西陣のこと/2002.6.15

谷口 美好

■西陣の地理的定義

 西陣は日本最大の和装織物の総合産地である。京都市の北西部に位置し、一般 的には、北は北大路通り、南は丸太町通り、東は烏丸通り、西は西大路通り、に 囲まれた地域をさすことが多い。小学校名として使用されてきた以外は、行政区 画として存在したことはないので、はっきりと線引きすることは難しい。
 その一般的に西陣であるといわれている地域の中に、俗に「ほんまの西陣」と 呼ばれる、最も古くから西陣織を営んできた地域がある。上京区大宮今出川を中 心として、北は廬山寺通り、南は一条通り、東は堀川通り、西は千本通り、に囲 まれている。ここが西陣織の発祥の地だといわれている。西陣織の生産が拡大す るにしたがって、西陣の区域は拡大していった。

■西陣の歴史

 織物の技術そのものは、5〜6世紀ごろに大陸から渡来してきた秦氏の一族が、 今の京都の辺りに住みつき、養蚕・絹織物の技術を伝えたことに始まるとされて いる。
794年(延暦13)平安遷都によって京都が政治・経済・文化の中心地になると、 政府はそこで生活する貴族・公家・官僚たちの生活をまかなうために、いろいろ な分野で産業育成を行った。その一つに、織部司(おりべのつかさ)という役所の 下、絹織物の技術を担う工人(たくみ)たちによる、錦・綾・羅・紬(つむぎ)など の高級織物の生産があった。それらは手工業による小規模なものではあったが、 既に高度な技術が用いられていたらしい。工人たちは上京区上長者町の近辺に集 まり、織部町という町を形成していたといわれる。
 平安時代の中期以降になると、官廷勢力の衰退、幾多の戦乱による都の混乱に より、律令政治のタガが緩みはじめ、多くの産業が衰えた。織部司もほとんど機 能しなくなり、工人たちは民業として自ら織物業を始めるようになった。彼らは 元々いた織部町の近くの大舎人町(おおとねりまち)に移った。後の鎌倉時代には 「大舎人の綾」とか「大宮の絹」と呼ばれ珍重された織物が生産されている。 室町時代の京都は、それまでの王朝貴族の都市から、商人や手工業者で賑わう都 市に変貌を遂げていた。大舎人座(おおとねりざ)など商工業者による各種の同業 者組織が形成され、見世物棚という今日の商店につながるようなものも現われ た。朝廷の内蔵司(うちのくらのつかさ)からの需要にも応えつつ、公家や武家な どの注文にも応じていた。
 室町時代の中頃、京都を舞台に起こった応仁の乱(1467〜77年)では、戦火をさ けるために織職人が和泉の堺などに逃れていた。それにより大舎人町の織物業は 壊滅状態になった。戦乱が治まって京都に戻ってきた織職人たちが、元いた場所 に近い白雲村(現在の上京区新町今出川上ガル付近)や、西軍の本陣跡である大宮 辺りに住みつき、織物業を再開した。また、大宮近辺の織物業者は大舎人座を再 び復活させた。「西の陣の跡」が転じて「西陣」という呼称が生まれ、そこで生 産される織物を「西陣織」と呼ぶようになる。
 室町時代に発達した町人による自治組織は、織豊政権の下で破壊され、体制に 組み込まれることによって大きく後退するが、江戸幕府も同じ支配の方法を受け 継いでいく。
 民業としての機業は、安土桃山・江戸と、時の権力者に保護され、支配層へ高価 な着物を供給しながら大きく発展していった。また、海外からの技術導入も積極 的に進め、大陸伝来の高機(たかはた)という技術は、先に染めた糸を使って色柄 や模様を織り出す紋織(もんおり)を可能にした。こうして現在の西陣織の基礎が 出来上がる。
 しかし、江戸時代の半ば、天保時代に差しかかると、冷害・洪水による飢饉、 物価の高騰などによって社会が混乱する中、幕府は天保の改革の一つとして「奢 侈禁止令」(1841年)を出して商品経済の統制を狙った。高級品だとされる西陣織 物についても需要が減少し、幕府の保護政策が転換されると、一転して苦境に立 たされるようになった。また、丹後や桐生など各地方でも新しい絹織物産地が興 ったことも受け、それまでの独占的な地位を失っていった。天保の改革は失敗に 終わって、結果的に幕府の権威を失墜させる原因となった。こうした状況は明治 維新まで続くことになる。
 18世紀以降、西陣機業は相対的に地位は低下したが、依然として大きな市場支 配力をもっていた。室町は各地から生産品が集まってきて、消費地に送りだす機 能を果たす集産地問屋であり、西陣がそれの近くにあったことも一因だが、他に も、京都の厚い文化的基盤に支えられ、時代に応じたデザインを供給可能だった ことも挙げられる。その背景には、西陣を含む上京に、能・茶・絵などに携わる 文化人が多く住んでいたことも無関係ではないようだ。
 明治維新による東京への遷都は、京都の街から活気を奪っただけでなく、貴族 や庶民を含めて服装の洋風化をもたらし、西陣の需要は半減した。それの対策と して新しい活路を模索するべく1869年(明治2)の11月に西陣物産株式会社が設立 された。生産技術の更新のためにフランスのリヨン機業の諸技術に着目した。 1873年(明治6)には佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七の3名がフランスに派遣さ れ、ジャガード織物などの技術導入を図り、その年12月に日本に導入された。そ れでも普及するには10〜15年を要したといわれている。他にも、伊達弥助、早川 忠七はウィーン万国博覧会に派遣され、渡欧2年間に研究した織物技術を西陣に 伝えた。その結果、西陣の技術革新は飛躍的に進展した。
 近代化を達成した西陣機業は、西陣の町にも目に見える発展をもたらした。明 治後半ともなると、西陣には金融機関の設立が相次ぎ、各銀行が支店を構えた。 芝居の劇場、映画館などの娯楽施設も建ち並んだ。大正に入ると、道路の拡張、 市電の開通があり、地域の交通も様変わりする。西陣織物館が1915年(大正4)に 開館されるころには、西陣機業は西北部へと拡大していた。
 昭和に入り、1937年(昭和12)には日中戦争が起こる。繊維の消費が統制され、 西陣織も減産に追い込まれ、特に1940年の「奢侈品等製造販売制限規則」、いわ ゆる「7・7禁止令」によって大打撃を受けた。戦時下、職人は軍に徴用・召集で とられ、西陣はいわば火が消えた町になった。
 第2次世界大戦の後、しばらく戦時の統制から立ち直ることが出来なかった西 陣機業も、1949年になって、生糸・絹織物の価格統制の解除、正絹織物の配給制 度の解除、更に翌年に起こった朝鮮戦争の特需によって、西陣の需要を拡大させ た。極端な衣料不足とインフレ景気のために、ヤミの生産・取引が横行し、数多 くの零細な自営業者が生まれたが、ドッジ・ラインの影響を食らって没落する者 も出た。
 その後、日本経済の復興とともに西陣機業も成長を遂げたが、規模の拡大のみ ならず、生産される製品の種類も増えた。「固有西陣」と呼ばれる帯地、着尺、 金襴に加え、「新興部門」のネクタイ、室内装飾なども作られるようになる。
 しかし、1960年代の高度経済成長は、生活様式の都市化を促し、それに応じた 洋装化は着物離れを進展させた。それに対し、西陣は商品の高級ブランド化を目 指したが、流行への対応や、桐生・十日町などの地域機業との競争が激化し、苦 戦を強いられるようになった。また、西陣の劣悪な労働環境は戦前から改善され ておらず、特に出来高給や長時間労働は若年労働者から嫌がられ、高度経済成長 下の全国的な労働不足は、西陣機業において深刻なものとなった。
 1970年代に入って、アメリカが保護貿易の傾向を強め、ドル・ショックにより 円が大幅に切り下げられた。その上、1973年(昭和48)のオイルショックで原糸価 格の暴騰が起きたことは、西陣機業の不況を顕著にさせた。高度経済成長の伸び も鈍化し、経済は成長より安定化に向かっていた。こうした状況で、西陣機業は 新しい技術の導入や、大規模な生産調整を施したが、基本的には、西陣を出て、 安い労働力を使って生産させることで、この状況を乗り切ろうとした。しかし、 それは西陣が産業空洞化へ向かうことに直結していた。

■産業構造

 西陣地域は、1990年代の調査では、人口およそ10万人弱、世帯数3万6000余の 町である。1980年には10万人を超えていた人口も、5年後の1985年には7%も減少 し、10万人を割っている。世帯数も減っている。 
 その中で、西陣機業に限定すれば、1980年には、繊維工場数4,210、従業者数1 万5,247人、1つの工場あたりの従業者数は3.62人の規模だった。これが5年後の 1985年になると、繊維工場数3,417で2割減、従業者数も1万2,410人で2割減、1つ の工場あたりの従業者数は3.63人である。因みに、西陣織工業組合のホームペー ジによる、2001年(平成13)の西陣織メーカー数は724軒であった。尚、上記の繊 維工場数と西陣織メーカー数が同じものを指しているのかは疑わしいので、短絡 的な比較は控えておく。
 西陣地域の織機台数は、2001年度で9,272台である。内訳では、手機1,167台、 力織機7,357台、綴機248台となっている。産業空洞化がまだ表面化してなかった 1966年(昭和41)の調査では、織機台数はおよそ2万台であった。
 西陣織は家内工業的な職住一体の生産が基本にあり、これは多品種少量の生産に 適している。製織工程を中心にして、原料準備工程(撚糸、糸染など)、企画・製 紋工程(意匠、図案、紋紙など)、機準備工程(整経、綜絖など)、そして、仕上げ 工程(整理、加工など)等の多くの関連工程が組織化し、独立したそれぞれの業者 が専門・分業化されている。それが西陣の地に集中しており、大小の経営規模の 機業が建ち並んでいることから、多層的集積構造である。一つの地域に集中と分 業が集積されていることが、西陣らしさだったといえる。
 現在、西陣の織屋には三つの形態があるといわれる。@自己工場(内機)だけで 生産をおこなっている織屋、A出機(賃機)のみで生産をおこなっている織屋、B 自己工場(内機)と出機の併用による生産をおこなっている織屋、が挙げられる。 Cは比較的規模の大きい機業の形態である。AとBは賃機業者を抱えていて、機 業家から原材料などが支給され、自宅で生産している。
 出機に限れば、賃金は次のようにして決められる。緯糸が経糸の間を1回通る ことを1越(こし)といい、経営者である織元が1越あたりの単価を決定し、生産さ れた商品が何越であるかを求め、賃金が支払われる。織元は景気や経営状況に応 じて単価を操作する。出機同士の間では、どの織元がどういう単価をつける傾向 があるかという情報が飛び交っている。
 1950年代の前半より織機の機械化が進み、55年には手機の台数を凌いだ。また ウール・化合繊着尺が登場は需要を押し上げ、大衆化が進むにつれて丹後地区へ の出機が増えていった。そもそも地区外に出機に出すのは、安価な労働力を使う ことによって、製造コストを下げる狙いがある。この時点での区外への進出は、 技術的に難度の低いものに限られていたが、次第に地方の技術水準が上がり、難 度の高いものも扱うようになった。
 高度経済成長期における、労働力不足、織機の機械化による技術の単純化、西 陣地区の過密化・地価高騰、が西陣の空洞化の原因になったが、それに加え、 1970年代半ばからは、和装需要の落ち込みや不況の対策、としてもたらされた。 72年には4割ほどだった丹後を主とした地区外出機は、90年には7割にも達する。 安価な労働力で長時間労働を可能とする丹後の出機に職を奪われていったことを 意味する。地方生産に自信をつけた機業家は、輸送や通信という管理手段が整う と、コスト重視を徹底するために、ますます地方への展開を推し進めた。
 空洞化した西陣は大きな変貌を遂げた。工場は縮小され、地域の商店街も活気 を失っている。特にバブル経済期になると、かつて織屋だったところには投機目 的でビルやマンションが建てられ、古くから地域に住んでいた西陣織の関係者は 遠のいていった。


■参考文献

  『甦る都市』住生活研究所 1995 
  『変容する西陣と暮らしの町』佛教大学西陣地域研究会 1993
  『西陣研究』本庄榮治郎 1930
  『西陣機業における原生的産業革命の展開』服部之總 1948 
  西陣織工業組合ホームページ




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