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社会性と生物性
(報告原稿)
小泉 義之
2003/10/13 第76回日本社会学会大会・シンボジウム 於:中央大学
http://www.arsvi.com/0a/jss.htm



  はじめに、社会学会で討論の機会を与えていただき、お礼申し上げます。



  本シンポジウムの論点の一つは、いわゆる社会構築主義と本質主義の対比にあると思います。実は、立岩真也氏を通して、本シンポジウムの依頼があったとき、ラインアップからして、私は「本質主義者として振舞う」ことを予想されていると勝手に諒解しました。この点について簡単に述べておきます。

  私は、社会構築主義はどこか具合が悪いと感じてきました。最近、その点を強く感じるのは、病気の場面です。病気の問題、そして、医療の問題が、社会問題・政治経済問題として構成されてきているのは確かなことですし、そうであるが故に、その限りで、社会的かつ政治経済的な対応が求められることも確かなことです。だからこそ、そこに、学問研究の努力が注がれてきました。しかし、当たり前のことですが、そのような研究をいくら積み重ねたところで、病気が治るわけではありません。その点は別にしても、そのような研究動向が、必ずしも病人のためになるわけでもありません。問題が社会的に構築されていることをいくら指摘したところで、現に闘病している病人の役には立ちません。言い換えれば、病気において、あるいは、病人にとって、重要なという意味で本質的な問題にかすりもしません。このことに、心ある社会構築主義者は気づいてはいます。そこで、社会構築主義が、病人のためになる研究を標榜するとき、おおむね、病気をめぐる問題を、心理的な問題に転移させています。ほとんどの研究の最後の言葉は、医療者と患者やクライエントのコミュニケーションを通しての、心理的な救済という落ちになっています。そして、ここでも再び、私は、病人にとって本質的な問題は遠ざけられ避けられているという印象をいだかざるをえません。
  例えば、このように、私は、社会構築主義は具合が悪いと感じています。おそらく考えるべきは、病んだ肉体を含む、肉体の次元についてです。ここでは、肉体の愛と、肉体の再生産すなわち生殖に目を向けて、そこから性的なものを見直してみます。全体として<わからない>を連発しますが、問題提起としてお聞き下さい。

  さて、本質主義者として振舞うなら、人間の本質を、受肉に求めたいと思います。社会構築主義が仮想敵とする本質主義は、社会的なものの基盤・原因を生物学的なもの・生物的なものに求めるものであると想定されています。しかし、人間が受肉していることが、社会的なものとどう関連するのかについて、私にはよくわかりません。そこで、ここでは、本質主義者とは、肉体の次元について直接に語ることができるとナイーヴに信じている者のことであるとしておきます。この意味で、以下、本質主義者として振舞います。一点付け加えますと、私は、社会的なものが生物的で肉体的な次元に直面してしまうその出来事に関心があります。社会的なものや心理的なものが破綻したり失調したりするそのときに、遭遇するもの、リアルなもの、それは肉体の次元であると考えています。ただ、今日は、その類のヒネリ抜きで進めます。



  差異について、先ず述べておきたいのは、差異を差異として思考することは簡単ではないということです。例えば、赤と青があるとします。赤と青の差異を考えるとは、何を考えることでしょうか。赤と青の差異には色はついていません。だから色を考えることではないはずです。また、例えば、赤と硬さの差異を考えるとは、何を考えることでしょう。ますますわからなくなります。たしかに、差異はあるのですが、差異を差異として考えるやり方がわかりません。
  これもわからないのですが、差異の反対語は何でしょうか。また、差異と平等、差異と反対、差異と対立、差異と否定、差異と類似、差異と同一性、差異と他性、差異と相補性、差異と双対性の関係はどうなっているのでしょうか。わかりません。しかも、性差についての論文などを見ていますと、差異について語るつもりで始めながら、いつのまにか、差異の両端項について、つまり、男なるものと女なるものについて、それぞれのものについて語ってしまうようになっています。この事情をどう評価すべきかも、よくわかりません。
この点で、<セックスのジェンダー化>というテーゼに触れておきます。私は、それに対しては、さしたる異論はありません。ただ二つ指摘しておきます。差異の問題と生殖の問題です。
  第一に、<セックスのジェンダー化>テーゼにおいては、差異の位置が曖昧になっています。ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』(竹村和子訳(青土社、1990/1999))から、引用します。
  「おそらく、「セックス」と呼ばれるこの構築物こそ、ジェンダーと同様に、社会的に構築されたものである。実際おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ。そしてその結果として、セックスとジェンダーの区別は、結局、区別などではないということになる」(29)。
  <差異>というカテゴリーを導入して言い替えると、こうなります。@<セックスの差異は、ジェンダーの差異と同様に、社会的に構築された>、A<セックスの差異は、つねにすでにジェンダーの差異である>、B<セックスの差異とジェンダーの差異の差異は、結局、差異ではない>となります。
  @は正しいと思います。Aは<常に既に>なる常套句を自明視する限りで認められるでしょう。つまり、ヒネリを加えることを考えなければ、認められます。問題はBです。これは正しい命題には見えません。少なくとも曖昧です。<或る差異と別の差異との差異は、本当は差異ではない>ということが意味不明だからです。ただ、この点を詮索するのはやめて、第二の問題に移ります。
  <セックスのジェンダー化>テーゼにおいては、生殖の位置づけも曖昧になっています。別の言い方をします。ジェンダー論にせよ、性的差異の議論にせよ、ほとんどの場合、生殖は無視されてきたと言えます。たかだか<異性愛は生殖を中心的目的として編成されている>といった語り方で言及されてきただけです。しかし、この批判の仕方はいささか奇妙です。というのも、他方では、必ず、性愛と生殖が分離してきたと指摘されるからです。生殖は中心なのか、生殖は分離されたのか、よくわかりません。
  そこで、私は、性差に関して、いわゆる最小主義者の立場をとって進めることにします。性差とは、生殖に必要な限りでの肉体の差異と考えます。この場合、肉体には脳・神経系を含めておきます。また、性差は、二人の人間の間に子が生まれることによって、事後的にそれがあったのだと明かされる差異であると考えます。付け加えるなら、この意味での性差、すなわち、有性生殖との関連での性差は、生殖技術の進展によって、崩れつつあると言ってよいと思います。いずれにせよ、私は、生殖との関連でしか、性差は問題にならないとしか思えないのです。
  そうは言っても、事態はそんなに単純ではないと直ちに言いたくなります。ここであれこれ言うと、守りに入る感じになるので、先に進めます。三つ、指摘してみます。
  第一に、セックスの差異が現実化されるのは、大多数の人間にあって、人生のごく僅かな期間だけです。したがって、生殖の場面以外で、人生の大半の期間において、性の差異を語るのはまったく無意味なはずです。ところが、実際には、そうなってはいません。
  そこで、第二に、驚くべきことは、人間だけでなく他の生物もまた、性の差異をそれとして認知して事に当たるのではないということです。所与の肉体(器官や組織)の差異を認知して異性を欲望し生殖に臨むのではありません。そうではなくて、別の差異を、所与の肉体の差異の指標・シーニュにしていると考えることができます。そうしなければ、生殖を行えないかのように、事に当たっているわけです。
  したがって、第三に、<セックスのジェンダー化>ということは、生殖の実現の不可欠の条件であると言えてしまいます。セックスが社会的に構築されるというそのことが、生物の自然本性であると言えるわけです。
  ここでわからないのは、以上の点が、しばしば唱えられてきたテーゼ、すなわち、<異性愛は生殖を中心として組織されている>というテーゼと、どう切り結ぶのかということです。また、仮想敵の本質主義のテーゼ、<セックスの差異はジェンダーの差異の基礎・原因である>というテーゼと、どう切り結ぶのかということです。うまく整理できませんので、こう述べておきます。ジェンダーのトラブルは歓迎すべきことですが、その際に、セックスの差異とジェンダーの差異との間でトラブルが起こっていることを見逃すわけにはいきませんし、生殖の場面でトラブルが起こっていることを見逃すわけにもいきません。<セックスのジェンダー化>テーゼは、ここを隠蔽してしまうのです。
  ジェンダーの差異は、社会的に構築されているし、バトラーの言うように「幻想」(240)でしょう。しかし、これをバトラーが、「生殖的な異性愛という義務的枠組みのなかでセクシュアリティを規定するために、言説によって維持されている幻想」(240)とするのであれば、この幻想を横断するために為すべきことは、生殖の枠組みにまで幻想を縮減すること以外ではないと思います。



  その上で、<性差の起源>に関して考えてみます。
  一般に、差異を差異として思考するのは難しいので、差異を差異として作り出す装置や、差異が差異として現われた起源をめぐる議論へと滑り込んでいくことになります。ところが、差異を作り出すもの、差異を発生させるものは、どう考えても、何か別の差異であるはずです。装置における機能の差異や構成の差異、起源における何らかの差異です。どんな関係を辿るにせよ、基本的には、差異は差異にしか関係付けることはできません。だから、差異の起源論は、大掛かりな迂回の果てに、現状の差異にアンダーラインを引き直すものにしかならないと思います。
  さて、性差の起源論としては、二つの有力な議論が思い浮かびます。一つが精神分析、もう一つが性選択(性淘汰)論です。

  精神分析といっても、さまざまなものがあるので、私なりに、それらに共通する議論の形式を取り出してみます。9ステップに分けてみます。
  第一に、初期条件を個人史のどこかの時点に設定します。この初期条件の設定は明らかに恣意的です。
  第二に、性別化・性化は一回で完了すると想定しています。フロイトはこの想定ではマズイと思っていたようですが、私の知る限り、二回目やn回目の性別化について理論化していません。
  第三に、生まれ落ちた赤ん坊が持つであろうと大人が想定するカテゴリーや概念を、使用することです。赤ん坊の手持ちのカテゴリーとしては、<ある>と<ない>、<もつ>と<もたない>が想定されます。また、<もの>が、さらに、場合によっては、<呼吸><食べ物><排泄物>が想定されます。これらによって、親、男親、女親、男、女、近親姦、世代などが区別して記述されなければならないことになります。
  第四に、生まれ落ちた赤ん坊に、世界と肉体に対する齟齬を想定します。そして、この齟齬をどうにかしなければ、赤ん坊が生きてはいけなくなると想定します。あるいは、生まれ落ちた赤ん坊に生き死にも定かでない渾然たる状態を想定します。そして、ここから切断されなければ、赤ん坊は生死を見分けて生き始めることができなくなると想定します。
  第五に、齟齬を引き継ぎながらも、あるいは、切断しながらも、それがなくては生きてはいけないものが想定され、赤ん坊の手持ちのカテゴリーで記述されます。
  第六に、このプロセスが、通常の言葉遣いでは、社会化のプロセス、言語化のプロセスとして再記述されます。
  第七に、社会化・言語化のプロセスは、同時に性化・性別化のプロセスでもあるわけですから(これは厳然たる事実だと思います)、遡って、赤ん坊の手持ちのカテゴリーで、性の差異を記述し直して、ここまで述べてきたストーリーのどこかに、それを挿入してやります。
  第八に、以上のストーリーが完成しますと、性化は、それなくしては生きてはいけない何かであるように見えてきますから、性的なものは、たんなる心理的なものでも、たんなる文化的なものでもないし、さらには、たんなる解剖学的なものでもないことになります。したがって、精神分析は、社会構築主義とも、いわゆる生物学的本質主義とも一線を画すことになります。
  第九に、以上のストーリーに、赤ん坊が体験していると見なされる快楽や苦痛、享楽や欲望が導入されます。こうして、セクシュアリティの起源のお話が追加されます。

  簡単に評価を加えます。
  第一に、精神分析の起源論は、たんなるお話です。だから、それは真か偽かを問うべきものではなく、面白いかどうか、実践的に有効かどうかが問われるべきものです。
  第二に、その上で、問いたいのは、どうして精神分析はそんなにお話を作りたがるのかということです。私の見るところ、少なくともフロイトが気にしていたのは、どうして世代交代を繰り返しながら大多数の人間が子どもを生むようになっているのかということでした。加えて、フロイトは、人間が、生死も定かでない状態から、生き始めるときに、何ものかを飲み込んでいて、その飲み込まれた何ものかが人間をして子を生むようにさせていると感じていたと思います。要するに、生殖を人間の本質的運命に近いものに感じていたわけです。
  これをどう評価するかですが、もはやそのようなお話は信ずることはできないと私は考えています。素朴に問い直します。どうして子を生むのかと問いを立ててみます。私は、そこで効いているのは、肉体の愛であるというよりは、老後の不安、ひいては死に対する防衛機制であると思います。人間個体の始まりに関わることであるというよりは、人間個体の終わりに関わる営みであると思います。ですから、性差の起源に遡及して生殖可能性を論ずることは、そもそも的外れであると主張しておきます。加えて、生殖技術の進展に伴い、どうして子を生むのかについては、別の答え方が探られています。そうなると、もはや性差の起源論は、この点では何の役割も果たしません。総じて、性差の起源論としての精神分析のお話は、たぶん、肉体の愛の起源論に活用できるだけです。
  一言、精神分析について付け加えます。いわゆる「構造的外部」についてです。これは、性差の起源において排除され失われ忘れられたもののことですが、どう起源のストーリーを選ぶかによって決まってくるわけで、それをめぐる言説も恣意的であらざるをえないと思います。仮に精神分析の枠内で構造的外部をいうのであれば、フロイトのいう幼児期の性理論を念頭に置いたほうが、お話としては生産的だと思います。

  次に、性選択論について考えておきます。この点では、発表要旨に記した以上のことは言えませんので、それを別の言い方で述べておきます。
  性選択論は、論者によって背景理論が違い、性差の認識の度合いも違っているために、要するに、混乱に満ちているために、およそ一律に扱えるものではありません。どうしても論者ごとに対人論法を繰り出さざるを得なくなります。そこで、私なりに、その理論の骨格を想定して批判するという一人相撲を演じざるをえません。
  先ず、二点、確認しておきます。第一に、性選択論は、性差・性的二型が進化の産物であると、つまりは、歴史的に、社会的に、構築されてきたと言っていることです。第二に、性選択されたとされているものを列挙しますと、<色彩、羽、歌、ダンス、音声、匂い、求愛誇示、ディスプレイ>などになります。これは、見かけ、見栄え、現われです。それらは、感性的=美的なセクシュアリティないしはジェンダーです。
  ここを押えた上で、性選択理論のストーリーを、発表要旨とは別のストーリーを作ってみます。
  出発点は、現在、性差があるとすることです。ここは飲み込んでおきます。この差異は、性選択論のお約束からして、性的な相手、もっと絞って言えば、生殖可能な相手を認知する指標でなければなりません。ただし、歴史的起源はそうだったが、遺物・遺産として別の機能に変じたという議論はありえます。
  ともかく、性差の認知は、生殖可能な相手と生殖不可能な相手の差異、もっと言えば、生殖が許されるものと生殖が許されないものの差異の認知です。つまり、性差の認知は、同時に、老若の差異、老幼の差異、正常・異常の差異の認知でもなければなりません。
  その上で、男の暴力性の起源についてのストーリーを作ってみます。現在、男は暴力的で女は非暴力的とします。次に、初期条件を適当に設定して、起源における男の暴力性に関して、さまざまなストーリーを設定します。例えば、配偶者獲得競争、狩猟競争、これに見合うgeneストーリーなどです。この辺りで文句を付けたくなりますが、むしろ肝心なのは次に辿られるべきステップです。
  私の見るところ、性選択論のポイントは、女がそのような男を選好してきたという主張にあります。ここで、闘争心・向上心への愛とか、命がけのものへの愛とか、銃後の守りなどのストーリーを想定できます。また、議論のあるところですが、男の側にも選好のストーリーを想定できます。
  ここを忘れないようにして、厳格に問われるべきは、暴力性と非暴力性を、どのように記述すべきであるかということです。それらは、相手を生殖可能な相手として選好させるような特質の指標として記述されなければなりません。しかも、それらの指標は、生殖相手から排除すべきものの指標としても記述されなければなりません。とすると、例えば、暴力性と非暴力性は、それを可能にする能力の指標として再記述されることになります。或る知能、或る体力、或る徳性などの指標としてです。とすると、こうなります。性選択論とは、そのような能力をもつ男と女だけが生殖にあたることを通して、その結果として、歴史的かつ社会的に形成された性差、ないしは、性的なものを説明する理論であるということになります。このことを裏から言い換えます。性選択論とは、生殖の場面から、無能で劣悪で醜悪なもの(ここには他の生物も含まれます)を排除してきた結果、歴史的かつ社会的に構築されてきた性差ないし性的なものについての説明理論であるということになります。もっと強く言い換えます。ジェンダー、セクシュアリティ、ジェンダー化されたセックスは、その構造的外部として、美的・感性的に何ものかを生殖から排除することを通して、構築されてきたものにすぎないのです。
  この辺りに気付いている性選択論者を一人だけ引用しておきます。顔・姿形・脳、すなわち「突然変異に対してもろい形質」こそ、「配偶者選択による性淘汰が作り出すものなのだ」というわけです(ジェフリー・F・ミラー『恋人選びの心――性淘汰と人間性の進化』(岩波書店、2000/2002)T-147)。



  以上、二つの起源論の検討で示唆したかったことは、仮に、性差を疑うということに意味があるとするなら、生殖相手の選択をめぐって疑うべきであるということです。
  ここを念頭に置きながら、私は、性の差異をマークするのは生殖だけであると考えます。あるいは、性の差異がそこに還元されるのがよいと考えます。私は、生殖技術は万人に解放されるべきだと考えていますが、最小主義がどのようにそのことと関連するかは、まだよく詰めていません。とはいえ、この観点に立って、振り返るなら、従来の言説の多くが奇妙なものに見えてきます。そんな、後ろ向きですが、発見的な効果はあります。一例をあげておきます。
  市野川容孝氏は、「性と生殖をめぐる政治」(江原由美子編『生殖技術とジェンダー』(勁草書房、1996))で、こう書いています。
  市野川氏は、性の解放ということを、「原理的に生殖=再生産に結びつくことのできない性愛の受容」(209)と捉えています。私は、生殖と分離された感情や実践が、どうしてことさらに「性愛」と呼ばれるべきか、その理由が分かりません。肉体の愛と呼べば充分だと思います。歴史的経緯からして、「性愛」なる用語は、一見中立的な用語である「恋愛」や「愛」が、実は異性愛中心主義的に使用されていることが告発された結果、「同性愛」に対する「異性愛」が使用され、そして、その「同」と「異」を外した、「性愛」がいわば一人歩きし始めたものだと言えます。とすると、「同」と「異」に共通する性的な要素があるはずだということになりますが、それは何でしょうか。それが何であるにせよ、たしかに、それはたぶん生殖可能な肉体の有り様に関連しているはずですし、まさにその関連を解きほぐすのは困難です。この点は本当に気になりますが、とにかく、両者を分離すべきであるとするなら、市野川氏が「性愛」なる用語を保持する理由が分からなくなります。
ところで、市野川氏は生殖に関連してこう書いています。「生殖技術を駆使することによってレズビアンの女性も子どもをもつことができる。しかし、そうすることは、人間の再生産に原理的に結びつかない性愛ゆえに、自分たちに逸脱者の烙印をおしてきた既存の社会規範(=異性愛至上主義)に対して、レズビアンがおこなう一種の贖罪や補償にはなっても、当の社会規範そのものを変えることにはならない」(207)。
これは、私には、まったく間違えた見解に見えます。仮に、逸脱すなわち倒錯の烙印なるものが、生殖に結びつかない肉体的営みの故であるとするなら、通常の婚姻夫婦こそが倒錯しています。ほとんどの夫婦は、一生の間、生殖のための肉体的営みを、数えるほどしか行なっていないはずです。だから、むしろ、レズビアンが、肉体を使用して子をなすというその仕方に、学ぶ必要があるはずです。今後は、どうして子を生むのかを、レズビアンにこそ、また、「不妊症」と呼ばれている人びとにこそ、学び直すべきなのです。

  最後に少し守りに入ります。私は、最小主義を唱えましたが、最小主義を生きているわけではありません。理論と実践は完全に分離しています。そして私は基本的には仕方のないことだと居直っています。
  差異や差別をめぐる議論を読むと、しばしば「限りなく」とか「絶えず」とかいった文句に出くわします。そのたびに、私は、「終わりなき分析」というフロイトの文句に感じた嫌な感じを思い出します。冗談ではない、それほど余命は残っていない、という感じです。
  差異や差別をめぐり何らかの展望を述べる場合、私たちの余命がそれほどでないことを考慮に入れるべきですし、その上で、私たちの死後に向けた展望を語りたいのであれば、私たちの死後に人間を生み出すところの生殖に対する態度を明確にしておかなければなりません。このことは、とりわけ性差の展望を述べる場合には、絶対にゆるがせにできないと思います。この発表では、そのことを、問題提起してきたわけです。


UP:20031016 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/031013.htm
「社会性と生物性」(報告要旨)  ◇日本社会学会http://www.arsvi.com/0a/jss.htm  ◇Butler, Judith  ◇市野川容孝http://www.arsvi.com/0w/icnkwyst.htm 

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