる均衡結果を予測しながら自己の行動を選択すると考えられる。ただし肝要なことは、経済システムに参加する個人の関心はあくまで私的目的にあり、他者あるいは制度への関心は私的目的に影響を与える限りに留められる点である。不偏的な関心のもとに社会状態のあり様を観察しているわけではない。
  それでは、社会状態のあり様を不偏的に観察する主体は何か。ここではそれを政府や官僚といった特定の主体ではなく、社会を構成する一人ひとりの個人が有する公共的な観点であるとしたい。公共的ルールは、その決定プロセスに参加した人々のみならず、すべての社会構成員に対して、また地理的にも時間的にも遠く離れた人々に対して広く影響を与えるものである。したがって、公共的ルールの決定プロセスに参加する個々人は、本人の善の空間を超えた多元的空間を定義域とし、私的選好とは異なる性質をもった判断を――例えば、私的選好に基づいて選択する互いの行動が結果としてどのような帰結をもたらすかを予想しながら、また、ルールそれ自体が備える規範性や有効性を考慮しながら――形成することが要請される。また、そのような個々人の判断の形成を促し、適切に集約する構成手続きの存在が要請される。

★07 鈴村・後藤、2001/2002参照.

3.個人の公共的判断とは

  厚生経済学の一分野である社会的選択の理論においては、個人の選好は考え得るすべての社会状態、すなわち諸個人の選好に影響を与えるあらゆる要因を軸とした無数の多次元空間上で定義可能とされる。例えば、私的目的や人生プランを追求する場合、個人は、自己の善のみに関連する空間(消費空間など)のみを定義域として自己の選好を形成すると考えられる。それに対して、公共的ルール――憲法・立法・政策など――の制定・改訂プロセスに参加する場合、個人は自己の善のみに関連する空間から隣のひとの善をも含む空間へ、あるいは空間的にも時間的にも遠く離れた人々の善を含む空間、すべての社会構成員の善を一望しうる空間へと判断の定義域を拡大していくことが要請される。このように、異なる多様な社会に在る人々、異なる歴史的時点に在る人々から構成される空間を仮設的に想定しながら、あらゆる社会構成員の善を判断しうるような、より一般的な判断枠組みを獲得していくとしたら、それは当初の選好とは質的に異なるものとなるだろう。
例えば、特定の文化的・宗教的条件下にある社会の特定のひと――自分自身や隣人――が自由を享受しえているかという観点から、異なる文化的・宗教的条件をもつ多様な社会の人々がそれぞれ自由を享受しえているかという観点へと拡張されるとき、ひとは自己の善の観念に留まり続けることは困難となるだろう。およそひとにとって自由はいかなる意味をもつかという普遍的な善の観念について、あるいは、自由に関する個人間の不平等や格差をどう評価すべきかという公正の問題を考えざるをえなくなるだろう。しかもこのとき、個人の関心が評価する客体としての他者のみならず、評価する主体としての他者に向かうとしたら、「(自分の善や正の観念に照らして)人々の状態が望ましいか」という問いのみならず、「異なる善の観念や正の基準をもっているかもしれない他者を、互いにどう扱うことが正当か」という問いにも直面することになるだろう。かくして、個人の選好は、個人的な嗜好(taste)や慎慮(prudence)に留まらず、普遍的な善や正義(個人間の公正)(justice as fairness)を志向する公共的判断へと質的な転換を遂げることになる。
個人の私的な選好は、快苦の感情、欲望の充足、目標の達成、人生プランの慎慮的な(prudent)追求、幸福、さらには宗教心や道徳感情などから派生する経験的・事実的観点をベースとする。それに対して、公共的判断は次のような性質を共通に満たすと考えられる。
  @様々な環境のもとで多くの人々に適用される公共的ルールに相応しい一般性・普遍性を備えている。
  Aどのような公正基準を受容するかが明示的に説明可能であり、広く検証可能であるように公示化されている。
  B自己(あるいは自分が代表する集団・組織・カテゴリー)の主観的選好や個別的特徴を相対化し、その普遍的意味を確認する反省的熟慮を通じて形成される。
  C人々の個別的状態に等しく関心を寄せ、人々の等しい扱いに関心を寄せるという意味で不偏性をもつ。
  正義はこのような性質をもった公共的な関心と判断をその本質とするものである。

4.ケアの視点

  さて、ひとが正義の観点のもとに豊かな広がりと不偏性を備えた公共的関心を獲得したとしよう。ここで問題となるのは、人々の個別的状態に寄せる関心のレベルである。個々人が有する多様な善に対して、公共的に配慮すべき善とは何か。人々の生来的な、また歴史的・社会的な境遇は多様である。また、何をもって幸福と感じるかもまた、それまでに本人が体験したライフ・ヒストリーや心に描くライフ・プランに応じて多様でありはしまいか。個人の客観的・主観的個別性に配慮にしつつ、社会的責任においてコミットメントすべき<善きもの>を確定するのがケアの観点である。
  例えば、稼得手段をもたない人に対する公的扶助のあり方を例にとろう。近年、厚生労働省が行ったアンケート調査からは、就職が困難であったり、退職を迫られた経験をもつ人が多いこと、身体的・精神的な不調を訴える人が多いこと、家族の布団が足りない、雨漏りとすきま風を防げないなどの様子が浮びあがって来る。一方、そのような調査では捉えられない姿もある。例えば、1970年代末になされた原爆被爆者調査★08では、1対1の個別的な訪問調査を通じて次のような姿が浮かび上がってくる。受給者の中に、原爆被害による顔一面のケロイドと後遺症をもつ当時50代の未婚で無職の一人暮らしの女性がいた。古く薄暗い持ち家には一台のテレビがあり、彼女の現在の楽しみはテレビでプロレス観戦することであるという。小さいころから住み慣れた地域社会で暮らすことには、ある種の気安さがあるとともに、自分の若いころを知る近所の人々の「あんな狐のごた顔になって」という囁きに悩まされてもいた。はたしてそのような彼女に対して公共的に配慮すべき<善きもの>とは何だろうか。住居の補修費用、晴れ着を購入する費用、栄養バランスのある食事を可能とする費用、限られた体力・健康状態のもとで可能な仕事・活動を用意すること、あるいはそのための再教育の機会など、それらはまずもって必要とされる。だが、それだけでは不十分であることがインタビューの中で明らかにされていく。彼女にとっていま何よりも必要であるのは、原爆のもたらす様々な種類の後遺症とそれに抗して生きている自分を確かめること、そしてそのような自分の生きようを後世に伝えることだった。それは二度と原爆を落とすべきではないという普遍的なメッセージに鮮やかな表象を与えるとともに、本人自身の生に確かな意味と方向性を与えるものだった。彼女にとって社会から受ける援助は過去に自分が受けた被害に対する補償であるとともに、未来の人々へとつながる普遍的保障を意味するものでもあったのである。

★08 例えば石田忠, 1973/74参照。

5.ケアと依存性

  ルールを、それがルールだからという理由で従うことに比して、共感や同情心に突き動かされながら他者の境遇に直接コミットする行為には、個人の自発性・能動性が顕著に見られる。ケアの重要性を強調する従来の議論は、その背後に、カントの道徳哲学そしてロールズの "カント的側面"が有する、理性的な反省のプロセス、普遍的な論理、理性と感情の二分などの理論に対する痛烈な批判を伴っていた。
  だが、その一方で、ケアには依存性の問題が付随しがちである点が指摘されている。例えば、「依存者の介護に専ら従事することによって、自ら経済的依存者となっている女性」★09の存在は、ケアに従事する人々のケア労働を賃金として正当に評価することの必要性を明らかにする。だが問題は経済的依存に留まらない。ケアが特定の個人への関心という形を取り、特定の個人への関心がケア従事者の私的な目的と不可分に結びつくとき、それはケア従事者自身の精神的依存の問題を引き起こすおそれがある。
  個別的文脈へのコミットメントは、特定の個人へ発せられる一方向的ベクトルの形をとる。そこには、市場的交換とは異なり、<対価>というリアクションが存在しない。そのような場面において、供給者が期待するものは、自己の発したベクトルが相手にリーチし、そこで意味を獲得することである。もしそれが、何がしかの<意味>へとリーチするならば、彼自身の目的が実現されたことになるが、リーチできずに終わるとしたら、ベクトルは行き場を失う恐れがある。さらにここで、個別的文脈へのコミットメントが私的な次元に留められるならば、ケアする個人が受給者に、精神的に依存する構造が生じかねない。
  その一方で、対価を伴わないコミットメントは対等性を阻むおそれがある。ケアの受け手はケア・サービスの提供を拒否することができない、またサービスの内容を選択することができない。しかも、サービスの供給者との対等性が市場的サービスや公共的サービスのように明確には観察されない。市場的サービスの場合は対等性(等価性)が価格によって表わされる。公共的サービスも、背後に、人々による公共的な承認が、例えば政治過程を通じて明示的である場合には、等価性が表現される。例えば、市場価格ゼロで提供されるサービスであっても、それが人々の承認に基づくものであるとしたら、公共的評価(市場的な公正性とは異なる論理に基づく等価性)の存在が対等性の根拠とされるだろう。それに対して、提供者の個人的共感、憐憫、愛情に基づくインフォーマルなプライベート空間においては、対等性が成立しにくい。そして、対等性の成立が困難な場合には、ケア従事者と受け手との間の相互尊重の念が失われる恐れがある。
  公共的判断の特徴は、個人の私的な目的や関心の延長としてではなく、それらとは異質な関心に基づいて形成される点にあった。特定の個人の文脈に分け入ることがあるとしても、その意図は、<同様のケースを同様に扱う>ルールの形成という観点から、個々人の特殊性・個別性の中からある種の普遍性を抽出しようとする点にある。公共的文脈においては特定の個人に向かう関心のベクトルもまた、緩やかな形であれ、広く適用されるルールへと結晶することを期待される。その中でケアの観点は、普遍的・抽象的ルールが、特殊で個別的な諸条件を反映する具体的なルールの集まりへと改変されることを促すのである。不偏的に配慮すべき社会的ポジションの中には本人自身のポジションも含まれるから、特殊性・個別性に潜む普遍的な人間的意味を探る作業は、自分自身の私的目的や関心に対しても要請されることになる。はたして、このような公共性・反省性を備えたケアは可能だろうか。

★09 Fraser,N. and L. Gordon, 1994参照。

6.個人の主体性と公共性

  確かに、ルールを守る背後に、ルールを主体的に承認するプロセス(ルールの決定・改訂に参加する自由、個々人の意見を集約する公正な手続き、社会的に選択されたルールに対する個々人の批判を公示的な記録に残し、改訂へつなげるような仕組み)が存在しないとしたら、公共的ルールや施策を要とする社会に個人の自発性や能動性は期待できないかもしれない。だが、ルールを承認するプロセスに個々人が主体的に参加できるとしたら、自分が(もまた)承認した公共的ルールを仲立ちとして、自発性や能動性をもつことが可能となるのではないか。例えば、自分の私的な嗜好や選好を大切に持ったまま、その適用範囲を自分でコントロールすることができるようになるのではないか。以下では個人の主体性との関係で公共性の問題を考察してみよう。
  大事なことは、第一に、他者の境遇を目の当たりにし、その声に耳傾けた個人の経験が、特定の他者に対する個別的な「共感」に留められないという点である。特定の他者の境遇に深く共感した彼女は、まずもって<彼>にとって必要なもの、個別的に価値あるものを理解しようとするだろう。でもすぐに、<彼>にとって必要なもの、個別的に価値あるものとは、彼と同様の境遇にある人々に共通する必要に他ならないことに気づくだろう。そして、<彼ら>に共通する必要を、社会的に保障したいと願うだろう。他方で、すべての財はかならずしも社会的に移転可能ではないし、社会的に移転可能な財には限りのあることを知る彼女は、彼らに対して社会的に保障すべき財の水準を見定めようとするだろう。そのとき彼女は、彼らの境遇を、異なる社会的ポジションやカテゴリーに属し、異なる必要をもつ他の人々の境遇と照らし合わせようとするだろう。かくして、何であれ真に<必要>をもつ人々に対して等しい関心を向けつつ、同時に、彼らの<必要>の質的相違に配慮した資源配分方法を考案することが彼女の課題となるのである。それらの作業を経て彼女ははじめて、目前の他者に対する自らの共感を公共政策に反映させるための説得的な理由と方法を獲得するだろう。
  第二に、そのように他者の境遇や声を誠実に受けとめるということは、かならずしも彼女自身の私的選好や目的、人生プランの直接的な変更を要請するものではないという点である。他者の境遇を知り深く共感した彼女が引きうけるべき責任は、彼女自身の効用(幸福)を他者の効用(幸福)を含むものへと拡大することではない。あるいは、彼女自身の私的目的を他者の境遇の改善それ自体へと変化させることでもない。自分の嗜好や選好を自己の人生プランや目的と照らして慎慮的に反省すること、自己の善の観念と私的目的との整合性に配慮すること、自己の人生の各時点に対して不偏的関心を抱くことなどは、彼女が負うべき個人的責任である。他方、他者の発する声を注意深く聴きとること、そして彼の声の中から、彼自身の慎慮的な選好と、近視眼的選好あるいは外部的選好(羨望やルサンチマン等など)とを選り分けること、そして彼自身の公共的判断の形成を助けながら、彼の必要を公共的ルールに反映させる方途を考察すること、そのような営みを通じて彼女自身の公共的判断を形成していくことは、彼女も請け負うべき「われわれの責任」である★10。
  公共的なルールや施策を制定することの一つの重要な意義は、個人が多層的な評価主体・行為主体であり続けることを保証しながら、同時に、社会的な目標の実現を可能とする点にある。公共的ルールの制定・改訂あるいは再解釈プロセスへの参加を通じて個人は、自らの公共的判断に基づいて活動することが可能となる。ひとたび公共的ルールが決定されたなら、個人は、自分が(もまた)承認し公共的ルールに従う限り、たとえ、私的利益や関心のもとで目的最大化的な行動をとったとしても、公共的ルールが体現する徳性から離れることのないことを、すなわち私的利益に基づく合理的な行動が同時に、一定の公正性を満たすことを互いに了解し合うことが可能となるのである。

★10 鈴村・後藤、2001/2002, p. 265-272参照。

7.結びに代えて

  正義の観点を伴ったケアの視点は、他者の境遇への配慮を優先しようとするあまり、自己の私的な目的を見失う、あるいは逆に、自己の私的な目的を追求しようとするあまり、他者の境遇への共感を封じ込めてしまうという、不自然な心的反応を回避する助けとなるだろう。また、異なる多様な境遇にある人々が受けるべき公正な扱い――個別的な特徴に等しく配慮した不偏的な扱い――の具体的内容を、自分自身の幸福や傾向性とは相対的に切り離して、より客観的に評価することを助けるだろう。さらに、公共的ルールの制定は、自分が立てた法則で自分の関心を適正に制約するという、個人の自律的な自由を促すだろう。また、結果的にもたらされる個々人の境遇の違いを、互いに承認し合ったルールのもとで尊重し合うことが可能となるだろう。これらのことは、個々人が自尊の念をもち相互に尊重し合うための、確かな社会的基盤(the social basis of self-respect and mutual respect, Rawls, 1971)を提供すると考えられる。
  ロールズによれば、理性の公共的使用とは、自己の足場から、たえず検証可能な方法で、つまり、いかなる他者からもアクセス可能な状態で、より公共的な認知・承認を求めて理性を駆り立てていくダイナミズムをさす。それは、個別的なポジションの特殊性に深くコミットしながらその普遍的意味を解釈していくプロセスでもある。そのダイナミズムにおいては、既存の組織や制度、法や慣習、常識、さらには人々の認識を主導する原理や憲法もまた、吟味され、検証され、乗り越えられていく。このような個々人の理性の公共的使用を等しく保証するシステムこそが、高次原理と公共的討議の場を備えた民主主義制度に他ならない★11。重要なことは、このような民主主義的な権能が人々によってどのように行使されていくかであり、正義とケアの観点をいかに組み込むべきかにある。
特定の社会的ポジションに在る個人はかならずしも自分自身の必要を正しく認識しうるわけではない。むしろ自分の必要が特殊なものにすぎないのではという懸念から、社会的な請求を自ら控える場合がある。逆に、自己の必要をいたずらに主張して、私的関心を他者に押しつけることもある。だが、当事者には自己の捉えた必要を他者に伝達する義務があるだろう。なぜなら、彼こそが彼自身の置かれたポジションの最初の目撃者だからである。当事者が声を上げないとしたら、その人間的意味を理解しようという共同作業それ自体が始まらないおそれがある。確かに、諸個人が自己の私的な観点を越え出でて、互いの必要とその意味を了解していくことは決して容易な営為ではない。互いの自我の境界が明確であればあるほど、感情的な反発や偏見がその営為を妨げるおそれがある。だからこそ、ときには当事者とも被影響者とも公正な評価者ともなりうる、緩やかで多層的な自我をもつ個々人が集まって、様々な個別的請求の普遍的・人間的意味を互いに解釈し発見していく公共的討議の場が必要とされるのである★12。
  最後に、考察すべき論点を挙げて結びに代えたい。
  1)公共性と私的領域(「最小限の」とすることの理由)
  公共的ルールや政策はその適用範囲が拡大するとともに、多様な個別性を統一的に評価する必要性も高まる。市場的評価や形式的平等を越えて質的相違に踏み込んだ評価を形成しようとするとき、本来、通約不可能であるはずの価値を互いに比較し評価し計測しなくてはならないことの弊害、そして、統一的な評価の基準を形成することによって、個別性に対する統治と管理が強められることの弊害を十分に考慮する必要があるだろう。公共善の提供は、資源の送り手のみならず、受け手にとっても同様に、個人の私的な関心や選好と抵触する恐れをもつ。例えば個人の態度やモラルに深く介入するような政策をはたしてどこまで容認するか、社会的目標の遂行と個人的価値の尊重との間の緊張関係をどのように考えるか、などはそれ自身公共的問題として討議される必要がある。
  2)個別的請求の中から普遍的意味を捕捉することの意義
  障害者、母子世帯、戦争被害者、移民・マイノリティなど特定の社会的カテゴリーやポジションに位置する人々をターゲットにした公共政策には、市民的自由や機会の普遍化という側面が現れる。自己の多様な個別性を捨象してとりあえず、ある社会的カテゴリーやポジションに共通する問題を捉え、その解決を共通の方法に求めようとするとき、彼らは「われわれ」の観点の獲得を獲得する。そして、例えばそこで一定の給付が求められたとしたら、彼らは給付を受けることを通じて、本来ならばすべてのひとに保証されるべき市民的自由や機会の普遍化を促進する担い手として、自己の属する社会的カテゴリーやポジション、そして自分自身を認知することが可能となるのである。
  それに対して、公的扶助の受給者は、生活困窮という帰結においては一致しても、そこに至る経路はきわめて多様である。しかもその経路には、自然的・社会的偶然と、個人的な態度や行動様式や個別的、自己責任的な要因が複雑に絡まりあっている。したがって、彼らは、受給それ自体を、既成のカテゴリーに依拠した市民的自由や機会の普遍化によって意味づけること、あるいは新たな理念を担う社会的ポジションとして位置づけること、それらを通して政治的主体者として自己を形成することは困難な状況にある。むしろ、受給それ自体が、「福祉への依存者」という選別的・固定的カテゴリーを創出する危険があるために、彼らは社会から自己を遠ざける傾向にある。公的扶助が個々人の多様な活動・生の展開を促進するという本来の目的を達成するためには、おそらく市民的自由や機会の普遍化とは異なる論理、<基本的福祉の保障>をより直截に正当化する論理が要請されるだろう。そのような論理のもとで、生存権あるいは福祉権の観念が意味をもつと考えられる★13。
  3)現代社会では公と私の境界があいまいになっている。例えば、様々なメディアを通じて流れ込む情報は、絶えず個人の認識に揺さぶりをかけてくる。個々人が真摯に向き合っている問題、容易には答えがでないものの考え続けていたはずの問題が、偶々報道された事例の1つに瞬時に引き寄せられる。そして論理飛躍的な「解決」を個々人にもたらす。だが、そのような「解決」は、個々人の直面する問題とそれに向かう個々人の取り組みの唯一性・異質性をかき消す恐れをもつ。論理的推論や事実的根拠に基づきながら、自己の問題の普遍的意味をつかむのではなく、唯一性・異質性を一挙に捨象し、思考そのものを縮減する恐れをもつ。さらに、本人の主体的・自律的な思考や解決への取り組みの意志をも弱める危険性をもっている。
  このような状況においては、受動的に認知された様々な事例が喚起する印象的・直観的認識を、自己の反省的・熟慮的考察によって捉え返す作業が重要になってくるだろう。現代社会において私的領域の確保とは、開かれた情報空間に身を置くことを余儀なくされた個々人が、自己の直面する問題への取り組みにおいて、何ものにもよりかかることのない自律性・主体性を貫くことを意味するものと解釈される。

★11 諸個人の現実的選好によってではなく、諸個人の公共的判断によって理念的制度を設計する。各個人の主体性に基づく理念的活動を「人々(社会)の理念的活動」へいかにまとめ上げるかが民主主義一般の課題である。まとめ上げの手続き(各個人の認識的条件及び集計方法)を、歴史的観念として抽出された高次原理や憲法で制約することによって、この課題に答えようとしたものが、「立憲的民主主義」の構想である。後藤、2003a参照。
★12 参照。
★13 後藤, 2003b参照。

参考文献

Musgrave, R. A. and P. B. Musgrave (1973): Public Finance in Theory and Practice, Singapore: McGraw-Hill Book Company(fifth edition 1989).
Nancy Fraser and Linda Gordon (1994): ""Dependency" Demystified: Inscriptions of Power In a Keyword of the Welfare State, " Social Politics, 1, 4-31(reprinted Goodin R. E. and Pettit P. 1997, Contemporary Political Philosophy, Cambridge: Blackwell).
Rawls, J. (1993): Political Liberalism, New York: Columbia University Press.
石田忠(1973/74)『原爆と人間』、未来社.
後藤玲子(2002)『正義の経済哲学:ロールズとセン』、東洋経済新報社.
後藤玲子(2003a)「多元的民主主義と公共性」山口定編、公共研究会叢書『新しい公共性を求めて』、有斐閣
後藤玲子(2003b)「ニーズ基底的相互提供システムの構想」『シリーズ 福祉国家の行方 第5巻』、斉藤純一編、ミネルヴァ書房.
鈴村興太郎・後藤玲子(2001)『アマルティア・セン:経済学と倫理学』実教出版,(2002年2月改装新版).


UP:20030725 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/gr01/021211.htm
後藤 玲子  Rawls, John 

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