HOME >STAFF

書評:郡司ペギオ-幸夫『原生計算と存在論的観測』

小泉義之

『図書新聞』第2701号 2004/11/13


 最高の理論書である。郡司ペギオ-幸夫氏と同時期に生きているということ、物事を考えようとする者にとって、これ以上の幸いはない。本書は、『現代思想』に一九九四年から九六年にかけて連載された論文を単行本にしたものである。おそらく幾多の難関を突破しながら、論文を掲載し続けた『現代思想』編集者(当時)の小島直人氏と、本書を刊行した東京大学出版会編集者の長谷川一氏、また、先に郡司氏の『生命理論T・U』を世に送り出した哲学書房編集者の中野幹隆氏に、心から敬意を表する。物事を考えようとする者が精神的に生きのびてこられたのは、これら真摯な編集者のおかげである。

 本書は「生命とは時間の別称である」と書き出される。ビデオカメラで一万年にわたって山並みを撮影したとする。その映像を早回しで一時間で見るとする。そのとき山並みは生き物に見えるだろう。同時に、人間や動物は、見て取られたとしても、ブラウン運動をする粒子に見えるだろう。逆に時間スケールを縮小してみる。「タンパク質どころか金属を融合する過程を電子顕微鏡レベルでビデオ撮影し、融合過程に原理的な不定さを見出すなら我々はそこに生命という言葉を使うであろう」。同時に、人間や動物は、見て取られたとしても、膨張・収縮する宇宙に見えるだろう。だから、生命を考えるには、時間を考えなければならない。それだけではない。ビデオカメラなる観測装置、映像なるモデル、撮影過程と映写過程の差異、撮影者と観照者の差異、以上の経緯の観測過程、「生命」なる言葉の使用法、これらを考えなければならない。途轍もない理論作業になる。そんなことが必要なのかと思われるかもしれない。しかし、こう言ってもよいはずだ。私たちが「生きて死んでいく」と感じ、ペンギンが「生きて死んでいく」と思うそのときに、現に私たちはその途轍もない理論作業をやり遂げていると。

 従来の生命理論は頼りにならない。オートポイエシス論、力学系理論、結合写像系理論、カオス理論、人工生命論などは、悲しくなるほどに、この点に鈍感である。講壇科学は「実在論」を採って、モデルによるシミュレーションは世界の状態を近似的に再現=表象していると言い張るだけでなく、そのことをもって世界と人間をコントロールできると思い込んでいる。このメジャーな「状態指向型の物理科学」こそが、さまざまな「弊害」をもたらしている。ところが、これも悲しいことに、実在論に対する批判としては相対主義しかない。「相対主義へ陥る限り、安易な虚無主義(世界は仮構である)を認めるか、相対主義を再度無視して、具体的な特定のドグマへ回帰するかの二者択一になる」。
 何とかしたい。「実在論を基底とする記述こそ、生きることを根拠づけることで、生きることを、生き方・いかに生きるか・生きるべきかの地平で限定し、束縛する」からには、その基底を解体して、「語ること、そしてただ生きること」を擁護したいのだ。

 そこで郡司氏は「観測指向型の物理科学」を提示していく。私たちは何かを観測し語り決定する。そのとき私たちは、多くのものからその何かを、他ならぬこのものとして選り出している。しかし殆どの人は、その他者とその何かを同じ平面に並ぶものとして想像してしまう。つまり、全体を通覧する外部観察者を想定してしまうのだ。これでは外部からのコントロールに服従する思想しか生まれない。そうではなくて、その他者とその何かをステータスを異にするものとして構成しなければならない。ところで、その他者は可能的には無限なるものであるからには、有限の時間内に有限の何かを無限なるものから選り出すことなど不可能に見えてくる。しかし、私たちは現に行為している。とすれば、無限に言及する有限、無限が内在する有限といったパラドックス、これを理論的に証明する過程そのものが、私たちがただ行為することを示す理論モデルになるはずだ。「決定に関する無限退行の過程を観察過程という一瞬・刹那のモデルとして採用しよう」。そうすれば、無限退行などの「逆理の形式」を、存在論的観測者・行為者のモデルとすることによって、「どの一匹の天道虫に対する観察、観察という刹那に対しても無限の観察それ自体が含意されている」ことが明らかになるだろう。こうして「生命の構成的理解」が遂行される。

 そして郡司氏は、高度な数学を駆使して、観測過程や言語行為のモデルを提出していく。「本書の全体を通じて、私はローヴェルの自己言及的特性から生じる不動点を、観測過程や言語行為を規則として根拠づけようとすることで生じるパラドックスとして、同時に観測過程や言語行為のモデルとして使用できると主張してきた。実際私が掲げてきたモデル、ブーツストラッピング系やハイパーダイレーションは、皆不動点を導く証明過程を、異なる二つの論理間で誇張して再構成し、不動点の導出過程を時間過程の刹那と呼んでしまうことで成立するモデルである」。この導出過程は新たな概念の創造でもあるから、さまざまなものの起源のモデルとしても使用される。例えば、郡司氏は、コントロールの思想を解体する鮮やかな議論を展開している。「中枢、脳や権力者は、世界全体を見渡し、システム全体をコントロールするわけではない。ただ、そのような相関が現れるに過ぎない。結果としてシステム全体を制御するものと名づけられるだけだ」。

 最後に本書を読む順序を提案しておく。先ず「はじめに」を読み、「第四章」冒頭の阪神淡路大震災をめぐる叙述に触れてほしい。次に、オートポイエシス関連の読書経験のある人(主として理系)は「第二章」を読み、ウィトゲンシュタイン・クリプキ関連の読書経験のある人(主として文系)は「第三章」を読んでから、「第五章」を読んでほしい。「第五章」では、1/f揺らぎの目の覚める解明、ラカンも取り上げた死刑囚のパズルに関する見事な議論、楽しいオカヤドカリの実験とトゲウオの実験、コミュニケーションに関して孤立進行波を構成する恐るべきモデル、圧倒的な強度を湛える中枢論など、素晴らしい具体例が続いている。その上で、「第三章」あるいは「第二章」を読むと何かが腑に落ちてくるが、それを今度は脱構築しなければならない。すなわち、「第四章」を読み、最後に「第一章」を読むことになる。なお、数学的素養のある人は、有益な四つの付録を読んでから、最初に「第四章」を読むのがよい。「第六章」の「結び」は随時読めばよい。

 本書にはわからないところが沢山ある。しかし、考えてもみてほしい。生命をわかるには、数学理論のすべてを動員したところで足りないのは明らかではないか。数学理論のすべてを動員するものこそが生きているのだから。とすれば、本書のわからないところは、私たちも生きているからには、わかっているはずのことなのだ。今後、物事を考えようとする人が、そこから何ものかを汲み出していくことを強く期待する。


『図書新聞』第2701号 2004/11/13


UP:20061103 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/041113.htm
小泉義之 

TOP HOME(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/)