第一回
今村仁司 氏 講演会風景

暴力以前の力 暴力の根源

今村仁司 氏

1.はじめに
2.線を引くこと(根源分割)
3.分割の瞬間と出来事
4.tracer (線引き)と trace(痕跡)



 暴力現象は人間社会のなかで弁別できないほど多様に、また無数に出現する。社会的暴力はけっして等質的ではない。それに応じて暴力を指示する用語もけっして明確には区別することができない。それは言葉の無力が原因であるのではなく、現象の複雑さに由来する。たとえば、ドイツ語のGewaltとMachtは互いに区別しがたい。政治権力はどちらの言葉でも表現できる。暴力と権力は区別しなくてはならないが、言葉の宿命によって区別しがたいだけでなく、事柄の本性によっても区別しがたい。とはいえ、認識の観点からいえば、暴力と権力との差異はもとより、力一般とそれから派生する種々の暴力的現象を区別しなくてはならない。この錯綜の森をどうして切り抜けていくことができるのだろうか。以下では、暴力以前の力が何ごとであるかについて試論を提起してみたい。


 線を引くというふるまいは、いわば形なき空間に一本の線を引く、あるいは切断線を刻むことである。線引きは分割し区別することである。一本の線を引くとき、形なき真空のなかにひとつの像を描くことでもある。線引きは分割であり、分割は無形から有形を産出する。 原初の線引きすなわち根源分割があり、そこから形と姿をもつ「世界」が現れる。
 分割する(区別する)ふるまいについて、ヘーゲルはつぎのように書いている。
 「分割する(Scheiden)という行為は悟性の力と働き(Arbeit)であり、その悟性とはもっとも驚くべき、またもっとも大きい力、いやむしろ絶対的な力である。」
(Hegel, Phänomenologie des Geistes, S.28.)
 悟性(知性)は分割するが、この分割のはたらきは悟性をこえて人間の原初的存在のはたらきにまで広げることができる。いやむしろ、分割する悟性は原初の分割の精神的表現であるとすらいえよう。ヘーゲルにならっていえば、原初の分割作用は、「もっとも驚くべき」力であり、あるいはむしろ「奇跡的な」であり、「絶対的な」力である。原初的であるということが根源的であると同義とするなら、分割作用は根源分割と言わねばならない。知的思考(悟性)が分割から始まるとすれば、分割は人間的精神(思考するという意味での)の開始であるとすれば、原初の分割は人間的存在の開始である。根源分割は「人間の」現実存在を生み出す。人間的なものは根源分割から作り出される。形なき可能性のなかに分割線または切断線を入れるはたらき(Arbeit)はひとつの否定である。否定性は分割することによって何ものかを生産するという意味では肯定的でもあるが、原初の姿においては徹底的に否定的である。
 「人間的」な存在は否定する否定性である。これによって人間なるものは自然のなかに登場し、所与としての無形の自然を否定し(否定しながら生産し)、同時に所与としての自己自身を否定する(作りかえる)。人間的存在は、否定のはたらきをおこなうそのつど、自己がそのなかにいる状況を変更する。その事態を総称して否定性とよぶ。
 分割(分ける)とはまだ具体的形姿をもたない無限(の自然)のなかに一本の「線をひく」ことである。否定性という「人間としての無性」は、最初にただひとつの線を引くことによって成り立つ。線を引くという行為は、最初の行為であり、それこれこそが自然としての自然のなかに存在しなかった「人間的なもの」を「出現させる」出来事である。ふつう人間の欲望と言われる行為もまた、線を引く行為である。何かを欲望することは任意のものを何かとして生産し、そうすることで自然的世界と社会的世界を萌芽的に作り出す。人間が欲望するかぎり、特定の生き物を人間的なものとして出現させ、あわせて二つの世界(自然的と社会的)を自己に対置させる。
 有限な人間は有限なものついてのみ語ることができる。有限を超える無限について有限な人間の言葉は語ることができない。言葉は無形のものに形を与える。無形のもの対して言葉は形そのものである。 語り得ないもの(無限)のなかに線を引くこと(分割、切断の線)によって、一方では有形の世界を、他方で言葉「無限」(あるいは純粋存在)を、出現させる。原初の存在における原初の存在感情は、自己の「ある」ことが「根源分割」であることの情感的受け取りであり、根源分割としての自己の現実存在を感じることは、分けられた片割れとしての世界と自己をも感じるのである。根源分割によって、無形の無限は「ある」(存在)に変貌し、それを感じるものは「在るもの」に変貌する。いわゆる存在と存在者の区別は、無形の無限の根源分割と原初感情の結果であって、その逆ではない。いわゆるエゴは、根源分割の結果として、無限のなかにあり、それと同時に世界のなかに内在する。人間的存在(我以前の自己)は世界にむけて開かれると同時に、無限のなかに包摂される。人間的な物の出現とは根源分割である。それによって、語る存在としての人間は、おのれ自身であるところの存在と区別される言葉「ある」を発することができる。さらに自己とは異なる他の存在をまとめて言葉「世界」をもつことができる。人間は原初の根源分割をこれ以降無際限に反復していき、同時に言葉の分節化によって想念的(概念的)世界を構築していく。自然との関係においても社会的関係においても、根源分割から発する無数の線引きが複雑に紡ぎだされる。人間に関わるすべての事柄は線引きである。
 人間の「そこに=ある」を現=存在というなら、その「そこに=現に」は、根源分割であり、無形の何かに分断線を刻むことである。人間的現存在は、人間的存在とそれが」そのなかに存在する世界を区別しながら出現させる否定的行為である。人間とは」分割作用である。したがって人間とは根源的な否定態である。根源分割という否定態であるという事実によって人間は、語りえないという意味での無限すなわち絶対無限を、存在感情と言葉によって純粋存在に変換し、存在と存在者の区別を言葉のなかに定着させる。そのとき純粋存在(言葉以前の存在)と言葉「存在」が区別されると同時に、存在は存在者のなかに吸収される、あるいは撤退する。しかし純粋存在は撤退しながらも、存在者と世界とは違う何かとして暗示される。暗示されるものは、本来的には絶対的な無(絶対無限)であるのだが、根源分割以降では存在者の「存在」に縮小する。存在は派生的なものである。人間的現存在の「現」によって、すなわち人間の出現という根源分割によって、絶対的な無形あるいは無限はもはやそれ自体としてはどこにも現れることはない。それは分割作用の結果として「存在」に縮小変換されて、人間の言葉のなかに現れる。無限の撤退と言葉「存在」の出現、そして存在と存在者(世界)への分節化。たとえ無数の屈折が生じたとしても、人間が出現してきた原初の無形的なものは原初の感情によってつねに受け止めてられており、それは憧憬として感じられ続ける。ここから想像的妄想による彼岸思想も生まれることもあれば、それとは反対に存在の満足を自己の無限内存在の概念的で情感的な把握を通して獲得する道もまた用意される。
 以上のことを図式化してまとめてみよう。
 第一局面。
 最初に、唯一の線が引かれる。無形無限は、切断線によって、二つの領域に分かたれる。分割する線とは、人間的存在そのものである。それは線分を引きつつ現実存在する。二つの領域のうちのひとつは「世界」であり、もうひとつは「存在」である。
 第二局面。
 無形無限が二分される瞬間に、無形無限は「存在」への変貌する、あるいは縮小する。純粋存在はまだ語り得ないものであるが、にもかかわらず存在者を通して暗示される。無形無限の変貌体である存在は存在者の蔭に隠れるとはいえ、言葉によって密かに温存される。ひとは特定のものについて語りながら、「何かがある」と言う。言葉「存在」は純粋存在を隠しつつ、暗示的に現す。
 第三局面。
 存在者に吸収され、しかも言葉「存在」によって隠される純粋存在、すなわち存在としての存在は、分割以後ではもはや無形無限ではない。それは無形無限の末裔であり、変貌形態であり、そのかぎりで無形無限とのかすかなつながりを保存している。根源分割の働きであるかぎりでの人間は、分割によって生じた「世界」のなかに存在すると同時に、無限の縮小である純粋存在を媒介にして無限のなかに存在する。人間は世界内人間であり、同時に無限内存在である。
(1) 源分割線によって、語り得ない無限のなかに距離が生まれる。語り言う行為の可能性が生まれる。
(2) 無限無形のものに最も近くあり、それからの距離が最も近い言葉は固有名である。固有名は根源分割の痕跡(足跡)である。痕跡は分割線が言葉のなかに刻んだ線である。痕跡は根源分割の派生態である。
(3) 記号の体系。固有名を記号に変換するとき、固有名はたんなる普通名に転換する。記号組織は派生の派生である。語り得ないものを真実(真理、真如)とするなら、人間の言葉と言葉の組織化(言説)は真実からすでにつねにずれている。このずれをもつ言葉を比喩と呼ぶ。人間の言葉は本来的に比喩である。にもかかわらず人間はこの比喩を本質とする言葉によってしか真実を把握できない。学的言説といえども、本性上、比喩的であり、真実から遠い。しかし学的言説は自己の比喩性を自覚できる唯一の言説であり、自己の比喩的存在の完全な認識を通して、比喩が生じてくる淵源への通路を認識する。比喩的言説の経験の諸相を迂回する道を歩むことが、かえって真実への接近となる。


 根源分割の後でのみ、ひとは語り言う(すなわち知る)ことができる。分割以前のことは語り得ないし、分割の瞬間(イマノトキとしての現在)についても語ることはできない。語ることができない、したがって知ることができない状況のなかでのみ、出来事(かつてなかったこと)が出現する。原初の場面でいえば、この出来事は人間的現実存在である。人間的現実存在は、それ自身が根源分割の働きであり、同時にこの分割作用としての原因の結果である。なぜなら、人間の存在は、その分割する作用に世って「世界」と「存在」を構成するものでありながら、構成された二つの領分の構成要素であるからである。人間という出来事は、そのなかに逆説を含んでいる。つまり、根源分割としての人間存在は、原因でありながら、あたかも結果であるかのようにみえる。根源分割は原因でありながら、「知る(認識する)」の側からみれば、結果として知られる。事柄の順序からいえば、転倒しているのだが、人間的思考はそのようにしか考えることができない。コギトは自身が結果でありながら、あたかも自身を原因であるかのように考える。根源分割とその結果に関わるパラドクスは、人間的事象のすべてに貫徹する。「非知のなかでのみ、出来事の出来事性が構成される。」(Derrida, Force de loi,p.88.強調は引用者)
 普通の言語表現ではひとは「われわれの現在」というが、その「現在」を「言う」(知る)ことはできない。瞬間としての現在は「知る」ことができない。あえて「われわれの歴史的現在」を言おうとするなら、 すでにアルチュセールが指摘したように(『マルクスのために』)、また彼の後でデリダが述べるように(『法の力』)、フランス語文法の「前未来形」で語るほかはない。要するに、過去の視点から瞬間的現在をあたかも未来の出来事として語るのである。すでに過去でありながら、未来的なものとして瞬間をとらえる。瞬間は非知であるから、それを語り知るためには比喩をもってするしかない。これはひとつのパラドクスである。もしそうならあらゆる瞬間はこの逆説をかかえる。政治的切断としての「革命的」危機あるいは暴力的瞬間を例にとろう(以下はデリダの考察につき添いながら、議論を敷衍する)。
 歴史における危機のとき、すなわち革命的危機のときには、ひとはその危機の瞬間も、そのなかにいる「われわれのいま」も、知ることはできない、というパラドクスを含む。既存の法体系は失効し、宙づりになるが、しかし新しい法体系はまだない。それは宙づりの空位期であり、暴力的瞬間である。ヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』が主題にしている事態は、まさにこの危機的で暴力的な瞬間、法の空位期である。それは歴史の流れの切断であり、法体系(社会的秩序)の連続性の根源分割であるといえよう。革命的瞬間はたしかにひとを「恐怖させる」。ここでいう恐怖とは犯罪や拷問への恐怖を意味するばかりではない。この切断的瞬間は、つまりは荒ぶる力が乱舞する「イマノトキ」は、解釈することも解読することもできないからである。「知ることができない」からこそ、この瞬間はひとを恐怖させる。現象としての暴力や法律は解読することも理解し知ることができる。しかし分割し切断する暴力(根源的暴力)は、社会の秩序を宙づりにし、法の体系を無効にする。善悪の判断基準を宙づりにするが故に、切断の瞬間においては、この瞬間自身を解読することはできない。切断の力は、既存の秩序を解体し、それ以外の物を現象させるが、それ自身では現象しない。それは「与える力」でありえても、与えられるもの(現れるもの)ではない。根源的な分割力は、世界を作る力であり、また世界を解体する力でもある。
 「暴力は既存の法を中断し、別の法を作ろうとする。この宙づりの瞬間、このエポケー、法を創設したり革命したりするこの瞬間は、法のなかにあって非=法の審級である。しかしこれは法の全歴史でもある。この瞬間はつねに生起している[場所をもっている]し、また現前の相では生起しない[場所をもたない]。この瞬間においては、法の土台は真空のなかで、あるいは深淵の上に、宙づりにされたままである。(・・・)このパーフォーマンスの主体とみなされているものは、もはや法律の前にはいない。あるいはむしろ彼はまだ確立されていない法律の前に、まだ実在しない法律の前にいるような仕方で法律の前にいることだろう。これから到来する法律、まだ前方にあり、これからやってくるに違いない法律の前にいることだろう。カフカのいう「掟の前に」いることは、法律を見るこができず、わけても触れることも追いつくこともできない人間の、当たり前でもあれば恐ろしくもある状況に似ている。なぜなら、法律をこれから到来するものとして暴力のなかで創設するのが人間であるかぎりで、法律は超越的であるからだ。ひとはここで異常なパラドクスに触れないながら「触れて」いる。人間がその前におり、それ以前にいるような法律の接近不可能な超越性は、無限に超越的であり、したがって神学的である。というのも、法律は人間に最も近いところにあり、人間にのみ依存し、人間が法律を創造する演劇的行為にのみ依存するからである。(・・・)法律は超越的で神学的であり、したがってつねにこれからくるべきものであり、つねに約束されているものである。なぜなら、法律はこれからまさにおし迫ってくるものであり、しかも終わっている、したがってすでに過ぎ去っているのだから、あらゆる「主体」はあらかじめこのアポリア的構造のなかに囚われているからである。」(Derrida, Force de loi, pp.69-70.強調は原文通り。)
 連続性の不連続、すなわち法秩序の切断は、ひとがひとであるかぎり回避できない原初の構造の効果である。人間的現実存在はそれ自身で根源分割である。だからデリダが言うように、分割と切断の瞬間はいつでも生起しているが、しかし現前の相では生起しないのである。根源分割は「与える働き」そのものであるから、与えられたもの(結果)からしか接近できない。それは語り得ないものであるから、因果の連結を超えるものであり、したがって与えられたものから出発して、所与存在がいわば原因であるかのごとく、与えるものをあたかも結果であるかのようにとらえるほかはない。与えるはたらきである根源分割は本来「作用原因」であるのだが、それ自身が生産したものによって結果として「与えられる」ことになる。
 転倒は避けられない。「掟の前に」たつ人間のパラドクス的(アポリア的)構造は根源分割の原初的作用のひとつのヴァリエーションである。与えられたものから見れば、与える働きは現実存在に内在的でありながらも、すでに超越的にみえるという「神学的」構造もまた、根源分割の構造に刻まれていた。通常の神学=宗教的な、あるいは神話的思考は、根源分割の構造を誤認しつつ、ある種の真実を反映していることも、おのずと明らかになる。デリダの用語法に近づけて言えば、彼の言うところのdifférance(差延)は、われわれの言う根源分割として解釈し改作することもできるだろう。それは言語的差異体系の成立以前の原初的な「分ける」働きであるからである。デリダはそれをarchi-violence(原初の暴力)とよぶ。われわれは原初の線引きを根源分割とよぶ。根源分割は、主体と客体、時間と空間が出現する以前の、それらを結果として産出する力である。


 痕跡は線引きの動きが後に残す足跡であり、軌跡である。痕跡は線引きなしにはありえないが、線引きの動きは痕跡のなかに姿を消す。ここでいう線引きは、線を引く動きそのものであり、目に見えない働きである。この動きは動きの結果と区別できない。線引きは痕跡と区別できない。痕跡が現れるその都度に線引きの動きがある。その意味で線引きと痕跡は同じひとつのことである。
 人間の現実存在に即していえば、それは線を引くこと(根源分割)であり、同時に運動の痕跡である。分割線が入る瞬間に痕跡が生じる。分割することが直接に痕跡になる。分割する線引きの特徴は、それの出現が同時にその消滅であるという点にある。出現と消滅は同じ事態の異なる側面である。あるいは消滅することが出現の条件である。これは存在が無であるという矛盾した事態であり、日常的経験のなかで意識する(できる)ことではなく、現実存在の原初条件を概念的に語ることから出てくることである。とはいえ、少なくとの矛盾した形で表現される事態は、知覚可能かどうかという以前に、原初の存在構造のなかにすでに刻印されている。これもまたアポリア的構造のひとつの現れである。
 痕跡は足跡ともいえる。動物が残した足跡は、その生き物がいたことを、あるいは特定の生き物であることを、教える。足跡は目にみえるが、それを残した動物は目にみえない、あるいはもはやいまここに現前しない。動物は動くことで、大地に分割線を引き、そしてその結果を残して去る。足跡からそれを残す獣を推測し、それを追跡する狩人のように、思考もまた現実存在を追跡し、痕跡を残す原初の働きを把握する。
 しかし痕跡と可視的な軌跡(足跡)は違う。痕跡は不可視である。質料的な実物を結果として残す働きが痕跡であり、より正しくは痕跡と同じ線引きである。線を引く動きにして効果である痕跡は、けっして可視的でない。不可視の線(痕跡)が運動として可視的なものを、人間的存在とそれのおいてある場所を結果として残す。これを図式的に言えば、次のようになる。
 一 一次的痕跡(トラース)。分割線を引く働きがあり、同時に軌跡がのこり、その軌跡が痕跡として別の実物的な結果を残す。分割する働きは効果を「もの」のなかに刻み、それ自身は消失する。
 二 二次的痕跡。根源分割の効果から生じるものが二次的な痕跡である。可視的な、したがって姿を現す(現象する)結果は二次的な派生体である。現世内のすべての「現象」や事物は例外なく二次的な痕跡であり、現象する結果である。人間の存在や人間的思考もまた二次的結果である。人間自身が二次的痕跡(トラース)であるのだから、それについて語る行為としての言説は痕跡の痕跡となる。言説の組織は、二次的痕跡(結果)から始まるのだから、痕跡を生み出した一次的な原初の線引き(tracer)は言説によってとらえることはできない。根源分割は言説が開始するとき、すでに姿を消してしまっている。
 以上の二つの事柄をあわせて、線を引く働き(根源分割)を特徴づけるなら、この原初の痕跡=線引きは、現象しないとしても存在しないではない。それは不在的現前または現前的不在の様式をとる。与える働きは不可視であるが、存在しないもの(無)ではない。それは物的なものではないが、「なにか」である。それについては有意味なことは語り得ないが、しかしそれは言表できない仕方で「ある」。「与える」根源分割は不在的に現前する(姿を見せない)ことによって、「世界」とそのなかにあるすべてのものを与える。
 「はじめに」根源分割があった(そしてつねにある)。この分割によって存在者が出現し、それと対応するようにして「存在」が出現する。与える働きは、分割する働きであり、その働きをいわば自己に与えることで、無限を「存在」へと縮小する。存在者と異なる存在自体がすでに痕跡なのである。人間にとって、無限は名指すことができるだけだが、存在については何ごとかを言うことはできる。存在者について語るとき、ひとはそれとの関係で存在について語り、それについて有意味なことを言うことができる。
 デリダは言う。「時間経験の最小の単位における過去把持(レタンシオン)がなければ、また他を同のなかの他として保持する痕跡がなければ、どのような差異も働かないし、どのような意味を出現しない。」 (Derrida, De la grammatologie, p.92.)同のなかの他は差異であるから、この過去把持は根源的トラースではなくて、二次的トラースである。二次的な痕跡は根源的線引きの働きをいわば「依止する」(依りて止める)。それは根源分割を結果のなかに出現させ、またそれを消去する。時間経験のなかの過去把持は同(メーム)と他(オートル)の差異であり、この差異のなかに根源分割の効果が不在的に現前する。いっさいの言語行為は二次的痕跡のうえで動く。しかし二次的痕跡(たとえば記号の組織)よりも前にあるのは、根源的トラースである。
 「問題は構成された差異ではなくて、あらゆる内容規定以前にある。差異とそれを産出する純粋の運動である。(純粋トラースは差ー延différanceである。それはいっさいの感覚的充実---聴覚的、視覚的、音色的、グラフィック的----に依存しない。反対に[純粋の]トラースはそれらの条件である。[純粋の]トラースは実在しないけれども、また現前する存在者ではないけれども、その可能性は、いわゆる記号(シニフィエ/シニフィアン、内容/表現、等々)、概念、またはオペラシオン----動的であれ感覚的であれ----よりも権利上先なるものである。この差延(differance)は、感覚的でも可知的でもない。それは記号相互の分節化を同一の抽象的秩序のなかで可能にする、あるいは二つの表現領域のなかの分節化を可能にする。それはパロールとエクリチュール---普通の意味でのエクリチュール[文字]---の分節化を可能にする。ちょうどそれが可感的と可知的、シニフィアンとシニフィエ、表出と内容、等々の形而上学的対立を基礎づけるように。 (・・・)différanceは、だからフォルムの形成である。しかしそれは、他方で、刻印が刻まれていることでもある。」(ibid.,p.92.)
 われわれが自分の言うことを聴く場合、「音」と「聴くこと」が区別されているし、またこの区別がなければ聴くこともできない。音を聴く(または聞く)とき、すでにそこには根源的トラース(原初の分割)が働いている。音を聴く行為は、根源的トラースの効果を生きることであり、効果(結果)を経験することが形を与えられることである。音という感覚的ヒュレー(マチエール)と聴くというフォルムは区別されると同時に不可分一体である。この事態は二次的トラース(痕跡)であり、それはさらに別の二次的派生態を際限なく産出する。二次的痕跡だけが経験できるが、根源的トラースはそれらによって隠され消去されるから、感覚的な経験の意味で経験されることはできない。しかし根源的(一次的)トラースなしには、現実存在するものもありえない。くりかえすが、根源的分割は二次的痕跡のなかに不在的に内在(現前)しているのであって、現実世界の「彼岸」に超越しているのではない。それは内在的であるがゆえに、効果をもつことができる。
 現前しているものは、二次的派生としてある限り、それ自身ですでに過去的である。われわれが「いまここで」経験しているすべてのことは、純粋に現在的であることはできない。それはそれ以前の何か、根源的原初的な働きによって送り(贈り)届けられたものである。その限りで、現前するものは、すでに現在的ではない。われわれの現在的経験の過去性は二次的トラースであることのしるしである。現在の経験はそれ以前の絶対的に過去的なものを示唆するが、その絶対的または純粋の過去的なものを再現前させる、あるいはよみがえらすことはできない。現前の経験のなかに無数の過去が凝縮しているけれども、そこに凝縮している過去の経験もまた二次的痕跡であって、それのはるかな淵源である(しかしもっとも身近でもある)根源的痕跡(根源分割)は言語的・言説的には接近できない。われわれが絶対的過去〔純粋の過去〕に接近できないからこそ、我々自身がそれの効果であり痕跡なのである。現在と現前は絶対的に純粋過去的なものにつねに「遅れて」いる。
 二次派生態は絶対的過去〔根源分割〕の働きの結果であるから、けっしてこの過去に追いつくことはできない。事物の経験はそのようにできている。それは存在論的宿命である。二次的世界の事物は派生の派生という歴史的時間を凝縮している(過去的経験を含んでいる)が、それらが派生体であるかぎりは、けっして純粋過去としての根源的な「与える」には追いつけない。しかし少なくとも人間のなかには絶対過去性である根源分割そのものを示す働きがある。最も遠くて最も近い根源的で原初的なもの、それが生きて働くことである(lebendige Arbeit)。
 「生きている働き」は、特定の空間と時間のなかに存在していることではなく、そのような時間と空間をこえて、むしろそれらを産出する活動である。人間的労働は生きているかぎりで(単なる物体、たんなる死体のごとき物でないかぎりで)無形の無限のなかに「一本の線を引く」ことである。生きている労働は根源的分割であり、それは二次的・派生的な具体的生産行為とも違っている。生きている労働なしには具体的(特定の用途をもつ)生産活動はありえない。生きていることにアクセントをもつ人間的労働は、過去の死んだ労働の無際限の蓄積(生産素材や生産手段の中に凝縮した過去労働)を、生きて働くそのつどに「一挙に」に蘇生させて、死せる過去労働を生ける労働のなかに組み入れる。無=際限の過去の労働(人類の歴史的経験のすべて)を一挙に生きている労働に吸収するというと、ほとんど神秘的きこえるが、それは現実に起きているのである。根源分割という「与える働き」だけができることを、少なくとも人間のあまたある諸活動のなかで「生きている労働」だけが実行する。なぜなら、人間の生ける労働は、客観化・対象化した時間によって測定される何かではなくて、それ自身が「生きている」時間、純粋の時間であり、根源的分割であるからである。
 厳密にいえば、生きている人間労働は根源分割自体と同じではなく、最もそれに近いとしてもやはり二次的痕跡である。生きている労働は二次派生態のなかで根源からもっとも離れない働きである。(ここでいう労働は生きている努力一般とみなす)。したがって、絶対的過去性としての根源的線引きは言説的に再現前化も接近もできないが、しかし生きている人間労働は人間にとって例外的に根源分割を生きることができる。人間に内在する根源分割としての「生ける労働」は純粋時間であり、純粋に原初的な分割する否定性であるからである。経済学が流布させた通俗的労働観念からひとは解放されなくてはならない。そうでなくてはいつまでたっても人間存在の「隠れた本質」も、その存在する意味も、理解することはできないだろう。

(2004/12/24)