はじめに
1935(昭和10)年、池田繁太郎は立命館最初の理事長に就任した。
1900(明治33)年に私立京都法政学校創立、1913(大正2)年に財団法人立命館を設立し、学校の名称も私立立命館大学、私立立命館中学となって以来(以下、「私立」を略す)、初めての理事長であった。
中川小十郎総長が寄附行為を改正し後継者として理事長に選任した池田繁太郎。
その池田理事長は、創立35周年の諸事業を行うなか、その記念祝賀式を目前にして、就任後わずか3ヵ月で病により帰らぬ人となった。
その池田繁太郎はどんな人物であったのか。どのような足跡を残したのだろうか。
池田繁太郎
1.生い立ちから立命館卒業、弁護士に
(1)生い立ち
池田繁太郎は、1885(明治18)年11月18日(注1)、島根県の山村、簸川郡乙立村(現・出雲市乙立町)の今岡臺八の四男として生まれた。1895(明治28)年3月に乙立尋常小学校を卒業し、叔母の婚家である出西村(現・出雲市斐川町)の池田幸太郎の養子となり、池田の姓を継いだ。続いて直江高等小学校、郡立簸川中学校に進んだが、県立に移管され改称した第三中学校(現在の大社高等学校)の4年級を1901(明治34)年6月に修了し、数え年17歳にして青雲の志を抱いて上洛した。
(2)京都法政学校入学、京都法政大学卒業、弁護士試験合格
上洛した池田は1902(明治35)年9月9日に京都法政学校法律科に入学した。
京都法政学校は翌年京都法政専門学校と改称、更に1904(明治37)年9月、京都法政大学となった。同期には繁田保吉、畝川鎮夫らがいた。池田は大変に優秀な成績であったようで、憲法学の大家であった京都帝国大学教授井上密は、池田が1年の時憲法の試験の答案を京都帝大の学生に示し激賞したという。同じく京都帝大から講師として来ていた勝本勘三郎もまた、京都帝大に池田ほどの学生がいたらと褒め称えたという。
3年次には京都法政大学の学術情報誌『法政時論』に論説「物権の優先権とは何ぞや」を掲載し、また雄弁会の第2回演説会で「留置権の効果」について演説している。
繁田によれば卒業試験は池田が首席で、卒業式では優等受賞者となった。
池田は京都法政学校から数えると第3回の、京都法政大学としては第1期の卒業生となった。1905(明治38)年7月のことである。
池田の在学当時の学費は、2年次が月額2円、3年次が2円50銭であった。在学中には弁護士事務所で働いたこともあった。
卒業した秋11月、弁護士試験を受け、全国で14名しか合格しないなか、しかも未成年で見事合格したのであった(注2)。未成年者は弁護士を開業できなかったので、成年に達したのちの1906(明治39)年4月に弁護士を開業した。
(注1) 11月9日とする資料もあるが、本稿では「学籍簿」および「履歴書」によった。
(注2) 当時は文官高等試験・判事検事試験・弁護士試験が最難関試験で、『立命館学報』第1号(大正
3年2月発行)によると大正2年7月までの卒業生535名のうち3試験に合格した者は12名であ
った。明治37年に貫名弥太郎(第1回卒業生)が文官高等試験に、明治38年に池田繁太郎が弁護
士試験に、古賀才次郎(第2回卒業生)が判事検事試験に合格したのが最も早い事例である。
合格者数は「官報第6722号」(明治38年11月25日)による。池田は弁護士試験のため上京し
た時、古賀の下宿に滞在している。
2.校友会活動と中川小十郎市長就任要請
池田繁太郎は弁護士業の傍ら、立命館の校友として様々な活動をした。
1913(大正2)年12月、中川小十郎は財団法人立命館を設立、校名も立命館大学、立命館中学と改称した。
池田はその法人設定祝賀校友大会、京都校友大会に出席したのを初め、中川館長への記念品贈呈式に出席し、橋井孝三郎・奥村安太郎・浅原静次郎・政岡亨の各氏とともに校友有志総代として記念品贈呈をした。
1915(大正4)11月30日には秋季校友大会に参加、校友会協議員となった。法人の基本財産募集の事業では協議員として名を連ねた。
1916(大正5)年3月開設の校友倶楽部では役員・評議員に就任し、校友倶楽部は同年5月に総会を開催している。
同年7月、井上密が病気のため京都市長を辞職した。井上は京都市長就任前は京都帝国大学教授で、立命館の教頭でもあった。9月、京都市会は台湾にあって台湾銀行副頭取であった中川小十郎を京都市長候補に選出した。9月23日、京都校友倶楽部の校友大会は中川の市長就任歓迎決議をあげ、京都市議であった橋井孝三郎(第2回卒業生)と池田繁太郎が代表で台湾に行き市長就任を要請した。しかし中川は台湾銀行の職のため固辞し、中川の京都市長就任は実現しなかった。
1917(大正6)年に入ると、京都法政学校創立以降学園の運営に力を尽くし前年に亡くなった井上密法学博士記念事業の発起人になった。
その年7月には円山公園左阿彌で全国校友大会を開催、続いて8月にも臨時大阪校友大会を開催した。
このように池田は初期の校友会活動に力を尽くした。
3.大学昇格運動と理事就任
(3)大学昇格運動
1918(大正7)年12月、大学令が公布され、早稲田・慶應・同志社などがこの新しい大学令のもとでいち早く「大学」となった。
立命館大学は旧専門学校令に基づく「大学」であったが、立命館の首脳部の中川・織田萬・佐々木惣一らは大学昇格に否定的・批判的であった。それは立命館の創立以降の教学が実質的に京都帝国大学の教授陣により行われてきていたことともかかわっていた。首脳部は教育の自由、学問の独立を主張し、国の関与を避け教育内容の充実を図ることを考えていた。
否定的な学園首脳部に対し、大学への昇格を積極的に取り組んだのが校友会であった。
京都校友会は、1919(大正8)年1月11日に大学令問題の調査及び校友総会準備のための京都校友大会を開催し、大学昇格問題に着手した。調査及び校友総会準備委員として奥村安太郎・永澤信之助・池田繁太郎・浅原静次郎の4氏が就任した。大阪校友会もこれに続いて臨時校友大会で織田萬、末弘威麿理事あてに大学問題に関する建議書を提出した。
11月22日には創立20周年記念祝賀式が開催され、翌日には記念校友大会を開催し、校友会規則も定められ校友会の組織化が進んだ。
1920(大正9)年4月には大学側と校友有志池田繁太郎・永澤信之助・畝川鎮夫・浅原静次郎らによる昇格問題についての懇談会が開催された。5月23日には中川館長出席のもとで校友総会が開催され、校友も大学の経営の協議に参加していくことや大学昇格を進めることが決議された。7月11日に全国校友大会が開催され、池田は母校の大学昇格問題について概説し、昇格基金の募金活動に積極的に取り組んだ。昇格には供託金50万円の資金が必要だったのである。
9月には校友会常任委員であった池田らが末弘威麿理事を訪問し打ち合わせ、昇格問題について準備書面の作成に入り、17日に大学令による大学設立を文部大臣に申請した。
こうして、大学昇格問題に積極的でなかった中川館長を動かし、池田ら校友の熱心な昇格運動の結果、1922(大正11)年6月5日に認可を受け、立命館大学はそれまでの専門学校令による「大学」から大学令による大学に昇格したのである。
この年、大学の卒業生は創立以来932名、在学生は専門部1,155名、予科679名、中学の卒業生1,087名、生徒数700名となっていた。
(2)財団法人立命館理事に
そして財団法人立命館の協議員会が開催され寄附行為の変更を申請し、8月12日に認可された。その内容は、理事・監事・協議員の定員を増員し、校友から選任する道が開かれたのである。この結果、新たな理事に校友の池田繁太郎および京都帝国大学の山田正三教授、協議員に浅原静次郎ら校友13名が入り、11月に畝川鎮夫が監事となった。
大学令による大学への昇格と寄附行為の改正による新たな学園の運営体制によって、「立命館大学」は国家の実務に有用な人材を養成することを目的とする大学となったのである。
1925(大正14)年には中川が台湾銀行を辞任し、館長職に専念することとなった。
1927(昭和2)年には理事の一人末弘威麿が死去した。
大学令による立命館大学で最初の専任教授となった法学部の板木郁郎(1899~1991年)も乙立の出身で池田の知遇を得た。板木は1927(昭和2)年、野球部長として台湾遠征を行うが、池田理事は初の海外遠征をする野球部の歓送をした。池田は板木と同郷ということもあってこの頃しばしば野球部の応援に足を運んだという。
1931(昭和6)年の職制改正により中川小十郎は館長から総長となった。
池田は、1933(昭和8)年8月には立命館中学校・商業学校設立者、立命館理事として、中学校・商業学校の校長を塩崎達人、中西弘成から両校とも中川小十郎にする届・願を文部大臣あてに申請し、教学体制の変更を実施している。
4.法律家・弁護士と社会的活動
ここで池田繁太郎の法律家・弁護士としての活動をみておきたい。
池田は、前述のように1906(明治39)年4月、満20歳にして弁護士を開業した。
そのわずか2年後の1908(明治41)年6月に『判例挿入自治法規全集』(帝国地方行政学会)、同7月には『行政裁判所判例要旨類集』(同)を発行している。22歳の若さであった。
1907(明治40)年には「法政時報」、1911(明治44)年からは「法政」という新聞の発行もした。
『京都新人物百短評』(萬朝社 1912年)は、池田を京都弁護士中の最年少者で、弁護士試験の記録を破り試験官をアッと言わせたとし、民法学者としては既に一家の説を有しており、28歳にして前途は多事である、と評している。
そして1924(大正13)年に『実用帝国六法全書』(内外出版)、1926(大正15)年には『新旧対照民事訴訟法』(巌松堂書店)を発行した。
池田繁太郎著作
法律家としての活動は多岐にわたっている。そのなかのいくつかをあげると、
1914(大正3)年6月 京都取引所取引員組合顧問就任
1919(大正8)年6月 無料法律相談所開設
1920(大正9)年4月 同相談所を京都市無料法律相談所とし嘱託就任
1923(大正12)年6月 京都弁護士会会長就任
同 日本積善銀行整理委員・破産管財人
1924(大正13)年8月 内外出版株式会社監査役
1927(昭和2)年11月 京都市中央卸売市場顧問就任
のほか、京都美術倶楽部、十五銀行、名古屋銀行、宮川町貸座敷組合の各顧問に就任している。また1931(昭和6)年には調停委員にも就任した。
京都弁護士会会長の際には、副会長中江源、北川敏夫など会員61名にて、1924(大正13)年1月26日に皇太子殿下(のちの昭和天皇)御結婚祝賀の臨時総会を開き、萬養軒にて祝賀会を開催している。
また京都弁護士会会則の制定に関わった。
5.初代理事長
1933(昭和8)年、立命館は京大事件によって京都帝国大学を辞職した教授・助教授を専任教員として受け入れた。佐々木惣一、末川博ら十数名である。受け入れ後数人が京都帝国大学に復帰するという事態も起きたが、受け入れによって立命館の教育体制も格段に充実し、大学の名にふさわしい大学となったといえよう。
佐々木は翌年3月に学長に就任したが、1935年には美濃部達吉の天皇機関説が貴族院で攻撃され、国体明徴運動が展開された。こうした状況の中で中川総長と意見を異にする佐々木学長は学外に去り、代わって織田萬が学長事務取扱となった。
1935(昭和10)年3月及び5月に立命館は寄附行為の変更を申請し、6月17日に認可された。改正の内容は、理事・監事・協議員の人数を増やしたこと、理事長・常務理事を新設したことである。
この改正は中川が古稀を迎え、また創立三十五周年という節目を迎えて自らの財団の組織強化を図るためであった。そして学園の経営と教学に関する責任を分離し理事会が経営責任を、教授会が教学責任を負う体制を構築したのである。
理事長には、これまで理事を務め学園の運営に参画してきた池田繁太郎が就任した。
「本館理事池田繁太郎氏ハ今回本館寄附行為第八条ニ依リ理事ノ互選ニテ本館理事長ニ選任セラレ七月二十日就任ヲ承諾セラル」
(『立命館学誌』第183号 昭和10年9月)(注3)
中川は、池田を理事長に選任したのは「私(中川)ガ愈々落城スル暁ニ於テハ池田理事ヲシテ理事長トナッテ他ノ理事ノ上ニ立チ経営ノ重キニ任セシメン」ためであったと語っている(『立命館学誌』185号「学園葬での弔辞」)。
しかし、既に1月から病にあった池田は、学園の経営の最高責任者に任命され、立命館の将来を託されたにも関わらず、10月27日、鳴滝の自宅にて帰らぬ人となった。51歳であった。中川は、三千名が参列するなか立命館学園葬をもって池田を送った。
立命館は前年10月に田島錦治学長を、池田の亡くなる前月には初代校長・学長であった富井政章を亡くし、これまで中川とともに学園を創ってきた要人を次々と失った。
中川はその後1944(昭和19)年10月に亡くなるが、その12月石原廣一郎が理事長に就任するまで寄附行為に置かれた理事長職は9年間空席のままであった。
(注3) 池田の理事長就任については、9月とする資料もあるが、本稿では『立命館学誌』183号の記事
により、7月20日就任とした。池田の理事長在任前後の昭和8年2月から昭和10年12月の間の
理事会・評議員会資料が残されていないためその間の経緯の詳細については確認できない。
おわりに―池田君紀念碑
池田繁太郎の生地である島根県出雲市乙立町上田代には「池田君紀念碑」が建立されている。
氏は母校の乙立小学校に奨学金制度(池田賞)を創設し教育の振興に務めたこと、立久恵浮嵐橋の新設工事の費用を負担したこと、地域の永年の水利権争いを解決したことなど、郷里乙立の発展にも大きな貢献をした。こうした郷里への貢献や業績により、池田の生家跡である上田代集会所の地に上田代の人々によって顕彰碑が建てられた。
1942(昭和17)年8月のことであった。碑の裏面には立命館の理事長であったことが刻まれている。
池田君紀念碑
【参考文献】
『立命館学誌』各号、特に第185号「池田繁太郎先生哀悼号」(1935年11月)
『立命館創立五十年史』 1953年
『立命館百年史』通史一 1999年
『故池田繁太郎君追慕録』 故池田繁太郎君追悼会編 1936年
『ふるさと物語』所収「池田繁太郎氏伝」 今岡美友編 出雲市乙立公民館 1982年
『京都弁護士会史 明治大正昭和戦前編』 京都弁護士会 1984年
2017年1月11日 立命館史資料センター 調査研究員 久保田謙次