歴史の歩みを加速させた兵器「鉄砲」

関野勇一


 鉄砲についてはまだわからないことが以外に多く、いつ誰によって日本に持ち込まれたのか、 そんなことすら正確にわかっていない。通説では、1543年に種子島に漂着したポルトガル人 が初めて2挺の火縄銃をもたらしたことになっている。しかし最近の研究の結果、この説も かなり怪しい。ただ、そのころから鉄砲の国内生産が始まり諸国に普及していったことは、 まず間違いないようである。

 まだ鉄砲が珍しい時期、大名たちはこぞって領地確保のために室町将軍家に鉄砲や大砲を 進上していた。(このことから、鉄砲が一般に普及する前までは戦争の道具というより贈答 品としての価値が大きかったようである)しかし、いったん合戦での有効性が認められると 諸大名は鉄砲の確保・装備を急ぎだし、そのスピードは大変なものであった。その結果、鉄 砲伝来わずか半世紀で日本中あらゆる所で使用されるようになり、戦国中期・後期ともなる と鉄砲や大型砲など大量の重火器の発展により甲冑や戦術、戦闘時間・空間、城郭などが一 変する(その間につくられた鉄砲の数も、延べ何十万挺に達するのか、どの程度か見当がつ かない、なかには、その数は当時のヨーロッパのどの国が所有していた数よりも勝っていた との説もある)。そうはいっても、鉄砲伝来初期の鉄砲の効果を過大に考えることは禁物であり、それによっ ての歴史の誤解・誤認もある。その極めつきが、鉄砲が天下統一を促進したというものである。 これは、織田信長が1575年の長篠の合戦で日本で初めて大量の鉄砲を組織的に使い、当時最強 の騎馬軍団を有していた武田氏を打ち負かし、その勝因は鉄砲にあるとしている。だが、最新 の調査の結果「信長は鉄砲を効果的に使用したのは間違いないが、それが決定的な勝因ではな かった」とする歴史認識が認められつつある。

 また、江戸時代の日本人は積極的に鉄砲を排除した理想的社会であったとする説や、徳川幕 府は銃火器を非合法化した、特定の大名だけしか銃火器の所持が認められていなかったなどと、 これらはとんでもない誤認・誤解から来るものまである。実際は、武士階級はもちろん庶 民の手にも江戸時代を通じてたくさんの鉄砲が存在していた。その理由は明白で、当時の大名・ 旗本には必ず軍役が課せられていたからである(軍役というのは武士が主人に対して提供を 義務づけられている軍事的な負担のことで、石高に応じて日数・人数・武器が課せられ、譜代 ・外様に関係なく、例外もありませんでした)。当然大名は規定された数の鉄砲を常備してお り、予備の鉄砲もかなりの数にのぼっていた。
 では民間ではどうであったのか。江戸中期の鉄砲調査記録をよると仙台藩3984挺、尾張藩3080 挺以上、長州藩4158挺という具合に、民間に大量の鉄砲が存在していたことが判る。つまり鉄砲 は、太平の世には鮮明な形で世に現れなくなっただけのことである。

 しかし、そんな鉄砲も幕末維新の動乱期には再び世に鮮明に現出する。この時期、西洋式の最 新銃が大量に日本に輸入され、国内は旧式銃と最新洋式銃が混在しながら、膨大な量の鉄砲が出 回るようになった。こういう状況下にあっては、士族たちも鉄砲を積極的に利用しないはずもない。現代では常識になっている が、近代戦争においては敵味方双方の火器の量と質が勝敗を決める。西南戦争で反乱士族たちが 政府軍に敗れたのも、戦略の失敗などという問題ではなく、相手方の火器装備が量質ともに優れ ていたからにほかならない。事実、西南戦争では雨のように銃弾が降り注いだ、と表現されるほ どの重火器戦争であったのだ。

 最後に、戦国期、特に徳川時代に日本の鉄砲製造工場としての役目を担っていた「国友鉄砲鍛冶」 について述べたい。現在の長浜市国友地区は、室町末期から江戸幕府の終末まで一貫して鉄砲鍛 冶の町として栄え、その規模・歴史においても国内随一で、最盛期には鉄砲鍛冶が八十戸も存在 していたという。国友における鉄砲の歴史を記す唯一の資料「国友鉄砲記」によれば、種子島に 鉄砲が伝来するのは1543年である。伝来した鉄砲は鹿児島藩主の島津家に贈られ、島津家はそれ を室町将軍足利家に贈ったという。そしてその鉄砲をモデルに同じものを作るよう命じられたの が国友鍛冶であり、その仕掛けを見極め、伝来の翌年には国産鉄砲を完成させた。
 国友と戦国武将との関係は織田信長から始まる。信長は早くから鉄砲に関心を寄せ、また合戦 武器として着目していたこともあり、鉄砲伝来わずか6年後には国友鉄砲鍛冶たちは、信長から鉄 砲五百挺の注文を受けている。さらにはこの注文により国友は鉄砲による生活・生産の基礎がで き大いに繁盛した。そのような関係から当時の国友は、はじめ京極家、次いで浅井家の支配地だ ったが、経済的には織田信長と深く結びついていったのである。しかし、国友鉄砲鍛冶が量産体 制を整えるのは徳川家康との関係が密接になって以後のことであり、大阪の両陣がその契機にな った。というのは、家康は大阪方に対する戦備から、国友鉄砲鍛冶の集団を直接支配下におき、 銃砲製造工場としての役目を担わせ、大量の大砲などを発注し、本格的に量産体制を整えさせた からである。

 余談だが、伝来した鉄砲にはネジが使われていた。当時の日本の工学技術にはネジの発想がなく、 そのネジにずいぶんてこずったようである。鉄砲の製作には「張り立てる」という製法が使われた。 鉄砲のシンになる棒を立てて置き、そのまわりを薄い鋼の板で巻いてゆき、その間、焼いたり打っ たりして、何枚も張り重ね、最後にシンの鉄棒を抜き取るのだ。この製法により当時の日本の鉄砲 は諸外国と比較しても格段に質がよかった。なかでも国友製の鉄砲は高級鉄砲として高い値で売買 されていた。「張り立て」がたんねんで、結果として銃身が強固であったからだ。南蛮渡来の鉄砲 は日本と同じ製法だが、鍛造や張り立てにおいて粗末だったといわれている。また堺の鉄砲も国友 製よりも入念でないため、値段も安く、国友鍛冶たちはそのようなざっと作られた鉄砲を「やすで っぽう、うどん捲き鉄砲」などとよんでいたという。

■引用・参考文献
 ノエル・ペリン著、川勝平太訳「鉄砲を捨てた日本人」〔中央文庫〕
 鈴木眞哉著「鉄砲と日本人」〔ちくま学芸文庫〕
 宇田川武久著「鉄砲伝来」〔中公新書〕
 司馬遼太郎著「街道をゆく〜近江・奈良散歩」〔朝日文庫〕

 


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