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擬人法の未来
西 成彦
連続講演会 21世紀・知の潮流を作るパート2 第2回(共生テーマ領域)
2002/12/04 於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館カンファレンスルーム
16:30〜18:30 コメンテーター:渡辺 公三




  皆さんはテラピアという名前の魚をご存知でしょうか? テラピアではなく、ほんとうはティラピアと呼ぶのがより正確なようですが、目取真俊の小説にはしばしばこのテラピアが傍役として登場します。沖縄ではスズメダイとも言うそうです。目取真俊は、戦後(昭和で言えば30年代)生まれの沖縄作家ですが、その小説には、工場排水に冒されて背骨が彎曲していたり、生きていても悪臭を放ったりする不吉な魚として、テラピアがよく登場するのです。このエキゾティックな響きを持つこの魚のことが気になって、魚類の図鑑にあたってみることにしました。
  『沖縄の帰化動物』(嵩原健二他訳、沖縄出版、1997)によれば、テラピアの原産地はアフリカ大陸東北部。しかし、今日では東南アジアや台湾、あるいは中南米の河川部にも広く分布しているとのことで、沖縄には「1954年に台湾から移入され(…)食用魚として各地に放流された」そうです。ところが「増えはじめた頃は、釣って食べることもあったが、生活排水や畜舎排水など流れ込むところに多いので、汚いところに住む魚というイメージが強く、ほとんど(…)利用されていない」のが現状だといいます。目取真俊の少年時代は(それはいわゆる「沖縄復帰」の前夜に相当します)日本で水俣病が話題になった時代に重なります。畸形化した魚が猫の畸形化をひきおこし、それがニンゲンの身体にも変移をもたらすという「公害魚」という観念がメディアを通して日本語世界に広まった時期が、ちょうどテラピアの増殖期にあたったというわけです。
  目取真俊がこのテラピアを小説に登場させたのは、最初期の作品「魚群記」(初出『沖縄文学』1984)でした。この小説は、1960年代、沖縄本島の北部にパイナップル工場が林立した時代に、季節労働者として台湾から来た女性職工に恋心を抱いた地元の少年の話です。主人公は川の河口でテラピア釣り(というより、ほとんど自家製の弓矢を用いた狩猟なのですが)に熱狂する小学生のひとりで、川べりにはその父と兄が経営にたずさわっているパイナップルの缶詰工場があります。少年はそこで働く「女工」のひとりに異性を感じ、この欲望が鬱屈していくさまを小説は「私小説」タッチで描いています。ここでのテラピアは、要するに、沖縄本島での産業振興期、そして「日本復帰」前後を象徴する帰化動物だったということになるでしょう。「魚群記」の目取真俊は、このテラピアをパイナップル缶詰工場の「台湾人女工」の思い出と併置したのです。
  東アジア地域でパイン産業が最初に定着したのは日本統治下の台湾で、南西諸島では1930年代に八重山地域で試験的な栽培や缶詰生産が始まったのが最初でした。しかも、それは台湾系の実業家や技術者の尽力によるところが大きく、沖縄本島にパイン産業が根づくのは「パインアップル振興法」(1960)以降であったということです。しかし、パイン工場に働く現地女性労働者が未熟であった上に、人件費がかさむという理由から、この方面ですでに実績のある台湾人熟練労働者を出稼ぎとして迎えるようになるのが、ちょうど「魚群記」の舞台となる「沖縄復帰」前夜の1960年代末であったとことになります。
  「パイナップル振興法」に希望を託した沖縄の事業者たち。そして林立するパイン工場の周囲にたむろするテラピア。そのテラピアをめあてにやってくる少年たちの群れ。一方、パイン工場に季節労働者としてやってくる台湾人女工の群れ。その女性たちを「たいわんいなぐ」と呼んで見下しながら、植民地主義時代の台湾人差別の威勢をかって、女子寮のまわりを徘徊し、女に取り入ろうとする沖縄の男たち。「魚群記」の設定は、こうしたパイン工場の設置がひきおこした連鎖反応です。目取真俊が「魚群」の名で呼ぶのも、それは工場の排水管の周りに集まるテラピアにかぎらない。台湾人女性や、沖縄の少年や男たちのすべてがここでは「魚群」なのです。
  米軍基地の周囲にたむろする沖縄の男や女に光を当てる風俗小説の手法は、大城立裕や東峰夫ら、戦後沖縄文学にめずらしくありませんが、「魚群記」の目取真は基地をひとまず遠ざけ、沖縄の男たちや少年が構造上加害者や差別者や搾取者の位置に立つパイン工場を風俗小説の舞台に選びました。少年時代に植えつけられた「たいわんいなぐ」に対する軽蔑的感情や性的関心をふりかえりながら、こうした沖縄版の「オリエンタリズム」が決して過去に封印されるのではなく、現在にまで受け継がれる植民地主義時代の遺習として告発の対象に据えること。目取真俊は「沖縄が被害者や被差別者一辺倒ではなく、加害者や差別者でもあることを気づかせるきっかけ」として、「タイワンイナグ」の記憶はあったと後に「魚群記」に対する後注をつけることになります(『沖縄/草の声・根の意志』所収「台湾への旅」)。
  目取真俊の擬人法というものを考えるとした場合、それはたとえば次のように定義することが可能でしょう。ニンゲンと動物とを同じ歴史プロセスの中に組み込み、互いが互いを映し出す鏡のようにはたらいてしまう仕組そのものを暴き出すための擬人法だと。しかもここでの歴史プロセスとは、いうまでもなく植民地主義の歴史であり、帝国主義戦争の戦後処理としてのネオコロニアリズムの歴史に他ならないのです。


  ところで、先ほど紹介した『沖縄の帰化動物』をめくっていると、テラピアどころではなく、たいへんなディアスポラを生きたカタツムリの一種のことが紹介されています。アフリカマイマイです。
  「最長180mmをこす」というこの大型カタツムリの「原産地は東アフリカで、食用、薬用として1800年頃モーリシャス島に持ち込まれたのに始まり、1847年にはカルカッタ、1900年にはセイロン、1911年にはシンガポール、1920年代にはジャワ、ボルネオまで広まり、1930年代にはグァム島、ハワイ、台湾諸島、沖縄、小笠原などの熱帯太平洋地域の殆どの島で繁殖するようになった」といいます。
  そして、その後は「1932年1月台湾総督府技師の下条馬一博士がシンガポールから台湾に移入したものをもとに田沢震吾が食用かたつむり白藤種として販売し台湾全土に普及した1932年以降に、台湾経由で沖縄に入ったのが移入の主流であった」とも同書にある。現地で郷土料理のメニューの中でも「台湾チンナマー」の名が一般的なのは、こういった移入経路に基づくものなのでしょう。
  ところが、この食用カタツムリとしてのアフリカマイマイには、その後、脚光があたることになるのです。「戦災で焦土の中に残るサツマイモを食べつくし、ソテツの実や茎にデンプンを求め、家畜皆無の状況で食脂の代用にモービル(エンジンオイル)をてんぷら油にして食べた時代にタンパク資源だけは豊富にあった……アフリカマイマイは沖縄住民を餓死から救った」というのです。
  ただ、沖縄戦前後のアフリカマイマイの運命は、波瀾に富んでいます。『沖縄の帰化動物』にそって、ふりかえっておきましょう。「移入後の10年(1944)までは飼育下にあって山野に逃逸し帰化している状況は見られなかった」のが、「沖縄戦(1945)を境に、逃げ出したアフリカマイマイはわずか五~六年のあいだに爆発的増殖をなし」たようです。つまりはじめは食用として養殖されていたアフリカマイマイが、沖縄戦のあいだにいつしか養殖場の柵を破り、野性化していったわけです。そして食糧難の時代にひとびとを餓死から救い、同時に帰化種としてもたくましく生き延びたアフリカマイマイは、しだいに食糧事情が安定してくるにつれ、こんどは「害虫」として嫌われるようになります。「アフリカマイマイは農作物(…)への被害が大きな問題になり」、結局は「駆除を目的に市町村役場が住民から買い上げ」るに至ります。おまけに「好酸性脳脊髄膜炎の病原体の寄主である広東住血線虫が(…)に寄生すること」が判明して以降は、単なる「害虫」を超えて「病害虫」として敵視されさえしたのです。
  ニンゲン社会の世界制覇(グローバル化)は、ニンゲンの移動ばかりか、動植物に対してもディアスポラを強いました。海底を遅々として這うしかなかったナマコが食材として中国の市場をにぎわせるべく、広範な交易ネットワークの上を移動していった経路については、『ナマコの眼』(鶴見良行)という古典的な名著がありますが、ナマコは自然状態を生きながら、いきなり捕獲され、はらわたを抜かれ、茹でられ燻されうあ上でホシナマコに加工され、あくまでも商品の形をとって旅に出たのです。しかし、アフリカマイマイは商品ではなく食用動物として、文字通りディアスポラ(生活圏の移動)を強いられた。しかも当初は養殖動物として隔離され、家畜のように飼われていたのが、野性化したとたん、こんどは撲滅・駆除の対象とされます。ニンゲンの歴史に翻弄され、それこそニンゲンの歴史とより合わさるような歴史経験を強いられたアフリカマイマイは、「ソテツ地獄」時代のシンボルであるばかりか、奴隷売買や奴隷搾取、あるいは奴隷解放後の人種主義的差別…といった「汚辱の世界史」全体の写像であるかにさえ見えます。アフリカマイマイはグローバルな食卓経済のかたすみを担うことによって、ニンゲンとのあいだで同じひとつの歴史を分有することになったのです。
  人権思想の定着と動物愛護運動の高揚が歴史的に平行現象であったように、ニンゲンによるニンゲンの搾取と動物搾取とは人類史の中で軌を一にしています。擬人法とは階級分化と動物の家畜化とが同一現象の表と裏であることに対するニンゲン的な洞察の産物なのです。それは決して過剰な想像力の行使なのではありません。想像力がはたらくまえに、ニンゲンはすでにアフリカマイマイのように扱われ、アフリカマイマイもまたニンゲンのように扱われているという事態は既に進行していたのです。環境保全の名の下に外来種の根絶を叫ぶ純血主義と移民排斥とが結託するという現代的な現象を準備してきたのも、要するに太古以来のニンゲンの擬人法にすぎないといっても言い過ぎではないでしょう。


  文学手法としての擬人法に私が関心を持つに至ったきっかけは、いまから十数年前、コロンブスの新大陸到達500年目の頃でした。1989年にフランス領マルチニークを旅行して、いま「クレオール」という問題系に属する文化現象に目を開かれ、日本近代文学と植民地主義との関連を考えるのに、宮沢賢治が使えないかと着想したのが、ちょうどこの頃でした。
  宮沢賢治の童話群の中に植民地主義の反映を見ようとしたとき、そこにはまず、土地所有の観念に乏しい狩猟採集文化を、土地をフェンスで囲い込むところから始まる農耕文化が蝕み、破竹の勢いで「平定」していく植民地主義の過程が見て取れます。しかし、それだけではない。いわゆるイーハトヴ世界では、近代的な国民統合の諸要素があちらこちらにはめこまれています。従来のリニアな日本史記述からすれば、前者の過程は縄文時代から弥生時代、後者は明治以降の近代化期に結びつけて考えられる歴史過程なのですが、これをたとえば北海道を例にとって考えるならば、二つのプロセスはまさに同時並行であったと言えるでしょう。明治の財閥が東北に鉄道を通し、その通過点であった盛岡の近郊に小岩井農場を開いて、西洋式の酪農の拠点たらしめようとしたことなどを思い起こせば、イーハトヴが岩手県であったと考えることも決して不自然ではない。宮沢賢治の童話で試みられている擬人法の実験は、内国植民地化の寓意的な表現に他ならなかったとも言えるのです。ニンゲンが有史以来動物とのあいだに結んできた非対称な関係に対する洞察と、宮沢賢治が生きた同時代の岩手県の現実が重なり合わさったところに、その童話が生まれた。そんなふうに私は考えています。
  宮沢賢治の遺稿のひとつに「フランドン農学校の豚」という童話がありますが、そこでは、とある農学校の校長から生徒までと家畜ヨークシャイヤの間の関係が擬人法の使用によって、主人と奴隷、死刑執行人と死刑囚の対話的な関係にうつしかえられています。作中のヨークシャイヤは「私儀永々御恩顧の次第に有之候儘、御都合により、何時にても死亡仕るべく候」なる奇怪な文章に前肢の爪印を捺すように求められ、どうにもブタらしからぬやり方で最後には屠られるのです。なまじニンゲンの言語を理解し、文字能力を身につけたばかりに、ヨークシャイヤは擬人化されないままのブタには要求されるはずもない武士道的従順さを強いられ、かといって擬人化の恩恵にたいして浴するわけもなく、ただ無残に、ニンゲンを肥やすための食材とされるわけです。
  「フランドン農学校の豚」における擬人法とは、食用動物がニンゲンの言語を共有してしまったときの不条理な事態を描くことによって、一方では畜産・食肉文化に対する再考を迫り、他方、承認を介した合法殺人というニンゲン社会の暗部(安楽死や死刑執行)にも私たちの目を向けるというものです。そうすることで、ニンゲンが地球上にもたらした擬人法という歴史的過程が二重に再審に付されることになります。そして、それはまさに擬人法じたいの問い直しなのです。地球上に生息するニンゲンと動物たちの運命をよりあわせることで、歴史をヘゲモニックに支配してきたニンゲンは、擬人法という物語手法を用いながら擬人法の歴史を問い直すという段階に、いま入りつつあるのです。「よだかの星」の宮沢賢治は食物連鎖の原罪性を問っていただけではない。擬人法の歴史のつまずきをこそ、宮沢賢治は語っていたのだと思います。


  宮沢賢治と比べると生年・没年ともに十年ほど先行するフランツ・カフカの擬人法についても考えておくことにします。
  『変身』におけるグレーゴルの虫への変身は、前夜まではニンゲンとして家計を支えてさえいたグレーゴルが、ニンゲンとしての生を維持できなくなり、「害虫」としての「抹殺されるべき生」をしか保証されなくなるという話です。
  「ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気づいた」という冒頭部で、カフカは単なる「虫」ではなく、Ungezieferというドイツ語を用いています。これは特定の動物や虫ではなく、「害虫・害獣」を意味するきわめてニンゲン中心主義的な用語です。しかも、『変身』の後にカフカが書いた文章で、後に『父への手紙』として公表された文章の中では、このUngezieferに由来について、こんなふうに語っています――「ぼくがある人間にすこし関心を持ったというだけで(…)あなたは、ぼくの感情など一切考慮せず、またぼく自身の判断を無視して、罵倒、中傷、誹謗を浴びせました。たとえば、イディッシュ語の俳優レーヴィのような、純粋無垢な、幼児のような人間も、これに堪えねばなりませんでした。あなたは彼を識りもしないのに(…)彼を害虫に譬えた」というのです。
  さらにカフカの父親においては口癖にすらなっていた「害虫」という言葉の使用例として、カフカは次のような言いまわしをも父親の言葉として再現しています――「闘いには二種類ある。まず騎士の闘い。それぞれれっきとした勇者同士が、力を競い合う。男一匹、負けてもひとり、勝ってもひとりだ。もうひとつは虫けらの闘い。虫けらは刺すばかりでなく、自分が生き延びるために、たちまち相手の血まで吸い取ってしまう。これこそ本当の職業戦士であり、そしておまえがそいつなのだ」と。ここでの「虫けら」も、原語はUngezieferです。息子やその友人を再三「害虫」の名でおとしめた父親があってこそ、『変身』という小説は生まれ得たと言っても言い過ぎにはならないでしょう。
  「害虫こそが本当の職業戦士だ」という台詞を、カフカ自身ではなく、交渉相手である父親の台詞として書き留めてしまわざるをえない状況――カフカの父親がいかに息子を威圧し、息苦しくさせていたかがここからわかります。
  19世紀の半ば、ユダヤ教徒に与えられた政治的・経済的な市民権が、カフカが死んでおよそ十年後、ドイツ(そして後にはドイツ軍占領地域)では、ニュルンベルグ法によって、ふたたびユダヤ教徒から剥奪される。ヨーロッパのユダヤ人の多くがその後「抹殺されるべき生」をしか容認されなくなっていったことから溯って読むならば、『変身』という小説はきわめて預言的な作品だったということになります。ユダヤ人の中には果敢にドイツ軍に挑みかかっていった青年戦士がいないわけではなかった。しかし、彼らはまず「害虫」と定義された時点から、すでに「職業戦士」として表象されていたのです。ヒトラー主義者たちが戦争遂行とユダヤ人の抹殺を結びつけなければならなかった背景には、すでに彼らドイツ人は数百万人者「職業戦士」を敵にまわしてしまっていたからです。
しかし、『変身』のカフカが示していたかもしれないこの予感は、ただホロコースト=ショアの予感として限定すべきものではないでしょう。ベンヤミンの言う「例外状況=非常事態」の中にあって、みずからの生を「抹殺されるべき生」としてしか認識できなくなったとき、その生きものは暴力の予感の中で自己防衛と延命を図っていくしかない。武装戦士であれ、一般市民であれ、戦場に置かれたすべてのニンゲンは「害虫」です。彼らは「フランドン農学校の豚」ですらない。同意なしにいつ殺されても、その窮状を訴えるべき場所を持たない無法状態に、彼らは生まれた時点から置かれてしまっている。
  そして、この「彼ら」は決して「私たち」を排除するものではないのです。
  昨年12月に立命館大学でお招きした、あのジョルジョ・アガンベンがつねに強調するのは、このことです。私たちは市民あるいはニンゲンとして市民権や人権を保証されているという幻想――ニンゲン的な生を享受できているという錯覚――の中にいます。しかし、じつは「私たち」の一人残らずが「抹殺されるべき生」「死んだ喪同然の生」を余儀なくされているとも言える。国民ではなく難民を、ニンゲン的な生(bios)ではなく動物的な生(zoe)を生命哲学・政治哲学の中心に据えようというアガンベンの姿勢――この10月にバリバールはこの立命館大学で、アガンベンの立場を「メシアニックな立場」として説明されていたと思います――は、さらに先週、この壇上に立たれたドゥルシラ・コーネルの講演にも表裏一体をなす形で影を落としていたことは、皆さんも覚えておいででしょう。米国大統領によって「敵という形姿に還元されてしまった人類は、それでもなお人類であり、決してアガンベンの言うホモ・サケルではない」(岡野八代訳)と。
  ニンゲンもまた動物たちと同じ「抹殺されるべき神聖な獣」(ホモ・サケル)であるとすら言いたげなアガンベンと、そんなことがあってはならないと強調しつづけるコーネルのあいだには、大きな対立があります。ニンゲンと動物の生のあいだに境界を作り出す「生の政治」「生の権力」を問おうとするアガンベンと、この境界を動かしがたいものとして死守しようとするコーネルの差と言ってもいいでしょう。つまり、アガンベンは擬人法の作用そのものを停止させようとし、コーネルは擬人法以前に、ニンゲンの平等を実現しようというのです。アガンベンはニンゲン以下の存在として表象されるニンゲンの中にみずからをも加えようとしますが、逆に、コーネルは少なくとも自分にはニンゲン的な生が保証されているという立場から、ニンゲンの尊厳を万人に対して回復しようとするのです。
  この二人の対立を克服することはきわめてむずかしいことがらです。たしかに私たちは地球上でニンゲンらしい生活を相対的には保証されています。こういった議論が可能だというだけで、もうすでに私たちは自分をマイノリティーの中に数え入れることはむずかしい。しかし、だからといって、カフカ・ベンヤミン・アガンベン的な問いを退けることもやはりできないのです。
  私たちがニンゲン的な生を営んでいると言えるのはどのような条件の下においてなのか?
  テロであれ、テロ撲滅のための「正義の行使」であれ、暴力政治が横行するこの世界状況の中で、ニンゲンは、第二次世界大戦期のドイツ占領下で「死んだも同然、殺されたも同然の生」を辛うじて生きているにすぎなかったユダヤ人やロマや同性愛者や政治犯たちと、私たちはどこが違うだろうか? 熱帯雨林で貴重な遺伝子を保存しつづけている動物もあれば、ニンゲンに危害を加えるとされる「害虫・害獣」もいる、養殖・肥育される動物たちもいる(それらはただ殺されて食われるだけではなく、狂牛病の蔓延防止という衛生的な政治に基づいて大量処分の対象にさえなる)――このように動物といってもさまざまです。しかし、それでも地球上の動物たちが一様に運命づけられている生と、私たちニンゲンの生のあいだに、どんな大きな隔たりがあるだろうか?――これがカフカ・ベンヤミン・アガンベンの問いです。
  私たちは動物であるが、動物ではない。擬人法を可能にしているニンゲンと動物との、このねじれた関係の中で、私たちはアガンベンをもコーネルをも共に退けることができず、そのはざまで、ひとまず「私たち」を名乗るしかないのです。


  私の専門領域は比較文学です。おもに20世紀の文学を、その文学が用いる言語の枠からできる限り自由に読み解いていきたいと思っているのですが、そのとき、20世紀文学のひとつの傾向として、「抹殺されるべき生」の表象(および表象不可能性)に傾けられたエネルギーの大きさを考えないわけには行きません。コンラッド、カフカ、ベケット、プリーモ・レーヴィ……挙げ出すと切りがありませんが、そこではしばしば「マイノリティー」の声が異言語として表象されます。宮沢賢治やカフカの擬人法も、まさに動物たちの異言語使用、そしてニンゲン言語の使用のはざまを縫うような形式を通して、実現されています。「抹殺されるべき生」に語らせるための窮余の策として、方法としての擬人法が用いられているのです。
  こうした作品を読むとき、私たちはひとまずニンゲンの立場に立つしかありません。言い換えれば「マジョリティー」の立場です。私たちは話者の言葉をニンゲンとして受け止めるしかないのです。しかし、これらの小説の話者たちはニンゲン以下の存在の声を伝えるために語ろうとしている。ただそれだけのために語ろうとしている。代弁するというのではありません。代弁不可能であるということ自体を方法を駆使しながら語るのです。
この問題を語るときに、これはあくまでも便宜的なのですが、私は「マジョリティー」と「マイノリティー」という対概念を使います。「マイノリティー」は、生きていても、あるいは死んでから後でさえ発信しつづけています。この「マイノリティー」の亡霊的な声に対して、「マジョリティー」はと言うと、耳障りなものを感じ取りながら、しかしそれを黙殺することができない。そういった「マジョリティー」の苛立ち。私が今日、目取真俊や宮沢賢治やカフカを取り上げながら触れたことは、要するに、「マジョリティー」に属するニンゲンたちの苛立ち、世界を不条理だと感じる嘔吐感――そういったものについてでした。
  この壇上で私は皆さんに向けて「私たち」で呼びかけています。これは私たちが「マジョリティー」であることを、ひとまず前提にした語り口です。自分が「マジョリティー」に属すると語ることに、たしかに気恥ずかしさを感じないではおれません。しかし「私たち」を名乗ったとたんに、ひとは「マジョリティー」であることを遂行的に宣言しているようなものです。逆に、ひっそりとうめき声をあげるだけの「マイナーな存在」は「私たち」を欠いているのです。単独者であるというだけではなく、「一」以下の存在なのです。詩人ヨシフ・ブロツキーはエッセイをLess Than Oneと題していますが、「マイノリティー」は「一」以下なのです。もちろん、ある種の「マジョリティー」の目に、「マイノリティー」はそれこそ「大群」のように映る場合は少なくないでしょう。害虫であれ、ホロコースト=ショア期のユダヤ人であれ、いわゆる「テロリスト」であれ、それらはまさに潰しても潰しても数の減らない忌々しい「彼ら」であるかに見えます。しかし、「マイノリティー」の一人一人はつねに分断され、「私たち」を名乗ることに控えめな存在なのです。「マイノリティー」とはそんな生き物の存在様態だと、私は思っています。動物的な生とは、仮に群れをなしているときでさえ、ひとりひとりが「一」以下であるような生です。「抹殺されるべき生」は最初から「一」以下へと差し引かれているのです。
『変身』の中に次のような場面があります。

「ひとことぐらいわかりましたか?」
支配人が両親に尋ねた。
「わたしたちをからかいたいのですかね?」
「たいへんだわ」
母親はもう涙声だった。
「きっと、とても悪いんだわ。だのにあの子を苦しめてる。グレーテ、グレーテ!」
声をふり絞った。
「どうしたの?」
反対側からきた妹が叫んだ。二人はグレーゴルの部屋をはさんでやりとりをした。
「おまえ、大急ぎで医者に行っておくれ。グレーゴルが病気なの。大至急、医者を呼んできておくれ。グレーゴルの声を聞いたかい?」
「獣の声でしたよ」
母親の叫び声に対して、めだって小声で支配人が言った。
「アンナ! おい、アンナ!」
父親が控えの間ごしに台所へ声をかけ、両手を打ち合わせた。
「すぐに錠前屋を連れてくるんだ」(『変身』池内紀訳、白水社)

  グレーゴルの部屋をはさんで、ニンゲンたちは言葉を交わし合っています。グレーゴルにはそれが聞こえてはいるはずなのですが、はたしてその中身まで理解できているかどうかは判りません。ただ言えることは、周囲のニンゲンたちはその言葉をグレーゴルに聞かせたがっている――彼ら彼女らはそれこそ聞こえよがしにニンゲン同士の会話を交わしているということです。ところが不思議なことに、彼ら彼女らはグレーゴルには自分たちの声が理解できるはずがない、聞こえているはずがないと、ほとんど確信してもまたいるのです。
  もしこれら周囲のニンゲンの会話がグレーゴルにも聴き取れたとしたとき、そのグレーゴルの思惟内容はいかなるものであったか? 『変身』という小説は、そこを話者を使って代弁させるわけですが、グレーゴルがはたしていかほどの言語能力を変身後にも保証されていたかは、いくら小説を読んでも判りません。カフカは、グレーゴルの一人称形式の語りではなく、匿名の話者の三人称での語りをこの小説を書くにあたって選び取った時点で、グレーゴルの言語能力に関する問いを完全に宙に吊ってしまったのです。そして、これこそがカフカの方法です。「マイノリティー」の声は三人称でしか、話法上、再現が不可能だ。カフカはそういった立場から小説を書いている。作家カフカ自身もなるほど孤独ではあったでしょう。しかし、彼は彼よりもいっそう孤独な存在について語らせるために、敢えて「マジョリティー」の話者を仲介者に選んだのです。
  グレーゴルの内面を推測することは私たちにも可能です。たとえば、『変身』の話者がそうしたようにです。しかし、それを確信することはできない。できることは、その声に耳を傾けつづけることだけです。「マジョリティー」の立場を引き受けるというのは、そういうことです。
  現代の地球上で、グレーゴル問題を論じるニンゲンたちの苛立ちを帯びた議論と、その議論の蚊帳の外に置かれながら、その議論が終わるまでの時間をただ耐えているだけのグレーゴルの情緒不安定なたたずまいとは、触れ合うことなく、ただ併存・隣接している。ニンゲンではない動物たちというのは、すべてグレーゴルに近い。しかも、そういったグレーゴル的な存在はしばしば可視性をはぎとられて、あたかもそこには居ないかのように、その存在そのものを黙殺されながら生きている。そしてそんな存在の死は、空爆によってでも、死刑執行によってでも、単なる餓死であっても、あらかじめ「抹殺されるべき生」をしか生きていなかったものの「二度目の死」として片づけられるだけで、それらはあっけなく記憶の外へとおいやられていってしまうのです。
  ホモ・サケルの孤独――宮沢賢治やカフカや目取真俊が小説に動物を登場させながら、描こうとしたのは、それでした。食用に殺害される豚も、衛生処理を施されて掃討される害虫も、魚釣りというニンゲンの娯楽の対象として餌食にされるテラピアも、すべては孤独に死んでいきます。しかし、彼らを哀悼できるのはニンゲンだけです。そして、私たちもまた動物であるかもしれないと感じることによって、ニンゲンは「マジョリティー」に属しながら、そのまま「自分もまたホモ・サケルなのかもしれない」と呟くことができる。アガンベンとコーネルを出会わせるためには、こういった接点を見出していくしかないのではないでしょうか。


  人類共生の夢は、動物的な生が何の波紋も呼ばずに死へと追いやられていく事例を、それを例外性の一語で片づけることなく、その例外性をこそ注視することによってしか、実現不可能でしょう。アガンベンが警鐘を発するのは、まさにこういった例外状況が普遍化している現状に対してであり、しかも彼はこういった事態を回避するには、biosとzoeの分割を作動させている人類学的な機械(マッキナ・アントロポロギカ)を停止させる以外にないと言います。2000年12月のシンポジウムの中で彼が最後に口にしたこの表現に、私は身震いをおぼえました。しかし、この身震いと共にしか、私たちは「共生」という言葉を口にすることはできないと思うのです。
  有史以来、ニンゲンの営みは何らかの形で「共生」を目標にすえた試みであったと思います。大家族しかり、狩猟集団しかり、農村共同体しかり、ギリシャのポリス社会しかり、封建制社会しかり、近代国民国家しかり、植民地経営しかり、コミュニズムしかり、今日的なグローバリゼーションしかりです。しかし、それらがことごとく不完全な共生実験にすぎなかったことは明白です。私たちはこれまでのさまざまな共生実験が、犠牲にし、葬ることすらなく、圧殺してきた無数の生について、可能な限り、思考を拡張しておかなければならない。そのときに文学研究に向けられる期待は決して小さくない。それは「抹殺されるべき生」がひっそりと息をひきとるまでのプロセスを描くことに、ほとんど過剰なまでの執念を示してきた表現領域のひとつだからです。
  「抹殺されるべき生」をどのようにして表象するのか?――文学ばかりではありません。歴史学も生物学も政治学も、あるいは美学・芸術学も、すべてはこの困難な問いの前に立たされている、と私は考えています。

(付記)
  本講演は、この十五年間に私が考えてきたことを「擬人法」という観点からたどり直したものであり、『複数の沖縄』(人文書院、2003年3月)所収の論文「暴れるテラピアの筋肉に触れる」、『20世紀の定義[4]越境と難民の世紀』(岩波書店、2001年12月)所収の「発信するマイノリティー/いらだつマジョリティー」、『森のゲリラ 宮沢賢治』(岩波書店、1997年3月)、『マゾヒズムと警察』(筑摩書房、1988年10月)などの形で、すでに活字化したものを多く下敷きに用いている。しかし、2001年12月の立命館大学でのジョルジョ・アガンベン、2002年10月のドゥルシラ・コーネルに対する応答部分は、この講演独自のものであることをお断りしておく。


UP:20030714 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/nm01/021204.htm
西 成彦  ◇Agamben, Giorgio  ◇Cornell, Drucilla 

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