科学教育のこと

日本の科学教育政策・教育論を考える


兵藤友博

 私の手がけた研究課題の一つに科学教育に関するものがあります。

近年、「地球環境問題」「若者の科学技術離れ」など、さまざまな課題が科学教育に提起されていますが、 文部省の理科教育の学習指導要領は、がいして実学的な選択必修多様化路線をとっており、 その路線は将来において教科・科目の大幅な再編・統合を想定しているともいわれ、国民教育として の科学教育は「曲がり角」にきているといえるでしょう。そうした情況のもとでの日本の理科教育政策、 および欧米の科学教育論・科学哲学の動向について批判的な検討を加え、理科教育のあり方を考えたものです。

 なお、後者についていえば、特異な科学観・学習観をあらたに導入しようというところに特徴があります。 科学観についていえば相対主義、学習観についていえば構成主義です。

 また、近年盛んに展開されている「学び論」の実体についても科学教育に関わって検討しました。

◇最近の主な著作
(1)「新学習指導要領の背景と理科教育のゆくえ」『理科教室』(1999年6月臨時増刊号No.532 の特集「新学習指導要領の批判・検討」)
(2)「自然科学教育の『たのしさ』とは」
   『理科教室』NO.499,pp.6-17(1996).
(3)「なぜ『教え』から『学び』へなのか(1)-(6)」
   『季刊・科学教育研究』NO.14,pp.31-37;NO.15,pp.33-37;NO.17,pp.28-37;NO.19,pp.37-41;NO.22,pp.25-37;NO.24,pp.27-37(1997-2000).
(4)「教課審の『横断的・総合的な学習』批判」
   『理科教室』NO.515,pp.6-15(1998).
(5)「シンポジウム:科学史と科学教育」
『科学史研究』NO.208,pp.231-239(1998;共著).
(6)「“新学力観”批判と理科教育」 上・下
   『理科教室』:The Journal of Science Education
    No.465〜466,78〜82,76〜81(1994年)
(7)「自然科学教育としての理科の枠組みを考える」
   『理科教室』:The Journal of Science Education
    No.474 6〜15(1995年)




新学習指導要領の背景と理科教育のゆくえ


兵藤友博


 小・中・高の新学習指導要領が告示された。教科書づくりに与える影響はもちろんのこと、学校教育 の教育課程編成を実質的にコントロールすることを考えると、これを軽んじるわけにはいかない。

 多様な選択学習路線としての新理科とその意図

 問題は、それがどういう意図のもとに編成されているのかにある。その意図は教育課程審議会の答申 に示されている。それによれば、これまでの学校教育は「多くの知識を教え込むことになりがち」であ ったとし、これからは子どもたちが「自ら学び自ら考える」教育へと、すなわち、教育の基調を「教え」 から「学び」へと転換しなければならないというのである。そこには受験教育に象徴される、暗記詰め 込みの学習に対する反省が見られるのであるが、この基調の転換は、これからの教育のあり方にとって 揺るがせにできない方向転換となっている。その最大の問題は、教師をして、子どもたちに科学の基本 的知識を教えることを消極的にさせることである。

 より具体的にいえば、その「学び」への転換は、単に授業のあり方の転換を指しているのではなく、 知識の実生活との関連づけや知の総合化の視点からの教育課程の見直し、これまでの教科教育の見直し をともなっている。そのことは、端的には小中での「総合的な学習の時間」の設置をはじめとして、高 校での、従来型の物化生地の各科目の選択履修を引き継ぎつつ、「理科基礎」「理科総合A」「理科総 合B」の設置などを提示していることに示される。

 つまり、新学習指導要領に指し示される理科は、単に専門化された自然科学を学ぶ従来型の理科の方 向と、そのアンチとしての生活理科、総合的な学習といった教養的理科を学ぶ方向との二極化ではなく、 子どもたちの将来における社会的役割付けに対応させる、理科の実利性を志向する多様な選別的選択学 習路線なのである。すなわち、科学・技術エリートの育成の一方で、21世紀を担う様々な企業人、市 民としての素養を身につけることを企図している。

 特異な科学観の導入

 第2に指摘しておきたいことは、新学習指導要領の理科には、このような教育の見直しを進めようと の意図から特異な科学論が持ち込まれていることである。それは新理科の目標の中に、次のような文節 (筆者が傍点で示した)が加わったことに現れている。

 「自然に親しみ、見通しをもって観察・実験などを行い、問題解決の能力と自然を愛する心情を育て るとともに・・・」(小学校:・・・は筆者による省略)、「自然に対する関心を高め、目的意識をもって観 察、実験などを行い、科学的に調べる能力と態度を育てるとともに自然の事物・現象についての理解を 深め、科学的な見方や考え方を養う。」(中学校)

 上記の目標の中の「親しみ」「心情」「関心」「態度」というのは、目標が新学力観にもとづいてい ることを示しているが、この新たに加わった文節に関して、宇都宮大学の奥井智久氏は、新学習指導要 領を支持する立場から次のように述べている(『教員養成セミナー」1999年3月号別冊)。

 「ここで言う『見通し』とは、従来の自然科学研究で得られた結果・結論やそれに用いられた方法を 必ずしも意味しない。むしろ、児童・生徒が日常生活等から獲得し、保有している自然現象についての 素朴な見方・考え方(概念)や方法を『見通し』として取り上げ、その妥当性を検証することを通して、 科学的な見方や考え方に変換していくことが、今後の理科学習の重点になる・・・従来『自然の原理・法則 は自然界の中に潜在している』との考え方が自然科学の暗黙の前提とされてきた。今回の改訂では、『 自然の法則は科学者が共通に認めた自然の見方や考え方である』との考え方に重点が移され、理科教育 にも適用される・・・」(・・・は筆者による省略)

 通常、自然科学において理解されている原理や法則は、もともと自然界に貫かれている客観的なしく み・法則性を科学的実践を介して認識されるもの、すなわち自然科学成立の基本的根元を自然に見出す のが普通である。だが、奥井氏の言説に従えば、新理科における自然法則というものは、科学者たちが 自然科学という学問の規範として認めた見方・考え方にある。これは、自然科学としてまとめられてい る原理や法則というものを、科学者たちが取り決めた自然に対する見方・考え方、すなわち科学者たち の間での約束事だとするもので、自然科学成立の基本的根元を科学者の見方や考え方(思想)、すなわ ち人間の主観の内に見出すものである。認識論的には相対主義の立場にたつ。科学は科学者たちのもの だから、必要ならば、その人の必要性において学べばよいということにもなる。

 この点に関わって、なおいえば、奥井氏は前記の引用で「自然現象についての素朴な見方・考え方 (概念)」と記しており、奥井氏にあっては、見方・考え方と概念とは一体化していても区別しえない、 おかしなことになっている。一例をあげるならば、原子の概念と原子論的な見方・考え方とは関連しつ つも異なるものである。原子の概念は、自然界に客観的存在しうる原子というものの本質についての理 解のことであり、同じく原子という言葉がつくものの、原子論的自然観は、自然界のあらゆる現象を原 子とその運動によって説明しようとする見方・考え方であって異なる。

 「動的自然観」にもとづく学習の問題点

 第3に指摘しておきたいことは、このような科学観を理論的根拠にして、次のような学習論が推奨さ れていることである。すなわち、前述のように、科学者は科学者で自分が正当だとする自然の見方・考 え方(科学知)を持っているように、子どもは子どもで日常生活を基盤にして自分が正当だと思う自然 に対する素朴な見方・考え方(日常知)を保持している。したがって、子どもたちは、理科学習におい て、この日常知を出発点に科学知へと転換し、自分たちの見方・考え方の基本を科学者たちが正当だと する見方・考え方へと変換していけばよいというのである。

 例えば、新学習指導要領の中学校の理科の「各分野の目標及び内容」の項において、これまでの学習 指導要領と違って、「自らの考えを導き出し表現する能力を育てる」が加わり、「身近な物理現象・・・な どについて理解させ、これらの事象に対する科学的な見方や考え方を養う」(・・・は筆者による省略)と 記されている。ここに見られる記述は、実は上述のような学習論を意識したものである。

 先頃、文部省の教科調査官角屋重樹氏は、『子供を理科好きにする授業入門』(小学館、1998年)と題 した本を監修し、「動的自然観」なる用語を持ち出し、これを今後の理科教育のあり方を構造づける柱 立てとし、次のように記している。

 「これからの学習指導の姿」というものは、「子供が自分のもつ見方や考え方を絶えずより発展的で 適切なものに変換して」いける、すなわち自然事象とかかわりながら絶えず動的に自然観を変換させ、 形成していけるようにするものだという。

 この「動的自然観」も、「見方・考え方」の変換を説く点で、奥井氏が今後の理科教育に適用される としているものと同類である。それにもとづく学習は、その用語の新奇さほどに新味のあるものではな く、学習における内容の系統性や認識の順次性を度外視した、あの問題解決学習(問題の発見、予想、 観察・実験、結果の獲得、etc.)なのである。新奇さは、それぞれの子どもが自分なりの見方・考え方 をもつて、問題解決の方法・スキルを身につけるという、相対主義的認識にある。

 構成主義的学習論の導入とその問題点

 こうした学習論は、科学というものは科学者たちによって認知されたものだとの科学観を前提とし、 子どもたちを科学者たちの見方・考え方へと接近させることで、理科学習を構成しようとする、構成主 義の立場にたつ学習論であるが、単に文部省サイドに限らず、教育学者においても語られている。広島 大学の湯澤正通らは、『認知心理学からの理科学習への提言』(北大路書房、1998年)において、次の ように記している。

 「知識の再構成が生じるためには、科学概念は日常知と同じ土俵の上で構成される必要がある。すな わち、科学概念が子どもの日常経験から出発し、日常世界での科学的な探求に基づいて構成されるなら、 子どもは同じ経験から構成した日常知との矛盾を意識せざるをえなくなる。・・・教師は、理科の授業で、 科学者が行なうように「科学する」活動の場、学び合い、語り合う共同体を創造しようとする。それは、 科学概念を世界の探求や生活向上の道具として利用する科学者の文化に参加することであり、そのよう な文化を教室の中に作り出すことである。」(・・・は筆者による省略)

 子どもたちの日常経験を出発点にしているということからすれば、これは子どもたちの一人ひとりの 持ち味・状況、場合によっては学習の到達点を考慮するもので、そうだとしたらそれはそれで汲み取る べきものがある。また、経験をもとにひとまず自分の意見をまとめ、仮説のようなものを設定するとも 考えられ、うなづける。

 しかし、「日常知」に固執し、その再構成さえすればよいというのでは、科学的認識には到達しえな いだろう。子どもが自身の生活過程において得るものと、人間社会の社会的生活過程で得られるものと では比べものにならない程の落差がある。幾重にも壮大に広がる多様な自然の階層は「日常知」だけ捉 えられるものではない。科学的認識は人間社会の社会的生活過程を基礎としている。

 もう一つの問題点は、学び合い、語り合いの共同体への参加の中で経験を再構成し、見方・考え方を 転換させ、すなわち宗旨変えによって科学概念を自分のもとして認知しようとするところにある。こう した構成主義の学習論は、人間集団の主観と主観との関係論的構成、いいかえれば、一人ひとりの主観 において認知された言葉の意味づけ、それを基礎にした言語コミュニケーションを中心に展開される。 こうした学習で、はたして自然界をあますところなく汲み尽くすと共に、真理性を確保せんがために行 なわれる科学的実践(実験・観察)の意味が位置づけられるのだろうか。科学概念の真理性、その豊か な具体的内容は、基本的には言語とそのコミュニケーションにあるのではなく、科学的実践を通じての 根元としての客観的世界(自然)にどれだけ裏打ちされているかにあるのである。

 「学び論」に見られる反科学・反教科主義

 以上、理科学習のあり方について見てきたが、それにしても近年「学び」を強調した教育論がもては やされている。もちろん「学び」自体が説かれることは悪いことではない。なぜならば、子どもたちは、 偏差値重視の受験体制の中で、画一的な言葉づらの「詰め込み学習」に終始し、世界の知的発見という、 学ぶことの本来の楽しさから遠ざけられてきたからである。「学び」はそうした事態を打開すべく説か れているのであろう。だが、その打開の方向は、反教科主義的指向性を含み込み、次々期改訂で噂され ている教科の再編・統合に符合するものとなっている。

 たとえば、現代は地球環境問題など、グローバルな今日的課題に応える「総合的な学問」の時代にも かかわらず、これまでの教科教育は、科学主義にもとづく教科分立の時代遅れの産物だと非難し、総合 学習の推進を説くもの(加藤幸次/全国個性化教育研究連盟副会長)、あるいは、これとは動機づけの 点で異なるが、これまでの教科教育は、教科書を基軸に網羅的に知識を一方的に教え込む学習となって いるとし、教科の枠組みを解体し、統合教科や主題を設定しての総合単元による教科横断的なカリキュ ラムを説くものもある(佐藤学/東京大学)。なかには、教科教育を基礎づける近代科学というものは、 微視的・個別的にしか問題をとらえられないもので、それがために人間や社会にとって大切なことを見 失わせ、狭い視野の中で利己的な利益だけを追求するというものもある(利己的な利益を追求させたの は近代科学ではなく、それを利用した資本の論理にもかかわらず)。これなどは教科横断的なカリキュ ラムを説く一方で、反科学主義を一層鮮鋭化させる(今谷順重/神戸大学)。

 どちらにしても、これらの議論は、今日では財界・産業界ですら認めている企業の学歴至上主義の採 用、それにもとづく偏差値至上主義が学校教育に制度的歪みをもたらしているにもかかわらず、それら の根本的問題を解決しようとするのではなく、子どもたちの学びが疎外されているのは、とにもかくに も教科教育にあるのだとするものである。そして、このような誤った評価にもとづいて、教科教育を解 体すれば事態は改善しえるとする。また、これらの議論は、個別科学が今日的課題の解決に確かな貢献 をしているにも関わらず、そのことを忘れ、その有効性を無視し、また教科教育は本来カリキュラムと して相互連携しているにもかかわらず、そのことを忘れる。

 前項で見た構成主義の学習論も、多少異なるが、こうした傾向を持つ。それは学習主体(子ども)の 素朴概念としての「日常知」に固執するがために、学習内容の系統性を尊重すると、子どもたちの「学 び」が疎外されるのではないかとの怖れを、教師をして持たせることである。子どもたち自身の認識が どうありえるかということと、内容の系統性を尊重することとは矛盾するものではない。

「先行き不透明な時代」と即応的能力の育成

 次に、中央教育審議会の答申、教育課程審議会の答申、ならびに今次の学習指導要領改訂という、大 枠としての教育改革の支配層の意図を検討し、そこから今次の学習指導要領改訂にもとづく新理科に込 められた意味を鳥瞰しようと思う。

 既報のように、中央教育審議会が提起した「生きる力」のその第1は、「いかに社会変化が変化しよ うと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する 資質や能力」である。この「生きる力」と、先に見た「目的意識」や「見通し」を掲げた理科の問題解 決学習とがダブって見えるのは私だけであろうか。もちろん中教審の「生きる力」は、予想される多難 な21世紀を国家、企業のために自学自習、自助努力、自己責任において降りかかる課題を解決する資質 や能力なのであって、科学的認識能力を習得させようとするものではない。

 経済同友会『「学働遊合」のすすめ』(1997.3)は、21世紀社会における人的資源の重要性にかんが みて、次のように記している。

 「われわれは、次の世代を育てるという自覚を持っているのだろうか、将来、どのような形であれ、 日本だけでなく世界規模での課題の解決を、次の世代に委ねなければならない。・・・大切なことは、次の 世代が、自らの意志で、自らの行動を選択することにより、われわれを乗り越えていくことである」(・ ・・は筆者による省略)

 ここには財界、産業界の危機感を基底とした教育改革にかける期待がうかがえる。察するところ、日 本企業は変動為替相場制時代、ことにプラザ合意後の極端な円高・ドル安の時代を迎え、国内にあって は合理化の一方で、海外への技術移転を進め、その局面を切り開いてきた。こうして本格的な国際化の 時代を迎えたが、バブル経済の崩壊とその後遺症で、日本経済は深刻な事態に到っている。

 財界・産業界は、これまでにない厳しい事態を迎え、なお一層の合理化、規制緩和(金融、通信、et c.)、教育においてもスリム化、自由化を断行し、この難局を乗り越えようとしている。

 これが現下の状況であるが、日本は、アメリカのように軍事力をバックに覇権主義によって何として も国際的求心力を維持し、政治・経済を切り盛りするというわけにはいかない。ならば、産業革命後じ わじわと国力を一貫して低減させたイギリスに似た轍を踏むのだろうか。政・財界、産業界には明確な ビジョンはない。だから、「変化の激しい、行き先不透明な、激しい時代」というような分析となるの であろうが、資源もない日本とすれば、子どもたちを21世紀社会を切り拓く企業戦士として育てようと 考えるのであろう。

 経済同友会が今後必要とされる「ビジネスの基礎・基本の能力」として上げているものは、行動力、 人間関係を円滑にする力、常に新しい経験・知識等を身につける力、論理的な思考力、問題を発見する 力、今後重要性を増すコンピュータ活用能力、異文化受容能力、情報収集力、語学力(ことに英語)で ある。

 ここには科学に基礎づけられた認識能力はあげられていない。即応的能力に絞り込んだ、能力におけ るスリム化である。産業構造の変化にともない、ハイテク技術の開発に従事する少数の技術エリートの 育成、一方で国際化時代の産業経済の競合の激化ならびにサービス労働の需要に応えられる、実際的な 資質・能力の育成をおこなえばよいとするものである。それは個人の能力と社会的役割付けにおいて教 育が施されれば可とする、実利性を根底とするスリム化にもとづく、広く国民に科学を教える必要はな いとするものである。

 中央教育審議会の答申は、知的創造力は国家的資源・現代文明の礎と位置づけ、科学と技術の教育の 意義をその実利性に見出す。したがって、科学と技術の教育は、科学技術の直接的発展の核としての理 工系人材の育成を企図して施されるのである。

実利性としての科学技術と高等教育の種別化路線

 科学技術庁は1996年、欧米先進国に比して依然として遅れている科学技術の振興のために、科学技術 基本計画なるものを策定した。そこでうたわれていることは、社会的・経済的ニーズに対応した研究開 発だとか、厳正な評価にもとづく競争的研究資金の導入、そして優秀な人材を円滑に結集する国立研究 機関への任期制の導入、産官学の人的交流の推進、国際的な研究交流の推進、および若手研究者確保の ためのポストドクター等1万人支援計画などである。

 上記に上げた項目から窺えることは、一見、オープンな活性度の高い、社会的有用性のある、科学と 技術の研究開発を指向しているようにみえる。だが、その本質は、日本の科学研究・技術開発の研究環 境を抜本的に底上げするというよりは、相変わらず限られた資源がゆえに、その効果的配分をすすめる ことで成果を上げる、すなわち競争的な研究環境を構築することで即効性の高い応用研究や開発研究に 重点をおくものとなっている。

 このような科学・技術政策の特徴は、高等教育政策にも見られる。大学審議会の答申「21世紀の大学 像と今後の改革方向についてー競争的環境の中で個性が輝く大学ー」が、昨年の10月に発表された。そ こに見られるものは、例えば、「個性が輝く」とはいっても知における日本の国際的競争力を強化せん がための大学の多様化、なおいえば種別化である。具体的にいえば、大学院中心の最先端の研究をおこ なう大学を頂点に、実務を中心とした専門的な職業教育の大学、地域社会を対象とした生涯学習をおこ なう大学、総合的な教養教育の大学などである。

 この種別化は、社会の多様な要請に応えるとはいっても、これまでの受験体制における偏差値という 大学の序列化の上に、各大学の役割付け(格付け)を、日本の研究教育を統括する文部省の名において おこなおうというものである。そしてなお、第三者評価システムの導入によって限られた資源の効果的 配分をおこなう。それは、研究・教育にはなじまない市場競争原理であるが、大学を国際市場での勝ち 残りための手段として生かそうというのである。

 こうした施策によって国家や企業の利益に奉仕することはできよう。だが、各大学のもつ可能性は限 定され、その豊かな発展の芽は摘み取られかねない。

 冒頭でも記したように、新理科で意図されていることは、このような科学技術政策、高等教育政策と も協調するものである。


◇研究関連サイト
文部科学省関連審議会の文書
 中央教育審議会答申「新しい時代を拓く心を育てるために−次世代を育てる心を失う危機−」 1998年6月
 教育課程審議会答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善について」1998年7月
 大学審議会答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について−競争的環境の中で個性が輝く大学−」 1998年10月
 大学審議会答申「グローバル化時代に求められる高等教育の在り方について」 2000年11月

科学教育研究協議会
東京科学教育研究所

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