1.新学制による中学校・高等学校の誕生
1948(昭和23)年4月、連合国軍総司令部(GHQ)の意向のもとに公立中等教育の改革が断行され新制高等学校が誕生しました。立命館の付属校でも、1947(昭和22)年の新制の立命館中学校・立命館神山中学校に引続いて、1948年には立命館高等学校・立命館神山高等学校・立命館夜間高等学校が誕生しました。5年制であった旧制中学校は、1948年3月で廃校となったため、1、2年生はそのまま新制立命館中学校の2,3年生に移行しました。3年生は新制高校1年生に入学しましたが、4年生(昭和19年入学の旧制中学校商業学校1年生)(写真1)だけには三つの選択肢がありました。そのまま旧制中学校を修了して卒業するか、旧制立命館大学の予科へ進学するか、または新制高等学校2年に編入するかという道でした。この高校2年生が戦後初の高校修学旅行に参加することになるのでした。
写真1 戦後初の高校修学旅行に参加した昭和19年入学の1年生たち
(立命館商業学校射撃部で主に最前列が1年生)
2.修学旅行実現への厳しい背景
修学旅行は、戦前から各学校でさまざまな形態で実施されていましたが、戦後の社会事情は厳しく、家庭の経済状況だけではなく、十分に復旧していない交通事情や食糧事情などからしても、修学旅行復活に対する理解には厳しいものがありました。旧制中学校廃校の前年の1947年、立命館第一中学校の平口正雄校長は学校新聞「立命館タイムス」のインタビューに「修学旅行は楽しく、いい思い出を残す意味で行いたいが、社会情勢を見るとき、平口は絶対反対です」と答えています(注1)。
当時の教育事情として、教育委員会は全国的に修学旅行復活に否定的でした。1947年11月、大阪府では教育部長(現在の教育委員会委員長)が「時節柄、父兄の立場や国の経済事情を考慮して、なるべく修学旅行を控えられるよう、万やむを得ない場合は精精一泊程度の旅行にされたい。」という修学旅行自粛通牒を出しています(注2)。その前年の1946(昭和21)年5月に皇居前食糧メーデーが起きたことや、国鉄(現JR)運賃の値上げ(注3)などからみても、戦後の経済事情は厳しいものがあり、立命館高校の授業料とを比較しても家計への圧迫は深刻でした(参考資料)。
平口校長が立命館タイムスの生徒記者へ語ったように、保護者への負担を極力抑えたいという学校側の思いは理解できます。
3.修学旅行の実現
当時の国民の生活実態からして、修学旅行の自粛はやむを得ない判断だったのでしょう。それでも修学旅行の受け入れ態勢は少しずつ改善されていったようで、1949(昭和24)年10月26日には、立命館中学校高等学校で共に3泊4日の日程で戦後初の修学旅行を実現したのでした。
1)立命館高等学校 (10月26日~29日で東京方面)
立命館高等学校では、1期生の3年生が教諭5名に引率されて参加しました。希望者を募っての参加者は143名(この学年240名)。費用1,800円で小遣い1,000円でした。(注4)高校3年担任であった上田勝彦教諭は、当時のことを次のように述べています。
「永年の教師生活のなかで教師としての生き甲斐を感じるのは生徒諸君との心の触れ合いができた時である。昭和24年度は卒業学年のクラス担任となり、秋には現在では中学生並みの東京への修学旅行を行ったが、勝手知った東京の案内役を務めたりした。」(注5)
東京・鎌倉方面への3泊4日の旅で宿舎泊は1泊のみ。他は車中泊で、それも団体扱いもなく、一般車両の客席(寝台ではなく)に座ったままという大変な旅行でした。(写真2)
この時の要項(修学旅行の行程と注意書き)が保存されていますが、B5版に印刷されたプリント1枚のみで、その内容はコース略図と「行程」、そして簡単な「生徒への注意事項」のみでした。(写真3)(注6)
1.時刻厳守 2.気分明朗 3.元気旺盛 4.行動敏速
5.身辺注意 6.健康第一
写真3 初の高校修学旅行要項
行程 【 】内は立命館タイムスの記事との合成
10月26日13:10 京都駅発
17:28 名古屋着【戦災都市の夜景を見て約3時間散策】
22:20 名古屋発準急(20:30 駅前集合)
27日 4:00 小田原着
4:37 小田原発
5:25 藤沢着 (江ノ島、鎌倉見学)
14:00 鎌倉発
15:00 東京着
16:00 (宿舎着)【旧徳川邸ホテル】
【17:00~22:00まで自由行動】
28日 【朝からバス4台で都内観光~赤坂離宮~明治神宮~外苑球場
~国会議事堂~上野~日比谷公園】
【観光後は自由行動】
28日23:50 東京発(22:00 駅前集合)
29日14:22 京都帰着
写真4 自由行動で上野動物園へ(個人所有)
この修学旅行出発の2週間前に上田勝彦教諭は、生徒を集めた場で旅行の目的を次のように詳しく説明しています。(注7)原文は、詳細に注意事項が書かれていて、安心で事故のない旅行実現のための細心の配慮がなされていました。
「修学旅行に就いて」(一部抜粋)
一、目的を自覚せよ
物見遊山のための記念行事ではなく、楽しく新しい刺激を求めたり、感覚的な欲求
を充足させるための行事でもない。心志を労し見聞を広め、識見を養うためのものである。(中略)高価な代償を支払う教育活動であって、単なるリクリエーション・ 休暇行事・休息ではないのだ。
(中略)今一つの目的は社会性の涵養である。集団生活の経験をさせ、民主社会の構成員としての自覚を喚起する。真のホームルームの目的達成の一助として、生徒対教師・交友間・クラスメート全員間の情愛等人間関係の真実を会得することである。
二、重要な心掛け
1.困難な現状の把握とそれに対する心掛け。
a.浮いた調子でぼやぼやして居れぬ世相と重大な責務。
b.楽で快適な旅行は不可能な状況~汽車の座席・旅館の待遇・窮屈な乗物~我慢と忍
耐
2.父兄の負担と将来の出費の見通しに立って。
a.父兄に無理な出費をさせぬこと。参加だけで一般的には無理があること。
b.将来、アルバム代・学費・入学に関する厖大な費用の必要なことを考慮して。
3.常に堂々たるプライドを以て行動すること。
a.旅は赤裸々な人間の表裏を暴露~学生らしい品位を。
b.「旅の恥はかきすて」は没道義的・没人間的個人主義であって奴隷制・封建制時代の旅の一面である。
c.服装は制帽・端正な衣服で、飲酒・喫煙は禁止。
4.健康に留意し、危険防止に注意を。
a.睡眠・汗の処理・食物・風邪注意
b.危険な処に立ち寄らぬこと。夜の行動に於いて街のあんちゃん・客引きにひっかからぬこと。雑踏の中には掏摸が多いこと。
三、参加者の資格 全員参加の必要なし、無資格者は参加を許可しない
1.目的をしっかり自覚している者。
2.肉体的精神的条件が有意義な旅行を可能とする者。
3.学校や引率者の命令・指示に的確に従う者~服装その他
4.家庭の状況、特に家計が修学旅行を可能とする者。
5.学費完納者~未納者は家計に無理を及ぼし家計上悪影響があり、生徒保護者共に学校に対し徳義に反することになる。
学校行事でありながら、事前から計画的に費用の積み立てを行っていなかったことで、急な決定であったことが想像されます。そのために、家庭への負担の大きさを配慮して、学費の未納者には参加を認めず、希望者だけの修学旅行となりました。当時の旅行では、外食用の外食券が必要だったが、今回の生徒が食べる米は各自持参とされ(注8)、参加費に加え服装などにも規定があったので、それらを工面することは保護者にとって重い
負担でした。学校も生徒には保護者へ過重な負担をかけないようにと呼びかけていました。そのために参加者は6割に至らなかったのでした。(注9)
この修学旅行の目的には、単なる観光見物ではなく、首都東京や名古屋のような戦災都市の復興の姿を直に見ることにありました。そして、これからの日本の復興と発展を担う若者に育ってほしいという願いがあったのでしょう。
4日間の日程ほとんどが雨の天候でした。たった1枚の鎌倉での集合写真は、雨の中での撮影だったため、10月下旬にもかかわらずコートを着用しています(写真5)。旅館泊はたった1泊だけのため、生徒たちはアイロン代わりに就寝前から敷布団の下にズボンを敷く寝押しで翌日に備えたそうです。身なりを整えることには抜かりがなかったのでした。その旅館の待遇は非常に悪かったと述べられています。(注10)東京駅での集合時刻22時というのは、教員と生徒たちのおおらかな関係があったからかもしれません。夜の自由行動では、さまざまな場所で女性に声をかけられることがあり、当時の流行歌「星の流れに」の歌詞に登場するような現実の女性の姿を目の当たりにしたそうです。(注11)
写真5 戦後初の修学旅行写真(1950年高校卒業アルバム)
その後しばらくは東京方面へと続く修学旅行となりましたが、2年後の1951(昭和26)年からは、行程が大きく広がり、卒業アルバムにも写真が多く掲載されています。
写真6 バス乗車前(1951年卒業アルバム) 写真7 箱根十国峠(1952年卒業アルバム)
2)立命館中学校 (10月26日~29日 四国方面)
参加生徒210名(学年全生徒234名)。費用は1,240円で小遣いが300円。
引率者は教頭、看護婦、担任4名。これになぜかPTA会長が加わっていました。
10月26日 21:20 京都発宇野行乗車
寝台ではなく客車に一般客と一緒に乗車
27日 朝 乗船 宇野発女木島(愛称は鬼ケ島)着 島内の洞窟見学
乗船 高松港着
金比羅山参詣
宿舎の旅館到着 枕投げ、障子を破り壊すなど夜の12時頃まで騒いで
殆んど寝られなかった。
28日 朝 朝食をすませて出発 (各自が旅館からの握り飯持参)
栗林公園から屋島登山(道路は未開通)
下山後、高松市内散策【市街の戦災復興を確認】 夕食
夕 高松港から神戸港行に乗船(船内は満員で暑かった)
6:00 神戸港到着 ~徒歩~ 諏訪山公園(睡眠不足でさらに疲労)
~ 朝食 ~ 電車で京都駅へ
この旅行の主な交通手段は船でしたが、以前から海運事故があったので、旅行への不安はあったそうです。(注12)高校同様に中学校も旅館宿泊は1泊のみでした。この時の教員の話では、せっかくの宿舎の浴場であったのに生徒たちはほとんど入湯しなかったそうです。裸になるのが恥ずかしかったかと語っています。
この事故以降、修学旅行を積極的に支持する方向で、次のようなことが行われています。
1949(昭和24)年 国鉄の団体割引復活。
1950(昭和25)年 文部省の修学旅行規制緩和
1954(昭和29)年 国鉄の専用列車による連合輸送開始
このように、修学旅行は確実に復活へと進んでいったのでした(写真8)
(写真8 1951年中学校卒業アルバム)
3)神山中学校高等学校
上賀茂神社からの払い下げによって設けられた立命館大運動場に、1941(昭和16)年に設立されたのが立命館第二中学校(神山学舎)でした。1947(昭和22)年に京都市からの委託を受けて男女共学の立命館神山中学校が、翌1948年に男子校の立命館神山高等学校が発足しています。
神山中学校高等学校に関する資料はほとんど保存されていませんが、「神山学園新聞」(注13)によると、以下のような行事記録が紹介されています。
1949(昭和24)年10月18日 高校初の修学旅行(四国方面)
1950(昭和25)年10月24日 中学校初の修学旅行(四国方面) 高校も実施
1951(昭和26)年10月16日 中学校(東京方面)
10月20日 高校(九州方面)
神山中学校高等学校は、1952年4月に立命館中学校高等学校(北大路学舎)へ合併されたため、1951年が最後の実施となりました。
(写真9 1951年神山中学校卒業アルバム)
4.修学旅行の今
このように初めての修学旅行は、厳しい交通手段によるハードな日程で実施されていましたが、それでも生徒たちにとっては学校生活における楽しい思い出として記憶に残されたことでしょう。
立命館高等学校では、その後に関東や東北、九州へとコースを変えたり、見学旅行という名で中国・四国や伊豆大島へ行ったりとしていきますが、1971(昭和46)年の実施をもって中止されました。修学旅行検討委員会によるまとめでは、修学旅行が単なる観光旅行化して本来の学校行事としての目的に適さなくなったことなどを理由にあげて述べています。
それが、中学校高等学校の男女共学化4年目(1992年)から生徒会を中心として積極的に復活への取り組みを行い、1994(平成6)年に自分たちの手でつくりあげる修学旅行として北海道コースで復活となりました。
近年の修学旅行は、目的も内容・形態も多岐に渡り、単なる旅行から研修へと変化しています。海外研修は、立命館小学校から中学校、高等学校まで実施されるようになりました。学校行事における位置づけも高くなり、今後もまだまだ変化していくことでしょう。
2018年8月1日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博
(注1)学校新聞「立命館タイムス」第1号(昭和22年11月27日発行)
(注2)昭和22年11月26日付 大阪府教育部長の修学旅行自粛通牒
(注3)「国鉄乗車券類大事典」 JTB刊 2003年
(注4)立命館タイムス第11号(昭和24年12月15日発行)の座談会記事「修学旅行をかえりみて」では高校3年生240名中143名が参加と記述されているが、卒業アルバムの修学旅行集合写真には生徒128名しか写っていない。
(注5)「昭和を歩む野の小径」 上田勝彦著
(注6)高校第1回卒業生今井昭三氏寄贈資料
(注7)上田教諭宅に残されていた訓示要旨メモ
(注8)当時は、まだ米穀通帳が必要で配給米制が続いていて、国民が自由に購入することができなかった。そのため、
(注9)米は各自持参とされていたが、持参せずに他の生徒から強引に拝借する生徒もいたそうである(昭和24年卒同窓会)。また、立命館タイムスの「声」欄には、「ボスを廃して学友会の情実を去れ」と題して次のような投書もみられる。「生徒の中にボス的存在ともいうべき生徒が少数おり、正しき者を妨害しているようだが、これは改正された。また、学芸部、運動部の各先生がその部員に対して情実が多分に有る様に思うが、これはどうかと思う。私は正しき美しき公平な学園を希望するものである。」 (第7号 昭和23年7月18日発行)
(注10)学校新聞「立命館タイムス」座談会「修学旅行をかえりみて」第11号(昭和24年12月15日発行)
(注11)この旅行に参加した高校第1回卒業生の集まり(2018年4月17日開催)でのインタビュー。
(注12)日本国有鉄道(国鉄)宇高連絡船紫雲丸が1947(昭和22年)からの9年間で5度にわたって事故を起こしていて、1955(昭和30)年5月11日には小中学校の児童生徒教職員が108名も亡くなるという最大の被害をだした。
(注13)学校新聞「立命館神山学園新聞」第8号 (1952年2月21日発行)
「神山の十年を偲んで 顧みるその足跡」