1970年12月8日 前年の5月20日に破壊された「わだつみ像」(注1)は立命館と全国の人々の寄付により再建されました。
しかし、元の場所には設置することができず、1970年~1975年の間、広小路学舎の図書館に保管されていました。5月20日と12月8日の「不戦の集い」の時だけ、2体の「わだつみ像」(破壊されたわだつみ像と再建されたわだつみ像)が人々の前に設置されていたのです。(注2)
1975年12月、この再建された「わだつみ像」を、再度設置(再建立)するために「わだつみ像建立立命館大学実行委員会」が結成され、全立命館人の取り組みとなりました。(注3)
実行委員会は、再建立に必要な経費約400万円を、すべて募金等でまかなうこととし、全国に協力を依頼しました。写真の「バッチ」「キーホルダー」「盾」は募金活動のための頒布グッズとして製作されたものです。
頒布価格は各協力団体に委任されましたが、「わだつみ像建立実行委員会ニュースNo.16」(昭和51年5月22日号)では、「バッチ」は150円、「キーホルダー」は350円、「盾」は3,000円とされています。これ以外にも「ポスター」150円、「ポスターパネル」1,300円、「パンフレット」200円で頒布しています。(注4)
こうした取り組みの結果、1976年5月20日、「わだつみ像」は衣笠学舎中央図書館に再建立されました。以降、1992年5月に国際平和ミュージアムに移設されるまで、「不戦の集い」は図書館で開催されるとともに、図書館の利用者はいつでも「わだつみ像」を目にすることができるようになったのです。
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(注1)「わだつみ像」 言葉の由来
「わだつみ」もしくは「わたつみ」は漢字では「海神」、万葉集や古今和歌集にも出てくる言葉ですが、字のとおり、海を司る神のことです。
この言葉が「きけわだつみのこえ」として戦没学生の手記の表題になったのは、この手記に寄せられた京都の藤谷多喜雄氏の詩「なげけるか、いかれるか、はた もだせるか、きけはてしなきわだつみのこえ」に由来しています。南や北に散っていった学徒の心を「わだつみ」であらわしたわけです。以来、戦没学生をあらわす言葉として「わだつみ」が使われだし、像も「わだつみ像」と名づけられました。
(『像と共に未来を守れ-わだつみ像再建立記念-』わだつみ像建立立命館大学実行委員会1976年5月20日)p11
(注2)「わだつみ像」が立命館大学に設置された理由、破壊と再建の経過は
『立命館百年史 通史二』 第三章「大学紛争」と立命館学園の課題 第二節立命館における「大学紛争」とその克服 二「わだつみ像」の破壊と再建
または、大南正瑛/加藤周一編著『立命館大学・学徒出陣50年刊行委員会 わだつみ不戦の誓い』岩波ブックレット339 1994年3月22日をご参照ください。
(注3)「わだつみ像建立立命館大学実行委員会」が発行した「わだつみ像建立を訴える」(1975年12月1日)では、再建立の意義を次のように記載している。
「わだつみ像は1970年12月8日、不戦のつどいの日に、像再建を願う全国の多くの人々の激励や多額の寄金に支えられ、全立命人の努力と制作者本郷新氏の協力によって、再び完全な姿で立命館大学に迎えられ、除幕式が行われた。それから5年間、我々全立命人は、5月20日と12月8日が来るたびに、破壊された像とともに新像をおしたてて、反戦・平和の誓いを新たにし、決意を固めてきた。しかし、学園内外の様々な事情により、我々は、新像の建立を今日まで実現できないままに来ている。我々全立命人には、平和と民主主義を願い、像再建に協力してくれた全国の多くの人々の期待にこたえて、一日も早く、像を建立する責任がある。(中略)我々は、その行動の一つとして、ここに、太平洋戦争勃発35周年にあたる来年5月20日を目指して、わだつみ像を立命館大学内に建立する運動を再開することを呼びかける。」
(注4) 史資料センターでは「バッチ」「キーホルダー」「盾」の内、「キーホルダー」の現物資料がございません。お手持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひご寄贈くださいませ。
追記:2015年9月に「わだつみキーホルダー」をご寄贈頂きました。ありがとうございました。