立命館が掲げるこの言葉の意味を、覚えていますでしょうか。
これは、「不戦の誓い」と「平和と民主主義」を一言に凝縮したキャッチコピーです。
<記念碑「未来を信じ 未来に生きる」>
立命館大学衣笠キャンパス正門を入ると、ロータリーの中央に「未来を信じ 未来に生きる」という末川名誉総長の言葉の碑があります。
この碑は1981年立命館大学の衣笠キャンパス一拠点が完成した折に建立され、当時の天野和夫総長により由来が次のように記されています。(注1)
本学創立八十周年ならびに衣笠移転完成を記念して、この碑を建てる。
碑の文字は、末川博先生が、本学に建立された「わだつみの像」の台石に刻むため書かれたもの。
この言葉には、平和を願い、不戦を誓って、青年の未来を守れという意が、こめられている。
一九八一年五月一九日
立命館総長 天野和夫 記
天野総長が記した「わだつみ像の台石に刻」まれた文とはどのような内容でしょう?
また「この言葉(未来を信じ未来に生きる)には、平和を願い、不戦を誓って、青年の未来を守れという意がこめられている」とあるのは、どういうことでしょう?
少し歴史をさかのぼってみましょう。
<わだつみ像の台石に刻まれた文は>
記念碑「未来を信じ 未来に生きる」の由来記にある「わだつみの像」は、日本戦没学生記念会(わだつみ会)の委嘱によって、1950年8月15日、彫刻家・本郷新(1905~1980)が制作し、現在立命館国際平和ミュージアムに建立されています。(注2)
当初は、アジア太平洋戦争の戦場に出征し、生きて帰ることのなかった戦没学生たちの嘆き、怒り、黙(もだ)した苦悩を象徴した記念像として、東京大学構内に設置する予定でしたが建立できず、以後本郷新氏のアトリエで眠ったままとなっていました。
1951年12月8日、立命館大学で開催された「全立命戦没学生追悼慰霊祭」の席上、末川総長が、この「わだつみ像」を本学に受入れることを表明し、全学挙げて誘致の取り組みの結果、立命館大学に建立されることとなったのです。
1953年12月8日、旧広小路キャンパス研心館前で「わだつみ像」の建立除幕式が行われた際には、全国から平和を願う2,000名をこえる学生、市民が集い、末川総長、日本戦没学生記念会(わだつみ会)理事長柳田謙十郎氏、像制作者本郷新氏、像命名者藤谷多喜男氏などが列席しました。
翌1954年12月8日には、「わだつみ像」の前で、第1回「不戦の集い」が行なわれ、以降毎年12月には像の前で「不戦の集い」が開催されています。
その台石に刻まれていたのが、「未来を信じ 未来に生きる」で始まる文でした。
未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。
その貴い未来と生命を聖戦という美名のもとに奪い去られた青年学徒のなげきと怒りともだせを象徴するのがこの像である。本郷 新氏の制作。
なげけるか いかれるか はたもだせるか
きけ はてしなきわだつみのこえ
この戦没学生記念像は広く世にわだつみの像として知られている
一九五三年一二月八日(注3)
立命館大学総長 末川 博 しるす
<教学理念「平和と民主主義」の象徴として>
この文は、「わだつみ像」が象徴する不戦・平和の誓いだけでなく、立命館大学の教学理念の有り様をも現していました。
冒頭の「未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある。」という部分に込められた思いに関わって、末川総長は自伝(末川博著『彼の歩んだ道』岩波新書 1965年)で次のように述べています
「それにしても、この間で最も痛惜にたえないのは、若い人たちが戦場にかり立てられて帰ってこないことであり、わけても二十一年前のいわゆる学徒出陣でペンを銃ににぎりかえて学業なかばに悲壮な気持ちで戦列に加わった青年学徒が散り去ったことである。これらの学徒が高めようとしていた知性を否定され、みがこうとしていた理性をふみにじられる矛盾を止揚しえないままに、その矛盾のなかで散華したのを思うと、断腸の感なきをえない。」(p219)
「人間の幸福と世界の平和のために貢献しうる学問のみが真に学問と呼ばれるに値する。そして人造りのための教育もまた、このような真の学問の上に立ちながら、愛情と理解と信頼によって行われなければならない。」 (p.220)
学問は人間の幸福と世界の平和への貢献をその使命とし、未来においてそれをなしうるのは、今学問に打ち込む青年であること、だからこそ教学理念を「平和と民主主義」として戦争を廃し、青年の未来を守らなければならないのだということです。
天野総長が記した「この言葉には、平和を願い、不戦を誓って、青年の未来を守れという意がこめられ」ているのは、こうした末川総長の思いがあるのです。
<教学理念のエッセンスとしての「未来を信じ 未来に生きる」>
こうして「わだつみ像」台石の文は、立命館の教学理念「平和と民主主義」を象徴する言葉となり、その後学園の様々な出版物にも引用されていきます。
1980年代ごろまでは、「未来を信じ未来に生きる。」は全文が引用され、「わだつみ像」との関係性についても、教学理念「平和と民主主義」との関係性についても説明がなされていましたが、時代を経るにつれ象徴的な言葉「未来を信じ 未来に生きる。そこに青年の生命がある。」という部分、さらには「未来を信じ 未来に生きる」という部分が抜粋されていきます。
1962年度の『学生生活』(新入生に配布される冊子)には、旧広小路学舎の「わだつみ像」とともに末川総長の文が全文掲載されていました。
1982年度の『学生生活』では、末川総長の碑文拓本とともに、「わだつみ像」の由来が解説されています。
2002年度の『学生生活ガイド』では、「未来を信じ未来に生きる。そこに青年の生命がある」という碑文の最初のフレーズがキャッチコピーとして引用され、「わだつみ像」との関係性は記載されていません。
これは、1992年に「国際平和ミュージアム」が開館し「わだつみ像」が移設されたため、本文中の「国際平和ミュージアム」のページに解説が移動したことによります。
「未来を信じ 未来に生きる」という言葉だけですと教学理念「平和と民主主義」には直接的な連想ができませんが、改めて全文を見るとこの言葉が意味するところがはっきりわかります。
「未来を信じ 未来に生きる」は、「わだつみ像」に込めた「不戦の誓い」と、立命館の教学理念「平和と民主主義」とともに立命館の社会的使命を一言に凝縮したキャッチコピーなのです。
史資料センター準備室
(注1)立命館大学は、2つのキャンパス(広小路、衣笠)があったが、広小路から衣笠へ順次学部移転を進め、1981年の法学部移転をもってすべての学部が衣笠キャンパスに移転した。これが「衣笠一拠点」事業で、1981年5月16日に「学園創立80周年・大学衣笠移転完成記念式典」が開催されている。
「未来を信じ 未来に生きる」の石碑はすでに1981年4月に建立されていたが、この日に合わせて天野総長揮毫による建立趣意銘板が設置され、5月16日9時30分から改めて石碑の披露が行われている。(『立命館学園広報』第120号 p30 1981年5月20日、『同』第121号 p47 1981年6月20日)
建立趣意銘板の日付が5月16日ではなく5月19日となっているのは、5月19日が立命館大学の創立記念日であり、1981年5月19日をもって「学園創立80周年」となるため。
なお5月19日の「創立記念日」は、1985年までは臨時休業となっていた。
創立記念日については以下の記事もご参照ください。
<「今日は何の日」5月> 立命館の創立記念日は5月19日?
https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=8
また、石碑は1981年に建立された後、1989年に改装され現在に至っている。本文写真は現在のもの。故末川博先生の13回忌にあたる1989年2月16日に合わせて石碑の文字部分をブロンドキャストに改装。合わせて石碑裏面の天野総長の由来を銅版に刻んで石碑前に建てた。(『立命館学園広報』第206号 p282 1989年2月20日)
(注2)わだつみ像に関しては、以下の記事もご参照ください。
<今日は何の日 12月>わだつみ像
https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=26
<学園史資料から>わだつみ像 バッチ・キーホルダー・盾 1975~1976年
https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=37
<学園史資料から>わだつみ像再建立
https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=59
(注3)12月8日は、「太平洋戦争」の開戦日。
1931年9月18日に勃発した「柳条湖事件」に端を発する「満州事変」、1937年7月7日「盧溝橋事件」から始まる「日中戦争」を経て、1941年12月8日、大日本帝国はアメリカ太平洋艦隊基地であるハワイ・オアフ島の真珠湾を攻撃(現地時間1941年12月7日)、またマレー半島などの東南アジア諸国への侵攻作戦を開始し、同日付でアメリカ・イギリスに対して宣戦布告の詔勅が発せられている。(「満州事変」「日中戦争」「太平洋戦争」を総称して現在は「アジア・太平洋戦争」と称されている)
戦後、12月8日は開戦日、8月15日は終戦日として反戦平和を誓う記念日となり、様々な取組みが行われている。「わだつみ像」の完成は8月15日、立命館大学の「不戦の集い」も必ず毎年12月8日に開催されていた。台石に刻まれた末川総長の文の日付が12月8日であることもこれに由来する。