軍事科学・技術開発と科学者の行動(2)


原爆構想の起源


兵藤友博


        1.原子核分裂の発見
 1930年代、原子核研究に多大な関心をもち、各種の荷電粒子を加速する装置をつくって、原子核 物理学の発展に寄与したのは、欧米の科学者たちである。

 しかし、いま述べたこととは逆説的であるが、とくに原爆開発に後にのりだす英米の科学者はお しなべて、原子力が制御され、商業的価値あるものになりえないと考えていた。たとえば、イギリ ス科学界の大御所ラザフォードは、重陽子による衝撃で原子核を転換させる核変換を考察した際、 これに有効にはたらく重陽子は1億個中の1個にすぎないことから、核変換を引き起こすためにエ ネルギーをつぎ込んでも、これを上まわるエネルギーを引き出すことはできないと結論づけていた。
 というわけで、ナチスに追われてイギリスに逃れたハンガリー生まれの物理学者シラードが、核 連鎖反応のアイデアを思いつき、知り合ったイギリスの科学者たちに話してみた。だが、かれらは これを問題にしなかった。

 シラードのアイデアは、ラザフォードとは異なって、原子核にたいして静電反発力をもたない中 性子によるものであったが、中性子を得るには、ふつうα粒子もしくは重陽子である種の原子核を 衝撃しなければならず、ラザフォードが述べたところの同様の困難さがつきまとうと思われた。ラ ジウム・ベリウムの混合物から中性子を得る方法もあるが、これらの放射性物質を大量に手に入れ ることは難しく、原子力の産業的利用にたいしては悲観的な考え方が支配的であった。

 こうした事態を一変させたものが、1938年暮れの原子核分裂の発見のニュースであった。ドイツ の二人の科学者ハーンとシュトラスマンは、ウランに中性子をあてたとき、生成物のなかにウラン の質量のほぼ半分の放射性のバリウムがあることを見出した。ハーンはかつて一緒に研究した、ス ウェーデンに亡命していたマイトナー女史にそのことを手紙で知らせた。手紙をもらい受けたマイ トナー女史は、クリスマス休暇で訪れていた甥のフリッシュとともに、手紙に書かれている不思議 な現象を検討した。かれらはこれまで知られていた核変換の考えでは理解できない、原子核が二つ にひきちぎれる、この現象を核分裂反応と呼んだ。

 この核分裂の発見のニュースは、アメリカ訪問をまぢかにひかえていたデンマ−クの物理学者ボ −アに伝えられ、いちはやくアメリカの科学者の知るところとなり、科学者の注目の的となった。 それは科学の国際性をいかんなく示す場面であった。

 それはともかく、当時知られていた核反応の最大放出エネルギーをはるかに(10倍程度)上まわ る、核分裂反応が実際に起きうることを知った科学者たちは、核分裂反応の確認をおこなうととも に、核分裂反応が「ねずみ算式」にひろがる核連鎖反応の可能性を調べはじめた。

 それは、つぎのような予想にもとづいたものであった。すなわち一般に、軽い原子核の陽子と中 性子の数はほぼ同じであるが、原子核の陽子の数にたいする中性子の数の比は、質量が増すととも に大きくなり、1.5をこえる。したがってウランのような質量の大きい原子核が二つのより質量 の小さい原子核に分裂すれば、過剰になった中性子が追い出されるというのである。

 フランスのジョリオ・キュリーや、イギリスからアメリカに渡ったシラード、ノーベル賞受賞の 機会をとらえてイタリアからアメリカに亡命したフェルミらによって、平均2個以上の中性子が核 分裂の結果、放出されることが確認され、原子核エネルギー解放の可能性があきらかになった。


2.研究成果の公表はナチス・ドイツを利するか
 核連鎖反応の研究は、ナチス・ドイツでもおこなわれる可能性は十分にあった。ナチスに追われ 亡命してきた科学者たちは、このことに思いはせ、不安どころか恐怖を感じた。ヒトラーが原子爆 弾を手に入れたならば、世界は破滅しかねないと思われた。そう考えたシラードは、科学者たちが 内輪で議論することを妨げることはできないとしても、自分たちの研究の成果がドイツに察知され ないように、マスコミへの漏洩に注意し、学術雑誌等に公表すべきでないと考えた。シラードは核 研究をしている科学者たちの協力を求めた。フランスのジョリオ・キュリーには手紙を書き送った。

 「もし1個以上の中性子が解放されるなら一種の連鎖反応が可能です。一定の情勢のもとでは、 このことは、一般的にも、またある種の政府の手中では特に、極度に危険な爆弾の建設製造に結び つくかも知れません。」(1939年2月)

 これに対するジョリオの返事はつぎのようなものであった。

 「私はシラード博士のおっしゃる理由を最初に理解したもののうちに入っていたはずですので、 たいへん悩みました。(中略)たしかに協定の原則には同意しますが、それを有効なものにするた めには、この問題に関与しうるすべての研究室にまで拡大しなければなりません。」

 ジョリオは、基礎研究の発展のためには、国際的な協力が不可欠であるとの認識から、研究成果 は公開すべきであるとの意見を示した。ナチスによる原子力の軍事的利用の可能性を極度に憂慮す るシラードとはすれ違った。

 結局、ジョリオらフランスのグループの論文が公表されると、シラードと歩調を合わせて、一時、 発表を見送っていたフェルミも、公表へと態度を変えた。秘密主義に固執したシラードは孤立して いった。シラードはこのときのことを、つぎのように回想している。

 「フェルミも私も、ともに慎重であろうとしたが、フェルミは慎重さのゆえに核連鎖反応の可能 性を小さく考え、私は慎重であろうと欲したがために連鎖反応が起こりうるものであると考え、必 要な予防策を講じなければならないと考えた。」


3.亡命科学者たちによる大統領への手紙の起草
 先に述べたように、核連鎖反応の研究は急速に進展した。だが、それはとりあえず原子核エネル ギー解放の可能性をきわめて小規模な実験で確認したにすぎず、これを実用化するには、工学上も しくは技術上の多くの問題を解決しなければならなかった。

 アメリカ政府関係者にまず接触をもったのはフェルミであった。1939年3月、彼はアメリカ海軍 代表に会い、ウラン研究の現状とその将来における潜在的可能性について説明した。彼は科学者ら しく、現状で正確な予測をすることは難しいと前置きした上で、遅い中性子を用いて核反応を制御 する原子炉と、速い中性子を用いて爆発的反応を引き起こす原子爆弾について説明した。この会見 のあと、フェルミは1500ドルの助成金をもらい受けた。

 アメリカ政府を動かしたアインシュタインの手紙はシラードの発案である。シラードをこの時つ き動かしたものは、臨界量に近いウランと黒鉛を入手して、とにもかくにも連鎖反応の維持の可能 性を調べるため、政府に研究経費をまかなわせようとの意図のみならず、彼の予想としては、「[ ウラン研究が]国防の観点から非常に重要になる可能性は五分五分」と考えていたが、原爆開発で ドイツに遅れを取ってはならないとの政治的・戦略的意味づけがあった。

 それはともかく、手紙の問題の箇所はつぎの部分である。すなわち動力用原子炉などの技術的利 用の可能性を述べた上で、「あまり確実ではありませんが」と断わりながら、「この新しい現象は また、爆弾の製造にも使えることになるはずであります。しかも、ずば抜けて強力な新型爆弾が製 造されるであろうことは考えられるところであります。」と記されている部分である。

 結論的に言えば、この「強力な新型爆弾」は、物理的には不可能な天然ウラン爆弾構想であった。 シラードは、この年の2月、知人に送った手紙のなかで、《速い中性子が通常のトリウムやウラン を分裂させ、中性子を十分放出するにしても、その放出された中性子が、十分な数の原子核を分裂 させ連鎖反応の維持する前に、速度を失って無力化してしまうのではないか》と問い、この疑問を 実験的に調べる必要があると述べている。それから半年たったこの段階でも疑問は未解決であった が、その疑問は実はあたっていた。速い中性子は天然ウラン中では、大部分をしめるウラン238 と の非弾性衝突により減速・吸収され、連鎖反応は持続できないのである。これがアインシュタイン の手紙にある爆弾のアイデアであった。

 さて、手紙がホワイトハウスに交渉の窓口をもつザクッスから大統領にわたされたのは、ヨーロ ッパで戦争(第二次大戦)が勃発して6週間後の10月であった。手紙は大統領の目にとまり、ウラ ン諮問委員会が設置された。手紙はアメリカ政府による原子力開発に対する政策的措置が引き出し た。そして、会合がおこなわれ、翌年2月、コロンビア大学の黒鉛・天然ウラン原子炉の研究に、 ようやく6000ドルが交付された。ちなみに「マンハッタン計画」にかけられた経費は総額20億ドル である。

 しばらくしてシラードやフェルミらに対する不信が表面化した。つまり機密事項を取り扱う委員 会のメンバーが、アメリカ市民権の長期所有者でない外国生まれの科学者であるというのは、議会 の調査が入った場合には申し開きがつかないとの理由から、委員会が解散されるかもしれぬという ことが、会議の席上示された。

 1940年6月、科学動員をおこなう国防研究委員会が組織され、ウラン諮問委員会は外国生まれの 科学者を除外してウラン委員会として再編成された。その結果、シラードやフェルミらはウラン濃 縮の研究から隔絶され、天然ウラン原子炉の研究に限定された。また、ウラン問題に関する論文等 の公表を制限する措置がとられるようになり、こうして研究は分割され、秘密主義が横行すること になった。

 アメリカの科学者たちには、参戦以前のこの時期、原子力の軍事利用の関心が欠如していたとも いわれるが、このようにしてアメリカでは実現性のある高濃縮ウラン爆弾の着想の条件は消えた。 そして、それがために、当てになる原子爆弾構想もなく、国防研究委員会から財政的措置を引き出 すことはいっそう困難となった。


4.原爆開発計画を決定づけたイギリスからの情報
 第二次大戦が勃発した当時、イギリスのウラン研究もうまくいっているどころか、研究の進展は かえってその非現実性を強めていた。ウランの臨界量を求める式をもとに、天然ウラン爆弾(物理 的には不可能な爆弾)の臨界量が算出されたが、小さくても1トン、大きいとすると40トンにもな るというのである。原子爆弾の製造は可能であると考えていたロンドン大学の物理学教授G・P・トム ソンも追求に値するものではないと述べざるをえなかった。

 意外と思われるかもしれないが、そのイギリスにおいて、科学的見通しをもった原子爆弾が構想 されたのである。それを見出したのは、ドイツを逃れてイギリスに亡命したフリッシュとパイエル スの二人の科学者であった。外国生まれの彼らは、国防において優先順位の高いレーダー研究など に参加を認められず、位置づけの低いウラン研究に取り組んだのであった。機密保持の厳しい制約 がかえって彼らをして原爆開発で主導的役割を担わせた。

 フリッシュは当時、パイエルスの家に寄居していたが、かれらは機会あるごとに議論しあった。 そして彼らはたどりついた結論を「ウランの核連鎖反応にもとづく超爆弾の製造について」という 覚書としてまとめた(1940年2月)。それがのちに「フリッシュ・パイエルス・メモ」と呼ばれる もので、そのなかにヒロシマ原爆につながる、高濃縮のウラン235をつかった爆弾構想が記されてい た。

 その構想は次のような道筋をとおって生まれた。すなわちハーンらの核分裂発見の実験で、それ を引き起こしたのは遅い中性子で、分裂したのは天然ウラン中に0.7%含まれるウラン235のみであ る、と示唆されていた。難題はウラン235 の分離にあった。ところが、イギリスでは、拡散法によ ってウラン235 の分離はできるとの予測に立って、これを用いた原子炉のアイデアが構想されてい た。ほかならぬフリッシュもこのアイデアを検討していた一人で、このアイデアがパイエルスの爆 弾の臨界量の検討と結びついたのである。

 計算された臨界質量は600gであった。この値は、分裂断面積を大きく見積りすぎ、衝突した中性 子はかならずウラン235 の分裂を引き起こすとして計算されたもので、あまりに小さかった。実際 に分裂を引き起こす中性子は、5個のうち1個程度にすぎない。

 この覚書がG・P・トムソンの下にもたらされた。それは荒削りのアイデアであったが、確かな見通 しの上に立っていた。この覚書は、英国政府の態度を一変させ、トムソンを委員長とするモード委 員会を組織し、イギリスが原爆問題に積極的に関与する口火となった。

 1941年7月、モード委員会は最終報告を提出、そこには実験から推定された分裂断面積にもとづ いて計算された、比較的妥当な臨界質量5.1−42.7s(実際は約50s)が引き出されていた。
 この報告書の写しは、英米の情報交換協定にもとづいて、即座にアメリカの科学研究開発局の局 長ブッシュにわたった。数字的には幾分楽観的ではあったが、現存の爆弾を数千倍うわまわる、戦 争の帰趨を決する超新型爆弾製造の可能性が示されていた。

その年の10月の最高政策グループの発足、アメリカの科学者が原爆製造の実現性を認めた全米科 学アカデミーの第三報告書をへて、科学研究開発局S1課の12月6日の会議で、原爆開発に「全力 をあげる」ことが決まるまで、なお紆余曲折があるが、それはともかく、原爆構想は日本軍の真珠 湾攻撃の以前に確かなものとなっていた。

 なお、プルトニウム爆弾構想については、モード委員会の報告書にも記されていたが、アメリカ でもカリフォルニア大学放射線研究所のローレンスらが独自に、60インチサイクロトロンをつかっ て検討していた。その結果は、全米科学アカデミー再審委員会の第二報告に添付されている(1941 年7月)。


 日本語で読める参考文献をあげておく。
山崎・日野川編『原爆はこうして開発された』(青木書店 1990年)
シャーウィン『破滅への道程』(TBSブリタニカ 1978年)
ウィアート・シラード編『シラードの証言』(みすず書房 1982年)
スマイス『原子爆弾の完成』(岩波書店 1951年)



日本への原爆投下と科学者たち


兵藤友博


 マンハッタン計画は、陸軍の管轄にあり、FBIと連携をとる防諜部によって機密措置がとられる 一方、計画全体の進展および個々の科学者の意見や不満を統括するシステムを研究組織のなかに設け ていた。このような統制下ではあったが、科学者たちの中には、ただその能力を発揮するだけでなく、 自分がたずさわる研究の社会的意味を問い、考え、行動しようとした者もいた。

 原爆開発の大義がくずれて
 ポ−ランド出身の物理学者ロ−トブラットは、当時ニュ−メキシコ州にあるロスアラモス研究所で 原爆計画にたずさわっていたが、1944年暮、もはや原爆計画にたずさわっている理由、すなわちヒト ラ−のひきいるドイツが原爆を開発し、世界を壊滅させるのではないかという恐れはなくなったと判 断し、計画から離脱することにした。というのは、戦局はドイツ軍の劣勢を示しており、アメリカの ように時間と金を持ち合わせていないドイツには、原爆を開発する余力はないだろうと思われたから である。彼は、以前に原爆計画を取り仕切るグローブス将軍から、この計画はソビエトを屈服させる ためのものだと聞いていたが、このように思いをめぐらしていたとき、ワシントンに通じる同僚から、 諜報機関はドイツ原爆なしと判断していると伝え聞きもした。すべての情報が機密のベ−ルに包まれ ていたのではなかった。

 残念ながら同僚たちは行動をともにしてはくれなかったが、ロ−トブラットの考えにうなずいてく れた。それはともかく、彼が辞退を申し出ると、即座に同僚とこの件について話すことが禁ぜられた。 志気をにぶらせて研究の進展を阻害するものと判断された。

 同様にアクティヴな行動を展開した科学者に、シカゴ大学の「冶金研究所」で原爆計画に参加して いた、ハンガリ−出身の物理学者レオ・シラ−ドがいた。シラ−ドは1945年春、戦局がドイツの敗北 を決定づけていることを知ると、原爆の実験やその戦場での使用が賢明なことかどうかを同僚たちと 話しあった。原爆計画の政治的・社会的問題を考える科学者の会合は、がいしてロスアラモスでは重 大な事態に至る前にその芽を摘まれたが、大学の中に設置された「冶金研」では一定の民主主義があ り、開くことができたのである。

 シラ−ドの気がかりは次の点にあった。このまま戦後構想を考慮せずに、残る日本に原爆を投下す ることになれば、原爆の存在は世界に知れわたり、必ずやソビエトも原子爆弾の開発にのりだす。し かし、そうなれば核軍拡競争が始まり、やがてアメリカの原子力の優位もついえさるどころか、都市 さえ攻撃されかねない危機的事態をまねくであろうと思われた。シラ−ドは、これを避けるためには、 アメリカが原子力の分野で優位に立っている間に国際管理協定を実現することだと考えた。

 そこで、シラ−ドは、機密措置のとられている研究組織をこえて、直接大統領に接見しようと考え た。著名なアインシュタインにロ−ズベルト大統領への橋渡し役を頼み、手紙を書いてもらった。大 統領は急死し、その試みは頓挫した。後任のトル−マン大統領への接見を試みた。それはかなわなか ったが、次期国務長官J.バ−ンズに会うことができた(5月28日)。

 原爆投下で正反対の立場をとった政策決定者と科学者たち
 バ−ンズの見解は同意できる部分もあったが、次のように語ったのにはシラ−ドは仰天した。目下、 ヨ−ロッパ戦線ではドイツが急速に崩壊しソビエトが東欧に進出している。これをおさえるには、ア メリカの軍事的実力を印象づける。すなわち「爆弾をガチャガチャといわせればロシアをもう少し扱 いやすくできる」というのであった(たしかソビエトはファシズム・ドイツとの戦いで文字どおり矢 面になっているのにもかかわらず、・・・・とシラ−ドは思った)。そしてなお、バ−ンズは、原爆開発 のために費やした20億ドルの成果を示さずに、今後の研究に必要な予算をどうやって獲得するのかと つけ加えた。

 このバ−ンズの見解は、ヨ−ロッパ戦線でのソビエトの攻略、その一石として対日原爆投下が良策 であるというものだったが、これは、アメリカの核独占のもくろみ、その開発能力をそなえていると 見られたソビエトに対抗する戦略の具体的な表れであった。

 5月31日、原子力問題の現状、戦後計画について政策を協議する暫定委員会が開かれた。委員長は スチムソン陸軍長官、バ−ンズも委員会のメンバ−であった。委員会は原子爆弾の使用についても討 議した。非軍事的公開実験が話題となったが、敵が実験を妨害したり、爆弾そのものが不発だったら どうするのかという問題が指摘され、結局、もっとも衝撃的でリスクのない方法は無警告による奇襲 投下であるとの意見が大勢をしめた。そして、二つの原子爆弾を8月初旬に日本に投下することが決 まった。

 委員長のスチムソンは6月6日、これを大統領に具申した。
 暫定委員会のメンバ−で科学者であったのは、科学行政官ともいわれるブッシュやコナントら3名 の他、ロスアラモス研究所所長オッペンハイマ−、シカゴ冶金研究所所長コンプトン、カリフォルニ ア大学放射線研究所所長ロ−レンス、およびフェルミであった。後の4名は暫定委員会を補佐する科 学顧問団のメンバ−でもあった。

 ところで、そのメンバ−の一人、コンプトンは、原爆計画にたずさわっている現場の意見と苦悩を 書いた、40枚をこえるメモを暫定委員会に提出していた。だが、前述のように、暫定委員会はそれと は正反対の結論を引き出した。板ばさみ状態になったコンプトンはシカゴにもどると、ただちに研究 所の科学者たち意見を次回の科学顧問団の会議に具申すべく、原子力問題の現状と将来を課題別に検 討する6つの委員会を組織した。

 その一つが、フランクを委員長とする、原爆計画に関する社会的政治的問題について検討する委員 会であった。シラ−ドもメンバ−の一人であった。委員会は今日「フランク報告」とよばれるレポ− トをまとめた。原子爆弾の破壊力が従来の兵器の破壊力をはるかにうわまわるものであった。そこで、 科学者たちは、他に類を見ないモラリッシュな立場から非軍事的な示威実験の実施を主張した。もし、 原爆を日本に無警告投下すれば、アメリカは国内外の世論の支持をうしない、原子力の国際管理協定 の実現の可能性を逸するどころか、かえって核軍拡競争が始まるだろうとの考えを記した。

 レポ−トができあがると、委員会のメンバ−は手遅れにならないよう、委員長のフランクにワシン トンまで持って行ってもらうことにした。6月12日、フランクは所長のコンプトンとともに陸軍省を たずねた。だが、かれらは陸軍長官スチムソンに会うことができなかった。レポ−トにコンプトンの 手紙を付して置いてきた。

 驚くべきことに、科学者の代表ともいうべき所長コンプトンの手紙には、「フランク報告」とはま ったく反対のことが記されていた。《報告は、原爆使用の結果おきうる困難な問題については注意を 払っているものの、目下の戦争に原爆を使用することによって、多くの人命が救われるということ、 またそうすることで適切な警告を世界に与え、将来の原子戦争による破滅的な事態を未然にふせぐと いうことについて触れていない》と。コンプトンら指導的科学者たちは、配下の科学者たちの意見を 理解し、それに共鳴しもしたが、つまるところ暫定委員会の既定方針の立場にくみしたのであった。

 そうした立場を象徴的に示したのが、6月16日の科学顧問団の会議である。伝えられているとこ ろでは、その会議の席上、フェルミは投下そのものに反対し、ロ−レンスは最後まで示威実験の可能 性にこだわったといわれるが、最終的には原爆計画の遂行に支障をきたさないように、暫定委員会の 既定方針にしたがい、論議はまとめられた。そしてなお、科学顧問団の「原子兵器の即時使用に関す る勧告」には、《原子力の使用の一般的状況に関して、われわれ科学者が独占的な発言権をもってい ないことは明白です。・・・・われわれは、原子力の出現によって起こった政治的、軍事的諸問題を解決 しうる特別の能力を有するものではありません》と、政策決定者たちに一任する、権限放棄の見解が 表明されていたのである。

 シラ−ドらによる無警告投下反対の請願運動
 バ−ンズとの会見から無警告投下の危機を感じたシラ−ドは、これを避けようと、「フランク報告」 の支持署名・批評活動をはじめた。賛否両論、いろいろな意見が示された。しかし、しばらくして「 フランク報告」は機密扱いとなり、その活動は中止となった。

 その一方で、原爆使用問題は最終段階をのぼりつめていた。暫定委員会は6月21日に会合し、科学 顧問団が勧告した、同盟国への爆弾使用の事前通告について協議した。その結果、イギリスに知らせ はするが、もはや英米でとりきめた協定を順守し、同意をとりつける必要はないとの意見が確認され た。フランスと中国は除外され、ソビエトには今後の国際関係を考慮して知らせることになった(ポ ツダム会談で、確かにトル−マンは新兵器について触れたが、スタ−リンの興味を引くような仕方で はなかったといわれる)。

 容易ならぬ事態が進行しているとみたシラ−ドは、《倫理的基盤から科学者が日本の都市に対する 爆弾使用に反対していることを公に表明すべき時がきた》と考え、最後の行動に出た。大統領宛の請 願文書を起草し、これをシカゴの「冶金研」の同僚に回覧した。

 請願の主旨は、爆弾の使用の裁定権をもつ大統領は、日本に降伏条件を示し、日本がこれを知りな がら降伏を拒否した場合を除き、爆弾の使用は正当化されえないこと、また、日本が降伏を拒否した 場合、爆弾の使用を余儀なくされるが、その決定にあたってアメリカはあらゆる道義的責任を考慮し なければならないというものだった。なぜならば、これが先例となって世界の都市が絶滅の危険にさ らされる時代を招来させかねないからである。

陸軍当局は、この請願運動は守秘義務を犯しているとして、猛烈な異議をとなえた。だが、シラ− ドは屈しなかった。かつて「冶金研」の同僚であったオ−クリッジのクリントン研究所の科学者にも 請願文書を送った。結局、クリントンではそれに代わる新たな請願文書が起草された。けれども、そ の請願文書は途中で差し止められた。その一方、これに反発して、爆弾投下によって前線の同胞を支 援し、戦争を早期終結させることを要望する文書もあらわれた。

 シラ−ドはロスアラモスに対しても支持要請をおこなった。その要請を受けた一人テラ−は、請願 文書を回覧しようとしたが、所長のオッペンヘイマ−に助言をもとめた。オッペンヘイマ−はていね いではあるが決然とした態度で、このような政治的宣言のために自己の名声を利用することは不適切 である。これらの問題は、ワシントンでどんなに深い関心と、徹底した方法と、英知を持って処理さ れているかを語り、ワシントンに影響をあたえるためには「反抗的」な行動をとるよりも「静かな接 触」が好ましいとの考え方を示した。このオッペンハイマ−の言葉を聞いて、テラ−は請願文書を回 覧しないとの返事をシラ−ドに書き送った。

 結局、シラ−ドの請願文書は7月中旬、70名の署名を付して、コンプトンの手にわたり、8月1日 にはスチムソンのもとへ届けられた。だが、大統領はポツダム会談出席のためにワシントンをはなれ ていた。8月6日、大統領は大西洋上にあり、この請願の内容はもちろん、その存在についても大統 領は知らなかった。

 原爆の使用に疑問を感じた者は、シラ−ドらの科学者だけではなかった。ニュ−ヨ−ク市のケレッ クス社の技術者で、ウラン濃縮にたずさわっていたブル−スタ−もその一人であった。かれは、原爆 は余りにも邪悪なものであり、示威実験をしないで使用すべきではなく、開発を中止すべきとの意見 を大統領宛に書き送った。また、暫定委員会のメンバ−でもあるラルフ・バ−ドは、無警告投下に同 意したことを撤回し、日本に警告すべきとの意見を委員長スチムソンに主張し、海軍次官を辞任した。

 原爆完成への「最後の日々」
 こうした一部の科学者の行動にも関わらず、結局、原爆は大急ぎでつくられ、無警告投下された。 なぜそうした結末に至ったかといえば、科学者たちをして早期に原爆を完成させるという、政策決定 者たちによる方向付けが効を奏したからである。

 前述の暫定委員会は、配下の《軽率で忠誠心の定かでない、望ましからざる科学者》に、次のよう に対応することで了解していた。つまり、即座に断固とした措置をとり、いたずらに刺激するのでは なく、それらの科学者の動きがまんえんしないよう、爆弾が投下されるまで、少なくともその実験が 完了するまでは、いかなる措置もとらず放置しておくことが賢明である。けれども、事がすんだのち には、それらの科学者をこのプログラムから切り離すという、寛容と排除の論理で一致していた。

 そしてまた、科学顧問団を構成するオッペンハイマ−やコンプトンらの指導的科学者は、研究所に もどったら配下の科学者たちに、委員会において原爆計画について自由に意見を表明できたこと、ま た政府がこの計画に積極的な役割をはたしていることを印象づけておくべきであると確認されていた。 もともと科学顧問団は、科学者たちの意見を反映させようとの意図から設置されたものであるが、こ のように科学者たちの動揺を沈め、異論を抑え、そして暫定委員会の既定方針に協調させる役目を担 うことになった。

 こうして、一部の科学者をのぞけば、科学者たちは原爆の政治的・社会的問題の取扱について政策 決定者たちに任せ、自分にあてがわれた研究業務の達成をめざし、働く状況となった。原爆をつくる ためには一日8時間どころか16時間働いても苦労とは思わなかったといわれる。かれらの思いはアジ アの諸国を野蛮にも侵略したファシズム国、日本に勝利することだった。すなわち何としても新兵器 を完成させ、海外の前線でたたかっている同胞を助け、そして戦争を早期に終結させることであった。

 かれらの意識をとらえていたのは、科学・技術こそが戦争の帰趨を決する、この実現の要は科学者 ・技術者なのだという力の論理だった。道徳的観点からの考慮は遠のいていた。

 「二発目の原爆」への疑問と科学者たちの再出発
 「何といっても、最初の原爆投下は、ある意味では、わき目もふらずにあれほど強く専念してやっ たことが成就したものでした。しかし、二発目の原爆によって、われわれは『いったい、どうなって しまっているのか。こんなことを放っておいてよいのか』と疑いをもったものです。」

 広島に続く思いもよらなかった「二発目の原爆」のさく裂に、科学者たちは疑問を感じた。この疑 問は、科学者たちが原爆計画の重要な政策決定に関与できなかったことを示しているが、科学者たち は戦時を省みて、科学研究をたずさわる者としての社会的責任をはたさんと自らの組織「原子科学者 連盟」(FAS)をつくる契機となるものであった。戦後、原子力法案に軍による統制がもりこまれ ているのを察知した科学者たちは、反対の意思を集団的に表明した。

 なお、科学者たちが、あらゆる階層の人々と結びつき、運動を展開するようになるのには、今少し 歴史の展開を待たねばならない。


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