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書評:ジョルジョ・アガンベン『残りの時』『バートルビー』『涜神』

小泉義之

『週間読書人』2614号掲載、2005/11/25


 アガンベンは一級の学者である。引き合いに出す失礼を許していただきたいが、坂部恵・丹生谷貴志・田崎英明の三氏を合わせて三で割った人というのが、私にとってのアガンベンのイメージである。アガンベンは、古代ギリシア哲学や近代ドイツ観念論に匹敵する現代フランス哲学思想、これの最良の批判者であり遺産継承者である。

 『残りの時』は、メシア(救世主)信仰の現代化のために、パウロ書簡を文献学的に読み込むものである。アガンベンは、パウロの終末論的側面(時間の終焉、世界の破滅、キリストの再臨、最後の審判)を退けつつ、メシアニズム的側面(時間の終焉へと向かう時間、過去と現在が収縮した今の時、残りの時)を際立たせていく。「残りの時」の「メシア的生」とは、「泣く者は泣かない者のように」、例えば、病む者が病まない者のように、闘う者が闘わない者のように、生き延びることである。「メシア的な残りの者」とは、ユダヤ人でも非ユダヤ人でもない人間であり、例えば、病人でも非病人でもない生者、奴隷でも非奴隷でもない「超奴隷」である。これら残りの者は、救済をもたらす者(メシア)でも、救済を他者にもたらす者(党)でも、救済をもたらされる者(福祉対象者)でもない。そうではなくて、「救済を可能にする装置であり、救済しえないもの」である。スペイン内戦を生き抜いたホセ・ベルガミンが「民衆はつねに少数派である」と語ったとき、また、フーコーが「庶民は与えられる」と書いたとき、二人はそんなメシア的生を信じていたのだ。

 この立ち位置から、アガンベンは、次々と批判の矢を放つ。アドルノの否定弁証法は、「外観に反して」非メシア的な思想であり、耽美化した情緒的な呪文にすぎない。ランシエールは、警戒を発してはいるが、民主主義の合意主義的な「偽造」に加担している。コジェーヴは、メシア的なものと終末論的なものを区別しなかったから、歴史が終焉すれば残りの時も消えると思い込んだにすぎない。モースは、真の無償性を無視し、「全面的貸与」だけに固執して、社会民主主義的で進歩主義的な道を開いただけである。デリダは、メシアズムなきメシア的なものを掲げるものの、結局のところ、実質的にはメシア的なテーマを留保してしまった。これらに対して、「メシアニズムの二つの最高のテクスト」、パウロ書簡とベンヤミン「歴史哲学テーゼ」を対置しなければならない。

 『バートルビー』は、メシア的生が、否応なしに、死へ廃棄されていることに対して、静かな憤りを記すものである。まず、アガンベンは、メルヴィルの小説『バートルビー』が、アリストテレスや古代懐疑論以来の「哲学的星座」に属していることを丁寧に辿る。そして、上司からの仕事の依頼に対して、「しないほうがいいのですが(I would prefer not to)」と繰り返し呟くバートルビーが、<意志さえあれば現にやれるはず>といった「道徳が絶えることなく抱いている幻想」を解体してしまうことを指摘する。では、バートルビーとは何ものなのか。産業予備軍か。引きこもりの予兆か。怠惰なニートか。上司は極め付けの善人であるのに、何を言っても「別に」(高桑知巳)とは何ごとか。

 アガンベンは、こう進める。バートルビーとは、「存在しないことができる、為さないことができるという潜勢力」をそのまま生きる者、「歩行することができるという潜勢力」を持ちながら「歩行しない者」、あるいはむしろ、歩行しないことができるという潜勢力を持ちながら歩行しない者、あるいはむしろ、歩行しない者であって、歩行しない者ではないような仕方で生きる者である。これら残りの者は、配達不能郵便(dead letter)が、「存在しえたが決して実現しなかった幸福な出来事の暗号」であるからこそ、あるいはまた、不幸な出来事の暗号であるからこそ、その名の通り、死の手紙として廃棄されるのと同じように、必ずや死へと廃棄されてしまう。これが、「存在-神-学の道徳」の所業である。

 『涜神』は、素晴らしいエッセイ集である。幸福を得るには魔法が不可欠である。ドラえもんの秘密道具、ビー玉・コントローラーなどの玩具、パチンコ・手裏剣などの武具が必要である。ところが、「幸福がそれにあたいすることをして得られる何かではないとい主張するこの子供の知恵」を、大人たちは馬鹿にするだろう。映画『河童』(石井竜也監督)のように、アガンベンが「ブラジル人少女の顔の写真」によって自分は裁かれていると書いても、大人たちは苦笑するだけだろう。どうしてか。アガンベンの見通しでは、視線を死から遠ざけてくれる生理的生命の内奥が、私たちのものであるのはそれが私たちに属していない限りにおいてであることを思い知っていないからである。しかし、画像や映像のような、また、魂や亡霊のような「スペキエース的な存在」を見るような仕方で生命の内奥を見るなら、私たちは私たちが責任のない何かについて責任を負わなければならぬということ、私たちの「救済と破滅」は幼いものの顔に依存するということが分かってくるはずである。もちろん、この見通しについて、アガンベンは具体的に書いてはいない。たぶん、最終章「涜神礼賛」が少し不出来なところから推して、まだ書けないのだと思う。それでも、アガンベンが、「来たるべき世代の政治的課題」を、人文学の豊かさを通して確かに示していることだけは間違いない。

 アガンベンは、その例外状態論だけが、狭隘な政治主義的観点から取り上げられがちである。しかし、アガンベンの書物には遥かに深いものがある。メシア的な残りの時を見事に描いていた大鋸一正『春の完成』がそうであったように、「少数派」によって大切に読まれることを強く期待したい。

『週間読書人』2614号掲載、2005/11/25


UP:20061101 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/051125ky.htm
小泉義之 

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