> HOME >STUFF

ファミコンとは何だったのか
──ディジタルな表象文化の成立──

上村雅之×細井浩一(対談)
連続講演会 21世紀・知の潮流を作るパート2 第4回(表象テーマ領域)
2002/12/18 於:立命館大学衣笠キャンパス・創思館カンファレンスルーム



司会(渡辺公三)
  まず、最初に、この「21世紀・知の潮流を創る」について簡単に紹介します。ここに先端総合学術研究科のパンフレットを用意していますが、その巻頭に趣旨を紹介していますように、20世紀の正負さまざまな遺産を引き継ぎながら、今後21世紀にわれわれが生きていくときに、人文科学、社会科学をどう作り変えていくか、その視点をわれわれがどう生きていくべきかという広い意味での倫理の視点をベースにおいて、それを軸に人文科学、社会科学を自然科学の成果を踏まえながら再編成していこうということです。大学院生自身がプロジェクト研究を通じて、自分の研究力量を身に付けていく。教員も、プロジェクト研究をリードして行くような、そのプロジェクトに学外の参加者も引っ張ってこれるような、さまざまな魅力を持った方に担当していただきたい。そういう趣旨でつくってきたものです。パンフレットに専任スタッフの紹介がありますが、そのお一人として任天堂でファミコン開発の責任者であった上村雅之先生にお願いしたという経緯です。12月25日には説明会を開催する予定にしていますので、関心のある方はそちらの方にもご参加下さい。これで開会の挨拶に代えさせていただきます。

細井浩一
  政策科学部の細井です。簡単に自己紹介をさせていただきます。私はゲームの話をするのは適当ではないかもしれません。もともとの専門は経営学部で、マネジメント、新しい企業の経営のスタイルを主に研究テーマにしています。今、いろんな意味でインターフェースのレベル、企業、人とコンピュータ、人と組織などのインターフェースが情報化の中で変わってきています。研究を進める中で、表面的な入り口の問題だけでなく、人のつながり方、仕事のやり方も含めて大きく変わってきたことを肌身で感じました。そういうインターフェースレベルでの革新の根っこみたいなところを突き詰めたくなったという経緯があり、ゲームに着目するようになりました。
  新しいインターフェースの核心を生み出してきたデジタルな表現の根っこというのは、ファミリーコンピュータにあったということがだんだん分かってきたのです。もちろん、今はもっと新しい機械があって、パワフルな表現がたくさんあるのですが、その表現の一番根っこにあるもの、すなわち、キャラクターの動き方、色、流れ、プロットと言ってもいいですが、そのような本質的なレベルでファミコンを凌駕しているものは今でもあまりない。新しいデジタルな表象文化の研究というものを100年くらいのオーダーで考えてみると、ファミコンを一番大切にしないといけないという結論に達しました。
  このような問題意識でいろいろな方からお話を伺っているなかで、上村さんとお会いしました。会社とは前を向いて競争してどんどん走っていくところですから、あまり後ろを振り向かないのは当たり前のことだと思いますが、「ファミコンについてその意義や位置づけなどを整理して考えることが今までされてこなかった」というお話をお聞きしました。それであれば、そういうことは大学がやっていくべきことではないか考えました。それで、ゲームアーカイブ・プロジェクト(GAP)を産官学で立ち上げ、特にファミコンを中心としたソフトウェアを収集して分析できるような環境をつくるとともに、そこで何かを学んでみたいという人たちがアーカイブの方法論も含めた基礎研究を始めました。それが1998年でした。いろいろやっていくうちに、大学の中でもっと本格的に新しい表象、表現の大きなステップをつくったものとして位置づけると同時に、文化、社会、経済などもう少し広い視点も含めて、いわばデジタルな新しい表象文化ができてきたんだという位置づ方けで研究してみたいという流れができて、今に至りました。今のところ、ファミリーコンピュータの基本的なデータについて整理をして、その一部を公開しています。ソフトウェアは書籍とは違って動きのあるものですから、それをアーカイブしてもすぐにそれを使ってください、という形にはなかなかなりません。もちろん、著作権の問題もあります。限定された場所であっても、自由に閲覧したり確認することについて、今の著作権法の枠組みの中ではいろいろな問題が出てきます。
  この流れを受けて、先ほど渡辺先生から紹介があったように、いよいよ先端総合学術研究科で、デジタルエンターテイメントを考えるコースを立ち上げることになりました。そこに上村先生をお迎えして、これまで大学でほとんど扱われることのなかったテレビゲームのようなインタラクティブメディアについて本格的な研究を始めてみたいということで、再来年からコースをスタートすることになったわけです。

上村雅之
  任天堂の上村です。僕は任天堂に入って31年経っています。大阪の万国博のときに今の会社に迷い込んだという感じです。入社して10年後にファミリーコンピュータを作り上げました。それ以降、会社の様相がまったく変わってしまったのですが、人間はそう急に変われるものではありません。ファミリーコンピュータを含めたいわゆるテレビゲームの原点というのは、遊び、おもちゃという、子どもたちの日常生活にとってはとても大事なのですが、大人の生活中に没してしまったときには、なかなか注目されません。そういう意味で資料として残っていないのです。それが、立命館の方からゲームアーカイブを作ったらどうかというお話をいただいて、ファミコンを提供させていただきました。僕もビックリしましたが、会社では考えられないレベルできっちり整理もされましたし、データベース化もしていただきました。会社の中では、今日よりも明日、明日よりもあさってと常に先を考えていますから、過ぎ去ったものにはあまり目を向けないという悪い癖があります。僕はせっかく他の人が体験できないようなファミコン開発の渦の中にいたものですから、何かの形でみなさんに情報を提供して、当事者ではない目からいろんな形で研究をしていただけたらと考えています。会社としても協力しようということになりました。
  僕は昔はラジオ世代、アナログそのもので、小学校時代にテレビがやってきて「すごいなあ」と思ったような世代です。大学でコンピュータを勉強しましたが、実は「水にあわん」と逃げ回っていました。初め電機会社に入ったらコンピュータをやらされ、それも嫌で半導体の方に行きました。その後任天堂に来て、結局コンピュータに捕まってしまいした。そのコンピュータが社会の大革命を起こしているわけですから、いかに奥深く摩訶不思議なものであるか。このあたりのことが今回の研究の核心になると思います。今後いろいろな形でコンピュータは変わっていくと思いますが、それと付きあわざるを得ないのがみなさんの世代だと思います。無から有という体験といいますか、有から有よりもはるかに新鮮だし、すごいことがあったと思いますから、そのあたりのことを僕や任天堂から引き出していただければというのが、僕からのお願いです。

細井
  今日の対談のテーマとして、「ファミコンとは何だったのか」というある意味センセーショナルな表題をつけましたが、この表題は正確ではないかもしれません。ファミコンは1983年に発売されて、来年7月でちょうど20周年になりますが、実は現在でも少数ですが生産されています。その意味では完全に過去のものではありません。発売後20年も経って、ソフトウエアもハードウエアもまだ売れている。そういう意味では「ファミコンとは何なのか」ということを、現在進行形で問わなければいけないと思います。今日の2時間でファミコンそのものを総括するのはまったく無茶なことですから、この研究を5年くらいかけて内容的にも資料的にも充実したものを作っていくためのスタートにしたいと考えています。
  本日は、この研究の大枠を3点示したいと思います。また、あわせて上村さんの方から、当時のことや社外に出ていないデータなども含めて提示していただいて、「こんなこともあった」というお話もいただけると思います。会場にはいろいろな方がいらっしゃっています。ファミコンそのものの説明は必要ではない方も、「それはいったい何だ」という方もいらっしゃると思います。ファミコンで遊んだことがあるという方は手を挙げていただけませんか?すごいですね。8割くらいいらっしゃるようです。ほとんど説明はいらないとは思いますが、ファミリーコンピュータとは非常に有名なテレビゲームのマシンです。
  この研究を始めるにあたって、上村先生と打ち合わせをする中でいろいろなことが分かってきました。まず、テレビゲームの定義がむずしいということです。欧米ではビデオゲームと呼びますが、テレビゲームと言うと、テレビとは何かという話になります。テレビは厳密な技術的な定義がありますから、それに縛られてテレビゲームの概念は少しむずかしくなります。テレビゲームの歴史については書籍も出ていますし、非常に詳細なウェブサイトもありますし、特に新しい見方を提示する必要はないかと思いますが、私は3つ重要なエポックがあると思っています。
  一つ目は、1958年、私が生まれた年ですが、オシロスコープを使ってテニスゲームをするというものが作られました。オシロスコープですから、厳密にはテレビゲームとは異なりますが、アバウトさをお許しいただいて、テレビゲームを議論する上で必要な要素を含んだものがいつごろできたのかという切り口で考えてみると、おそらくこれが一番最初です。アメリカのブルックヘイブン研究所のヒギンボーサム(William A. Higinbotham)という人が作りました。この研究所に見学に来る小学生や高校生があまり機械や分析装置に関心を示さずに退屈そうにしているので、何かおもしろいものはできないかと彼は考えたのです。真ん中にネットを張ってボールが右と左を行き来して、それを打ち合いするオシロスコープの仕組みを作って参加者に遊んでもらったら、たいへん好評だった。テレビゲームにつながる最初のエポックです。遊びとして作られたというより、テクノロジーの新しい使い方が閃いて、それをちょっと実現してみたというようなところからスタートしたということですね。後に出てくるポン(Pong)という有名なテレビゲームの構造とほとんど同じですから、オシロスコープがテレビに変わればこれはポンに近いものです。
  二つ目は、ポンのもとのものという意味も含めて、1972年のオッデセイ(Odyssey)です。これは世界初の家庭用テレビゲームと言われたマシンで、マグナボックスという会社が作りました。一つ目のテニスゲームがデジタルであってインタラクティブであるというゲーム性の要素を切り開いたものでしたが、オデッセイはゲーム性の中味を操作する感触の総合的遊技性という内容として初めて確立したと評価できると思います。これは遊びというか、ゲーム性の中味の規準ですが、後で上村さんの方から技術的には別の捉え方があるという議論が出てくるかもしれませんが、遊びの中味で言えばこういうことだと思います。
  三つ目が、まさに今日のテーマのファミコンです。ハード的には上村さんが作られて、ソフトウエア的には宮本茂さんを始めとしていろいろなヒット作があります。これがなぜエポックなのかと言うと、オデッセイが切り開いたゲーム的要素を、表現の意味でも動きの意味でも二段も三段も高い次元で総合化したからです。現在のゲームという遊び、表現、表象として見られるものの原型のほとんどはこのマシンで作られました。そのようなゲーム性の総合という意味でエポックであると思います。現在も売られているということ、6185万台というとんでもない累積出荷数など、それ以外にもエポックの点があります。(プロジェクター画面)ここにあるように最初の3年間はものすごい出荷数です。それから減りますが、なめらかな減り方で毎年出荷を重ねていったことが分かります。好景気が終わった後も1994年、96年あたりまで高い販売数が続いてきます。米国規格のNESの方も含めて、世界全体への販売も含めるとこういう数字になります。5年、6年はすごい数字が出ています。その後の減り方も高い販売数を保ったまま減っていって、92年にガクっと減りますが、現在でも数千台販売されています。これら全部合わせて6185万台という数字になります。
  これらが私から見た3つの大きなエポックです。三番目のファミコン以外にはいろいろエポックの捉え方があると思います。上村さんこのあたりいかがでしょうか。ファミコンの成立の前に遡りますが、アイデアの源流についてのお話をお願いします。

上村
  平安の時代から中国のいいところだけを持ってきたように、日本の文化はコピー文化であるとよく言われます。残念ながらテレビゲームも今お話にありましたように、原点はアメリカにあり、しかもコンピュータをやっていた人が一番初めに思いついたとよく言われています。一技術者としても、一企業としても、1960年代の日本においては遊びというレベルでアメリカの細かい情報はほとんど入ってきませんでした。任天堂はもともと花札の会社でしたが、ある程度自分たちの独自性があり、新しいおもちゃや遊びを好きな人が集まって考えていました。任天堂で私が関わっていた光線銃という遊び道具がありました。男の子は鉄砲を持って遊ぶのが大好きですから、おもちゃのベストセラーでした。玉が飛び出す鉄砲は危険ですから玩具としては扱いにくかったので、光で遊ぶ光線銃を作っていました。
  実は、この光線銃に一番最初に目を付けたのがアメリカのマグナボックスというテレビゲームのオッデセイを作った会社でした。マグナボック社が、任天堂に「光線銃の銃のガワだけをくれ」と言ってきました。「ガワだけでは話にならいから、設計図を送ってくれ」と言って、送られてきた設計図を見ると電球が入っていないのです。発光するのが光線銃ですから、豆球の前に機械的シャッターを付けてカチャっと動かすことでパルスが飛び出すような、いとものんびりした機械を作っていたのです。ところが、その設計図には電球がなく、その代わりにフォトセル光を受けたら電気に変える素子が入っていたのです。「これを何に使うのですか? それを見せてくれ」と言うと、「東京に来い」と言われ、行ってみるとそこにゲーム機のオッデセイがありました。
  ビデオゲームとは、テレビでないブラウン管やXYスキャンなど産業用分野の機械を遊びのソフトを入れたもので、すでにアーケイド、娯楽場に売っていたのです。その知識はあったのですが、家庭で毎日見ているテレビで映すという発想はなかったのです。それを目の前で見せられたのです。そして、「光線銃の反対、受光銃を任天堂で作ってほしい」と言われたのです。
(プロジェクター画面)万博の年に売れた、標的はルーレットのようなものライオンとかいろいろあるのですが、ルーレットですとそこから光が出てグルグルと廻るという遊び道具です。これは、ガワだけを光線銃を使って、中はフォトセルが入っていたんです。フォトセルの信号がどこに行くのかを調べたら、オッデセイという機械に入って行って、その光はテレビから出ていたのです。そこで僕らも初めてテレビゲームという存在に気がついたのです。ただその時に見せてもらったゲームは、日本人の感覚で言うとどうもいただけない。いつもそうなんです。ずっと後になって、今度はアタリという会社が作った、1970年代終わりから80年代始めに一世を風靡したビデオコンピュータシステムという大ヒット商品があるのですが、僕らは、「なんぼそんなもん、テレビで映るといっても..」という感じでした。テレビに映るとことにはショックを受けたのですが、中味についてはぜんぜんショックを受けませんでした。今から思うと、このときに任天堂はテレビゲームに遭遇していたのです。
  工場で調べましたら、テレビゲーム向けの光線銃が総計169485台売れているのです。1975年に10万台出荷されています。1年間くらい全然注文が来ずに、1976年に35000、77年に34000と減っていきます。この頃にアタリ社のポンというゲームが出てきました。もう一つの大きなポイントは、この頃ようやくこなれてきた半導体の技術がうまく使われるようになったのが成功の要因だと思います。そういうものに移り変わっていく時代で注文が減少したわけです。僕らの頭の中に実際に販売したときの情報が、それを機に入ってくるようになりました。コレコ社がピストルを使ったテレビゲームを大ヒットさせて、数百万のオーダーで注文してきました。任天堂はそういうことを通じて、アメリカで起こっているテレビゲームの実態、内容もビジネスとしての形態も技術的な流れも手を取るように分かっていました。このことがファミリーコンピュータを作るときの、技術的にもビジネス的にも一つ大きな決断要因になっていたと思います。これが一つです。
  それからもう一つがインベーダーゲームです。社員が全員仕事をせずにこれに狂ってしまいました。任天堂のいいところは、仕事だと言ってゲームができるというなかなか変わったところです。しかも工場長までが「ちょっとまて、今ゲームしてるんやから話は後や」という世界でした。それほどインベーダーは任天堂を風靡しました。そして、「どういう仕組みになっているんや」、「俺やったらこんなんして作る」などと自由奔放にやれた。これが次のテレビゲームの大きな糧になりました。
  最後のエポックが、アタリ社のビデオコンピュータシステムです。僕もアタリ社と関係がありサンフランシスコに入り浸っていましたから、いろいろ目の当たりに見ていました。日本人の感覚は、繊細、うるさい、デリケート、凝っている、英語で言うとソフィストケイティッドと言いますか、同じコンピュータを使ってもまったく違う感性や目標を持ってやっていました。ちょうどファミリーコンピュータが出た頃に、マイクロソフト社がMSXという機械を出してきました。僕らは「こりゃあかんかなあ、家電に食われるわ」と思ったのですが、MSXを作っていた人たち、ユニックスなどパソコンを作っていた方も含めて、「これが15000円なんか」という話になって、先ほどのような数字が生まれてきたと思います。
  そして、問題はここからです。今回僕が研究に参加させてもらううえでの最大の興味はファミコンがあれほど「なんで売れたんや」ということです。そこを是非いっしょに考えたいと思います。さまざまな説がありますし、社内では「俺がやったんや」と思っている人もたくさんいます。それが本当なのか。先ほど言った3つの出会いが、どうして日本で大きな爆発を起こしたのかが、僕にとってはまだ謎です。若い人たちといっしょに考えてみたいと思います。

細井
  3つの原点を確認しますと「光線銃」、「インベーダーゲーム」、「ビデオコンピュータシステム(VIDEO COMPUTER SYSTEM=VCS)」ですね。まず、光線銃ですが、、

上村
  それを通じて、マグナボックスのテレビゲームの概念の詳細にぶつかった。

細井
  マグナボックス社は、どうして任天堂にアクセスしてきたのですか?

上村
  それは分かりません。先ほど言いましたが、テレビゲームという名前が付いているので、テレビメーカーがゲーム機を作るんだという時代でした。日本では松下と東芝、シャープが一番熱心で、アナログ式回路をいろいろいじって特許をたくさんあげています。京都に三菱電機の製作所がありましたが、僕もそこの方と一緒にテレビゲームの研究をしていました。その頃のテレビゲームの概念は「テレビゲームはテレビの中にあるもの、ビルトインされているもの」というものでした。今デジタル放送が始まっていますが、ずっと昔にそんなことを考え、コンピュータメーカーのサンダースの権利を一番初めに買ったのがマグナボックス社でした。そこが目を付けて、押さえ込んだということです。

細井
  今、お話に出てきたのはこれですか?(ウェブサイト画面)

上村
  はい。これが僕らが見たものです。箱はまだ見せてもらえず、中の基板で動いている何とも言えない画面でした。その頃は、オーバーレイという透明なプラスチックのシートを背景として重ねて、そこに動画像を重ねてピンポンをやったり光線銃の標的にしたりしていたのです。コンセプトとしてはテレビで遊ぶゲームです。家に普及したテレビで遊ばせようと考えたことは、テレビ会社としては当たり前で、「えらいこっちゃ、これを付けないとテレビは売れない」と思ったことは事実だと思います。

細井
  ということは、これが一つ目の源流であると。二つ目におっしゃられたインベーダーゲームはこれですね。(ウェブサイト画面)

上村
  タイトーさんのファミコンのソフトの中にも入っています。技術的には、次に出てきた「ギャラクシアン」という考えられないようなソフトがあって、それがファミコンの技術的な源流になっていますが、ソフトとしてはインベーダーに酔いしれた。僕自身はほとんどゲームをしないのですが、インベーダーだけは意地になってやりました。

細井
  今日は若い方もたくさん来ていますが、直接インベーダーをやったことのない人も多いと思います。私が大学三年生の時に爆発的に流行って、いつも100円玉をたくさん両替して東門の向こうにあったゲームセンターに授業を忘れて延々とやっていた記憶があります。そのゲームセンターだけでも、ゆうに百数十台インベーダーのマシンが入っていましたし、どこの喫茶店に入ってもテーブルが全部インベーダーのマシンでした。コーヒーを飲むときでも下でピコピコ動いているというとんでもない時代でしたね。

上村
  僕らの業界では、アーケイドゲームというのは、その時の細井先生のように若者がいいカモだったのです(笑)。おもしろかったことは、インベーダーブームの最後の頃になると、白髪混じりの中年から老眼鏡をかけた老年の人までがゲームをするようになり、パチンコ業界も真っ青という状態に一時なりました。僕らは「これでゲームはいける」と思ったのですが、実はそれがブームの終わりの兆候だったのです。その後、おじいさんがやるようになったらそのソフトは終わだというジンスクが生まれました。

細井
  かなり反射神経を必要としますから、年輩の方がやるとは想像しにくいですが、そこまでのブームになったのですね。もはや社会現象でした。

上村
  今のソフトでも、戦略、戦術、反射神経を総動員してようやく勝てる。年輩の方が必死に努力してトップになっても、若い人が出てきてすぐに追い越してしまう。またそれで必死になってやる。よき平和な時代だったと思います。

細井
  3つめの「ビデオコンピュータシステム(VIDEO COMPUTER SYSTEM=VCS)」については、時間の関係で少しはしょらせていただきますが、ここまででファミリーコンピュータの3つの源泉という話が整理されたと思います。大学院のコースの中ではその一つ一つの技術的なつながりと特許の関係もきっちりつめてやっていかないといけないですね。

上村
  テレビゲームは、インベーダーやマグナボックスの例もありますが、ソフトウエアの歴史のように見えるのですが、今までもこれからも大いに技術、特に大衆に受け入れるような技術に大きく左右されます。日本のマイクロコンピュータは、大阪の茨木にあった日本コンピュータの島さんが一番初めに考え出した電卓用のコンピュータが始まりです。まさにそういうものがなかったら、それをテレビに映す半導体の技術がなかったら、日本のテレビゲーム技術は残念ながらここまで来なかった。ソフトウエアとハードの技術は一体不可分であり、その場が提供できたことでクリエーターと称する人たちが自分のものにできたのです。アーケイドゲームの場合は家に持って帰ることは不可能でした。インベーダーも会社でしか遊べなかった。それがテレビゲームになるとROMにして家まで持ち帰って、家で徹夜してゲームをすることができる。そういうことをなし得た技術環境がここまでゲームを引っ張ってきたのだと僕は思っています。

細井
  おそらくいろいろな技術の流れ、特許の問題、ソフトウエアの表現、色や動きなどいろいろなものが1983年、開発されたのは1981年ですが、この頃に非常に幸福な出会いをしてファミコンという類い希なマシンに結実したということですね。そのプロセスについて、大学院コースの中でしっかりと跡づけて残していきたいと思います。

上村
  ご存知のように、その頃ライバル機種が5、6機出ていました。みんな同じ所に立っているのですが、そういうことができる技術的、それから人々の欲求、ソフトウエアには個人的な発想がありますから、それらがうまく噛み合ったのだと思います。その辺に、何で売れたかのヒントがあるようです。

細井
  このような流れの中でファミコンという巨大な存在が出てくるわけですが、我々はファミコンを含めたテレビゲームをどういうアプローチで研究していくのかという視座をつくっていかないといけません。今日のディスカッションはそのきっかけなのですが、種々雑多なファミコンやゲームについての言説や書籍がありますが、研究という点で考えたときにどのような課題があるのかの整理から始める必要があると思います。
  ただ、理工学的な意味でどのようにゲームを作るのか、ゲームに関するテクノロジーやコンピュータグラフィックについては膨大にありますから、そうではなくてやや社会人文学系、技術でも技術史系という分野に限って、ノウハウではない研究にはどういうものがあるのかという観点から考えたいと思います。内容が非常に雑多ですから、サーベイするのが困難な状態ですが、大雑把に見て、研究的に分厚く存在しているのは、テレビゲームの産業組織論、マクロ経済学の観点から分析をする東京大学の先生方を中心にやられているチームがあります。また、矢田真理さんの『ゲーム立国の未来像』もそうですが、会社としての売り方、作り方、ビジネスモデルの研究もそれなりにあります。上村さんがおっしゃった「何で売れたのか」についても、半分か三分の一くらいはこれらの業績から理解できるくらいの研究だと思います。つまり、どういうふうに会社が流通や生産を組み立ててゲームビジネスの仕組みを作ったのか、という研究は比較的分厚くあるわけです。しかし、それは上村さんの質問の半分にしか答えきれていないかなという印象があります。
  その他には、ゲームそのものの身体的・精神的な影響に関する言説では、脳や心理的身体的な影響を考える流れから、お茶の水大学の坂元章先生であるとか、外国の心理学の研究者がかなり厳密で科学的な方法論に基づいて「ゲーム性と暴力性はある程度相関がある」、あるいは「実はあまり相関がない」という研究がしっかりやられています。しかし、この分野では、最近話題になった「ゲーム脳」というトンデモ学説もあり、玉石混交という状況のようです。
  最後に上村さんが触れられたことですが、「あるようであんまりない」というのがゲームの技術史です。画面の一番下に『コンピュータゲームのテクノロジー』という本がありますが、わりとまとまったいいテキストになっていると思います。それ以外には、ゲームに的を絞って技術的な流れをきれいに整理した研究はあまりないのです。このような状況を踏まえて、われわれのプロジェクトでは、一つの方向としてテレビゲームの技術史をしっかりと組み立てていったらいいのではという研究戦略ができてきています。
  このように、一つは技術的な接近の方向があるということは見えたのですが、それを全部あわせてみても、作られた上村さん本人がおっしゃった「なぜ売れたのか分からない」という質問には答えられない。答えになるかどうかは別にして、ある考え方やスタンスをどれだけ出せるかがこの研究プロジェクトの意義になると思います。既存の研究が何を見落としてきたのか問題になると思います。そう考えると一つはっきり見えてくるのは、こういう流れの研究は全部生産者側の研究なんです。どう供給したのか、どいういうビジネスになったのか、どういう影響をユーザーに与えているのかサプライサイドから研究していることが一貫しています。であるとすれば、テレビゲームを総合的にアカデミズムの中で新しい表象の文化、あるいはこれから来るべき社会の大きな表現の文化になってくるものだと考えるとすると、デマンドサイド、すなわちユーザーの側からのきっちりとした研究が体系的に必要だということが結論として言えると思います。そのような研究がないのかといえば、実は言説的には一番多いのがデマンドサイドなんです。ホームページ上では無限の言説が溢れかえっています。しかし、そのほとんどはアカデミックな内容でなかったり、体系的でなかったり、あるいはそういうことをあえて意識しないやり方で出されているものです。いくつか、社会学者、文学者の中でゲームに関するきっちりとした言説をなされている人もいますが、まだまだ足りない。要するに大学の中で語られていない現実があります。その現実をデマンドサイドの方からどのようにアプローチしていくのか。ここでその研究の視点を仮説的に3つ提示させていただきます。
  一つ目の視点は、(1)「インタラクティブ・メディアのための初期的なリテラシー」としてのテレビゲームです。テレビゲームは今現在ではみんなが必要としている当たり前になっているようなインターラクティブ性のあるメディアに対してのリテラシーを提供してくれたんだ。このことはおそらく、上村さんの世代と私の世代とここに多くいらっしゃる20代の世代とでは、ぜんぜん違っているのだけれども自覚していないリテラシーがたくさんあると思います。僕は携帯電話を親指で操作するのは苦手です。このようなレベルでは構造的にリテラシーが全然違う。その違うレベルのインタラクティブなメディアに対するリテラシーを1983年に10代だったファミコン世代が、今は30代になっている人たちですが、本源的に獲得してきた流れがあるあると思います。その流れをさらに整理してみると3つあります。
  一つは、インタラクティブなアティチュード(態度)です。メディアとは「見るもの」だという態度があると思いますが、見るのではなく「触るもの」である、あるいは「動かすもの」であるという態度です。この態度は、私くらいの世代を境にして上と下とではころっと変わると思います。その大きな境目がファミコン世代のところにあるのではないか。二番目は、これも言われてみて「初めてそうかなあ」と思う方もいると思いますが、バーチャルな空間の中に自分のアパターが存在していることに対しての捉え方が世代的に全然違うのではないか。私の世代はいつも端境期になるのですが、私よりも上の世代はバーチャルな空間の中に何かがいるということを捉えきれない、したがって、「向こう」と「こっち」になるんです。「こっち」があって、「向こう」がある。誰かがいっていましたが、ひらがなのわたしとカタカナのワタシがあって、ひらがなのわたしは私であって、カタカナのワタシはバーチャルな世界の中の私である。私より下の世代は、そういうことを分かるというのか、リテラシーとして持っているのです。上の世代は、そういう感覚を持てないですから、操作するという感覚も持ちにくい。一体感を持ちにくいと言ってもいい。こういうのがバーチャルなプレゼンスだと名付けられるとすれば、これもインターラクティブメディアのリテラシーです。三番目には、タクティール、触覚的な感覚です。触って何かを動かす、操作していくという感覚です。特に手を使うのですが、携帯電話であったりマウスであったり、十字キーを使って親指ですべてできます。これがリテラシーの中の非常に重要な部分を占めるというのが、ある世代を境にしてスパッと分かれていくという仮説をもっています。この点をもう少しつめていくと、一番目のインターラクティブメディアのためのリテラシーが出てくるのではないかという気がしています。この点上村さんどのようにお感じになっていますか。

上村
  この点は僕らも機械を作る上で悩んだし、むずかしい点だと思います。細井先生はうまく整理していて、なるほどなと思いました。テレビが普及していった時期の日本人の生活形態は、家の中心の茶の間にテレビが置いてあって、冬ならば炬燵がその前にある。そういう中でテレビゲームをどうして広めていったらいいのか。テレビゲームという概念がなく、しかも広い部屋の中に大きなテレビが置いてあるというアメリカの生活形態はあまり参考にならない。ですから、ゲームセンターでやるゲーム機のインターフェースがつねに頭の中にありました。いろんな意見が出てきました。任天堂は、テレビゲームの前にゲームウォッチという有名な機械を出しています。時計が付いた、今のゲームボーイの源流のようなゲーム機です。これにABボタンと十字キーがデザインされていました。ゲームウォッチは画面を見ながらそこで操作をする携帯電話と同じです。視野の中に必ず十字キーとABキーが入っていた。しかし、テレビゲームは画面は手元ではなく、茶の間のテレビにある。ですから、操作キーを見なくても操作できる入力装置とはいったいどういうものかが、一つの大きなテーマでした。さらに、おもちゃですから、子供が足で踏んだり投げつけたり乱暴に扱われる。今で言うPL法的なことも頭に入れて装置を作らないといけない。それで到達したのがファミコンのキーボードだったのです。
  たぶん、かなりの特許的なヒントが入っていたと思います。それが標準インターフェースになってしまって、それ以降のゲーム機のインターフェースはこれに合わせるようになった。実は社内でもこんなにテレビゲームが売れるとは考えていなかったので、誰も特許を出していなかったのです。いまだに、あのとき特許を出しておけば任天堂は違うところで大儲けできたのにという意見と、特許と出していたら誰も使わなかったんじゃないかという意見が錯綜しています。画面の中のものを操作するという概念と、テレビを観て楽しむものをどこで融合させていくのかという問題が、今話したデバイスと環境でかなり解決されていって多くの人の支持を得られた。もちろん特許を出していなかったことも標準のインターフェースになった理由だと思いますが。それ以上に、そういうものにうってつけのインターフェースだったのだと思います。
  実はその源流は、僕の先輩に当たる横井軍平という人が、ドンキーコングとかおもしろいゲームを作っいたのですが、僕はそれが大好きでして、お正月に遊んでいて、上の画面を見ていたら下を見ていないわけです。ゲームウォッチは上がなくて下しかなかったので、必ず視野の中にABキーと十字キーがあった。ドンキーコングでは「上だけ見ていてゲームができるやん」というところから、先ほどの決断をしたといういきさつがあります。このあたりのことに、これから研究する中でのおもしろいヒントがあるようです。
  このように画面の中の実態のないものを動かすうえのコントローラのひとつのおもしろいアプローチだと思います。それより前は、十字キーではなくて、ラジコンのコントローラー、ジョイスティックの世界でした。ジョイスティックでは、踏んだときに足に刺さったらどうするという問題があり、消えていったといういきさつもありました。加速度センサーを使ったゲームも作ってみましたが、今後、技術的にはいろんなインターフェースが可能ですが、人間の感覚、認識にとってあまり突拍子のないものだとなかなか使ってもらえない。産業的に見た場合、採用できないというむずかしい問題もあります。

細井
  十字キーの意味は今おっしゃられたとおりだと思うのですが、インターフェースの一番接点のパソコンですが、その後に私が一番気になっているのは、二点目として指摘した問題ですが、バーチャルな空間に存在できるという感覚というものがリテラシーの中でもかなり重要なものだと思うのですが、上村さんのなかで、これを作られたときに、テレビからただ画面を拝借するという考え方だったのか、それともテレビのコンテンツの中に入っていってしまう、つまりテレビを操作してしまうという考え方だったのでしょうか?

上村
  基本的にはテレビを見て、こちらに人間がいて遊ぶという視点で設計されています。インベーダーではやっていくうちに自分もその中に入り込んでいて、撃たれたときに飛び上がってしまうという感覚はまさに一体化しているわけです。テレビゲームをそういう目で設計すれば設計できないのですが、ソフトウエアだけがそれを実現してしまう。それがコンピュータゲームのすごくおもしろいところだと思います。

細井
  この点は、インタフェースあるいは認知科学の領域でもありますから、そういう先生方との連携も視野に入れてもっと詰めたいところですね。次に、デマンドサイドのテレビゲーム研究としてわれわれが提示したい二つ目の視点は、(2)「ファミコン世代」という概念です。なぜファミコンが売れたのかの答えにもつながると思うのですが、作る側の世代に大量のファミコン世代が入り込んできている。これは現在進行形です。1983年のファミコンの発売の時に10代だった方は、現在30代になっています。その世代は、会場の皆さんより少し上だと思いますが、社会人として最も消費の中心であったり、モノやサービスやコンテントを作る中心世代になったりしています。さっき仮説的に提示したように、そういう人たちがインタラクティブ性のあるリテラシーを持っているとすれば、それ以前の世代とは違った物を必ず作り出すはずだということになります。このあたりがどこまで見い出せるのかが一つのポイントだろうと。
  そのことを考える一つの素材として、私も授業でよく使うのですが、アルスエレクトロニカというインタラクティブメディアの国際会議が毎年ドイツであるのですが、その2001年の会議のパンフレットの表紙にはいろんなプロフェシーがあって、日本に対する見方の凝縮もあります。(プロジェクター画面)いろんな絵が描かれていますが、ファミコンみたいなものも描かれています。マッキントッシュであるとか、ページャーであるとか、古い電話機であるとか、そういうものを踏み台にして新しい創造物がどんどん出てきている。新しいクリエーションは若い世代、若い女性をリーダーとした子どもの形でクリエイティビティが表現されていて、表現されている物は実在の物が多いのですが、アイボであったり、アシボであったり、ソニーのバイオであったり、ゲームのデバイスであったり、デジタルな横長テレビであったり、紅白の小林幸子であったり。ここに表現されている物はあるアルスエレクトロニカの表現で言うと、クリエイティビティバースト(創造性の爆発)だとされています。なぜ日本という国はこの数年で創造性が爆発したんだろうか。こういうテーマを投げかけているんです。僕はその答えの一つがファミコンだろうと思います。ファミコン世代が身に付けた新しいインターラクションのリテラシーであったりクリエイティビティが、ちょうど今花が咲き始めてる時代だろうということなんです。この絵はもちろん、フランス革命を描いたドラクロアの「民衆を率いる自由の女神」のカリカチュアです。ドラクロアの絵が完全にポリティカルな世界を表現しているとすれば、こちらは明らかに新しいカルチャーなエコノミー、あるいはエコノミーのカルチャー化を表現している。その表現の核にある創造性は今発揮されたばかりのもの、今の30代の人たちが作り上げてきたもの、その世代はファミコン世代であるという解釈の仕方ができるのではないかと思います。
  さらに、こちらの現代中国を表現しているタイムの表紙に使われた絵(プロジェクター画面)と比べてみると、女性がリーダーであることは同じですが、日本の女性が非常にシンプルでユニクロや無印良品のような服を着て華美さがないのに対して、中国の女性はシャネルのスーツを着ているなどブランド品、高級品を身にまとっている。手には電子機器を持ったり、クレジットカード、携帯電話、コンピュータ、ワインを持っている。そこに描かれているのはクリエイティビティではない。巨大なエコノミーのマーケットが中国にできつつある、それを新しい中国の世代がリードしているということが描かれています。それに対して日本の絵には、たくさんのクリエイティビティが描かれています。ただそれがビジネスとして成功するかどうかはぜんぜん分からない。よその国の人には理解できないようなクリエーションの洪水、バーストが描かれている。外国の人はピンクの熊(ポストペット)は何のことがぜんぜん分からないと思います。
  これが二つ目です。ファミコン世代の創造性の爆発があるだろうと。これが第一のインタラクションのリテラシーと並んで、デマンドサイドとしてテレビゲームを分析していく上の、いわばヒューマンリソース的側面といいますか、そういうところにつながっていくのじゃないかと。このことは比較的私の専門に近い分野ですので、ぜひ深めていきたいポイントです。
  そして、三つ目の視点は(3)「デジタルな表象文化の成立と影響」、すなわち文化論になります。デジタルでかつインタラクティブな表現の文化、表象の文化が成立して、ある種それがビジネス、エコノミーにも関わる形で立ち上がってくるというような現状があります。そしてその源流にオシロスコープやオッデセイもあるのですが、大きな一里塚としてはファミコンがあるという構造になると思います。ファミコンから始まった川の流れがどこまで広くなるのか。これについては今日の時間の中で語ることはほとんど不可能ですが、われわれの3つ目の視点として提示しておきます。
  この視点についても3つの内容を想定しています。一つは、テレビゲームが表現文化として新しいのかということを多くの人が語っているのですが、デジタルである、インタラクティブ性があるという以外のことはほとんど語られていない。そのことをきちんと詰めていくためには、デジタルである、インタラクティブであることの中味をきちんと話をする必要がある。さらに歴史的な流れとして整理されていないと感じている点で、上村さんの意見でもあると思いますが、テレビとの関係です。テレビとテレビゲームの関係、マンガ、アニメーションとの関係です。最初のファミコン世代が取り囲まれていた文化環境、生活環境そのものであるわけですが、その環境の中で出てきたテレビゲームという捉え方をして、それのどこがどう新しく映ったのか、どういうふうにユーザーを引きつけたのかという関係性と相違を見ていく視点が一つあるだろと。
  二点目は、最初に少し触れましたが、インターラクティブメディアそのもの自身が、他のメディアと根本的に違っているのは、たとえば本や新聞などの活字メディアは千年のオーダーで立ち上がって、浸透して、作られてきた。われわれ自身が活字を使うためのリテラシーを獲得するために千年の時間をかけることができたわけです。この意味では、人間の社会、日本の社会、アメリカの社会、世界はメディアのリテラシーをそれなりにきちんと身に付けてきたとも言えます。ところが、インタラクティブメディアは革新があまりにも速すぎて、新しいメディアに対するリテラシーを身に付ける前に、新しいメディアがさらに出てきてしまうことの繰り返しなんです。そのことが過熱状態、一種の暴走の状態を作り出しているところに「ゲーム脳」のようなトンデモ学説が徘徊する落とし穴がある。それを捉えなおしてみれば、インタラクティブメディアのためのリテラシーを速いスピードで定義をして提案をして、政策的課題としても提起できるような構造を作っていかないと追いつかない、いつまでたっても「ゲーム脳」のようなパニックが繰り返されるという構造が出てくるわけです。そのことについては、従前のメディアとは全く違う対応が必要だろうという意味で、これも重要な研究テーマにしたい。
  三点目には、「ゲームの研究をしたい」あるいは「ゲームを学んでみたい」、「こういうプロジェクトに関心がある」と言って来る学生が少なからずいるのですが、そういう学生の話を聞いてみるとかなり共通する部分として教育に関心を持っている人が多いのです。最初は偶然かなあと思ったのですが、それだけではなくて、学ぶということの本質は真似をすること=「真似び」ですね。ある意味において遊びの本質も真似びですから、両方とも同じ本質を持ったものなのです。真似びがあって学びがあって遊びがあるわけです。今、危機に瀕している「学び」をどう復活させるのかということで、ある種問題意識がつながっているのではないかと感じています。解釈はいろいろあるでしょうが、最近の教育理論の中で、結局勉強とは身体でやるものだ、だから国語の教科書は大声で読みなさいという主張もありますが、僕は違うと思います。声に出して文章を読むことが大事であるということは、真似びということではその通りだと思うのですが、大きな声で復唱するということに何か今まで失いかけていた新しい意味があるという主張にはピンときません。もちろん、おっしゃっている方はそう単純な意味で言っているわけではないのことはわかります。その危惧の根底には共通の問題意識があって、学びの危機なんです。学びの危機に対して、どういう真似びの積み上げを提案するのかという問題だろうと私は理解しています。そのことがたぶん遊戯性と非遊戯性の境の問題として何となく感じ取っている学生が多いのではないか。例えば「拡ゲーム」というコンセプトがあります。これはセガさんのコピーなのですが、ゲーム性の拡張のようなことをいろいろな視角から考えていく必要があるのかなあと。これについては、ゲームアーカイブ・プロジェクトでここ2年ほどいろいろな人の話を聞いたり、いろいろな企画をやって考えてきた経緯もあります。
  これらが、私がデマンドサイドと言った、総合的なテレビゲーム研究の戦略として設定していきたいと考えている内容です。非常に幅広いですし、理系分野にもかぶる点もたくさんあってわれわれだけではできないので、いろいろなチームを組ながら大学院のコースを組んでいこうと考えています。上村先生にもう少しお聞きしたいのですが、特に一番目の点、上村さんとお話ししているとテレビがキーワードになっている気がするのですが、そういう視点から見てご意見をいただきたいと思うのですが。

上村
  実は、これはNHKのハイビジョンでずっと放送されているものです。テレビ放送と言っていいのか、テレビカードです。安野光雅さんが描いた絵をユーザーが勝手にデザインして、電話線を通じて、つまりデジタル放送の受信機には通信機能がありますから、NHKに送れば、チェックをして再度放送されてきます。ですから、親から子へのグリーティングカードみたいなものを自分で作って、放送局が放送することができるわけです。
  僕は放送という意味でテレビに興味を持っていたのは、冒頭にテレビゲームとビデオゲームとの違いをお話ししましたが、歴史的に見て映像を出せる道具として、日本でもアメリカでも遠い物を見る装置としてのテレビジョン(Television)がものすごいスピードで普及していきました。いろいろな使われ方をして普及したわけですが、それを横取りして遊び道具にしてみたら、映像で遊ぶというすごい世界が大衆の前に広がっていった。一番初めに素直に受け入れてくれたのが、アニメ番組に没頭していたテレビっ子でした。ですから、何かつながっているように思います。その人たちが、テレビでアニメを見て、ゲームをしながら大きくなった。そういう意味で情報の取り込みが速い。ドラゴンクエストの騒動が典型的ですが、1本目が出るとあっという間に情報が広がって、友だち同士が電話で会話している内容がゲームのことだった。今ではそれが、携帯やメールになっている。テレビというものが一番最初にそういう世界をつくる素地になってくれた。今のNHKの番組もテレビ放送と呼んでいいのか疑問が多いのですが、これを作っている方もまさに「ファミコン世代」の方のようです。テレビ自体も従来のテレビジョンという概念から変わらざるを得ない。そうしないと作り手側も満足しないし、観る側も満足しない。ブロードバンドなど、最近そういう環境を簡単に作れるようになってきているわけですから、そのあたりを先ほど分析されたものを研究するときの、一番原点から見れば、まず初めにテレビジョンがあった。
  それからファミリーコンピュータという名前が社内で採用されたとき、僕が一番思い浮かべたのが、茶の間にテレビがあって、ちゃぶ台があって、家族みんなが一生懸命テレビ番組を観ているというシーンだったんです。実際テレビゲームを作って出してみたら、ファミコンという言葉に変わりましたが、すでにファミコンはそういう意味を失い始めてきている。このあたりに一番初めに投げかけた「何で売れたんやろ」というヒントがあるのかもしれません。これは任天堂にとってもたいへん重要な課題で、これをどう見極めていくのかが一つの企業の生死を決めることになると思います。現実に今の状況を見ていると、テレビゲームよりもゲームボーイの方が、ゲームボーイよりも携帯電話の方が夢があるように作り手も思っていますし、使い手も思っているようです。その画面で観ている映像の原点は、テレビに映っていたファミリーコンピュータのインタラクティブな世界なのかもしれません。そういう世界にとらわれているのが、ファミコン世代の人たちではないかと僕は解釈しています。
  細井先生がおっしゃったことはおもしろいし、ぜひともやるべき課題だと思います。次の世代は何々世代という名前に変わると思いますが、その原点は家の中でそういうことができた初めての世代ですから。そういう意味で責任もあるだろうし、次の技術的な要素が発達している現代においてはおもしろい研究課題だろうと想像しています。

細井
  ありがとございます。まさに今のお話で、デマンドサイドのテレビゲーム研究をするということは、ファミコン世代というものを明らかにすることだと言い換えができるかなと思いました。逆にファミコン世代の問題というのは別のところにあって、どうもテレビゲームの理念形がその世代に強烈に刷り込みされているので、その世代自身の中でテレビゲームの消費が圧迫されて広がりが出てこないという現象がある面であるような気がします。
  この間、通産省の片岡さんが言っておられましたが、ゲームは構造不況業種に近くなっている。特にソフトウエアの売り上げが1997年の7682億円をピークに年々減り、2000年には6150億円へと1300億円くらい減っています。ある面、ファミコン世代の閉鎖性という問題でもある。しかし、逆にそこに新しいゲームの性能の拡張が生じたら、その世代を越えたバーストが起こるかもしれない。いずれにせよ、この消費を担っている世代とはどういう世代なのか、それがどういう役割や意味を持つのかということを明らかにすることが重要だと思っているわけです。Ultimate History of Video Game』というビデオゲームに関するおそらく一番まとまったテキストがあります。この本のファミコン部分の記述を読むと、上村先生が今おっしゃったように、そのあたりのことが日本から情報が出ていないのです。したがって、非常に浅い記述になっています。それで結局全体を通してビデオゲームがどのような表現文化、表象文化であったのかということに対する説得力を失わせています。それは無理からぬことで、ファミコンのあたりのことが一番分かりにくいのだと思います。
  私たちのチャレンジはまさにその部分をもっときちんと掘り下げる作業です。先ほどのファミコン世代の役割を明らかにすることがうまくできれば、それに前と後ろを合わせて、きっちりとしたテキストブックになるようにこの新しい表現文化に一つの形を与ることができると思います。日本以外の国を見ると、だいたいゲームの消費は伸びています。特に、アジア、アメリカはすごく伸びています。日本がなぜ伸びていないかという側面からもファミコン世代の研究が必要かと思います。
  以上のような形でテレビゲームを、ある程度きちっとした枠の中で、興味本位ではなくて一つの文化であり、経済であり、遊戯であり、表現であり、アートとして研究していきたいという大枠の流れと研究のポイントについてお話をさせていただきました。その守備範囲は実は非常に広く、現状では貿易黒字を出している国家的産業でもあるし、社会的な影響力も大きい。子どもとゲームというとお母さん方を中心にいろいろな意見を持っています。私自身も小さい子どもを抱えていますが、ゲームアーカイブ・プロジェクトの代表をやっている私が、子どもにゲーム機を与えないのも少し変かなあと思いながらも、家内からは「まだ少し早いんじゃない」と言われるなど苦しい立場です(笑)。そういう大きな現実としてのテレビゲームを受けとめて、いろいろなフィールドで研究や実践をやっていかないといけないと思っています。
  (プロジェクター画面)これは私が説明用に作ったマップですが、実践的にも産業のあり方としても、人材育成のあり方としても、もっともっとやらなければいけないことです。下の方にありますエキシビジョン、文化、アートとしてもとらえていく、ゲームクリエイターの桝山寛さんとかも一生懸命やっておられますが、そういうような仕事も必要でしょう。そういういろんなマッピングの中でこの辺をやっていく流れになるだろうと理解しています。デジタルエンターテイメントコースではあれこれ全部やるのは無理がありますから、そのコースの中核になるのはファミコンが一番大事だという思いがあります。ファミコンという一つの固まりをきちんと研究的に扱って、それを研究的な素材として使えるようなものに転換させていく流れが必要だろうということで、デジタルなファミコンのライブラリーを作っていく考えで臨めないかと考えています。そのライブラリーをベースに研究を重ねていくことで初めて、百年単位で物事を考えていくアカデミズムの世界でゲームを研究するという確固たるものができてくるだろうと考えています。

-----------------------------------------------------
(以下、フロアからの質疑応答)
----------------------------------------------------

質問者1
  テレビゲームというのは、今、一般的には子どもや若い世代が遊ぶためのブームになっていて、日本の産業の期待を担っていたところもあると思います。しかし、教育という観点から見ると、身体や精神にとって悪影響があるのではないかということが、アメリカのメディアでも言われたりしています。たとえばピカチュウなどアニメーションでも同じようなことが言われています。家の中でしか遊ぶことができない都会子がひ弱に育つ、目が悪くなるなどマイナスの側面もたくさんあると思います。ですから親の世代からは必ずしも満足してみているとは限らない。ずっとブームが続いているところは子どもの数が多いところ、たとえばアジア諸国などです。子どもの世話ができない親が子供に遊びを与えて、テレビの影響などで爆発的なブームもあり、子供どもが親から離れてしまうなど教育的な面から考えたらどうなのか。ヒットするゲームの中にはいいものもあるでしょうが、中には非常に暴力性を追求しているものも多くあります。ゲームセンターにもそいういうものが多い。その辺に関してご意見をお聞きしたい。

細井
  今のご意見に私も全く賛成です。だからこそ、新しいメディアに対するリテラシーの研究がなされなければならない。電話も写真も、登場したばかりの時には魂が抜かれるのではという話がありました。それで電話や写真に対して非常に警戒する人も出た。メディアは新しく出たときにはいろんな反応が出てきます。そのメディアに対してきちんとした研究をして、先ほど私はリテラシーと言いましたが、そのリテラシーの研究に足るような素材を作っていかないと、いろいろな誤解も偏見も出てくると考えています。今おっしゃったような問題を正確に立てて研究をするべきだと思います。いろんな考えの方がいらっしゃいますから、それらを総合するような場所を作って、新しいメディアのリテラシーに関する研究を前向きにやっていきたいと考えています。

質問者2
  今日のテーマとは少しずれるかもしれませんが、今後のゲーム業界の展望について、どういうお考えをお持ちかお聞きしたいと思います。というのも、1997年をピークに日本では市場が縮小しているようですし、携帯電話やインターネットなどの通信費に使うお金に流れていたり、コンテンツの中味の魅力にしても、20世紀からの続編ものが最近乱発されていて、変な言い方ですがゲーム業界が終焉に向けて一歩一歩近づいているように思えるんです。そういう状況の中でこういった研究をするということは、21世紀の潮流を創るという中で、コンシューマーゲーム機の今後の存在意義なども含めて、今後の展望をぜひお聞かせ下さい。お願いします。

上村
  そういう意見も当然あると思います。マーケットとしては、テレビゲームが明らかに頭打ちになって、携帯ゲーム機、携帯電話も含めてですが、より遊びやすい環境という形でうまくユーザーが見つけてきているのだと思いますが、圧倒的にそこが伸びてきています。テレビゲームというのは、とりあえず始めにテレビがあって、そこで広がっていったらしい。「テレビがあって」というのが一つの押さえどころだと思います。それがいろいろな影響を与えて、いわゆるファミコン世代が出てきたわけです。その人たちが社会の中心になってきて、いろいろな環境が、任天堂で言えばゲームボーイのような携帯ゲーム機を含めた環境が新たに出現してきて、まったく違った概念の遊び方までできるようになった。
  僕らテレビ世代からすると、ファミコン世代に頑張ってほしいと思っています。テレビからファミコンへ突入した時のバーストがああいう世界を作ったのですが、ファミコン世代がファミコンに囚われてしまって、つまりテレビという世界に囚われてしまっていたら、たぶん今おっしゃったような終焉という絵が描けるかもしれませんが、今周りを見回すとそのシナリオを十分に払拭できるようないろいろな技術的要素を含めて広がってきています。果たしてそれをどこまでこなしながら新しい世界を作れるのか。それがまさに21世紀の世代の仕事ではないかと思います。そのなかで任天堂がどうなっているのかは別の議論です。
  ゲーム業界という概念自体も変わってくると思います。ゲーム業界とは、一般にはパッケージ系を作ってそれを売って、ああいう数字を出してカウントできていたわけですが、今やネットワークとかいろいろ出てくると、カウントもできない状況になってきています。そういうなかで、一つのインタラクティブな世界を作ってきていることだけは事実です。決して衰退しているのではなく、拡大してきていると僕は考えています。任天堂の若い社員もここに来ているようですが、「ファミコンなんかもう古い。そんなものは昔あったもので、もっとおもしろい世界があるんだ」と頑張ってほしいと思います。

質問者3
  過去を回顧することはよくないと言われたばかりですが、僕は最初の赤いファミコンの形や大きさがすごく好きなのですが、それには何かモチーフみたいなものがあったのですか。

上村
  産業的ファクターから決まっただけです。あのときの状況からすると、みなさんに買ってもらおうとするとコストミニマムを追求しなくてはいけない。したがって、プリント基板の大きさや成形の問題、それから先ほど言いましたように子どもたちが使うに当たって守らなくてはいけないガイドラインもあって、デザインを無視して機能だけを追求して作った結果があのスタイルなのです。ファミコンにカセットのイジェクターが付いていましたが、これはなくてもよかったのです。でも、せっかくおもちゃメーカーが作るのだから、せめてこれくらいは付けておこうということだったんです。価格的には9800円が設定ラインで、社長もICメーカーに乗り込んだのですが、あえなく敗退して帰ってきました。そこで最終的な判断として14800円という数字が出たんです。そのころの雰囲気では、テレビメーカーが2万円を切って出してくるだろうと。あいかわらずファミコンのときもテレビゲームはテレビなんです。僕らも、テレビゲームはテレビメーカーが売ってくれると思っていました。一番最初のテレビゲームは三菱電機さんに売ってもらったんです。そのあたりが研究するときの一つのヒントになってくると思います。

細井
  ちょうど時間も来ましたので、このあたりで終わりにしたいと思います。今日はどうもありがとうございました。


UP:20030714 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/um01/021218.htm
上村雅之  ◇細井浩一 

TOP HOME(http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/)