軍事技術開発と科学者・技術者の行動(1)

マンハッタン原爆開発計画、ナチス政権下の核研究に関連して


 研究開発」の起源・典型ともいわれている、アメリカの第二次大戦期のマンハッタン・プロ ジェクト(原爆開発計画)とこれに参加した科学者たちの対応、ならびにナチス政権下の科学・技術 の軍事的国家動員の実際について検討し、これらを対比しつつ、科学者たちの行動とその思想について考察しました。

 ことに、マンハッタン・プロジェクトにかかわっては、近年改めて話題となっている、軍事 機密下の組織・統制、研究環境、資金調達など、実際の製造・配備を目途とした研究開発の展開において、 科学者たちが容易ならざる事態に直面し、多様な行動を展開したこと、この点に関わって検討を 加えました。

 後者のナチス政権下の科学・技術の軍事的国家動員にかかわっては、ドイツにおける総力戦体制へ の移行にともない、「軍需省」の設立、その「戦時生産省」への再編がおこなわれ、科学と技術の動 員も手直しがされたこと、また、そうした情勢の変転のなかで、とくに物理学者ハイゼンベルグらがかかわ った核開発は実際どのようなものとして展開されたのか、また彼らはどのような思いで核開発 に関わっていたのか、分析を加えました。



◆主な関連著作

(1)『原爆はこうして開発された』(共著、青木書店、1990年)

(2)マンハッタン計画と科学者-軍事機密統制下の研究開発-
   Manhattan Project and Scientists
   IL SAGGIATORE 、No.23 68〜79(1995年)
(3)ナチズムと科学-ファシズムと対峙する物理学者たち-
   Nazism and Science
   『物理学史』:Journal for the History of Physics
   No.8 20〜27(1995年)
(4)ファシズム戦争と科学者-ドイツにおける総力戦体制への移行と科学技術動員-
   『物理学史』:Journal for the History of Physics
   No.8,28〜33(1995年)



◆研究関連サイト

Los Alamos National Laboratory History
Oak Ridge National Laboratory

PEOPLE AND DISCOVERIES/Werner Heisenberg 1901-1976(ハイゼンベルクのビオグラフィ)
Atomic Archive/Library
Biographies of most of the key players of the Atomic Age


原爆計画とアインシュタインの大統領への手紙

《対話形式》


兵藤友博

 ドイツ原爆への憂慮とウラン研究

S 先生、原爆開発をアメリカの大統領ルーズベルトに進言をしたのは、 アインシュタインだと聞いたことがあるのですが、それは本当ですか。

T そうです。ただし、その手紙はアインシュタイン自身が書いたので はなく、ナチスに追われてハンガリーから亡命してきたシラードらの科 学者の手によるものです。まだウラン研究は始まったばかりでしたが、 もしドイツが原爆開発で先行し、ヒトラーが爆弾を使用したら、世界は 破滅するに違いありません。この危機を未然に防ぐためには、これに対 抗する連合国アメリカが、原爆開発で優位に立つ必要があるとの考えに 達しました。そして、ウランの連鎖反応を調べる研究費を政府にまかな ってもらおうと思いついたといわれています。ところが、自分は無名に 等しく、大統領を動かすには著名なアインシュタインの方が効果的だと 考えたんですね。そこで、アインシュタインに相談し、同意を得て、手 紙に署名してもらったのです。

S それで、その手紙は大統領を動かすことができたのですか。

T アインシュタインの手紙(1939年8月2日付)が実際にホワイトハウスに届けられたのは、 ヨーロッパで戦争(第二次世界大戦)が勃発して6週間後の10月でした。新たな情勢の展開も あって、手紙は大統領の目にとまり、ウラン研究について諮問する委員会がつくられました。

S となると、やはりアインシュタインの手紙が「ヒロシマ・ナガサキ」につながる原爆計画 の起点なのですか。

T いや。たしかに政府に最初に原子力で政策的措置をとらせたのは、この手紙が契機ですが、 事態はそんなに単純なものではありませんでした。

 まず、指摘しておかなくてならないことは、結局、この諮問委員会が4カ月後の1940年2月、 ウラン研究に交付した金額は6000ドル、これに対して政府が原爆計画にかけた全経費は20億ド ルというわけですから、少額なものであったことです。

 しかも、手紙に記されていた爆弾構想は物理的に不可能な天然ウラン爆弾であったことです。 みなさんたちも知っての通り、天然ウランは三つの質量数の異なるウランを含んでいます。シ ラードも疑いを持っていたようですが、天然ウランでは、たとえ中性子が衝突してもその大部 分をしめるウラン238 との非弾性衝突によって減速され、連鎖反応は途絶えてしまうんですね。  もうひとつは、諮問委員会のメンバーが、アメリカ市民権の長期所有者でない外国生まれの 亡命科学者だったことから、彼らに機密事項を審議させるのは好ましくないとの意見が出され、 不信が表面化したことです。結局、その年6月、科学の軍事動員を本格的にすすめる国防研究 委員会(NDRC)が組織されると、諮問委員会は亡命科学者たちを除いてウラン委員会とし て再編成されました。そして、シラードらの亡命科学者は天然ウラン原子炉の研究に限定され、 ウラン濃縮の研究と切りはなされました。アメリカの科学者たちは参戦以前のこの時期、原子 力の軍事的利用にあまり関心をもっていませんでしたが、この結果、爆発可能な高濃縮ウラン 爆弾の着想の前提条件はなくなってしまいました。

S となると、現実に爆発しうる原子爆弾の構想はどこで生まれたのですか。

 原爆計画を決定づけたイギリス情報

T 爆発可能な原子爆弾を考案したのは、イギリスに亡命していた科学者たちでした。ドイツ から逃れてきた、当時バーミンガム大学にいたパイエルスと、そのパイエルスの家に寄居して いたフリッシュでした。亡命科学者たちは国防において優先順位の高い、機密措置のとられて いたレーダー研究などへの参加をみとめられず、彼らはウラン研究を研究テ−マとしたのでし た。

S 軍事的機密措置がかえって亡命科学者たちに原爆研究で主導的役割を担わせたのですね。 なんとも皮肉な話しですね。それでどんなだったんですか。

T まず、パイエルスが、ウランが持続的に連鎖反応を引き起こしえる質量(ウランの量が少 ないと中性子は分裂を引き起こさないで外に出てしまう)、これを臨界量といいますが、この 量を速い中性子で算出したんです。ただ、はじめの頃に算出された量は1トン、最大で40トン と大きく、しかも、あの原理的に不可能な天然ウランを用いた爆弾だったんです。

S それでは手紙に記されていたものと、同じではありませんか。

T いや、イギリスはちょっと違っていたんです。つまり、ドイツで最初に確認された核分裂 の実験があらためて検討され、核分裂にあずかっているものは、遅い中性子で、かつ天然ウラ ンに0.7%含まれるウラン235のみだということがわかったのですね。この示唆にもとづいて、 濃縮ウラン235 による原子炉、その拡散法による分離がまじめに研究されたのです。ほかなら ぬフリッシュもこのウラン235 の濃縮を研究していた一人でありました。

 フリッシュとパイエルスは互いに自分の研究を語り、共同研究に入りました。その結果、臨 界量の研究と濃縮ウランの研究とが結びついて、爆発可能な高濃縮ウラン爆弾の構想が生まれ たのです。かれらの研究は1940年の2月頃にはまとまり、英国政府をつき動かしました。そし て、原爆の研究・開発を目的とするモード委員会が設置されのでした。

S こういってはなんですが、「のけ者」になった人たちの研究から生まれたんですね。それ で、例の臨界量はどの程度だったのですか。

T それが、中性子が衝突するウランの分裂断面積を大きく見積りすぎて、実際には5個のう ち1個程度にすぎないのに、衝突した中性子はすべて核分裂を引き起こすとして600 gという、 楽観的数字を導き出していました。その後、モード委員会は実験にもとづいて分裂断面積を計 算、比較的妥当な臨界量5.1-42.7kg(実際は約50kg)という数字を出したのです。

S 先生、一つ疑問があります。この研究はイギリスでしょう。だけど、原爆の開発はアメリ カでおこなわれたのではないのですか。

T そうですね。その頃、アメリカはまだ参戦していませんでしたが、ヨーロッパ戦線の後方 支援ということでイギリスに武器貸与をおこない、同盟関係にありました。イギリスは、アメ リカとの情報交換協定にもとづき、モ−ド委員会の報告書のコピ−を送付したのです(1941年 7月)。

 アメリカの科学研究開発局(OSRD:科学技術を軍事動員するための機構)の局長ブッシ ュは、モード委員会の報告書を見て、原子爆弾が既存の爆弾を数千倍うわまわる、戦争の帰雛 を決する威力を持っているものと判断しました。そして全米科学アカデミーによる検討、最高 政策グループの議をへて、その年12月6日、原爆開発に「全力をあげよ」と指示されるに至り ます。

 原爆開発の進展と科学者たちの疑問

 1942年になると、シカゴ大学の「冶金研究所」(暗号名)に実験用核連鎖反応炉がつくられ、 夏には陸軍の管轄のもとに原爆製造「マンハッタン計画」が発足します。ついで、テネシ−州 オ−クリッジのウラン分離工場、ワシントン州ハンフォ−ドのプルトニウム製造工場、および ニュ−メキシコ州ロスアラモスの爆弾の製作の最終的基地となる研究所の建設が始まり、本格 的な原子爆弾製造が展開されます。

 科学者たちは軍管理、劣悪な研究条件に反発しこそすれ、積極的に爆弾製造に取り組みます。 それは何といってもドイツに遅れをとってはならないとの思いが、そうした態度をとらせたの でしょう。

S 科学者たちはまったく原爆計画に疑問を抱かなかったのですか。

T はい。実は、科学者たちには極秘にしましたが、1944年初頭には政策決定者らはドイツ原 爆なしとの情報を得ていました。というわけで、戦争終結まではおおむねそうでした。だが、 すべての科学者がそうであったのではありません。というのは、その頃になるとドイツの降伏 は時間の問題となり、ドイツ原爆はありえないと思われたからです。とすれば、もはや原爆計 画にたずさわっている理由はありません。ポ−ランド出身のロ−トブラットは1944年暮れ、果 敢にもロスアラモス研究所を辞めます。また、シラ−ドは1945年春、原爆開発の行方を心配し、 これを管理する国際組織の設置の必要性を説いた覚書を大統領に差しだし、その年の7月には、 シラ−ドら冶金研の科学者を中心に日本への無警告投下反対の請願署名運動が展開されました。

S 科学者たちは自分たちの思いとは違ってきたことに気がついたのですね。

T そうです。類例のない威力を持つ原爆を対ソ攻略に使おうとする政策決定者・軍部と、そ うだからこそモラリッシュな立場にたった科学者との矛盾があらわになりました。そして、原 爆を完成させて、海外の前線でたたかっている同胞を助け、早期に戦争を終結させようと、原 爆計画に積極的にたずさわっていた科学者の中にも、広島に続く長崎への、思いもよらぬ「二 発目の原爆」には怒りが噴出しました。なお、アインシュタインも戦後、自分の手紙が出発点 となって原爆計画が開始されたと思い、深く反省しました。


◆主な参考文献
 山崎・日野川編著『原爆はこうして開発された』(青木書店)1990年
 M・シャ−ウィン『破滅への道程』(TBSブリタニカ)1978年