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エゴイストとしての病人
小泉 義之 2004/10/10
日本倫理学会第55回大会共通課題「エゴイズムの再検討」口頭発表



はじめに
  最初に、本日の発表の観点について述べておきます。最近、私は、病人の立場から物事を考え直したらどうなるだろうかということを、少しずつ考え始めています。ですから、エゴイズムをめぐっても、とくに利己性と利他性の関係をめぐっても、病人の立場から考えてみようと思います。この病人の立場ということについて三点ほど述べます。
  第一に、生命倫理学との関係です。生命倫理学は、病人の立場に立つものであるというよりは、病人の傍らに立つものであると言うことができます。病人の傍らに立って、病人をどうキュアしケアするのか、病人をどう処遇し処置するのかを議論するものです。その際に、生命倫理学は、基本的には、患者のためという意味で、利他的な立場に立ちます。そして、生命倫理学は、基本的には、患者自身の権利や自己決定を保証しようとするので、その限りでは、患者の利己性を承認します。言いかえますと、生命倫理学は、エゴイストとしての患者を承認するわけです。しかし、もちろん、事情は複雑です。その複雑な事情は、病人の側から見返すと、まったく違った光景に見えてくるのではないのか、これが考え直してみたいことの一つです。
  第二に、社会構築主義との関係です。とりわけ医療社会学に顕著な社会構築主義は、病気の医学モデルに代えて社会モデルを採用することで、さまざまな成果をもたらしてきましたが、病気の社会性を強調するあまり、「健康と病気は言説にすぎない」と言い放つようになっています。病気は徹頭徹尾、社会現象であるというわけです。いくら何でもそれは言いすぎでしょうし、そこには病気が社会現象に還元されてほしいという些か悲しい欲求が垣間見えます。これに対して、病人の立場からいかなる批判が出されるべきか、これも考え直してみたいことの一つです。
  第三に、生命哲学との関係です。病気が社会現象に還元できないとすれば、当然ですが、病気は自然現象・生命現象であることになりますが、そのように言うとしても、その生命現象なる概念は生物医学によってそれこそ社会的に構築されていると一旦は認めざるをえません。そうしますと、あらためて、病気とは何かを考え直す必要がありますし、それに役立つ哲学の資源を探し直す必要があります。その際にも、病人の立場からすると、まったく違って見えてくるのではないかと予想しています。
  私は、病人の立場ということで、このような問題関心をもっていますが、本発表では、病人における利己性と利他性のありうべき関係について考えていきたいと思います。エゴイズムをめぐっては膨大な議論の蓄積があり、とても目新しいことなど言えそうにありませんので、そこに病人という観点を差し入れたらどうなるかということを、ごく小さな論点でやってみることになります。

発表レジメ
  まず「発表レジメ」に言及してから、別の議論を付け加えていきます。
  利己性と利他性を架橋することが倫理的な課題として提出されるとして、その場合、利己性と利他性は対立するにせよ、対立を可能にする関係に予め入り込んでいることになります。つまり、自己利益と他者利益が比較され、対立し、場合によっては調停されるとして、そのような営みを可能にしている前提があることになります。
  私が考えたいのは、この前提を何と捉えるか、この前提にいかなる態度をとるか、この前提をいかに倫理的に評価するか、そしてそのことは利己性と利他性の関係に何をもたらすか、もたらすべきかということです。そして私は、この前提に関しては、利己性と利他性の関係を云々する議論はうまく適用できないのではないかと予想しています。この前提なるものが比較的明瞭なのは、利益概念を限定した場合に前提とされるエコノミーです。
  「発表レジメ」の、北田暁大氏の議論を参照しているところに跳びます。
北田暁大氏の『責任と正義――リベラリズムの居場所』(勁草書房、二〇〇三年)の「第四章 How to be(come) social ? ささやかなリベラルたちの生」を参照します。
  北田氏は、倫理的エゴイストから遡って、<規範の他者>という概念を取り出し、そこからさらに遡って<制度の他者>という概念を取り出しています。そして、この「第四章」では、先ず<制度の他者>から<規範の他者>への「決定的な堕落」が、次に<規範の他者>から<リベラルな行為主体>への「凡庸な堕落」が論じられています。北田氏は、エゴイストということで倫理的エゴイストのことを考えていますが、<制度の他者>もエゴイストと呼ぶことにします。<制度の他者>についてはこう述べられています。
「我々の<他者>は、「殺したい」のでも「盗みたい」のでもない。彼/女にはおよそ自己利益や欲求といった自然的傾向性が欠如しているのだ。ホッブス的な契約論が、個別的な欲求を持った自然人による欲求と欲求の妥協線を探る試みであったとするなら、我々は、そうした欲求なき<他者>から議論を開始しなくてはならないのである」。
さらに、北田氏によるなら、この<制度の他者>は、ギュゲスの指輪が与えられたとしても、「不可視の自分」が「可視化した自分」に貢献することはない。むしろ「原則姿隠し」戦略を採用して「不可視の自分」が「生活の中心になる」。こうして、<制度の他者>は、「重要な意味において自己利益vs道徳制度という対立軸の<外部>に位置しているのだ」とされます。言いかえますと、<制度の他者>は、利己性と利他性の関係の外部を指し示す概念であるということになります。
  ところで、この<制度の他者>はいかに形象化されているかを見ますと、北田氏は、それを「バスジャック犯」や「精神病患者」で例示していますが、私は、病人こそが<制度の他者>として捉えられるに相応しいと思います。実際、<制度の他者>をめぐる北田氏の上の叙述は、病人にこそ適合的であると思われます。それ以外の叙述も引いてみます。
  <制度の他者>は「他者の利益と比較されるような利益というものをおおよそ持ち合わせていない」。「こうした徹底したギュゲスの生へのあり方を、すでに他者との比較可能性が折り込まれている「自己利益の追求」という言葉で表現するのはミスリーディングなのではなかろうか。むしろそれは端的な「生への意志」とでも呼ばれるべきものであろう。他者の利害にではなく、むしろ他者との比較可能性に無頓着に、ひたすら不可視的生活の充実を願う徹底したギュゲス」である。こうして<制度の他者>においては、「合理的な選択行為」は「必要ない、いやそもそも不可能なのである」。「将来の自己(利益)と現在の自己(利益)とを比較考量し、長期的視点から利益最大化を図るような賢しいエゴイストにはとうていなりえない」。
  <制度の他者>についてまとめますと、北田氏はこう書いています。
  「このように、徹底したギュゲスに見いだされる、(1) 他者に対する透徹した無頓着さ(自己利益・対他者的欲求の欠如)、(2) 長期的視点の欠如、といった性格は「結果的に道徳制度にコミットした方が、得をする」という自己利益に訴えかける契約論のレトリックを無効化してしまう」。
  この<制度の他者>としては、不治の病人を考えるのがわかりやすいと思います。問題はこうなります。<制度の他者>は、医療制度にコミットする理由をもつだろうか。また、他者のために生きる利他性を発揮することができるだろうか。<制度の他者>と他の人間たちを架橋することができるだろうか。<制度の他者>において、たとえば不治の病人において、自己のために生きることが他者のために生きることになるような、そのような通路を切り開くことができるのだろうか。こうした問いが立つことになります。いずれにせよ、北田氏の分類のおかげで言えることなのですが、三つの水準と、それを媒介する複数の制度、これらの絡み合いの実情を分析しなければなりません。問いの意味をもう少しハッキリさせるために、もう一人参照しておきます。
  立岩真也氏の論文「社会的分配の理由――私のため、から」(齋藤純一編著『福祉国家/社会的連帯の理由』ミネルヴァ書房、二〇〇四年)です。立岩氏は、制度化された社会的分配、これを強制することを正当化する理由を求めていますが、その際には、分業と所有制度を前提とするようなタイプの議論(例えば倫理的エゴイズムをめぐる議論です)や、保険制度を前提とするようなタイプの議論(例えば、病気や医療を論じるときに明示的であれ暗黙にであれ保険の論理で片を付ける議論です)はそれを提供しないとして、次のように進めています。
  「では、自分が大切であることから出発すると分配が導かれることはないのだろうか。そうでもない、ここで私たちは意外に大きな間違いをしているのかもしれない。分配を正当化することのない利己主義とされてきたものはひどく限定された利己主義であり、もっと普通の純粋な利己主義、生への意志を想定したときには、その結果は異なってくるかもしれない」。
  立岩氏は、この「ただ生きていたい」という生への意志から出発して、こう続けています。「力の多寡」「生産物」「利得」で生存を認められるのはかなわない。そんな社会には「いたいと思わない」。「代わりに、私の存在と存在の自由が現実に認められる機構の方を支持する。必ずしも他人に対する同情や自分の将来の現実の可能性を言わなくともよい」。「その要求の中身は、あなた方の都合はさまざまあろうけれど、私のあなた方にとっての有用性・無用性と別のところに私の存在を置くようにという要求なのであり、その意味であなた方のあり方を抑え、私を認めることを義務とすることを受け入れるべきだという要求である」。
  さて、以上を踏まえて、こう進めます。私としては、エゴイストとしての病人をめぐって現に利己性と利他性が架橋されている事実を重く考えてみたいと思います。不治の病人でさえも、あるいはむしろ、不治の病人だからこそ、言いかえれば、ただの生を生きる者だからこそ、さらに言いかえれば、ビオスから脱落したゾーエーを生きる<ホモ・サケル>だからこそ、北田氏の用語で言うなら、<制度の他者>であるからこそ、立岩氏の用語で言うなら、「純粋な利己主義者」であるからこそ、他者のために生きていることになってしまう制度が制度化されているという事実です。そして、この制度の事実性をも規範的な議論に繰り込んでみるならば、まさにそのように繰り込むべきであるというのが私の本発表での小さな主張なのですが、利己性と利他性の関係をめぐる議論は、どうなるのだろうかというのが私の問題提起です。以下、積極的な主張はまったく提示できませんが、いくつかの事例を簡単に取り上げ直してみます。

臓器移植
  事例として臓器移植を取り上げてみます。はじめに、臓器移植に関して、生命倫理学者が繰り返し引用してきた言説を紹介します。おそらく生命倫理学者の多くは、それらの言説を、苦々しい思いをいだきながら、繰り返し引用してきましたし、いまでも引用しています。
引用
〇和田寿郎「心臓移植に挑戦して」『文藝春秋』(1968年10月号)245頁
臓器移植は「もっとも厳粛な意味での人間の"助け合い運動"」
〇野本亀久雄(日本移植学会理事長)『臓器移植――生命重視型の社会の実現のために』(ダイヤモンド社、1999)176頁。
「脳死後の臓器移植を承諾された人は「自分の身体から離れたものはもはや自分のものではなく社会に帰属する」ことを認めてくれている、つまり合意されているわけで、いまはなばなしく離陸しようとしているバイオ産業も臓器移植が実現しないかぎりはむりだった」。
〇研究課題:臓器移植の法的事項に関する研究 ――特に「小児臓器移植」に向けての法改正のあり方―― 分担研究者:町野朔(上智大学法学部教授)
2. 死者の自己決定権の意味
b[人間像の問題] 問題は法がいかなる人間像を前提にするかである。日本の臓器移植法は、本人が生前に死後に自分の臓器を提供することを申し出ていない以上、彼はそれを提供せず墓の中に持っていくつもりなのだ、と考えていることになろう。そうであるからこそ、本人が何もいっていないのに臓器を摘出するのは彼(死者)の自己決定権に反するのだ、と考えるのである。しかし我々が、およそ人間は、見も知らない他人に対しても善意を示す資質を持っている存在であることを前提にするなら、次のようにいうことになろう。――たとえ死後に臓器を提供する意思を現実に表示していなくとも、我々はそのように行動する本性を有している存在である。もちろん、反対の意思を表示することによって、自分は自分の身体をそのようなものとは考えないとしていたときには、その意思は尊重されなければならない。しかしそのような反対の意思が表示されていない以上、臓器を摘出することは本人の自己決定に沿うものである。いいかえるならば、我々は、死後の臓器提供へと自己決定している存在なのである。
評価
  論点はいろいろあります。杜撰な概念規定や用語法、どことなく不真面目で不謹慎な雰囲気などがあります。発言者の実際の行動を見ても、反発や反感を買うのは当然です。
  しかし、これらの言説に何ほどかの真実があるとしたらどうでしょうか。しかも、その真実に直面するのを恐れるがゆえに、反発や反感が生じているとしたらどうでしょうか。少し考えてみます。
  私が自分のために生きているとして、そのことが最も典型的に現われる場合は、私が水や食物を摂取する場合であるとしておきます。私は自分のために水を飲み自分のために飯を食います。私は徹頭徹尾利己的です。ところで、そのことは、同時に、自分の臓器を養い維持することになっています。私が自分のために飲み食いするとき、私は自分の臓器のために飲み食いしています。そのとき、「自分」と「自分の臓器」は区別し難いと言わざるをえません。そして、区別し難いものをリアルに区別してしまう科学技術が介在しているが故に、こんな話し方にもなっているわけですが、また、もちろん、「臓器」なる概念は生物医学的に社会的に構築されていますから、その点での批判的検討は抜かすことはできませんが、そこは別として、私は自分のために飲み食いするというまさにそのことにおいて、臓器を生かし続けていることになっています。
  そして、臓器移植を含む医療制度、これが前提となり、媒介となって、自分のために生きることは、他者のために生きることに関係することになっているわけです。仮に利己性と利他性の軋轢のない調和が倫理学の夢であるとしたら、実際、北田氏と立岩氏の議論をそれぞれの仕方で駆動しているのもそのような夢でしょうが、臓器移植を含む医療制度は、その夢を実現しているように見えてきます。自分のためにだけ生きてきたということが、「脳死」を境にして、それは実は、他者のために生きてきたことであったのだということになってしまうのですから。
  こう述べても、ただちに幾つもの反論が浮かびます。そもそも臓器移植は、事実として、他の患者のためになってはいないとか、自己ということで、人格のレベル、人間のレベル、生きた肉体のレベル、脳死状態のレベル、死んだ肉体のレベルなどが混同されているとか、生死判定基準や意識概念が曖昧に使われているとか、です。
  しかし、私はそうした反論は弱いと感じています。というのも、先ほどの町野氏などの言説は、純粋な利他性、字義通りの献身や贈与を称揚しているだけでなく、利己性と利他性を和解させているように見えるからです。だからこそ、言説の担い手は、自己の倫理性の高さを誇っているし、それに対する一連の反論の倫理性のほうが低く見えてくるわけです。
  率直に言って、ここまでで一杯一杯ですが、補助線として輸血と人体実験に触れて、問題提起にしたいと思います。

補助線・輸血
  ここまで述べてきたような問題の起源の一つは、輸血であると考えておいてよいと思います。この点で、リチャード・ティトマス(Richard M. Titmus, The Gift Relationship (1970))は、献血を純粋な利他的行為と捉え、輸血に、「贈与の関係」「現代社会における利他主義」を見ていました。そして、利他的行為を道徳的に称揚することで、輸血制度を構築し維持すべきであると考えていました。
  しかし事態は逆というか、少し違うのではないかと思います。まず問われるべきは、輸血制度がいかにして成立し維持されているのかということです。この点については優れた歴史的研究がありますが、ともかく、人間の血液を採取し貯蔵し加工し配分し使用する機構が働いていて、その下で、利己性と利他性が架橋されているわけです。この機構についてわからないことは沢山あります。それを市場ないしは資本制と捉えてよいのか、具体的には、血液製剤は通常の商品と同じであるのか、また、血液製剤を使用する医療行為は通常のサービス労働と同じであるのかなどです。余りに難しいので、ここで病人の立場を導入してみます。主として血液製剤の価格の故に、高額医療費がかかる典型例とされる病人を念頭に置きます。
  病人は病気を治療し生きようとする点で、エゴイストですしエゴイストであらざるをえません。そして、そんな病人が、いかなるもののおかげで生きていけているのかと問いを立てると、端的には血液製剤のおかげなのですが、病人のために献血を行ない、病人のために保険料や税金を拠出する、そのような利他的な人びとのおかげであると見なされます。そして、そのような贈与の関係、社会的な利他的連帯を維持するためには、利他性の理由を探し回らなければならないと見なされます。
  しかし、このような議論の経路は、私には不愉快ですし、少なくとも病人にとっては愉快なものではないはずです。それだけでなく、このような議論の進め方には、どこかに虚偽や誤魔化しがあるような気がします。ここにおいて、病人に対して利他的であることが、めぐりめぐって自己のためになるという議論を構成することはできるでしょうが、その前に片付けておくべきことがあると思います。少しだけ述べます。
  歴史的経緯から一つだけ指摘します。輸血制度が広まったのは戦争が契機でした。しかし戦争が終わると、輸血制度に関わる産業・機関は、自己の存亡の危機に立たされました。つまり、輸血制度に携わって自分のために生きてきた人びとは、飯を食えなくなる危機に立たされたわけです。その危機を救ったのは、明らかに病人であったと言うべきです。つまり歴史的に振り返るなら、輸血制度のおかげで病人が生きていられるというよりは、病人のおかげで、精確には、血液製剤を活用して生きていける力をもつ病人のおかげで、輸血制度が存続し、そこに携わる膨大な人員が生きていられるのです。病人こそが、自己のために生きることにおいて、もちろん当の制度を媒介にしていますが、最も利他的なわけです。
  このような歴史を捨象したとしても、同様の議論を立てられるような気がします。血液製剤は高額ですが、このことが意味するのは、病人のおかげで多く稼げる人びとがいるということです。それだけではありません。病人のおかげで、医療関係者や臨床関係者や福祉関係者、さらに生命倫理学者は稼げているのです。病人は利他的な人びとのおかげで生きているというよりは、病人のおかげで、利他的であると標榜する人びとが生きているのです。
  そこでこうまとめてみます。血液を資源化する機構、これが、エゴイストとしての病人と血液を贈与する人間を資源として捕捉し、まさにそのことによって、利己性と利他性の錯綜した絡み合いが生じてきた、とです。問われるべきは、このような仕組みの評価です。
ここから分析を進めると、おそらく市場の倫理的正当化の議論と大差がなくなるようにも見えてくると予想できますが、一つ明瞭な違いは、市場はその資源を自然物としているのに対し、ここでの機構や制度は、病人、そして人間の肉体を資源としていることです。まさに生権力です。しかも、それは資本制の完成形態であるように見えます。そのことが倫理的考察に何らかの違いをもたらすのではないか、要するに、エゴイストと他者の個別的な関係を見るだけでは足りないというのが問題提起の趣旨です。

補助線・人体実験
  人体実験(治験)にも簡単に触れます。人体実験は、病人にあっては、ほとんどの場合、自分のためにはならず、むしろ他の病人のためになるとされる実践です。そして、医療はそもそもそのような実践であるとさえ言えます。人体実験に限らないとは思いますが、病人は、自分のために生きようとするのですが、まさにそのことが他者のために生きてしまうようになってしまう、されてしまう、そのような生権力の下に置かれているわけです。問題はここをどう批判するかです。
  生権力の作動を指摘するだけでは批判にはなりません。生権力の作動に強制や脅迫が伴っていることはたしかですが、それだけを指摘しても批判としては弱いと思います。というのも、生権力の下で、利己性と利他性が死を媒介にして複雑な仕方で架橋しているからです。最後に、少し補足します。
  従来、献身を強いる選択肢が<自由か死か>と定式化されてきたとすれば、近年、献身を病人に強いる選択肢は<自由か生か>と定式化されるでしょう。ここにおける<生>は、ビオスから脱落しつつあるゾーエー、パーソンを失いつつある人間です。それはさまざまな形象によって表象されています。脳死状態、植物状態、末期状態、痴呆状態などです。また、それに相当する文化表象をあげることもできます。そして、私たち、死にゆくものは、病んで死にうるものは、このゾーエーを深く怖れています。この恐怖はパーソンがいだく感情ですが、それを解除することは非常に難しくなっています。そこに、自由が与えられます。ゾーエーが他者のためになるという自由な選択肢であり、自分が他者のために生きていたことにしてもらえる選択肢です。ゾーエーを怖れながら、ゾーエーを贈与する。すなわち、自由によって恐怖を解除するわけです。ところで、この状況は、科学技術・医療の機関・制度によって駆動されています。何よりも、そのようなゾーエーを生産し維持し利用し展示しているのは、その機関・制度だからです。
  私は、<自由か死か>なる選択に駆動された献身も、<自由か生か>なる選択に駆動された献身も、それを批判するのはそれほど容易いことではないと考えています。仮に、現状を批判したいのであれば、生権力からの脱出として自殺や自死を肯定し直すか、あるいは、別の献身の仕方、別の利己性と利他性の架橋の仕方を提示すべきだと思います。いま、脳死・臓器移植を予め拒んで、脳死状態になってもゾーエーを選択する場合を考えます。その場合にも、あるいは、その場合にこそ、脳への治療的介入が行なわれることになります。おそらく「脳不全」なる用語が普及するとともに、脳の医療化・領土化が進行していくはずです。問われるべきは、その場合に、脳に焦点化した医療や介護が、そのような生権力が、現在と未来の同様の人間たちの救済につながる力と技法をもっているか否かということです。要するに、<制度の他者><純粋な利己主義者>が、他者のために生きてしまったことにできるような、そのような生権力の制度は何であるのかが争われるべきであるということです。
  <制度の他者>や<純粋な利己主義者>は、<規範の他者>や<リベラルな行為主体>に「堕落」する間もなく、生権力を媒介にして、別の他者に架橋されています。しかも、<リベラルな行為主体>こそがそのような事態を構築してきたわけです。この状況の中で、多かれ少なかれ<リベラルな行為主体>である私たちが問われていることは、自らがなるであろう病人、すなわち、自己利益も定かではない病人、「欲求」なき病人、「生への意志」だけに駆動される病人、「不可視」にされる病人における、利己性と利他性の架橋の仕方であると思います。


UP:20041026 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/041010.htm.htm REV:20041026
日本倫理学会第55回大会報告集掲載「発表レジメ」 

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