9月21日、NPO法人中川小十郎先生亀岡顕彰会主催の、「山陰道鎮撫隊の行路を辿る視察」に参加しました。
今回の視察は顕彰会として第2回となります。参加者は30名、当日は雨模様の天候でしたが、鎮撫隊が山陰道を進軍した時も雨や雪の日もあり、当時の天候を思いながらの視察となりました。
行路は、亀岡を出発、福住に立ち寄り、篠山城を通過、福知山城、田辺城(西舞鶴)、宮津・三上本陣を視察するというものでした。
資料として、『西園寺公望公山陰鎮撫日記』(立命館史資料センター所蔵 昭和15年)をもとに作成した「山陰道鎮撫の道を辿る」(詳しくは、史資料センターHP<懐かしの立命館>山陰道鎮撫の道を辿る(全3部)参照)および「山陰道鎮撫使西園寺公望公鎮撫日記道程地図」の今回調査部分を参考資料としての現地視察でした。
【山陰道鎮撫使西園寺公望公鎮撫日記道程地図】
※地図をクリックすると別ウィンドウが開き、大きな画面で見て頂けます。
≪亀岡駅出発、福住へ、そして篠山城≫
亀岡駅を8時半に出発。
亀岡の馬路は、西園寺公望山陰道鎮撫総督一行が、御所を出陣して最初の本陣とした地です。鎮撫隊一行は明智越えを進み馬路に宿陣しました。この時鎮撫隊の隊列に加わったのが、人見家や中川家をはじめとした馬路の人々でした。亀岡は当時亀山藩。山陰道で最初に鎮撫隊に従い、新政府に帰順した藩となりました。
鎮撫隊は亀山藩を鎮定し、八木から鳥羽宿を経て、園部に本陣を張ります。園部藩はこの時藩主小出英尚が京都におりましたが、藩は勤王を誓いました。
現在一部が残る園部城は、当時は陣屋でした。
園部を後にした鎮撫隊は原山峠を越えて福住に入ります。原山の琴松寺で鎮撫隊は休憩しています。福住では幕府側の若狭小浜藩などの敗兵が帰藩のため当地を通るのではないかとの情報があり、弓箭士や山国隊による戦力の強化を図りました。こうした状況の中で酒井若狭守は謝罪書を奉じ、篠山藩は篠山城から福住の西園寺総督のもとに出向いて帰順しました。
篠山では、二階町の河合七兵衛方に本陣を張りました。既に福住で帰順を申し出ていた篠山藩でしたが、藩主青山忠敏(ただゆき)、老臣らは連署して勤王無二及び徳川義絶の書を差し出しました。現在の篠山城は、堀を巡って大きな石垣が城址を取り囲み、復元した大書院が残っています。
≪福知山藩・福知山城≫
福知山城は明智光秀が天正7(1579)年頃に築いたのが始まりと言います。城主はその後幾たびか変わりますが、寛文年間に朽木氏に変わり、戊辰戦争時には藩主朽木為綱となっていました。
鎮撫隊・西園寺総督は1月14日、菱屋町の吉田三右衛門宅を本陣とし、18日朝まで滞陣します。
福知山藩は当初幕府側でしたが、戦況はいかんともしがたく、15日には藩老が吉田本陣に出頭して降伏しました。この間に西園寺総督は諸藩に命じ、出石藩、綾部藩、山家藩から勤王の誓書を提出させました。
滞陣中、錦の御旗と鎮撫使の牙旗(幟)が御所から届き、これによって鎮撫使一行は朝廷の権威を旗印として進軍します。
鎮撫使一行は18日、福知山を発陣、是社神社畔の由良川を船で田辺(西舞鶴)に向かいました。
【福知山城にて】
≪田辺藩・田辺城≫
鎮撫隊は藤津で下船し、陸路田辺(西舞鶴)に向かいます。
18日、福知山を発った鎮撫使一行は田辺に着き、田辺藩は城下の見樹寺で鎮撫使を出迎えます。田辺では大手交差点の西側にあった村田兵左衛門宅を本陣としました。鎮撫使一行総勢624名が34の町屋と寺院を宿所としたと言われています。本陣から田辺城はすぐ近く、現在は城の石垣が残り、彰古館と城門(田辺城資料館)が復元されています。田辺藩は、版籍奉還後、紀伊田辺藩と区別するため舞鶴藩となっています。
藩主牧野誠成(たかしげ)、老臣らは鎮撫使が到着するや恭順し、二心無き事を誓いました。滞陣中、総督は舞鶴湾を遊船、家臣濱崎和泉守が場内を見分しています。
1月21日、鎮撫隊一行は田辺を発陣し宮津に向かいましたが、田辺藩は「ます」や「このわた」を献上し、藤津や由良まで随従しました。
【田辺城にて】
≪宮津・三上本陣≫
宮津城は大手川から現在の宮津駅にかけての一帯にありましたが、今はほとんど遺構が残されていません。
21日夜、鎮撫隊は宮津に入り西園寺総督は三上金兵衛方を本陣としました。宮津に到着した鎮撫隊は薩長両藩士に加え、鎮定した諸藩からも随従したため千人ほどの滞陣になりました。この日は大雪であったといいます。
藩主本荘宗武は幕府側で江戸に滞在中でしたが、幕府側の敗色濃い戦況に一変して新政府側に帰順することとなりました。
西園寺総督はこれまで帰順した藩を含めて、亀山・園部・篠山・柏原・山家・福知山・綾部・田辺・宮津・若狭酒井の諸藩の勤王無二および徳川義絶の誓書を濱崎和泉守、中川禄左衛門らに二条城太政官代に届けさせました。
西園寺総督が本陣とした河原町の旧三上家住宅は現在も保存公開されていて、西園寺総督が滞陣した際の御座敷、勅使門が現存しています。また庭園には西園寺総督が短冊に詩を詠んだ老梅があります。その「老梅の詩短冊」と表札「御勅使様御泊」が京都府立丹後郷土資料館に所蔵されています。
【旧三上家(三上本陣)にて】
今回のNPO法人中川小十郎先生亀岡顕彰会の「山陰道鎮撫隊の行路を辿る視察」は福知山城、田辺城、三上本陣などを実地視察し、亀岡馬路にて山陰道鎮撫に従軍した馬路の人々を顕彰した「清聲千古碑」を見学、山陰道鎮撫隊の行路の事蹟を学びました。
17時半、亀岡駅帰着。