立命館史資料センターではこのほど、産業社会学部に1973(昭和48)年4月に入学し、1977(昭和52)年3月に卒業された埼玉県在住の大熊章一様から、学生時代の貴重な資料を寄贈していただきました。
本稿は、寄贈いただいた資料および大熊さんの思い出話をもとに、1970年代の立命館大学の学生生活にタイムスリップしてみます。
<当時の世相>
大熊さんの高校から立命館入学までの1970~1973年の日本は、高度成長期の最盛期から終焉に向かう時代でした。
70年には大阪で「日本万国博覧会」が開催、よど号ハイジャック事件が起こり、アメリカンクラッカーが流行しました。
71年にはドルショックが起こり、ボーリングのブームがあり、マクドナルド1号店が開店したりカップヌードルが発売されました。仮面ライダーや天才バカボン、ルパン三世が始まったのもこの年です。
72年には札幌オリンピックやミュンヘンオリンピックが開催され、沖縄が日本に返還されました。あさま山荘事件、ウォーターゲート事件が発生したのもこの年です。
大熊さんが入学した73年には、オイルショックで狂乱物価が始まりました。江崎玲於奈博士がノーベル物理学賞を受賞、あしたのジョーの連載が終了し、巨人がV9、王が三冠王となり阪神江夏が延長ノーヒットノーランを達成し、ハイセイコーが活躍してブルースリーの「燃えよドラゴン」がヒットした年でもあります。
立命館大学では、1968年~70年にかけて大学紛争の経験を経て、「平和と民主主義」の教学理念を改めて学園教職員学生が再確認して出発し始めた時期でもあります。
産業社会学部は、1965年に広小路学舎で誕生しましたが、大学紛争の中で基本棟である「恒心館」が1969年2月に封鎖・破壊され教育・研究に大きな支障が生じ、翌1970年に心機一転衣笠学舎の「学而館」に移転した時期でした。
≪1973年4月、産業社会学部に入学≫ 合格~オリエンテーション
1977年(大熊さん4回生時)の衣笠キャンパス。産業社会学部の学生は2,895名(当時の衣笠キャンパスは学生数約11,900名。経済・経営・産業社会・理工が所在し、法・文・二部は広小路キャンパスだった)
(大熊) 立命館大学に入学したのは1973年4月です。先立って昭和48年2月21日付けの『合格通知書』が届きました。受験番号12687番、入学式は4月11日(水)に衣笠学舎(体育館)で挙行することが記されていましたね。
通知は立命館大学産業社会学部長藤井松一の名でした。B6サイズほどの大きさです。文面の、余りの素っ気なさが新鮮で且つ重々しい響きでした。
1973年2月の衣笠キャンパスでの入試風景。大熊さんもこの時に受験していた。
大熊さんの合格通知書(寄贈資料)。手続き書類が同封されて速達郵便で送られていた。
大熊さんが受験した1973年度入学試験では、産業社会学部の受験者数10,923名、合格者1,735名 手続きを終えて入学したのは650名でした。倍率6.3倍ですね。(典拠「昭和48年度入学試験に関する資料集」立命館大学教学部学務課)1974年の衣笠キャンパス入学式。大熊さんが入学した1973年の入学式と同じです。式の最初、校歌斉唱のシーン。(立命館学園広報 1974.4.20号)ちなみに、1973年度の入学金は50,000円、学費(授業料等)は年額80,400円でした。また後述の社会状況から、1974・1975年度の入学金は70,000円、学費(授業料等)は117,400円、1976年度の入学金100,000円、学費(授業料等)は197,400円となりました。(ただし金額は文系学部)
(大熊) 4月11日(水)は午前中に入学式・学部説明会、午後学生証・通学証明書交付、父兄懇談会がありました。体育館での入学式が終わると、入学手続き書類に記入しておいた第2外国語(ドイツ語を選択)毎にクラス分けが既にされており、そのクラス毎に体育館前で「新入生クラス写真」を撮りましたよ。45人の学生と担任の先生が写っていますが、ネクタイやおしゃれな服装の学生は一人もいません。見事に当時の立命の雰囲気・気風が表れているでしょう?
大熊さんが新入生の時のクラス写真(寄贈資料)「基礎演習」Gクラス 担当教員は藤原壮介先生。
「基礎演習」の人数は当時おおよそ50名程度で「第一外国語(英語)」と同じクラスであったので、毎週3回は同じクラスメートが顔をあわせた。また産業社会学部では、1回生全員が同じ基礎学力を得られるよう基礎演習共通教材「現代社会と社会科学」を編集発行してこの年から使用を始めている。
1973年4月7日の学而館。新入生の大熊さんが学んだ産業社会学部の基本施設。
産業社会学部は学而館を基本施設として使っていた。事務室は1階にあり、2階には小教室、3・4階には中・大教室があった。最も大きな教室は4階の「402教室」で483席だった。地下には生協の「学而館食堂」があり、食券を購入して食事をした。また同じ地階には産業社会学部系の学生クラブのBOXがあった。1978年10月11日の学而館前。当時の学生ファッション。産業社会学部は女子学生比率が高かった上に、1978年4月清心館に文学部が移転してきたため、学而館前のこの通りは衣笠キャンパスで最も女子学生の往来があり、「学而館ストリート」と俗称された。
(大熊) その後クラス毎に学而館の教室に入り、各種書類や「昭和48年度新入生オリエンテーション日程表」が配布されました。4月12日(木)は学修指導、学友会・自治会ガイダンス、翌日以降新入生歓迎の学生団体の諸企画などがあり、開講は1週間後の4月18日(水)からでした。
1973年度産業社会学部のオリエンテーション日程表(寄贈資料)このころの新入生オリエンテーションは1週間あった。土日にも企画があり、4月15日(日)には「新入生歓迎合同ハイキング」があった。
≪学生生活のスタート 受講登録 基礎演習クラス 教科書共同購入≫
(大熊) オリエンテーションで「学修要項」が配付されました。これを熟読して理解しないといけないわけですが、かなり複雑で、1〜2回生で必修の専門科目と一般教養科目、3〜4回生で必修のそれがあり、系列毎の必修単位数も決まっており、まるでパズルのようでした。
オリエンテーション期間中にクラスの運営委員を選定し、ほどなく彼らの手に依って「産社1回生Gクラス住所録」が配布されました。○○荘や○○アパートの住所より、○○方という下宿生のほうが多かったですね。大熊さんが使った1973年入学者用産業社会学部「学修要項」(寄贈資料)。当時の産業社会学部の卒業に必要な単位の構造とともに、専門科目の履修計画や単位計算に思案した後がうかがわれる。
(大熊) 教科書は生協発行の「‘73立命館大学産業社会学部教科書目録」をもとに購入しました。表紙には教科書の買い方や辞典類・参考書の買い方が記され「共同購入」の紹介などが書かれています。当時の生協の通常価格は5%引きでしたが共同購入は1割引きでした。いずれの教科書も数百円といったところで、千円以上のものはごく一部でした。
1973年度 教科書共同購入の目録表紙(寄贈資料)。4月オリエンテーションの時期から開講にあわせて、図書館前の広場(現在の充光館あたり)にプレハブ小屋が建ち、生活協同組合が販売していた。語学や基礎演習などクラス全員が使用する教科書は、クラスで選出された生協委員やクラス委員が、クラス全員分をまとめて購入し、クラスで配付していた。
≪図書館を利用する 体育の授業≫
(大熊)入学時に図書館の「館外貸出証」が発行され、借り出しするにはいちいち本に記載されている図書登録番号を記入し、返却期日・受領日が押印されるようになっていました。
よく利用した方ですが、読み終えないうちに返却期限がきて、同じ本を何度も借りたことがありました。
授業は土曜日もありましたが、本格的に始まったのはゴールデンウィーク明けでした。
もちろん体育実技もあり、他のクラスが卓球やテニスを楽しそうにやっているのを尻目に、Gクラスの最初の種目が「体力測定」で、1500m走やらソフトボール投げやら走り幅跳び(これは高校時代陸上部で都の新人戦で4位になった)やらいろいろやらされて、「入学早々、何でこんな事やらなきゃいけないの?」とクラス全員ブーイングでした。大熊さんの図書館「館外貸出証」(寄贈資料)。図書館の利用は、この貸出証を使った。現在の「入館ゲート」や「自動貸出機」などなかった時代、図書の裏側に貸出日付を記録するラベルと対にして「誰に何を貸し出したか」がわかるようになっていた。現在の図書館の図書にも、このころの名残が残っている。
≪下宿と通学≫
(大熊)埼玉南部出身でしたので、下宿を決めないといけないのですが、三月末頃に生協に顔を出したら、今頃?と言われるだけ。どうしても斡旋して下さいと頼み込んでやっと西京極にある、生協の斡旋基準価格より高い新築の壁式鉄筋コンクリート4階建ての民間の学生寮を紹介してもらいました。ここしか無かったんですね。今時の学生マンションとは比べようもない設備で、部屋は畳4畳半、踏み込み半畳分、押入れ1畳分の計6畳のスペースでした。風呂は無く、共同トイレ・共同炊事場(ガスはコイン式)でした。それでも友人からは贅沢な住まいと言われましたよ。電話は共同で、誰かが受けると部屋の番号を押してブザーで知らせるといったものでした。テレビもロビーにはありましたが自室には無く、もっぱらラジオを聴くという生活でした。家賃は11,500円でしたね。
この当時、立命館大学学生の半数は地方出身者で学生寮か下宿があたりまえだった。
「1975年度立命館大学入学案内」によれば、昭和49年(1974年)の自宅通学学生の月あたりの生活経費は18,500円。下宿をしていた地方出身者の生活経費は42,000円で、自宅通学生の2.3倍が必要であった。当然実家からの仕送りだけでは足らず、アルバイトは必須だった。大学の厚生課では奨学金を勧め、学資貸与制度や学生生活援助金制度など準備するとともに、アルバイトの斡旋を行っていた。アルバイトは日当2,000~3,000円、京都独特の祭礼行事、染色手伝いなどもあった。最も実入りの良かったアルバイトは家庭教師で、週1回で5,000円、週3回で12,500円だった。
下宿は、生活協同組合以外に大学でも斡旋しており「京滋地区学生アルバイト・下宿対策協議会」で月額の協定料金が設定され、3帖5,000円、4.5帖6,500円、6帖7,500円、これに加えて水光熱・雑費1,000~1,500円であった。学生寮の月額は水光熱費含めて1,600~1,900円程度で下宿の場合の20%前後の負担で済んだ。
大熊さんと同じ条件の下宿だと、大学斡旋の場合8,000円程度なので、11,500円は「高額な」下宿代である。
(大熊)通学には阪急と市電を利用しました。3回生(昭和50年)のときの市電の「通学定期券」と、4回生時(昭和51年)の「阪急通学定期券」が残っています。
市電は10・11・12の3ヶ月定期で3,770円、わら天神―西大路七条間です。西大路七条にスーパーがあったので、帰りに阪急に乗らず、ここで降りて食料品を買って帰った事もよくありました。阪急の定期券は昭和51年4月12日から7月11日までの3ヶ月で1,710円、乗車区間は西院から西京極の一駅でした。阪急の定期券はもの凄く安くて、入学時の1ヶ月定期券は3往復で元が取れる値段でした。関東出身者にとっては自動改札になっていたのが驚きでした。
阪急電車と京都市電の定期券(寄贈資料)
市電の運賃は、1972年8月に40円、1973年4月に50円、1975年8月に70円、1976年4月に90円、1977年3月時点は120円と毎年のように値上げされました。(京都市交通局ホームページによる)
1978年9月30日を以て、長い歴史を誇った京都市電は全廃されました。大熊さんからは、卒業翌年の市電全廃前日に録音された「全線車内生録音」のCDも別途寄贈していただいています。
≪学生生活 狂乱物価とアルバイト≫
(大熊)学生時代4年間での物価高騰は凄まじく、入学時と卒業時では全ての値段がほぼ3倍になっていました。いわゆるオイルショックを端緒とした「狂乱物価」で、今思うとよく生活出来てたなぁとゾッとするほどです。
今の学生もやっているんでしょうか? 小遣い帳に毎日の支出を記入していました。
それも半年だけ、狂乱物価が始まる直前のものです。最後の半年分もあれば比較出来る貴重な資料だったのでしょうが、まさか4回生で小遣い帳をやっているなんて気味悪いですからね。
学生寮に入ってすぐに、寮までの道を聞かれました。「アルバイトをしてくれる学生を捜しに行くんだけれど。」という事だったので、「じゃ、私にやらせてください!」とオーナー即決でした。
阪急西京極駅前ビルの2階の和風レストランで、週3日/夜2〜3時間ほど、カウンターの中に入っていました。「おいでやす」「おおきに」ってなかなか言えず苦労しました。
2回生になるとサークルが忙しくなって、このアルバイトは1年ほどで止めました。
1973年4月 大熊さん1回生の時の「金銭出納帳」(4月8日~10日)です。(寄贈資料)
入学時の昭和48年4月8日から約半年間、毎日記録されていました。収入はアルバイト代と仕送りのみです。支出は食費・交通費・本代・娯楽費・光熱費・衣服衛生費のほかタバコ代もありました。ギョーザ100円、新聞15円、コカコーラ40円など、当時の物価がよくわかります。1973年5月の大熊さんのアルバイト「出勤表」(寄贈資料)時給は250円だったそうです。
≪学生生活 課外活動≫
(大熊)高校が工業高校建築科でしたので、いくらか関係があるだろうと、産社系学術サークルの「都市問題研究会」に入りました。でも入部してみると建築とは全く関係無く、一時はかなり悩みましたが慣れというのは恐ろしいもので、いつのまにかサークル中心の学生生活になっていました。当時産社には公認/同好会を含めて学術系サークルが華盛りで、非常に活気がありました。でも時代の趨勢でしょうか、「都市研」も1987年卒を最後に解散しました。しかしOB/OG会は健在で、毎年総会をやっています。
西京極球場はすぐ近くだったので、野球の立同戦にもよく行きました。昭和50年春の立同戦では、球場で紙製の陣笠が配布されました。「関西六大学野球昭和50年春の同立戦」と白ヌキ文字で書かれ、KBS近畿放送テレビと舞妓の茶本舗と書かれていますので、両者が陣笠のスポンサーだったのでしょうか。関西六大学野球 昭和50年の陣笠(寄贈資料)。
≪1976年秋に引っ越し、1977年3月卒業≫
(大熊)4回生の秋に、最後の半年くらいは京都らしいところに住みたいと、上賀茂神社の近くの社家の離れに引っ越しました。一軒家をベニヤ板で仕切り、部屋は畳4畳で元は台所の板敷だったようです。何人住んでいたかも解りません。家賃は9,000円でした。隣の部屋は三畳間でした。
京都市も南区に近かった西京極に比べて、上賀茂の冬の寒さといったら…何だったのでしょう!
3回生の前期に、専門科目の短期集中講義(半年で4単位取れる)を2科目取ったりしてがんばったので、4回生で卒業に必要な単位は、ゼミ論と専門科目一つ取れれば満たされる状況でした。
サークルも半引退状態なので、この機会に自転車(2回生の時にチッキで送った)で京都を存分に走り回りました。チッキとはJRが国鉄時代に乗客が車内に持ち込めない大きな「手荷物」「小荷物」を、別列車で目的地の駅まで送るサービスで、発送駅に持ち込み、到着駅で受け取る仕組み。1986年に廃止。
難問だった実家へ帰る引っ越しも、家業の得意先が機械の納品で大阪に来るというので、その帰りのトラックに生活に必要の無い物全て積み込んでもらい、残りの二週間ほどはコタツと布団だけでした。そのコタツも下宿を見に来た新入生に、「コタツ要る?だったら置いてくよ!」って差し上げて、自転車も下宿の住人に3,000円で買ってもらいました。
最後に京都を離れる時には、タクシーに布団を無理矢理詰め込んで京都駅まで行って貰い、布団はチッキで送り、自分は手荷物だけで新幹線で帰りました。
昭和52年3月21日、春分の日の卒業式で卒業証書が授与されました。産業社会学部長細迫朝夫と総長細野武男連名の卒業証書です。えんじ色の証書カバーに差し込まれた証書でした。
また立命館大学校友会の「終身会費納入証」も何か必要らしいので、結構高かったのですが払い込みました。昭和52年4月1日付けで発行されています。終身校友のため、現在も校友会誌「りつめい」が届いています。
もちろん最後の最後は忘れずに、生協の出資金返還手続きを行い、こちらの方は即酒代に消えました。
大熊さんの卒業証書(写し)(卒業証書番号と誕生日は削除した)
1976年度の卒業者数は、産業社会学部650名、立命館大学4,553名でした。
大熊さんの「立命館大学校友会終身会費納入証」(寄贈資料)。
校友会費は、1976年度の卒業生は入会金500円、終身会費5,000円でしたが、1977年4月から改訂され、入会金1,000円、終身会費15,000円となりました。中央のマークは通称「亀の子マーク」。1960年立命館大学創立60周年を記念して公募・入選した立命館大学の愛称マークで、「立」の字の図案。1994年まで立命館大学・附属校で愛用された。
<あとがき>
多くの資料を寄贈していただくきっかけとなったのは、大熊さんから自分の学生手帳の「校歌」の歌詞と現在の歌詞が違うと照会の電話をいただいたことでした。校歌は大熊さんが在学中の1976年1月16日に歌詞が統一されたのですが、「学生手帳」の記載には間に合わなかったようです。
大熊さんは産業社会学部の御卒業で、今年2015年は「産業社会学部創設50周年」でもありましたから、寄贈いただいた資料から、40年ほど前の産業社会学部の学生生活を振り返ってみました。
最後に、大熊さんは浪人時代から古文の練習の意味で、学生生活を短歌に詠んでおられましたので、3首ご紹介いたします。
梅雨寒し京の暑さは何処やら 他人ごこちたり故郷の夜(昭和50年)
頭上まで跳ばむと競いし若き日は 築地見るたび越せむ気のせり(昭和51年 朝日歌壇入選)
ひとつずついつか果たさん数々の 夢を消しつつ生きて行くかな (昭和53年 朝日歌壇入選)
2015年9月 立命館 史資料センター準備室