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社会性と生物性
(報告要旨)
小泉 義之
2003/10/13 第76回日本社会学会大会・シンボジウム 於:中央大学
http://www.arsvi.com/0a/jss.htm
要旨提出 2003/07 報告原稿



  何らかの仕方で人間の生物性は人間の社会性に効いているはずである。逆に、何らかの仕方で人間の社会性は人間の生物性を証しているはずである。では、この限りでの生物性と社会性に対していかなる形式と内容を与えればよいのだろうか。さしあたり、人間が生物であるということを、生み落とされたものであること、生き残りうるものであること、生みうるものであること、死ぬものであること、また、進化するものであることとして捉えておく。すると、立てられる問いは、例えば、どのように人間が死ぬことは人間の社会に効いているか、逆に、どのように人間の社会は人間が死ぬことを証しているかという問いになる。概ねこのような方向で、性と生殖の関係について考えてみたい。
  これが一般的な問題設定であるが、当面、四つの論点を現段階では別々に考えている。口頭発表では論点を絞って進めたい。
  @gender:sex=disability:impairment=illness:disease。この比例式は成立するだろうか。成立するとして、「セックスのジェンダー化」テーゼは何を言っていることになるか。障害と病気に関しては、医療モデルに対してだけではなく社会モデルに対しても疑義が提出されてきた。それらのモデルに回収不可能な障害の経験と病気の経験があるからだ。そんな経験を肉体(身体ではない)の経験と解してよいとするなら、セックスの経験とはセクシュアリティ(快楽や欲望)のことであろうか、あるいは、生殖のことであろうか。そして、セクシュアリティや生殖の経験において或る装置が作動しているのなら、障害や病気の経験においても同様であると考えられるだろうか。さらに、その場合、社会的装置の作動と切断された肉体の経験をそれとして肯定することは可能だろうか。いずれにせよ、私は、いわゆる社会構築主義には難があると考えている。しかも、社会構築主義に対するものとして本質主義・生物学主義なるものしか思い浮かばない思想状況にも難があると考えている。社会(文化、自己の持ち分)と自然(生物、運命の持ち分)の双方を見込んだ理論と倫理が必要であると思っている。
  A「セックスのジェンダー化」テーゼをめぐるジュディス・バトラーとスラヴォイ・ジジェクの論争においては、生殖のことが忘却されている。あるいは、或る仕方で隠蔽されている。これは何を意味するのであろうか。この点に切り込むには、一旦はナイーヴな立場を採ってみる必要がある。そこで、セックスの差異は生殖に必要な限りでの肉体(脳・神経系を含む)の差異であるとする。この差異は自然の所与である。しかし直ちに注意を打ちたくなる。第一に、この差異が現実化するのは人生の極めて僅かな期間だけである。人生の大半の期間においてセックスの差異は潜在しているか無効化している。第二に、にもかかわらずその差異はジェンダー化されて人生のすべての局面を覆っているわけだが、ここで真に驚くべきは、そうなっていなければ人間はセックスの差異を現実化して生殖に臨まないということである。しかも、人間に限らず、他の動物もまた、所与の肉体の差異を認知して生殖に臨むのではなく、ジェンダーの差異(セクシュアリティの差異?)を認知して生殖に臨むのである。とすれば、第三に、セックスが社会的に構築されるというそのことを、生物の自然本性として捉え返さなければならないということになる。
  B政治的(倫理的)に正しい生殖とは何かという問いを立てることに意味はあるだろうか。皮膚色や顔や姿形の差異についての正しい知覚の仕方を知らないのと同じように、セックスの差異についての正しい態度の取り方を知らないのだと言ってみることができるだろうか。また、セックス(の差異)について、いかに社会的に構築するべきかという問いは一度でもきちんと立てられたことがあったのだろうか。以上の問いは、どこかしら無意味・不自然に感じられるかもしれない。しかしそう感じさせるものこそが、最も強力な生権力であると考えるべきではないだろうか。いずれにせよ、生殖が繰り返され人間が存続してきたという事実を考慮しないような生権力・生政治論は無意味である。
  C性科学、性選択(性淘汰)理論、進化心理学、ポップ社会生物学は、もちろん似非科学であり既成イデオロギーの再版である。しかし、近年の批判は的を外しているように見える。例えば、科学者たちは、生殖機能の差異以上・以外の差異を欲しがっているのであって、いささかも還元主義者ではない。肉体の差異を何が何でも心理・情動・行動の差異に繋げたがっている。だから、むしろ科学者たちこそが、還元主義を怖れているとさえ言いうる(誰が遺伝的決定論を怖れているのかと問うておきたい)。とすると、さまざまな論点が浮上してくるが、性選択理論に絞って評価を加えたい。見通しだけを記しておく。性選択理論は、人間の性的二型(肉体の差異)が歴史的に社会的に構築されてきたとするものであって、その限りでは、「セックスのジェンダー化」テーゼと大差はない。この性選択理論を或る方向に突き詰めるなら、性(の差異)は、生殖の場面から、無能で劣悪で醜悪なもの(他の種を含む)を排除することによって歴史的かつ社会的に構築されてきたというストーリーを紡ぎ出すことができる。言い換えるなら、「強制的異性愛」なる装置によって排除(原抑圧)され現に排除(抑圧)されているのは、バトラーの思い込みとは違って多型倒錯や同性愛でもないし、ジジェクの思い込みとは違って精神病でもないとするストーリーを孕んでいるのである。
  最後に、生殖に言及したものを参考にあげておく。『生殖の哲学』(河出書房新社、2003)、『レヴィナス――何のために生きるのか』(NHK出版、2003)、「制作と生殖――西田幾多郎の生命論によせて」(『西田幾多郎全集』第1巻月報、岩波書店、2003)、「文学の門前」(『文學界』連載、2002)、「ドゥルーズにおける意味と表現B――器官なき身体の娘たち」(『批評空間』V-1、2001)、「言葉の受肉――けろんのおはなし」(『文藝別冊』「まどみちお」、河出書房新社、2000)。


UP:20030722 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/031013s.htm
「社会性と生物性」(報告原稿)  ◇Butler, Judith  ◇Zizek, Slavoj 

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