亀岡市文化資料館では、「山陰道鎮撫」から150年を迎える今年、2018年2月3日~3月11日まで「山陰道鎮撫隊-丹波の郷士と幕末維新-」企画展を開催しました。
展示には、立命館史資料センター所蔵資料とともに、立命館学宝となっている「山陰道鎮撫使絵巻」を公開。期間中の2月17日、2月24日には、立命館大学文学部の教員と史資料センター調査研究員が講演いたしました。
亀岡市文化資料館第63回企画展「山陰道鎮撫隊-丹波の郷士と幕末維新-」
今から150年前の慶応4(1868)年、西園寺公望は新政府軍側に立って山陰道の諸藩を従わせるために山陰道鎮撫を実施します。
京都を発った西園寺は、丹波馬路村(亀岡市馬路町)に逗留し、地元の郷士たちを配下に加えますが、その中に立命館創立者中川小十郎の父祖も加わっていました。
このことが、後に中川小十郎と西園寺公望を結ぶ縁となり、「立命館」誕生につながります。
亀岡市文化資料館では、山陰道鎮撫を中心にしながら、水戸藩主一橋慶喜(後の15代徳川慶喜)と郷士たちの関わり、丹波弓箭組と山国隊の関係、現在も続く「時代祭行列」での弓箭組の姿、未刊となった『山陰道鎮撫日記』に基づいた実地調査の結果などを展示しました。
丹波郷士たちは、最初一橋慶喜と関係を作る。その後「新撰組」に拷問をうける。
現代の「時代祭」で使用されている「弓箭組」幟。「山陰道鎮撫使絵巻」(立命館学宝)。
山陰道鎮撫行程を歩いて調査した展示と未刊となった『山陰道鎮撫日記』の実物
<2月17日(土)講演「幕末政局のなかの丹波の郷士-一橋慶喜との関係を中心に-」> 立命館大学文学部 助教 奈良勝司
展示期間中の2月17日午後2時、亀岡市文化資料館3階研修室で講演会を開催しました。
当日は地元の郷士に纏わるお話からか、70名の熱心な参加者で研修会室は超満員でした。
講演は、「幕末政局のなかの丹波の郷士-一橋慶喜との関係を中心に-」と題して、山陰道鎮撫に同道する以前の丹波郷士たちの動きを、史料に基づき解説されました。
将軍になる前の一橋慶喜が、手兵を確保するために郷士に呼びかけ、武人として強い由緒意識を持つ郷士も喜んでこれに応えていたこと。このことが幕府中央の政争に巻き込まれる要因となり、間もなく慶喜からも見放され幕府からも目をつけられ、京都で新撰組の拷問までうける羽目になったこと。
国事に参与したいという由緒意識と政権中央の情報に疎く翻弄されてしまったというこの時の経験が、後に新政府の山陰道鎮撫への積極的な従軍や学問を重視する気風を醸成していったのだろうと説明されました。
<2月24日(土)講演「歩いて訪ねる山陰道鎮撫の道」> 立命館 史資料センター調査研究員 久保田謙次
2月24日(土)午後2時から、58名の参加を得て「歩いて訪ねる山陰道鎮撫の道」の講演を開催しました。
この講演は、立命館 史資料センターに所蔵されている『西園寺公望公山陰鎮撫日記』(昭和15年に中川小十郎の命により立命館大学予科石崎達二教授が執筆し第三校まで完成していたが、遂に出版されなかった)に記載された鎮撫行程を、史資料センター調査研究員の久保田謙次さんが2015年9月20日~2016年12月9日の期間で踏破した調査報告でした。
行程では、西園寺公望が投宿した本陣が今も現存していたり、公のエピソードが残っていたり、碑にその足跡が記録されていたりしており、山陰道鎮撫行程83日間を豊富な写真と解説で報告されました。
あまりに豊富なエピソードであったため後半は駆け足の報告でしたが、久保田さんが踏破した行程は改めて史資料センターホームページに掲載する予定です。
2018年3月14日
史資料センターオフィス 奈良英久