立命館学園に籍を置く人ならば、「総長公選制度」と「全学協議会制度」をご存知でしょう。
これらの制度は、全国の大学でも大変珍しく、一般に「立命館民主主義」と呼ばれる立命館学園の特徴の一つとなっています。
「総長公選制度」は、立命館学園の教育・研究上の責任者である「総長」を選ぶとき、生徒・学生・教員・職員の意思を反映しようという制度で、末川博が初代総長となりました。
4年毎に実施され、2014年現在の川口総長は末川から数えて8人目の総長です。(注1)
また「全学協議会制度」は、立命館学園の将来の姿や運営方針を考える時に、提案された原案を元に、学園を構成する学生や教員・職員が参加して精査していく制度で、4年毎に開催されます。
さて、この「総長公選制度」「全学協議会制度」は、どのようにして生まれたのでしょうか?
歴史を振り返ってみましょう。
<1945年、平和と民主主義の立命館再出発と末川博学長・総長の誕生>
事の起こりは、敗戦直後にさかのぼります。
1945(昭和20)年敗戦とともに立命館学園は、それまで国家主義的傾向の強かった学園の運営方向を改め、1945(昭和20)年11月末川博を立命館大学学長に迎えて再出発しました。
その後、寄付行為の改正、経営陣の一新を経て民主化を進めます。
1948(昭和23)年2月、末川博学長は寄付行為改正に基づき総長となり、同年4月に設置された新制の立命館学園(立命館大学・立命館高等学校・立命館神山高等学校・立命館夜間高等学校)と旧制の立命館専門学校全体の教育・研究の復興を担う象徴的な存在となりました。
国中が食料難や経済的な困窮状態にある中での学園の再出発は、まず全学一致して教育設備の充実に力を入れることが重要でした。
1947(昭和22)年6月 教員・学生・父母(父兄母姉)・校友によって「立命館大学拡充後援会」(以下「拡充後援会」と称す)が発足します。これは当時学園の弱点であった施設・設備の貧困さを克服し、1948(昭和23)年4月からの新制大学発足に当たって教育施設・設備を充実させようという強い意欲から発足した団体でした。
末川博(学長就任前)
<グラウンドか教室か 対立する教育条件整備と末川総長辞任>
この「拡充後援会」が最初に取り組もうとしたのが、等持院キャンパス(現在の衣笠キャンパス)における総合グラウンド建設(後に「立命館衣笠球場」の竣工のみをもって中断)でした。
この提案は、体育館建設と合わせて理事会や校友、一部教員が積極的に推したのですが、多くの学生や教職員は、教室その他教育設備を優先すべきとして提案に反対します。
末川総長も「現在の緊急課題は教授陣の充実と教室等の教学施設の建設にある」(『立命館百年史 通史二』p10)と理事会において主張しますが、聞き入れられませんでした。
理事会内での対立が深まる中、ついに1948(昭和23)年12月22日、末川総長は学園宛に辞表を提出、翌23日の学園理事会で辞意が報告されます。
1949(昭和24)年1月9日の理事・評議員合同会では、末川総長自身が登壇し、辞意の理由として、総長に就任して3年を経て、学園の民主化の一応の見通しがついたこと、自分はまた学問研究に専念したいことを述べ、さらに「教学上の責任者であっても今日のように私学の財政上の危機が叫ばれる時は、財政上の問題についても考えねばならず、これ等について処理する自信がない。」(『立命館百年史 通史二』p.p.181-182)と表明しました。
制度上、総長に学園経営上の責任はなかったのですが、学園構成員の期待とともに末川総長自身は強く経営・財政の視点を意識しており、結果としてグラウンドか教室かの問題で板ばさみとなったが故の辞意でありました。(注2)
<総長辞意に激震 寄付行為改正・総長公選制度の誕生>
末川総長辞意の報は、全学を揺るがし、留任・復帰運動が巻き起こります。
これに先立つこと1ヶ月前の1948(昭和23)年11月24日、学園理事会は、戦後民主主義の具体化として「総長公選制度」を含む寄付行為改正を審議承認し、12月7日付けで文部省に認可申請していました。
そこへ総長辞意の事態が起こり、復帰運動の中で、急速に制度整備が進むことになったのです。
末川辞意表明後の12月28日、理事評議員合同協議会では、寄付行為の改正が認可され次第、「総長公選制度」の具体化を進め、選挙を実施して末川の復帰を求めることが決定され、1949(昭和24)年1月7日の理事会では総長選挙規程起草委員会が発足します。
総長選挙規程起草委員会は、「学生の参加を含めて選挙権は全学園構成員に保障され、全選挙人に占める教職員・学生生徒の数は95名中83名で、87.3パーセントに達し(中略)学生選挙人を制度化し、選出された学生選挙人が直接に候補者に投票するという積極的な」(『立命館百年史 通史二』p31)制度を提案します。
この「選挙人の大多数が学園内構成員であること」「学生自らが総長選挙の選挙人となること」は、他大学に類を見ないいわゆる『立命館民主主義』の先見性を示すものとして特徴付けられることとなりました。
1949(昭和24)年1月11日 寄付行為改正が認可されると、2月27日評議員会で規程を同日付施行し、3月22日、学園初の総長選挙が実施されることとなったのです。(注3)
これが「総長公選制度」の始まりです。
選挙の結果、末川は総長として選出されましたが、辞意に至る経過を踏まえて、教授会・学友会を含め多くの学内諸団体が、あえて就任の要望を伝えるべく嘆願書を差し入れています。
総長選挙の結果を経て理事監事連名による総長就任の懇願書(一部)1949(昭和24)年3月25日
こうして末川博は、選挙による全学の総意として、改めて立命館総長として選出され、憲法と教育基本法に基づく「平和と民主主義」を立命館学園の教学理念として掲げ、以降1969(昭和44)年4月1日に任期を終えるまで、5期20年にわたり立命館の総長として学園の復興と振興にあたったのです。
1950年学園創立50周年式典での末川総長
(1949年3月の総長公選制度による再任1年目の姿)
<グラウンド建設計画に端を発する全学協議会の誕生>
1947(昭和22)年6月発足の「拡充後援会」には、学生自身もメンバーとして加わりました。これは学園の政策策定に学生が参加する初めての出来事でした。
教育研究の条件整備は本来学園の経営責任なのですが、当時は関係者全員で検討し決定するという風潮だったのです。
「拡充後援会」の最初の事業は、前述の総合グラウンドと体育館の建設で、計画はどんどん膨大なものとなっていきました。
前述の通り、末川総長ほか教員学生はグラウンド計画には反対でしたが、当時の理事会内では少数派であったため、学園の計画はそのまま進められました。
計画を担保する財政は、学園規模が小さく校友の社会的広がりも小さい中で、教員・学生・父母・校友の寄付に依存していくことになりました。
寄付ですから任意なのですが、学生の分は一人当たり寄付額120円として、学費に加算して強制徴収ということになったのです。「拡充後援会」のメンバーとして学生が加わっていたため、結果的に学生自らが学費の強制徴収に手を貸すことになってしまいました。
集まった寄付は、校友からは約5万円、学生の学費からは約100万円となりほとんどが学生(父母)負担となっています。
さらに、拡充事業に絡んで利権・金権の不正・腐敗疑惑がマスコミによって暴露(『京都日日新聞』1948年3月16日・17日付。後に「京日事件」と呼ばれる)されるにおよんで、学生は理事会を厳しく批判します。
理事会は、疑惑に対応するように、「拡充後援会」を改編して財団法人内に「立命館拡充部」を設置(教員・学生・父母・校友からなる任意組織から経営体内の組織に改編)し諮問機関として「拡充委員会」を置いて学生の参加を求めます。
自ら学ぶ施設・設備を充実するために加入したにも関わらず、本意では無いグラウンド建設計画が推進されてしまったこと。その建設経費を、事実上学費に上乗せする形で、しかも校友の寄付額の何倍もの負担として強いられたこと。さらに、その計画の裏で不正が進められていたこと。不正が発覚すると、組織改編して追及を回避しようとしたこと。
こうした経験は、学生自身にとって学園の機関への参加のありようの苦く辛い反省材料となりました。
1948年9月、これらのことから学生は「拡充委員会」の参加要請には応じず、経験の反省に立って新たに立ち上げたのが「立命館大学全学協議会(全学協議会)」でした。(注4)
全学協議会風景。奥:学園執行部(中央末川総長)、手前:学生(1958年卒業アルバムより)
初期の全学協議会は残念ながら、学園が直面する課題を論議する場としては十分機能せず、今日のような学園構成員を網羅する協議機関として運営されるにはまだしばらくの時間が必要でしたが、いわゆる「立命館民主主義」を支える重要な機関が、この時誕生したのです。
立命館史資料センター準備室
(注1)
立命館学園の歴代総長はこちらを参照 http://www.ritsumei.jp/profile/a05_04_j.html
1949年に制定された総長公選制度はその後、2005年に「総長選任制度」2005年7月8日規程第651号に改定。その後、総長選任制度検証・検討委員会の答申2010年1月13日を受けて2010年4月23日に総長選任制度が廃止。改めて「学校法人立命館総長選挙規程」(2010年4月23日)が制定されて今日に至っている。 (『立命館百年史 通史三』p.p.1751-1752)
(注2)
末川辞任には真因があるとされている。
『立命館大学新聞』(号外 1949年1月15日付)は、「末川総長辞任の真因を衝く」の見出しの下に、「総長辞任の裏面には大体次の如き事由が存在するものと見られている」と末川辞任の真相に迫った。とし、最大の辞任理由は私学の経営問題を解決するだけの才覚が自分には無いとするものであろうが、別に隠れた理由があるとする。
第一は、学園拡充計画問題において総合グラウンド建設を主張する一部の体育教員とそれに同調する理事・評議員、運動部学生やOBとの対立である。
末川は本計画よりも教授陣の充実や教室などの設備を優先すべきであると主張したが容れられなかった。財政計画は杜撰で、結局寄付だけでまかなえず学園一般予算から充当することとなり学費負担という形になってしまった。加えて建設工事をめぐる疑惑が浮上し社会的問題になってしまった。これらが総長の責任という形で末川の身に降りかかった。
第二は、学園経営における責任と権限の問題で、学園経営の責任者であった専務理事の死去によりほとんど非専任の理事ばかりの中で、事実上総長に経営責任までがかかってきた。にも関わらず総長は寄付行為上一理事にすぎず、経営判断の権限が保障されていなかった。
第三は、久保体育科教授との対立問題で、戦後の教員適格審査委員会により不適格とされた同教授がこれを不服として学園と争っていたが、グラウンド建設計画推進の中心教授であったため同計画推進派の役員・OBが介入し、末川を非難していた。末川はこうした事態に嫌気が差していた。
これらのことが末川辞任の背景にあるとし、以降「学園民主化」「学園ボス追放」「末川総長留任」の運動が全学で巻き起こることとなる。(『立命館百年史 通史二』p.p.183-186 参照)
(注3)
斯くも迅速なる一連の経過には、国家主義的旧体制派が今だ根付く学園理事会に対して、末川を中心とする教員集団の学園民主化闘争の背景があるとの研究がある。
つまり、総合グラウンド計画を象徴とする守旧派の専横・利益誘導との攻防において、末川を中心とする民主化推進派の教員集団が、学園の寄付行為の民主化を通じて守旧派を放逐する準備を進めていたとする。寄付行為の改正は、総長公選制とともに理事会の「学内優先」原則(教育・研究を重要視するため、理事のメンバーの過半を学内者、特に教授会自治の要である学部長とするもの)が組み込まれていた。
(「立命館百年史紀要」13号『1948年、末川の総長辞任と寄付行為の改正―学園民主化の一断面』吉田幸彦 参照)
(注4)
「拡充委員会」への学生の関与の仕方をめぐって、『立命館百年史 通史二』では次のように学生参加のあるべき姿を整理している。
「学生への教学責任は、基本的には学園が負うものであり、最終的にはその経営体としての法人に帰する。学生参加とはその法人の経営責任を認めつつ、政策決定過程において学園の構成員としての民主主義的責務を果たすことであり、学生が法人になり代わってその機能の一部ないし全部の執行に関与することではない。学生もしくは学生団体は、そうした関与から派生する責任を全うすることができないからである。その点で、学友会の「拡充後援会」への参加と、そのなかでの個々人の役割には学生参加の限界を超えるものがあった。真剣で懸命の取り組みであっただけに、この学生参加は苦渋の経験となり、学生は学園の呼びかけにもかかわらず後の拡充委員会への参加を拒否し、新たな全学的な協議機関を創出した。この新たな学生参加の形態としての「全学協議会」は、この年末に起こる末川総長の辞任問題と、その復帰を目指す全学挙げた学園民主化闘争を経て、学園に定着していくこととなった。」(『立命館百年史 通史二』 p189)
この時期の学園の動きを知るには、以下の文献をお読みください:
『立命館百年史 通史二』
第一章 戦後の再出発と「立命館民主主義」への模索
第一節 学園民主化と占領政策
第二節 高等教育改革と新制大学の出発
二 末川総長辞任問題と総長公選制
三 末川総長の復帰と民主的改革の推進-全学協議会体制の模索
第二章 「立命館民主主義」の創成と学園の整備
第一節 教学体制の基本的整備に向けて
五 「全学協」体制の実質化
第三章「大学紛争」と立命館学園の課題
補論 戦後民主主義と「立命館民主主義」-いわゆる末川体制について-
『立命館百年史紀要』
第13号 「一九四八年、末川の総長辞任と寄付行為の改正-学園民主化の一断面」吉田幸彦
第16号 「戦後民主主義と立命館」 服部健二