2016年は、創立者中川小十郎生誕150年にあたります。
生誕の地亀岡市では、7~8月にかけて「中川小十郎-馬路村より立命館創立者へ」と題した企画展を実施しました。
この企画展に関連して、2016年9月24日(土)小十郎が育った丹波馬路村(亀岡市馬路町)やゆかりの場所を巡るバスツアーを開催しました。
当日は、亀岡市民の方、中川小十郎顕彰会の方、立命館校友など92名が参加され、天平13(741)年に建立された「丹波国分寺」の史跡、丹波一宮とされた「出雲大神宮」を見学した後、小十郎が幼少期を過ごした亀岡市馬路町(丹波馬路村)に今も残るゆかりの場所を歩いて巡りました。
その様子をお伝えします。
1.丹波国分寺
当日の朝、ツアー一行はバスで亀岡市千歳町にある「丹波国分寺」に向かいました。
丹波国分寺は、聖武天皇が国土安穏や護国豊穣を祈るため、天平13(741)年に建立した寺です。245m四方を築地で囲み、奈良の法起寺式の伽藍配置(東に塔、西に金堂を配す)で建てられました。その後遺構の発掘調査の結果、当時の瓦や塔の礎石、梵鐘の鋳型などが出土しています。現在見られる本堂、山門、鐘楼は安永年間(1772~1781)に再建されたものとのこと。
ツアーの面々は雑草で覆われた広い寺域を抜けて、本堂に向かいます。
当日は曇りで涼しく、途中のあぜ道には曼珠沙華がまっ盛りでした。
国分寺の本堂。2015年のNHK連続テレビ小説「あさが来た」で主人公あさが新次郎に自分の気持ちを打ち明けるシーンのロケ地としても使われています。
ガイドの説明を聞くツアー参加者
2.出雲大神宮
丹波国分寺を見学した一行は、再びバスに乗り「出雲大神宮」に向かいました。
出雲大神宮は、和銅2(709)年創祀と伝えられ、中世の丹波一宮とされた古社です。大国主命とその后神である三穂津姫命を主祭神とし、崇神天皇はじめ多くの摂社、末社が祀られており、本殿背後の「御蔭山」を御神体とする信仰形態を残しています。
バスを降りた一行は大神宮への道を登ります。背景の山が出雲大神宮の御神体である「御蔭山」です。
大神宮の神饌田では、ちょうど抜穂祭神事の最中でした。
出雲大神宮の大鳥居と本殿。本殿は中社で、上社は御神体山「御蔭山」山中にあります。
3.小十郎生誕の地「馬路町」へ
午前中をかけて「丹波国分寺」「出雲大神宮」を回った一行は、バスで馬路町に移動しました。
馬路町は、小十郎が生まれた慶応2(1866)年当時、丹波国桑田郡馬路村と呼ばれていました。馬路村は亀岡盆地の北部に位置し、大堰川左岸の田畑に囲まれた豊かな土地で、江戸時代は旗本の杉浦氏の知行地として陣屋が置かれた大きな集落でした。一方で馬路村は郷士の家が力をもっている村でもあり、こうした郷士が幕末・明治維新期に活躍していきます。
また、馬路村は学問の土壌も培われた土地柄で、小十郎の恩師である田上綽俊(たがみ しゃくしゅん)の致遠館、私塾の典学舎、北村龍象(きたむら りゅうしょう)の塾などが開設されていました。
馬路町でのツアーは、まず自治会館に集合して昼食を取った後、こうした事蹟を徒歩で辿りました。
ツアー参加者は馬路町自治会館に集合
全員で昼食をとり、馬路町自治会長の中澤基行さんからご挨拶をいただきました。
昼食を済ませ、2つのグループに分かれて元気に出発。これからは徒歩で小十郎ゆかりの場所をめぐります。
先頭を行くのは、このグループの引率・講師の中川茂雄さん(左)と人見淳生さん(右)。
4.中川祖霊社と顕彰碑
最初に回ったのは、中川一族を祭る「中川祖霊社」と西園寺の山陰道鎮撫に同道した馬路の人々や中川謙二郎の顕彰碑が置かれた場所です。
画面左の門が「中川祖霊社」。この馬路の地は、先人を祭る風習があり、他の一族も同じように祖霊社を祀っています。
「中川祖霊社」の隣には、奥に「戊辰唱義(清声千古)碑」、手前右に「中川謙二郎先生碑」、手前左に「中川小十郎先生碑」が建立されています。
「戊辰唱義(清声千古)碑」は、慶応4(1868)年の戊辰戦争時に西園寺の山陰道鎮撫に同行した馬路村の人々を讃え、大正11(1922)年に小十郎が中心になって建立したものです。清声千古(せいせいせんこ)とは「清い誉れを永久に伝える」という意味です。
「中川謙二郎先生碑」は小十郎の叔父で山陰道・北陸道鎮撫に同行し、その後東京女子高等師範学校(現 御茶ノ水女子大)の校長などを務めた謙二郎を、郷土出身の教育者として讃え、昭和3(1928)年に小十郎が中心となって建立したものです。
「中川小十郎先生碑」は、平成5(1993)年小十郎の50回忌に学校法人立命館が建立したもので、当時の西村清次理事長、大南正瑛総長の顕彰文が刻んであります。
5.小十郎の生まれた生家(堀ノ内)へ
次に一行が向かったのは、小十郎が生まれた中川禄左衛門(実父)の旧宅です。堀に囲まれていることから、(堀ノ内)と呼ばれていました。既に住まう人はなく、母屋は取り壊されて倉と土塀、長屋門が残るだけになっています。
一行は敷地の入口から入っていく。御子孫の中川陽子さんが管理している。ツアーのために事前に草刈をしていただいていたので広々としている。
生家(堀ノ内)の邸内全景。奥の倉と右手の小屋・長屋門だけが残るが劣化が激しい。
左、長屋門を内側から見る。右、長屋門を外側から見る。
6.養家(四ツ辻)
小十郎の生家(堀ノ内)を後にした一行は、養家(四ツ辻)に向かいました。(四ツ辻)は小十郎6歳の時に養子に入った中川武平太の旧宅です。
小十郎は養父武平太の下で幼少期を過ごし、田上綽俊の致遠館にもここから通っていました。
養家(四ツ辻)の敷地内に入る。住まう人は無いが、母屋は健在。事前に草刈をしていただいたので全景が良く分かる。
木戸を潜って、母屋の玄関に向かう。
7.人見龍之進旧宅(西園寺公望宿泊の家)
続いて、人見龍之進の旧宅に向かいました。人見龍之進は、人見一族を代表して山陰道鎮撫に同行するとともに、総督西園寺の宿泊施設として自らの屋敷を提供しました。西園寺は馬路滞在の3日間ここに投宿しています。現在は住む人も無く雑草で覆われていたのですが、今回のツアーのために草刈をするなどご尽力いただきました。
人見龍之進旧宅。ここを西園寺公望が出入りしたと想像を膨らませる。
人見淳生さん(中央)から人見一族と山陰道鎮撫の関係を解説いただきました。
8.川東学園(旧致遠館)と馬路陣屋跡へ
人見龍之進旧宅を出発した一行は、小十郎が幼少期に学んだ田上綽俊の致遠館跡地へ向かいました。
致遠館の在った場所は、元々江戸時代には馬路一帯を管轄した旗本杉浦氏の代官所(陣屋)が置かれていた場所でした。明治に入って、山陰道鎮撫使の功績により下賜されて、明治5(1872)年、致遠館が建てられます。
小十郎はここで学問の大切さ面白さを学びました。
その後この場所は、昭和37(1962)年に周辺の小学校4校が合併して「川東小学校」となり、平成27年からは小中一貫校の「亀岡川東学園」となっています。
亀岡川東学園の正門。敷地は広く通りに面して校地の塀が続いていた。
川東学園沿いの道を少し行くと、「馬路陣屋跡」(杉浦氏の代官所跡地)の碑が立っている。
川東学園を含めてこのあたりが馬路一帯を管轄する陣屋だった。
9.典学舎碑から北村龍象碑を巡って馬路町自治会館へ
致遠館跡地の亀岡川東学園・馬路陣屋跡を見学した一行は、最後に幕末に開設された私塾「典学舎」跡地、「典学舎」の後を継いで「馬路の塾」を開いた教育者の北村龍象の碑を訪ねて馬路自治会館に戻りました。
民家の入口に建てられた「典学舎跡」の碑。幕末の頃、桑田郡で開かれた私塾としては最古のもの(嘉永年間 1848~1854 に開塾)です。小十郎の父親世代が学んだ塾で、叔父謙二郎も塾生の一人。塾長であった中條侍郎の娘梅野は後の三輪田眞佐子(明治・大正の女子教育家。三輪田学園の創設者)で、日本女子大学校(現 日本女子大学)の設立にも関わり、中川謙二郎の招聘によって東京女子高等師範学校(現お茶ノ水女子大学)の講師を務めています。
北村龍象は明治・大正期の教育者。幕臣の子息として京都に生まれ、戊辰戦争に従軍の後、馬路に居を移しました。「典学舎」の後を継ぎ4年間塾を運営しています。その後も馬路村に住い、「馬路学校」と呼ばれる塾を開くなどして亀岡地域周辺の青年教育に尽力しています。
10.最後に
亀岡・馬路町の地域は、肥沃な土地を持ち都に近く交通の要衝であったことから、古くから生産・流通などの地域経済がさかんで、教育・文化も発達しました。人々は経済力と教養を身につけ、郷士として地域を担ない、維新の激動期に積極的に関与していったのです。
今回のフィールドワークで史跡を巡ってみると、立命館創立者中川小十郎は、馬路の人々とともに学び育ったからこそ、世に出てきたのだなあと改めて納得しました。
最後に今回のツアーの概略図を掲載しておきます。
2016年10月 史資料センターオフィス
奈良 英久
<亀岡地域の概念図>
<馬路町内のツアー順路>