2018年関西学生連盟春季リーグ戦の開幕
今年も関西学生野球連盟・春季リーグ戦が始まっています。例年、各大学の新入生も参加し母校の野球部を応援するのも春季リーグらしい風物詩です。今季リーグ、立命館大学硬式野球部(以下、野球部)は京都大学戦、関西大学戦に勝ち点をあげ首位を保っています。(2018年4月30日現在) 現在の野球部は関西の雄としてその存在感は充分ですが、その昔、創部が後発の弱小チームは京都大学、同志社大学、関西大学など強豪チームからも相手にされなかった苦しい時代がありました。この話は、そんな苦しい草創期の面白いエピソードです。
パンフレット『平成30年度春季リーグ戦』関西学生野球連盟
(立命館 史資料センター所蔵)
1923(大正12)年に野球部は誕生した。
関西学生野球連盟加盟の各校の創部は、同志社大は1889(明治22年)、京都大学は1898(明治31)年に、そして関西学院大学は1899(明治32)年、関西大学野球部は1915(大正4)年、近畿大学は1949(昭和24)年に創部されています。(パンフ『平成30年度春季リーグ戦』関西学生野球連盟)
立命館大学野球部は、今から95年前の1923(大正12)年に創部されていますが、他の4校(同志社大、京都大、関西学院大、関西大)と比較すると随分と後発の創部でした。
創部当時の野球部は、「野球は9人でやるものなのに試合となると人がいないから各部から応援選手になってもらった有様だった。野球部のメンバーには今日は陸上、明日は野球とかけもちで活躍していた。試合にしても大学はむろん中学なんかも相手にしてくれない。実業団もこちらから頼みに行かないと相手にしてもらえない。施設もグランドなんて名のつくもののあるはずがなく、練習は公共の岡崎グランド(現在 京都市岡崎野球場)を使用するのだが、9人集まって練習したことがない」(『立命館学誌169号』)という有様でした。
野球部は、井村信正、小山恭二、長村甚一など野球好きが10人集まって部を創設しました。創部時の部長と部員は次の人たちです。
部長 高畑彦次郎(注1)、主将 井村信正、マネジャー兼選手 小山恭二、選手 長村甚一、山田徳太郎、冨部亮ニ、大平武雄、原富士夫、田村和男、宮川(注2)、大坪(注3)このメンバーは6人でも7人でも集まると必ず練習をして、「いつかは大成するという志をもってやっていた。この時の先輩の心を思うと涙ぐましい」(『立命館学誌90号』)と後輩は語っています。
創部3年目、野球部はフィラデルフィア・ボビーズ(米国女子プロ野球団)と試合をした。
草創期、京都の学生野球界は、京都大学、同志社大学、第三高等学校などが強くはばをきかせていて、本学野球部など相手にしてくれないものだからA大学、B大学、C専門学校などとの交流試合をおこなっていました。3年目には部員も確保でき初めて合宿をやっています。合宿といってもグランドはないので、「東海道の草津」(現在の滋賀県草津市)の空き地で各自米と夜具を持参して一軒家を借り自炊生活の合宿でした。部長の高畑彦次郎先生は「京都から肉を買って暑い夏の日に草津まで差し入れに行った」というほど熱心でした。(『立命館学誌169号』)
先生も創部3年目でようやく歩き始めた野球部が愛しかったのかもしれない。
この頃(1925〈大正14〉年)になると部員数も20数名となり、一応チームとして整ったことから、京都・大学専門学校野球連盟に加盟し、初のリーグ戦(公式戦)に参加しました。
写真:岡崎球場(現在の岡崎公園野球場)立命館 史資料センター所蔵
この創部3年目の野球部は、米国からきた女子プロ野球団と岡崎球場(京都岡崎公園野球場)で試合をおこないました。その米国女子プロ野球団のチーム名はフィラデルフィア・ボビーズ(以下、ボビーズ)といいました。
ボビーズは、1921(大正10)年に創部されたといわれていますが、詳しいことはわかっていません。ボビーズは13才から20才までの女子選手で編成されたチームで13名、他に元メジャーリーグ選手のエディ・エイムスミスとアール・ハミルトンも参加した15名から編成された女子プロ野球団であったようです。エディ・エイムスミスとハミルトンはボビーズが試合をやってみて弱いようだったら、助っ人として出場し試合を盛り上げたようです。ボビーズは1925(大正14)年10月19日に来日し東京、大阪、京都、神戸と遠征して、11月6日に京都入りします。京都入りしたボビーズは11月8日にまだ創部して3年目の立命館大学野球部(現在の立命館大学硬式野球部)と試合をおこないました。
当時の野球専門雑誌『野球界』(注4)では、ボビーズのメンバーが次のように紹介されています。
エル・カーンス 左利き投手。身長6フィート1インチ 、無邪気な少女である。
エン・シャーク 1塁手。チームの花形、ダンスの名手との評判が高い。
キ・ルース 投手。日本人タイプの美人、ダンスを好む。
エル・シャスター 左翼手。ダンスと音楽がご飯よりも好きと云う評判。
エス・イーキン 捕手。強肩の持ち主である。
エン・ガーンス 右翼手。フィラデルフィアの資産家の娘。
エム・オガラー 中堅手。チームの最年長者。
エス・ゴンリン 捕手。活動写真が好き。
ジェー・フリップス 捕手。将来を期待されている。
エー・ノーラン 2塁手。活発な少女
エー・コーラス 投手。スローカーブを得意とするという評判である。
イー・ホートン 遊撃手。金髪の美少女で、1軍のスタープレイヤーである。
エフ・ガーネット 3塁手。金髪の美人で打撃に自信があるとの評判である。
(『野球界』第15巻50号 米国女子野球団評判記 森泰城 )
一方、野球部は、京都・大学専門学校野球連盟(注5)に加入して、初めて公式戦を戦うというほどの発達途上にあるチームでした。この点では同じ草創期にあったボビーズとよく似ていたのかもしれない。
写真:ボビーズと対戦した当時の野球部部員(大正14年)立命館 史資料センター所蔵
ボビーズと対戦した主な野球部のメンバーは、次の通りです。
1番 松蔭暁 8 センター
2番 北川久仁 7 レフト
3番 長村甚一 6 ショート
4番 太田□□(注6)2 キャッチャー
5番 佐藤清 1 ピッチャー
6番 田村和男 5 サード
7番 小原映太郎 3 ファースト
8番 江崎覺 4 セカンド
9番 安藤重三郎 9 ライト
試合は、立命館の先攻で始まり、ハミルトンとエイムスミスのバッテリーから1回に2点、3回に1点、4回1点、5回には太田の3塁打で2点、最終7回(7回コールド)に2点を入れました。
一方、ボビーズは、1回裏にエイムスミスの3塁打で3点を先取し、6回にも安打と4球とで2点を加点し、7回には4球とエイムミスのホームランで2点を追加し、合計7点と追い上げましたが8A対7にて立命館が勝ちました。
1 2 3 4 5 6 7 計
立命館 2 0 1 1 2 0 2 8A(注7)
ボビーズ 3 0 0 0 0 2 2 7
当時の試合の様子がこのように報告されています。
「1925(大正14)年11月8日 岡崎公園運動場に於いて米国女子職業野球団ボビーズと対戦した。敵は米国でも名高いハミルトンとエイムスミスがバッテリーを組み、我が立命館の打撃を封じるつもりであったらしいが、我が選手はよく善戦し遂に8A対7を以てボビーズを破ることができた。」(『立命館学誌』90号)
このエピソードは「創部3年目、ようやく量的に一応整ったチームとなり京都・大学専門学校連盟に加盟し始めて公式戦に参加した栄誉ある年に、米国女子プロ球団と試合をしていることは、(93年前で)時代のちがいとはいえ面白い(楽しい)ことである。」(『体育会の歩み 第1集』1960年11月発行)と語っています。
1990年代以降、女子スポーツの活性化にも力を入れてきた立命館学園でも女子野球部や女子選手の活躍する姿が見れるかも知れません。
2018年5月9日 立命館 史資料センター 調査研究員 齋藤 重
<注釈>
注1 本学教授であり、硬式野球部創部時に初代部長となり硬式野球部を支援します。教授は、大正14年10月30日には立命館高等予備校の主事、その後高等予備校の校長なるなど学園の教育に尽力します。
注2 現在調査中ですが、同じ姓の方が複数おられたため特定できません。
注3 現在調査中ですが、同じ姓の方が複数おられたため特定できません。
注4 雑誌『野球界』は、1908年から1959年までの間に、日本で発行していた月刊野球専門雑誌である。
注5 『立命館学誌』No108号
注6 史資料センター所蔵の卒業生名簿から可能な限り該当者を推定しましたが、太田氏については該当する同姓名者が複数のため、特定できませんでした。
注7 試合は7回コールドゲームとしています。その理由はっきりしていません。
<参考>
1.パンフ『平成30年春季リーグ戦』関西学生野球連盟(2018年度)
2.『立命館学誌』90号
3.『立命館学誌』169号
4.『野球界』第15巻50号-米国女子野球団評判記-森泰城 野球界社 1925(大正14年)12月1日発行
5.「日の出新聞」1925(大正14)年10月21日、同年 14年11月7日、同年11月8日、同年11月9日
6.『体育会の歩み』(1号)1960年11月発行
7.『日米野球裏面史』佐山和夫著
8.立命館大学硬式野球部HP 硬式野球部の歴史
9.『立命館百年史 通史三』