> HOME >STUFF

争点としての生命
──テクノバイオポリティクスの現在──


松原洋子
連続講演会 21世紀・知の潮流を作るパート2 第1回(生命テーマ領域)
2002/11/20 於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館カンファレンスルーム



生命をめぐる科学/技術

  先端総合学術研究科がスタートする2003年は、ワトソンとクリックによるDNA二重らせん構造モデルが発表されてから50周年にあたる。またヒトゲノム・プロジェクト完了の年でもある。二重らせん構造が発見された半世紀前には、まだ誕生間もなかった分子生物学は、1973年の遺伝子組換え技術の登場を契機に急速に発展し、1990年開始のヒトゲノム・プロジェクトを経て、現在では生物学の方法論的基礎となった。
  分子生物学は、医学、農学、畜産学、工学などの応用分野にも浸透している。産業界や政府は、医療、医薬品、食糧、エネルギー、環境、情報など広範な分野での成果と利益をバイオテクノロジーに期待して重点化を進めてきており、生命科学(ライフサイエンス)は自然科学諸分野のなかで最も活況を呈する分野となった。科学/技術の急成長分野が物理・化学から生物学、理工系技術からバイオテクノロジーへシフトしたのである。あるいは、生物学および生命科学を基軸に物理学、化学、理工系技術、情報工学が再編されたと言うこともできる。
  現代生物学の大きな特徴のひとつは、ウィルス、細菌から人類にいたる多様な生命現象を、分子生物学とバイオテクノロジーによって、共通の方法で理解し操作することが可能になったことである。遺伝子組換え技術によって、大腸菌にヒト成長ホルモンを作らせることに成功したのが1979年。1990年にはミルク中に多量のAAT(ヒトの酵素の一種)を分泌するトランスジェニック羊が作られた。生産物はいずれも難病の治療薬として使われている。遺伝子組換え技術だけでなく、細胞融合技術、クローン技術、生殖技術等の組み合わせにより、様々なキメラ生物が作られてきており、バイオテクノロジーによる生物種間の壁の人為的な乗り越えが起こってきている。キメラ化した人間を誕生させる研究は、倫理面、安全面等で問題があるとして公認されてはいない。しかし技術的には可能であるし、胚研究のレベルではヒトと他種動物の融合も許されている(日本の人クローン規制法など)。ただし、人の尊厳の保持という観点からヒトと動物の融合がどのレベルまで許されるのかという議論は、充分行われていない。
  さらに、経済格差や文化的背景の違いが、希少な研究および医療資源としてのヒト組織・細胞の取引をめぐる倫理的、人道的問題を生じさせる恐れもある。たとえば、胚の倫理的取り扱いがキリスト教圏と比べて比較的緩やかとみられる、非キリスト教圏のアジア諸国が研究開発の素材としてのES細胞の供給源となる可能性が指摘されている。
  このように、生命科学研究の拡大によって、環境中の生物という「外なる自然」と人体という「内なる自然」の双方が、生物資源として研究開発の対象とされるようになった。ヒトDNAや細胞、組織、臓器などの人体部品の収集と利用をめぐって、ドナーの保護、クローン技術の適用の是非などの倫理的問題への対応が焦眉の急となっている。また、重点化が進められている脳科学研究の進展は、被験者保護の問題はもとより、研究結果が社会に与えるインパクトをどう評価し、対処するのかという問題も提起している。
  現代の情報化が進んだ科学技術社会における身体・生体・生命をめぐるポリティクス(テクノバイオポリティクス)は、ヒトの身体、胎児、胚、臓器、組織、細胞、核、遺伝子が研究開発のフロンティアとして本格的に設定されたことにより、新たな展開をみせている。かつては思考実験の中にとどまっていたことが、グローバル化した社会の中でモノ、ヒト、カネを動かしながら現実化し始めているのだ。人体の統合性や生物種の境界を担保してきた物質的基盤が、生命科学の知識と技術によって改変されるという事態は、自然界における人間の位置や生命に対する人為的介入の限界という根源的な問いへの態度決定を迫っている。これはちょうど、19世紀後半の西洋人が経験した進化論受容をめぐる倫理的危機にも似ており、現代が世界観の大きな転換点にあることを示唆している。むしろ、社会システムにおける科学/技術の浸透度が格段に増大し、バイオテクノロジーが出現している現代の方が、より重大な局面にあるといっていいかもしれない。
  20世紀半ばまでは、科学や技術それ自体に公共的意義があるとみなされ、外部からの規制は科学や技術の自由な発展を阻害し社会的損失につながると考えられていた。しかし、1960年代以降の公害、薬害、医療過誤の社会問題化や、1980年代からの国境を越えた環境問題を経て、科学と社会の関係が変化した。現在では、科学/技術研究が制度的にも経済的にも社会システムに依存するとともに、社会システムの運営もまた、科学/技術に依存している。こうした状況をふまえ、科学/技術研究のありかたを程度の差はあれ公共的ルールにより規制あるいは誘導することは、正当であるとみなされるようになった。そのなかでも、「身体」という生存の基盤を左右する医療技術に介入するルールは、独自の経緯により形成されてきた。これはしばしば「生命倫理」による技術の暴走の歯止めとして、肯定的に評価されてきた。
  しかし、そもそも安全性や倫理問題に配慮する観点から生命科学技術を規制することは、われわれの生にとってどのような意味をもつのだろうか。ここでは生殖技術を例に検討してみたい。その前に、医療技術の社会的規制がどのように行われてきたのか、その過程を確認しておこう。

生命科学技術規制制度の成立と普及

  大学・病院・研究所など施設内に設置されたIRB(施設内審査委員会)、学会・職能団体・政府といったレベルでの倫理委員会、各種ガイドライン・法律といった制度によって、臨床研究(人体実験)や生命科学研究を規制するシステムは、今では国際的な標準となっている。この直接の起源は、1970年代のアメリカにおける人体実験および遺伝子組換え実験の規制に関する議論と制度の構築にあった。これは、生物医学研究という科学者共同体の聖域を社会に開いた点で、画期的であった。
  第二次世界大戦中の科学動員に成功したアメリカ政府は、戦後も軍事研究に次ぐ莫大な研究費を医学・生命科学研究に投入した。特に1971年の国家がん基本法をはじめとするニクソン政権の医学研究重視政策は、生化学者や分子生物学者のがんウィルス研究参入を促し、DNA研究を進展させた。このうち、生化学者バーグの遺伝子組換え実験は、当時のベトナム反戦運動や環境保護運動と連動した科学技術批判の世論を背景に、安全面、倫理面で問題が大きいとして批判されていた。1973年にはコーエンとボイヤーが遺伝子組換え技術を確立したが、バーグは遺伝子組換え研究の一時停止を著名な生物学者たちと連名で呼びかけ、1975年にアシロマ会議を開催して科学者主導で実験規制案をまとめた。これは一部修正を経て、NIHの遺伝子組換え実験ガイドライン(1976年)の基本原則となった。このガイドラインは、その後、世界の遺伝子組換え実験規制制度のひな型となった。
   しかし、NIHの遺伝子組換え実験ガイドラインより以前に、アメリカではすでに生物医学研究に関する規制制度が発足していた。それは、1974年に成立した国家研究規制法である。これによって、保健教育福祉省の予算で行われる臨床研究(人体実験)に関しては、国家委員会がガイドラインを策定するとともに、研究者はIRBに事前に研究計画を提出し認可を受けなければならなくなった。IRBや国家委員会には、法律家など医学医療の専門家以外のメンバーを入れるよう義務づけられた。人体実験の被験者保護については、ナチス政権下の人体実験問題の反省を踏まえて提示されたニュルンベルク・コード(1946年)とこれを取り入れた世界医師会のヘルシンキ宣言(1964年)において、十分な説明を前提とした被験者の自発的同意の必要が提示されていた。これを踏まえ、アメリカでは、1966年にNIH/PHSが、政府の研究費援助を受けている研究機関に対して、人体実験に関する審査委員会制度の導入を求めた。しかし、1972年に多数のアフリカ系アメリカ人男性が本人の承諾無く梅毒の経過観察研究の被験者とされ、適切な治療を施されず犠牲となった事件が発覚した(タスキギー事件)。反人種差別や患者の権利尊重といった人権意識の高揚を背景に人体実験問題が注目を集め、既存の審査委員会制度が見直された結果、被験者保護制度は国家研究規制法による法的根拠を与えられた。前述のアシロマ会議からNIHガイドラインに至る遺伝子組換え実験規制は、人体実験規制制度の確立という大きな流れの中に位置づけることができる。
   1975年の修正ヘルシンキ宣言(東京宣言)では、人体実験を含む研究は倫理委員会による事前審査と許可等の手続きを経なければ、学術論文として出版できないといった詳細な倫理規定が盛り込まれた。こうして、ガイドラインと審査委員会(倫理委員会)の二本立てによる研究規制のスタイルは、1980年代以降普及し、臨床研究や先端的な生命科学技術研究の社会的コントロールの国際的な標準となった。
   また1980年代には、分子生物学的アプローチが免疫、がん、エイズ、遺伝性疾患等の研究領域にも浸透し、生物医学研究全体における遺伝子組換え技術の重要性が増大した。そのため1970年代には別々に扱われていた人体実験と遺伝子組換え実験の規制が、1980年代には一体的に対処されるようになった。これは、それまで人体事件問題と医療倫理が中心だった生命倫理と、遺伝子組換え技術の経済性、有効性、安全性を主に検討してきたテクノロジー・アセスメントが接近し、生命倫理とテクノロジー・アセスメントの関心領域が相互浸透してきたことを意味していた。さらに、1980年代には遺伝子組換え生物に特許が先進諸国の間で認められるようになり、特にアメリカでは特許化奨励政策もあってヒト組織・細胞研究に対する商業的関心が高まった。その結果、従来のように個体としての人体への侵襲だけでなく、部品としての人体の収集、利用、処分、所有権の問題と人体部品の種類による適切な対応のありかたが、生物医学研究の産業化の進行とともに浮上してきた。狭義の被験者保護だけでなく、人体部品の利用においても、人間の尊厳や人権への配慮が必要な局面が生じてきたのである。さらには胚や胎児の倫理的な取り扱いが、従来の中絶や生殖医療とは別の文脈から新たに問われることになった。この問題は、ヒトゲノムの解読が進み再生医療研究で幹細胞、胚、胎児等が研究資源として注目されている現在、一層切迫している。
   以上をまとめると、1970年代半ばにアメリカで成立した、ガイドラインと倫理委員会による人体実験規制制度は、遺伝子組換え技術の規制制度にも影響をおよぼしながら、1980年代には各国に普及した。また1980年代以降の生命科学の進展は、生命倫理問題の多様化、複雑化と研究規制対象の範囲の拡大をもたらした。現在では、先端医療技術および生命科学技術が、研究者の野心、バイオ産業や医療ビジネスの利潤追求、個人の自己決定権を名目にした自由放任などによって、安全面、倫理面で深刻な問題を起こさないようにするため、合理的で適切な規制を行うことの社会的必要性は、研究者共同体、医療、企業、政府、ジャーナリズム、市民などの様々な立場の人々に認知されている。また、患者や被験者、ドナーとなる人々の人権や人の尊厳を守るために、規制制度が不備であったり機能不全に陥ったりしてはならないとか、規制は技術の暴走に歯止めをかけるために必要だという考え方には、何の問題もないように見える。しかし、はたしてそうだろうか。規制がもたらす意味について、生殖技術を例に考えてみることにしたい。

補助生殖技術の問題

  畜産分野で開発された体外授精技術の不妊治療への応用によって、1978年にイギリスで最初の体外受精児が誕生した。その後、補助生殖技術(ART、以下「生殖技術」)による子作りの問題と体外受精で作られた胚の研究のありかたについて、本格的な議論が開始され1980年代には生殖技術の規制に着手する国が出てきた。
  イギリスではウォーノック委員会報告(1984年)をもとにヒト受精・胚法(1990年)が、ドイツではベンダ委員会報告(1985年)をもとに胚保護法(1990年)が制定された。また、フランスでは先端医療に関する倫理問題を包括的に規定した生命倫理法(1994年)が成立し、胚研究は条件付きで認められた。これに対して、アメリカでは政治的・宗教的理由で胚の取り扱いに関する議論の調整がとりわけ難しいため、連邦政府レベルでの総合的な胚研究規制はできていない。莫大な連邦政府予算の投入によって生物医学研究の先頭を走るアメリカであるが、胚研究に関しては政治的背景にかなり左右される状況である。一方、日本では厚生労働省が生殖技術を規制する生殖医療法制定をにらんで、学識経験者による委員会での検討を進めているが、体外受精でつくられた胚をつかった研究に関しては、政府は人クローン禁止法、ES細胞研究および特定胚研究のガイドラインを制定している。胚研究は生殖医療なしでは成立せず、人クローン研究も生殖医療と密接に関わっているが、日本の制度では個別に規制する形態をとっている。
  ところで、人に対する生殖技術の応用は不妊治療の一環としてはじまり、現在でもそれが基本である。生殖技術による不妊治療の特徴は、治療によって夫婦の性交による自然妊娠に導くのではなく、不妊の原因を残したまま自然妊娠に至る過程の欠如を生殖技術によって補う点にある。この場合、自然妊娠による出産にできるだけ近づけるために、カップルの卵子、精子、母胎を使うことが基本だが、それで子どもを得るのが困難な場合には、論議を呼びながらも代替手段が使われてきた。夫の精子が使えない場合に、AIDと呼ばれる第三者の男性から提供された精子によって人工授精をする方法は、1940年代後半から日本でも採用されている。海外では妻の不妊原因の解決として代理母(夫の精子を第三者の女性に人工授精)が認められている場合もある。さらに体外授精―胚移植という技術の登場と、その関連技術の進展によって、妻の不妊原因を第三者の卵子や第三者の母胎(いわゆる借り腹)で補うことも可能になってきた。また、着床率を向上させるために、ドナーによる提供卵子の細胞質を妻の卵子に注入したり、妻の卵子の核をドナー由来の除核未受精卵に移植するようなことも試みられている。
  このように、夫婦間の自然妊娠に至る過程の欠如を補う形で利用されてきた生殖技術であるが、実際には依頼者夫婦以外の生物学上の父や母(例えば借り腹の場合、卵子提供した母と産みの母の二人の生物学上の母を子どもは持つことになる)が出現してきた。夫婦間の自然妊娠で生まれる子に近づけるという基本型へのこだわりは顕微受精の開発などにみてとれるが、その一方で基本型から逸脱するような生殖技術の応用を、生殖医療が不妊治療という名目で進めてきた面もある。学会のガイドラインや法律で定める範囲を超えて、医師や研究者が見切り発車的に技術を臨床応用し、それが社会で問題になって後追い的にガイドラインや法律が見直されたり作られたりするのはよくあることだが、生殖技術についても同様である。現在厚生労働省が進めている生殖医療法の検討も、1998年に長野県の産婦人科医がドナーから提供された卵子をつかった体外受精を行い、産婦人科学会を除名された事件に端を発している。
  1978年の体外受精児誕生前後には、将来の胚の遺伝子操作やクローン人間誕生の可能性まで見越した体外受精技術の是非論が展開されていたが、結果的には子どもに恵まれない夫婦が自分の子どもを得るために必要な不妊治療という文脈で許容されていった。しかし夫婦間の自然妊娠で生まれる子という基本型からの不妊治療の逸脱は、不妊治療という目的以外の生殖技術利用の正当化への道を開くことになった。
  一つは、子の選別のための利用である。不妊の夫婦でなくとも、子どもにある種の遺伝性疾患が生じる可能性がある場合、そうした疾患を持つ子供の出生を防ぐために、予め配偶子や胚を選別して人工授精や体外受精で出産するというケースがある。最近ではアメリカで重い遺伝性の貧血症の第一子の治療のために、臍帯血移植のドナーとして適合的な胚を選んで体外受精で出産した例もあった。また、シングルマザーや同性愛カップルなどが異性と性交せずに生殖技術を使って子どもを持とうとする場合もある。さらに、若いときに卵子を凍結保存しておき、将来の高齢出産にそなえることを勧める産婦人科医もあるが、これも不妊治療と直接関係はない。そのほかにも、不妊治療という目的以外で生殖技術を利用し子どもを持ちたいという願望の背景には、さまざまな事情がありうる。
  現状では、こうした願望にすべて応えようとしている訳ではなく、なんらかの基準で利用を規制する必要があると考えられている。極端な例を言えば、体細胞クローン技術による子づくりを切望する人々も不妊カップルを含めて存在しているが、世界の大勢は体細胞クローン人間誕生を目的とした生殖技術の利用を禁止する方向にある。しかし、これにしても「不妊治療としてのクローン人間は生殖の権利として認めるべきだ」と擁護する声もある。
  「生殖の権利」(リプロダクティブ・ライツ)は、もともと中絶の非合法化や人口政策や優生政策による生殖管理、性的マイノリティーへの抑圧などへの抵抗の拠点として機能してきたが、現在では生殖医療のクライアントが様々な生殖技術を利用して子どもを持つ権利として読み替えられるようにもなっている。研究者の野心や、医療ビジネスの暴走に歯止めをかけるための規制という論理はわかりやすいが、自己決定権としての生殖の権利の追求を制限する論理を正当化することは簡単ではない。「個人の権利」を制限する根拠として使われてきたのが「公共の利益」であるが、これこそがまさに、人口政策や優生政策による人権抑圧の論理として機能してきたという歴史があるからだ。生殖技術を公共の利益という観点から規制しようとするとき、その「公共の利益」の内実を見極める必要がある。

生殖技術の規制の根拠

   生殖技術を規制する根拠としては、第一に患者の保護が挙げられる。生殖技術には実験的段階の技術も多く、最低限の安全性を確保し、患者の状態がその技術の適応として妥当であるかを確認したうえで、患者に対してインフォームド・コンセントを求めるといった、他の医療技術と同様の手続きが必要である。しかし、この意味での規制が生殖医療では充分機能していない。もともと、日本には被験者保護に法的裏付けがなく、医師会のような職能集団や産婦人科学会といった専門家団体には、ガイドライン違反者の医師資格の剥奪や業務停止の権限もないため、規制には限界がある。そのうえ、生殖医療の場合は患者の健康レベルを低下させてでも妊娠の成功を優先したり、いわゆる「子の福祉」よりも子どもを求める患者の要望を重視する傾向があるといった特殊な状況がある。そのため、生殖医療の規制においては、患者保護はもとより、子どもにとっての技術の安全性が重要な課題として認識されることになる。
  体細胞クローン人間の出生の問題点の一つとして、技術の安全性が確立されていないことが挙げられているように、生殖技術によって子どもを作る場合、その技術の安全性、有効性は子どもにおいて発生する「異常」の有無や程度で測られることになる。技術の安全性を確保することは、病気や障害を持った子供の出生のリスクを自然出産と同程度以下にすることを意味する。しかし、クリニックの評判を上げるために生殖医療のリスク管理を徹底しようとすれば、病気や障害をもって生まれる子の出生を防止するために、着床前診断や胎児診断、将来は胎児治療や生殖細胞系列の遺伝子治療に進む可能性がある。生殖の権利を主張する声に応えて生殖技術の適用範囲が拡大すれば、産婦人科医療の標準が生殖医療に置かれる可能性もでてくるのではないだろうか。これは生まれてくる人間の価値をリスク管理という発想のもとで医学的な身体観のなかに限定する傾向を強化する恐れがある。
  もう一つの規制の根拠は「子の福祉」である。これには健康面も含まれるが、親を知る権利や、親子関係の複雑さを回避するため配偶子や胚の提供者を制限するなど、人間関係への配慮も重視されている。また、生殖技術の利用者を法律上の夫婦に限定したり、事実婚カップルでも異性愛カップルに限定するといった親の資格の設定も、「子の福祉」との関連で行われている。しかし、何が「子の福祉」に反するのかは自明ではない。
  たとえば、同性愛カップルが生殖技術を使って子どもを持つことがなぜいけないのか。生物学的に生殖不可能な組み合わせということなら、不妊の異性愛カップルと変わらないし、レズビアンカップルのひとりがAIDで出産した子どもは、異性愛カップルにAIDで生まれた子どもとなんら変わらない。あるいは、同性愛カップルのもとで子どもが育つことが「子の福祉」に反するというのだろうか。また、遺伝性疾患があり子どもに遺伝する可能性がある人が、病気や障害をもった子どもが産まれる可能性を承知のうえで生殖技術を使って子どもをもつことは許されるのか。これが「子の福祉」を理由に許されないとすれば、それは優生学的な障害者の生殖権の制限とどこが違うのかということを明確にしなければならない。「子の福祉」への配慮が、生殖医療法において「公共の利益」による障害者や性的マイノリティーに対する生殖の権利の制限という形で反映されるとすれば、少なくとも表面的には優生政策と相似的関係を示すことになる。
  
「公共の利益」とはなにか

   多くの人々は、科学技術の暴走をくい止めるためには何らかの規制が必要であり、生命科学技術も例外ではないと考えている。特に生殖技術は患者だけでなく、配偶子のドナーなど生殖に関わる第三者や、これから生まれてくる子供、さらにその子孫の身体的基盤と社会的ポジションに重大な影響をおよぼす可能性のある特殊な技術であり、規制の重要度は高いはずである。生殖医療を自由放任にゆだねるわけにはいかないと、確かに思う。しかし、科学技術政策や医療政策として生殖技術を規制する場合、その根拠となる「公共の利益」の内実が問題である。生殖技術のリスク評価は何を基準にするのか、生殖技術を利用できる親の資格を何を根拠に制限するのか、それはかつての人口政策や優生学が標榜した「公共の利益」のポリティクスとどう違うのか。われわれは生命科学技術を公共的に規制することの意義を自明視しがちであるが、「公共の利益」にもとづく規制下での生命科学技術の運用は、ある種のテクノバイオポリティクスを公共的に正統化することを意味する。生殖技術の問題は、生命科学技術の公共化の危うさが露呈する領域であるといえよう。


UP:20030722 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/my01/021120.htm
松原洋子  ◇「争点としての生命」 

TOP HOME(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/)