学院長コラム「考えてみチャイナ・中国のこと!?」バックナンバーその61~


その61 1980年代に体験した中国「電報」事情から(2)――「ムカエタノム」の電報では、到着時間は伝えないのが常識?!(2021年6月26日(土))
■1987年12月6日、天津・南開大学で在外研究中だった私が受け取った、旅行で大連滞在中の阪口直樹さん(同志社大学助教授/武漢大学で在外研究中)からの電報用紙を再掲することから始めよう(「その60」の写真参照)。――押印は「1987.12.5/天津 八里台 电〔電〕信」、宛先は「八里台南开〔開〕大学专〔専〕家楼宇野木洋」で、電文は「(8)日乘船(15)点开离〔離〕大连〔連〕去天津新港望接阪口」となっている。「八里台」は南開大学の所在地名であり、押印は「八里台電報局」の意味らしい。電文を直訳すれば、「8日に乗船し15時に大連を離れて天津新港に行く、迎え頼む、阪口」となる。――以下、その後の顛末を、当時の日記を参照しつつ、簡単に紹介しておく。

■この電報を受け取るや否や、「大騒ぎ」を始めるよりなかった。私が受け取った情報は、「8日15時大連発に乗船」のみである。天津新港への到着時間は不明なのだ。鉄道の全国時刻表は購入していたが、船の時刻表など持っていない。あちこち尋ね回ったが、中国人でさえも船の時刻表など見たことがないとの返事ばかりだ。大連から天津新港までの所要時間を聞いても、諸説が示される。ようやく天津新港発大連行きに乗船したことがあるという人を2人見つけたのだが、1人は16時間、もう1人は22時間との回答だった。22時間ならば到着は9日午後1時だが、16時間だと朝7時になる。実は、天津新港は天津市街地から60キロほど離れている塘沽と呼ばれる地域にあるので、早朝7時となると、当時の鉄道事情を考えれば、前泊するしかなくなるのである。そして当時は、外国人が外資系ホテル以外の宿泊所を予約することはなかなか困難で、現地で部屋の有無を尋ねて交渉するよりないことが多かったのだ。結局、最悪の場合を考えて前泊することにし、天津新港には外資系ホテルはないらしいので、南開大学外事処の職員に宿舎の確保を頼み込む。海員倶楽部旅館部なる宿舎が手配できたとの連絡を受けたのは、出発前日の7日夕刻だった。

■なお、この「大騒ぎ」の元凶は、阪口さんが電報に到着時間を記してないことにあったので、私の中で、阪口さんへの腹立ちも生じなかったわけではない。だが、後で知ったことだが、当時の中国の交通事情は、船舶はもちろん鉄道も「遅れるのが当たり前」だったので、電報で迎えを頼む際には、乗る交通機関の到着時間ではなく、出発時間を記すのが一般的だったようだ。ただし、普通は出発時間とともに、鉄道ならば列車番号、船舶なら便名も記すのが常識だとの声も耳にはした。阪口さんは、当時の中国においてはルール違反ではなかったらしいことは、改めて確認しておこう。

■8日午後1時半過ぎに宿舎を出て、大学正門前の八里台バスターミナルからバスに乗り、天津北駅に向かう。駅窓口では、乗車予定だった北駅始発の切符はすでに売り切れており、北京発秦皇島行き中距離列車の硬座(2等席)切符をようやく確保するなど、あたふたしてしまう。ちなみに切符は1.6元(当時のレートで約64円)だった。3時35分発なのにホームへの改札が開いたのが3時半だったため、押し合いへし合いしながら乗り込む。何とか席を確保できてホッとしたせいか、少し居眠りをしてしまい、もう少しで乗り過ごすところだった。塘沽着は4時20分過ぎ。駅前から30分ほどバスに揺られて新港に到着。日記には、「バスの窓から見る景色は、市内と全く異なる。家々も煉瓦造りで、視界全体が何となく黄色い世界。バス代が1.5角〔約6円〕なんて初めての経験!」と記されている。かなりの田舎だった記憶が蘇る。

■5時過ぎに新港到着。まずは客船の波止場を見ておこうと、埠頭の人が集まっている方へ歩んでいくと誰何される。どうやら貨物船用の波止場へ行ってしまったようだ。客船が接岸する場所を訊いて、指示された方へ出向いても人っ子一人いない。この日の客船は、もうすでに全て終了していたのだった。かなり暗くなっていたこともあり、宿舎の海員倶楽部へ出向く。古い4階建ての建物だが、落ち着いた宿舎で安心した。1階に「豆の木」という日本料理(モドキ)の店があって、つい嬉しくなって、カツ丼+冷奴+サラダ+缶ビールで夕食。全て「モドキ」的な料理だったが、値段は80元(約3200円)ということで、中国人庶民の生活水準とのギャップに、改めて驚かされた。

■遅々として話が進まなくなってしまった。日記を紐解いてしまったからかもしれないと、改めて思う。34年前の話だが、中国の変化の激しさに圧倒させられるからだろう。「電報」話を、あと1回だけ、お許しいただきたい。――今は亡き阪口さんの思い出としても……。



その62 1980年代に体験した中国「電報」事情から(3)――阪口直樹さん(当時・同志社大学助教授)の思い出も兼ねて……(2021年7月27 日(火))
前回コラム(「その61」)の続きである。時は1987年12月9日、場所は天津新港の「客運站」(客船接岸場)。当時の日記を引用することから始めよう。――「朝6時半に起床して、7時に朝霧の中、波止場へ向かう。まだ暗い。人っ子一人いない。港湾職員が集団でジョギングしているのみ。遠くで微かに汽笛の音。ひどく寒い。貨物運搬事務室に灯りが点いていたので訊いてみると、「大連発の到着は予定では7時だが、いつも8~9時頃に到着」とのこと。ではその間に朝食を、と思って海員倶楽部に戻るも、餐庁はまだやっていない。倶楽部入り口のソファに座っていると、汽笛が徐々に大きくなるので、何となく不安になって、7時40分頃、客運站へ出向く。寒い中、佇んでいると、突如、バス(北京・天津市内からの直行便)やタクシーが続々と到着して来て、大荷物を抱えた中国人で、埠頭が活気づき始める。天津新港発の客船に乗り込む乗客は、こうした交通手段でやってくることを初めて知った。その一方で、港湾職員の作業が妙に緩慢なのに驚くしかない。客船が入港してから接岸するまでに、やけに時間がかかる。待合室や2階の展望室を行ったり来たりしながら、接岸完了をただひたすら待つしかない。それにしても展望室から見る新港の大きさには、改めて驚かされる。やはり上海・大連に次ぐ中国第三の港に間違いなかった。」

■8時半過ぎに、ようやく大連発の客船が接岸する。「参観遊覧券」(「客運站」への入場券を兼ねる/2角=約8円)を購入して船に近づく。さほど大きくはないが、予想以上に多くの乗客が降りて来る。必死に阪口直樹さんを探していると、かなり最後の方になってからやっと登場。くたびれた背広に古びた中国製ダウンコートを羽織り、手には汚れたトランクという風体は、天津に出張してきた「基層幹部」としか言いようがなく、完全に中国人に融け込んでいて、一瞬、気づかなかったほどだった。――ともあれ、久々の再会を無事に果たすことができて喜び合ったものだった。同時に、これで12月6日午前10時頃に阪口さんからの電報を受け取って以降の3日間の「大騒ぎ」、即ち、「8日15時大連発に乗船」という情報のみで阪口さんを出迎えるという「任務」が、ようやく終わりを告げたのだった。

■ところで、この時の様子を、阪口さんは後に、武漢大学在外研究報告記「珞珈山の麓から通信」(「珞珈山」とは武漢大学キャンパス内にある標高100mほどの丘陵群の名前)の「その6」で、以下のように記している。「今回は“友を訪ねて三千里”の一人旅の報告である。〔中略〕12月9日朝7時、天津新港の波止場で、宇野木が迎えに来てくれた。妙に不機嫌なので聞けば、市内中心部から離れた新港で一泊したのだそうだ。電報一本でムカエタノムは中国のやり方だから仕方がない。〔中略〕名門南開大学だが敷地は思ったほど広くない、武漢大の3分の1あるかどうかだ(南開は立命と協定し、同志社は武漢大と協定しているので対抗意識が出ているのだ)。早速、張学植(現代文学)、張学正(当代文学)〔私の在外研究の受入れ教員。本当にお世話になった〕と懇談、中文系資料室を見学し、映画「老井」〔87年制作。監督・呉天明/日本上映の際の題名は「古井戸」。後に監督として名を挙げる張芸謀が主役を務める〕を鑑賞するというハードなスケジュールをこなしながら、夜は「マリン神戸」〔天津で有名な日本式スナック/ちなみに天津の姉妹都市は神戸〕と宇野木の専家楼をはしごしながらの宴席となる。〔中略〕宇野木はまだ中国に慣れないまま「感動」と「激動」の時期を過ごしているようだ。でも久方ぶりに研究会後の二次会の雰囲気を味わってイカッタ!」(『中国文芸研究会会報』第74号、1988年1月31日)。

■阪口さんの電報に端を発した「大騒ぎ」に翻弄されて不満が蓄積し、何となく「不機嫌」になっていたのを見透かされていたらしい。中国滞在開始2ヵ月余で、まだ当時の「中国の常識」に慣れきれずにいたのも、今から思えば事実だったようだ。ちなみに、阪口さんの「“友を訪ねて三千里”」の旅とは、11月24日に武漢を出発して、哈爾濱・長春・大連そして天津、その後、北京(私も同行した)・済南と回った24日間の一人旅だった。当時44歳だった阪口さんの行動力には、当時の交通事情その他を鑑みれば、やはり脱帽するしかない。

■阪口さんに関して、最後に2点だけ付記しておく。1つは、この武漢大学での在外研究を契機に開始され、後に『十五年戦争期の中国文学――国民党系文化潮流の視角から』(研文出版、1996年)に結実された、抗日時期における国民党の文学・文化政策の研究という、従来、無視されてきた問題群に焦点を当てた画期的な研究は、学界では今でも高く評価されている。2つ目は、阪口さんは2004年8月に、胃癌のため逝去されている点である。61歳というあまりに早過ぎる死からすでに17年の歳月が過ぎていたことに、今回、改めて気づかされたと言えよう。なお、私の阪口さんへの思いは、追悼文「最高の「何でも屋」――阪口直樹さんから教わったこと(私的覚書)」(『野草』第75号、2005年2月)に記している。



その63 「台風煙花」上海上陸?!――アジアにおける台風の名前について(2021年8月31日(火))
■去る7月25日、上海在住の中国人の友人から、「微信〔WeChat〕」で、「台風煙花登陸,暴風雨厲害!〔台风烟花登陆,暴风雨厉害!/台風花火が上陸して暴風雨が激しい!〕」というキャプションとともに、ビルの窓に雨粒が横殴りで叩き付けられている動画が送付されてきた。当初、「煙花〔花火〕」が何を指すのか全く分からず、台風の渦巻きの様子や激しさを形容しているのかとも思ったほどである。――「煙花」とは、実は何と台風の名前だったのだ。日本では(2021年)第6号と呼ばれた台風は、沖縄の西から東シナ海を北西に進んで浙江省舟山群島に上陸した後、杭州湾から上海のすぐ南に再上陸して西へと進路を進めた。再上陸時でも975hpaを維持して秒速35mもの暴風雨をもたらしたため、上海南部では数万人が避難し、幾つかの地域で冠水も生じて一部の地下鉄も運航停止したのだった。

■米国にはハリケーン(大西洋西部発生の台風など)に人名を付けること(以前は女性名だったが、男女同権の観点から、1979年より男女名を交互に用いている)は知っていたが、中国でも台風に名前を付ける習慣があったのかと思って調べてみたところ、日本でも、というかアジアにおいては、台風に共通の名前を付けていたという、私にとっては衝撃的な事実(一部の人には常識だったのだろうが)を教えられたのである。以下、気象庁のHPなどを参照しつつ簡単に紹介しておく。――2000年以降、北西太平洋及び南シナ海で発生する台風の防災に関する各国政府間組織である台風委員会(日本・中国はじめ14ヶ国・地域が加盟)は、同領域で発生する台風に共通の「アジア名」として、同領域内で用いられている固有の名称(加盟国・地域が提案・決定した名前)を付けることになったのだった。その目的は、「国際社会への情報に台風委員会が決めた名前をつけて、それを利用してもらうことによって、アジア各国・地域の文化の尊重と連帯の強化、相互理解を推進すること」「アジアの人々になじみのある呼び名をつけることによって人々の防災意識を高めること」にあるという。なお、台風委員会には北朝鮮・香港・マカオも加盟しているが、台湾は加盟していない。ともあれ、「文化の尊重」「連帯の強化」「相互理解の推進」を心より期待したい。

■具体的な名付け法は、14ヶ国・地域が各10個の名前(アルファベット9文字以内)を出し合って、国・地域名のアルファベット順に1個ずつ並べた計140個の名称リストを作成して、順番に当て嵌めていくという方式である。台風の年平均発生数は25.1個なので、5、6年で1巡する計算になる。即ち、2000年の第1号台風がカンボジア命名の「Damrey〔象〕」、第2号が中国の「Haikui〔海葵/イソギンチャク〕」から始まって、1巡目の最後(140番目)がベトナム命名の「Saola〔ベトナムレイヨウ/ウシ科の動物〕」で、2005年第17号がそれに相当した。その後、3巡して、本年の第6号が中国では「煙花」と表記されたが、実は中国命名ではないマカオ命名の「In-fa〔煙花/おそらく広東語〕」だったのである。

■日本が命名した10個の名称は、「Koinu〔子犬〕」「Yagi〔山羊〕」「Usagi〔兎〕」など星座に基づくものだった。中国はどうかと思って調べてみると、上記の「Haikui」の他は「Wukong〔(孫)悟空〕」「Yinxing〔銀杏〕」「Bailu〔白鹿〕」「Fengshen〔風神〕」「Haishen〔海神〕」「Dujuan〔杜鵑/ツツジ〕」「Dianmu〔電母/稲妻を司る女神〕」「Mulan〔木蘭〕」「Haitang〔海棠〕」の10個で、植物・動物名や架空の人・神の名前などが並び、統一感に欠ける気がするがどうだろうか。ただし、この台風の名称は不変ではなく、ある名前の台風が甚大な被害を引き起こした場合などは、台風委員会での議論を受けてその名前を「引退」させることがあるようだ。ちなみに、中国が命名した名前の内、「Haikui」は「Longwang〔龍王〕」の「引退」後に替わって入ったものであり、「Yinxing」は「Yutu〔玉兎/月に住む兎〕」の、「Bailu」は「Haiyan〔海燕〕」の、「Mulan」は「Haima〔海馬/タツノオトシゴ〕」の「引退」後に新たに加わったものとなっている。

■『光明日報』2020年9月22日付は、「请你给台风起个名字〔台風に名前を付けて下さい〕」という記事を掲載していた。2018年第26号台風「Yutu」は米国領マリアナ諸島に多大な被害を及ぼしたため、「Yutu」の名称は「空席」となり、2021年2月の台風委員会で新たな名称を提案するので、「9月21日、台風命名活動に向けて、防災・減災知識の普及を積極的に広め、公民の台風に対する知識と予防力量を向上させるために、中央気象台は「台風に名前を付ける」活動を展開し、公民の台風命名を募ることにした。…中央気象台は、最終決定された名称を提案した公民に「台風命名専属証書」を授与する」と報じている。「Yinxing」に決まった背景や命名者がどんな人かなど気になったが、続報は見つけられなかった。残念!



その64 ピンイン(拼音)表記についての雑談――漢字廃止の「夢」から始まった?!(2021年10月5日(火))
■先日、京都市営地下鉄に乗っていた際に、「sisui」というアルファベットが目に飛び込んできて、「エッ、4歳って何?!」と思ってしまった。ドアの上に貼られた宣伝ポスターに、少し大きく記された文字である。――言うまでもなく、中国語の「四歳〔四岁〕」を中華人民共和国の発音表記法である拼音(ピンイン)で記せば、「sisui」になるからだった。中国語固有の高低アクセント(四声)をも付して記すと、「sìsuì」である。……つい、思わせぶりに書いてしまったが、ポスターの「sisui」は、「紫翠(しすい)」という着物メーカーが社名をローマ字表記していたのだった。せめて「shisui」とヘボン式を用いて表記してくれていたらと思わないでもないが、だがこれだと、「十歳〔十岁〕」または「実歳〔实岁〕/満年齢」(四声付き拼音表記はともに「shísuì」)と錯覚してしまったかもしれない。

■以上は、拼音表記と日本語ローマ字表記との混乱の例だったが、アルファベット表記の英語との間でも、当然ながら混乱(?)は存在する。――学生時代に、中学1年生の家庭教師のアルバイトをしていた際のことだった。「What is your name?」の最後を、「ネィム」ではなく「ナームォ」と発音してしまい、生徒から、「この先生、ホントに大学生?英語は大丈夫なの?」といった視線で見つめられてしまったことがあったのだ。「そのように/それでは」という意味で日常的にも多用される「nàme〔那么〕」と、一瞬、錯覚してしまったらしい。ちなみに拼音表記の「e」は、口は「エ」の形で「ウ」と「オ」の中間を発音するような曖昧な母音を示す。中国語を学び始めて、独特の発音とその表記方法に悪戦苦闘していた頃の失敗談である。この他、女性の複数形を指す「women」が中国語の一人称複数を示す「wǒmen〔我们〕」と同じスペルであるため、発音する際に一瞬のためらいが生じるといったことも、中国語学習者の間では、時たま笑い話になったりもしている。

■拼音、即ち、正式には「漢語拼音方案」と呼ばれる発音表記法とそれに基づく文字である「漢語拼音字母」(アルファベット26文字からvを除き、uの上にドイツ語などで用いるウムラルトを付したüを加えた26文字を使用)は、1958年に決定された。49年の建国時期の識字率が約25%(男性40%/女性5%)といわれる状況を一気に改革していくために、56年に国務院が「漢字簡化方案」を公布して、簡体字という独自に簡略化した漢字の普及を開始したことと呼応しながら提起されたのだった。新たな国づくりの基礎は国民の教育水準向上にあるとして、国を挙げて取り組んだプロジェクトだった点は、確認しておかねばならない。同時にこの時期には、拼音は将来的には、「漢字に代替される文字」として位置づけられていたことも、忘れるわけにはいかないだろう。

■というのも、中国においては、近代化の遅れが課題となった1920~30年代に、「国字羅馬字〔国字ローマ字化〕」、「拉丁化新文字〔ラテン化新文字〕」と呼ばれる運動が、国民党・共産党を問わず、かなり広範囲にわたって提唱・展開されていたのだった。中国が侵略に抗して欧米のような近代国家になっていくためには、「文字改革」即ち「漢字廃止/ローマ字化」が不可欠であるとの認識が、特に、知識人の間では一般的であり、中国現代文学の父と呼ばれる魯迅も、「漢字不滅,中国必亡〔漢字が滅ばなければ、中国が亡ぶ〕」との認識を示したこともあったのである。その意味では1958年の「漢語拼音方案」の制定は、漢字廃止へ向けた「夢」への第一歩だったと言うべきなのかもしれない。

■だが、現在、「漢字亡国」論は、完全に雲散霧消化したのではないか。その背景には、コンピュータの出現により、簡単に漢字が書ける(打ち込める)ようになったことが存在するようだ。――倉石武四郎『中国語五十年』(岩波新書、1973年)には、建国後の「文字改革」事業の指揮を執った周恩来が、日中国交回復直前に中国訪問した藤山愛一郎(政治家・実業家)に向かって、「漢字のような表意文字は、いずれ滅びる運命にありますよ」と断定したエピソードが紹介されているが、隔世の感は否めないところだろう。



その65 「もし魯迅が生きていたら」と問われた毛沢東の回答は?――魯迅生誕140年にあたって(2021年11月23日(火))
□「本コラム」の10月分を、遂に休載するしかなくなってしまいました。この10月から11月にかけては、想像以上に仕事が集中してしまった次第です。――授業が突然、対面とオンラインのハイブリッド型に切り替わり、中国語やゼミ、院生指導といった小集団授業はまだしも、受講生200名強という大講義ではその準備と授業後のフォローに追われまくるしかありませんでした。また、学会シーズンということもあって、学会全国大会シンポジウムなどのコメンテータやら司会やらが続いてしまい、挙句の果てに、幹事校として日本孔子学院協議会の開催も担わざるを得ず、結局、6週間にわたって土日がほぼ全て潰れたことが、この体たらくを招いてしまったようです(なお、こうした学会や全国会議は、全てZoomその他を用いたオンライン会議方式の実施でした)。言い訳にもなりませんが、一昨年5・6月分の「本コラム」を肺炎入院(もちろんコロナ禍以前の出来事でした)によって休載して以来の、2度目の休載をせざるを得なくなってしまったこと、何卒ご海容下さい……。

■今年は、中国現代文学の父と呼ばれる魯迅(1881~1936年)の生誕140年に相当する。ということは、もし魯迅がもう少しだけ長生きしたとすれば、中華人民共和国の建国を68歳で迎えたことになるのだ。高齢者に区分はされるものの、文学者・思想家としては、まだ十分に現役で活躍できている年齢だろう。また、例えば晩年の魯迅が高く評価した詩人・文芸評論家の胡風(1902~85年)が、共産党の文芸政策は、作家の頭上に、「完全無欠の共産主義世界観を持たねばならない」などといった「5本の刀」を突き付けているに等しいと主張したことにより批判され、最終的には「反革命罪」で懲役14年を言い渡された、いわゆる「胡風批判」が展開された時期も、まだ74歳に留まっていた。更に、文革への道筋を切り開いたと言われる「反右派闘争」(最終的には55万人もの人々を「右派分子」と認定して追放し、労働改造その他に追いやった。文学界でも丁玲といった建国前からの著名作家のみならず、王蒙・劉賓雁という建国後に登場して来た有力新人作家までもが「右派分子」とされた)が展開された時期は76、7歳、そして文革勃発時でも85歳だったことに改めて気づかされる。かなりの高齢だとはいえ、文革初期における、あの内乱状況としか呼べない事態の出現さえをも目撃できていた可能性も、それなりに高いとも言えるのだ。とすれば、「もし、中華人民共和国建国後に魯迅が生きていたらどうなっていたか」という「仮説」を設定することも、意味はなくはないようにも思うのだがどうだろうか……。

■実は、こうした大胆な「仮説」を、何と毛沢東自身に直接ぶつけた人物がいたらしい。「1957年の夏、毛沢東は上海で文芸界の人士と接見したが、翻訳家の羅稷南はその中の一人だった。談話の中で羅は毛に向かって大胆に疑問をぶつけた。「もし今日、魯迅が生きているとしたら、どうなったでしょうか。」毛はこの大胆な質問を無視することもなく、しばらく黙考した後にこう答えた。「私の推測では、魯迅は監獄に押し込められてもまだ執筆するか、大勢をわきまえて沈黙するか、そのどちらかだ。」懸念にも近い問いに対して返って来たのは、かくも厳しい回答だった。羅は驚きのあまり、それ以上、言葉が出なかった。」(張緒山「毛沢東棋局中的魯迅――従“假如魯迅還活着”説起〔毛沢東の局面における魯迅――「もし魯迅が生きていたら」から始めよう〕」、『炎黄春秋』第6期、2009年)

■「1957年の夏」という「反右派闘争」の全面的展開がまさに開始されつつある時期に、毛沢東は、いわば、「魯迅が生きていたら、獄中に監禁されるか(書き続けるが発表はできない)、沈黙するか、そのどちらかだ」と答えたのだった。――この逸話は、羅稷南が長い間、自分一人の心の中に仕舞い込んでいたものを、後に魯迅の息子・周海嬰に会った際に、つい漏らしてしまったことから、周の著作『我与魯迅七十年〔私と魯迅の七十年〕』(南海出版公司、2001年)で公表されてしまい、一時、話題にもなったのだった。

■以上の内容は、中兼和津次『毛沢東論――真理は天から降って来る』(名古屋大学出版会、2021年)の第2章「毛沢東と魯迅――もし魯迅が革命後も中国にいたら?」を参照しながら記したことをお断りしておく。中兼氏は、「もちろん以上の逸話は仮定の上の話であって、左派文芸人として活躍した魯迅が建国後も北京に留まっていれば、毛沢東と中国共産党が最初は丁重に処遇し、北京大学教授、あるいは学長のポストを用意するばかりか、中国作家協会の会長〔正式役職名は「主席」〕」、もしかしたら文化大臣〔同前「文化部長」〕にさえ押し上げたかもしれない。あるいは、魯迅は共産党に入党しなかっただろうから、民主党派をも集めた政治協商会議の主席ぐらいに抜擢されたかもしれない。ただし、あくまでも初めは、である。……毛沢東のこの推測〔「囚人か沈黙か、そのどちらかだ」〕は実に見事に、かつ鋭く本質をついている。……彼〔魯迅〕の鋭い舌鋒と戦闘的な批判精神は、いつか毛の癇癪玉を破裂させ、1955年の胡風事件や1957年の反右派闘争で多くの知識人が味わった苦悩を魯迅は共にしただろうからである」と述べている。私としても、「沈黙」より「囚人」の可能性がかなり高いはずだとの希望的(?)観測を込めつつも、基本的には、上記の結論に賛同するしかないところだ。

■ところで、この問題をめぐっては、中日の文献を丁寧に紹介しつつ学術的な検討を進めた論考に、長堀祐造「永久革命者の悲哀――「もし魯迅が生きていたら」論争覚書」(長堀著『魯迅とトロツキー』平凡社、2011年、所収)がある。長堀論考は、羅稷南があの質問をする数箇月前(57年3月)に、毛沢東は文芸界代表や新聞・出版界の代表との懇談の場で、すでに幾度か、彼なりの魯迅評価を語っていたとして、以下の例を挙げている。「彼〔魯迅〕の晩年の雑文はとても力強い。……マルクス主義の世界観があるからだ。私が見る限り魯迅が仮に死んでいなければ、まだ雑文〔「敵」に対する鋭い批判に満ちた雑感文〕を書いているだろう。小説はもう書けなくなっていても、おそらく文連〔文学芸術界連合会〕の主席になっているだろう。……彼が一度話をするか、あるいは雑文を書けば、すぐに解決するだろう。彼には必ず話すべきことがあるし、きっと話しただろう。しかも大変勇敢だった。」「ある人が魯迅が今も生きていたらどうだろうかと尋ねた。私が思うに、魯迅が今生きていたら、彼は敢えて書きもし、また敢えて書かないだろう。正常でない雰囲気の中では、彼も書かないことだってある。しかし、書く可能性の方が高い。……本物のマルクス主義者で、徹底した唯物論者は何も恐れない。……だから彼が書くというのは十分にあり得る。」

■ここで注意したいのは、この1957年3月段階の毛沢東の魯迅評価は、同年夏段階の羅稷南に対する「囚人か沈黙か、そのどちらかだ」という否定的語気と、かなりニュアンスの違いがあり、かなり積極的肯定的語気が見出せるのではないかという点である。長堀論考は、朱正「要是魯迅今天還活着…〔もし魯迅が今日生きていたら…〕」(陳明遠編『仮如魯迅活着〔もし魯迅が生きていたら〕』文滙出版社、2003年、所収)や丸山昇「もし魯迅が生きていたら――毛沢東と魯迅」(『公孫樹人』第3号、東大中文科同窓会、2004年)などをも援用しながら、57年3月段階は、前年から始まった「百花斉放・百家争鳴」と呼ばれる自由化政策がまだ展開されていたのだが、自由化政策によって徐々に共産党批判などが噴出してきたため、毛沢東の心中では、5月中旬頃より反撃の決意を固め、夏段階で「反右派闘争」という引き締め政策への転換が一気に図られたという、この間の政治的な動向との関係も視野に入れつつ、毛沢東の魯迅評価の複雑性を考察しようとしており興味深い。(中兼論考でも朱正の論文を引用しているのだが、評価に少しズレが見出せるように思われる。)

■1回分を休載したこともあって、今回は少し長くなり、かつ若干専門的な内容になってしまったかもしれない。「もし魯迅が生きていたら」という「仮説」が、今でも話題に上る魯迅という作家について、是非、深く知ってもらえると嬉しく思う。なお最後に、日本でも1950年代という早期に、文芸評論家の荒正人が「もし魯迅が生きていたならば――或る種の否定面について」(『文学』1956年10月号、岩波書店)を書いていたことを付記しておく。



その66 TVドラマ『日本沈没』から見えて来た中国の位置?!――新たな年に向けて(2021年12月25日(土))
■本年秋から年末にかけて日曜夜にTBS系列で放映されたドラマ『日本沈没』は、最近、各地で地震が頻発していたこともあって何となく気になり、1回も欠かすことなく視聴してしまった。――周知のように、このドラマには原作がある。星新一・筒井康隆とともに「SF御三家」と呼ばれる小松左京の同名の小説である。1973年3月に光文社「カッパ・ノベルス」から上下巻同時発売されて、上巻204万部・下巻181万部の計385万部という大ベストセラーとなった。私はこの年に大学に入学しており、原作が話題になり始めた4月末頃に購入して、通学途上の電車内で読みふけった記憶だけは鮮明なのだが、ほぼ半世紀前(!)ということもあって、内容に関しては漠然としか覚えていないというのが正直なところだ。

■原作本が見つからず(どこかの本棚の奥にあるはずなのだが)、また読み直すだけの余裕もないため曖昧な記憶に基づいて記すしかないのだが、「大陸プレート」の異常変動による日本沈没を背景に、その危機回避に向けて結成されたプロジェクトのメンバーたちの活躍を描くという大枠の構造は、当然ながらドラマも原作を踏襲している。――少しだけ補足すれば、この原作が「大陸プレート」という言葉を、日本人の間に一気に普及させたのではなかったか。日本沈没に到る科学的な根拠の説明が極めてリアルに記されていたことが、ベストセラーとなった最大の理由だったと記憶する。なお、ドラマにおける危機対応プロジェクトは、各省庁から選抜された若手官僚たちによって組織された政府機関として描かれていたが、原作では、もちろん政府関係者も加わるものの、それ以上に政界を牛耳るフィクサー的人物をはじめ民間人の登場人物たちの活躍にこそ焦点が当たっていたようにも思う。書かれた時代の意識が反映されていたのかもしれない。

■ちなみに、ドラマと原作との最大の相違は、国土が沈没してしまう日本人の海外移住計画(ドラマは「移民」計画だったが、原作では「難民」申請との位置づけだったように思う)における結末の描かれ方だったのではないだろうか。原作では、人口の半数以上が外国への難民申請を受け入れてもらえず、国土とともに沈没していくしかない事態が暗示されていたのだった。もちろん、希望の芽とも呼ぶべきエピソードは描かれていたとは思うが、読みながら余りに衝撃的な幕切れに、絶句するしかなかった記憶が何となく残っている。だがドラマでは、高い技術力を有した大企業の、従業員を含めた丸ごとの「身売り」などによって、ほぼ国民全員の移住が実現し、かつ現地におけるジャパンタウン建設さえも展望できそうだといった壮大な「日本人大移民計画」が、曲折はありながらも成功裏に進んでいく。その意意味で、何はともあれ、サブタイトルにある「希望のひと」にふさわしいハッピー・エンドだったと言えるだろう。

■その上で強調しておきたいことは、ハッピー・エンドが可能となった最大の理由は、種々の思惑はあったにせよ、中国が、アメリカを超える1000万人にも上る日本人移民を引き受けてくれたからだったという点である。地理的にも文化的にも近い中国こそが、日本移民の最大の受け入れ国となってくれたことに、ドラマの登場人物たちが感謝する映像が流れたが、ドラマの視聴者も、それなりに納得していったのではないだろうか。私としては、いわゆる「反中」意識だけではすまされない、客観的に考えれば絶対に軽視できない日中関係の緊密性と重要性を、いみじくも浮き彫りにしているように思わされたものだった。――新しい年が大規模地震被害はもちろん、コロナ禍とも無縁な1年になることを、また、日中両国の建設的な対話が進む1年になることを心より祈りたい。立命館孔子学院も、そのために少しでも貢献していきたいと考えていますので、2022年も何卒よろしくお願いいたします。



その67 「奥密克戎」って何でしょう…?――足掛け4年目のコロナ禍の収束に向けて(2022年2月10日(土))
■新型コロナウイルス肺炎が猛威を奮い始めて、早くも足掛け4年目に突入することに気づいて、さすがに呆然としてしまった。――本コラム「その44」(2020年2月2日)は、「「新冠」って何でしょう…?」と題して、新型コロナウイルス肺炎は中国語では「新型冠状病毒肺炎」、略して「新冠」と呼ばれていることを紹介していた。そこには、「昨年末から武漢を中心に猛威を振るい始めた〔中略〕いわゆる新型肺炎の中国国内患者数は、昨日の中国当局の発表によれば、1万4380人に達し、死者も304人を数えるに到ったとのことである」「なお、日本国内でも、現在、20人の感染者が確認されている」との記述も残されており、2月9日現在の世界の感染者総数が遂に4億人を超え、死者も576.5万人に上り、日本でも感染者総数358万2609人、死者1万9778人に到っていることとの余りの落差に、改めて愕然とするしかない。

■今回の「第6波」をもたらしたのは、「オミクロン株」と称される変異株である。昨年11月末までは、「オミクロン」などという言葉は、ほぼ聞いたこともなかったのだが、今や挨拶言葉の如くに口を衝いて出るようになった。――「オミクロン」とは、ギリシャ語のアルファベット(ギリシャ文字/全24字)の15番目の文字に相当する。コロナウイルスの場合、新たな変異株が出現した際には、当初は、それが確認された国や地域の名称を用いて、「英国株」「ブラジル株」などと呼ばれていたが、WHO(世界保健機関)は、地名による差別や偏見を避ける必要があるとして、昨年5月末以降は、ギリシャ文字を1番目の「アルファ(α)」から順番に充てることにしたのだった。

■「第5波」をもたらした「デルタ(δ)」(4番目)は猛威を振るったが、続く「イプシロン(ε)」(5番目)から「ミュー(μ)」(12番目)までの8種類の変異株は、局地的な流行はありつつも、徐々に消滅したとのことである。WHOは、感染力が強まったりワクチンの効果を弱めたりするものを「懸念される変異株(VOC)」に分類しているが、久々に、それに当て嵌められたのが「オミクロン(ο)」だったのだ。

■だが、この命名にあたっては、ある種の「政治的忖度」が働いたのではないか、といったことが話題になったのも記憶に新しいところだろう。『朝日新聞デジタル』2021年11月28日付の大室一也記者の記事「中国に配慮してオミクロン株に? WHOが2文字飛ばしの理由を説明」は、11月27日、WHOは「オミクロン株」について、直近で用いたギリシャ文字は「ミュー」だったのに、続く「ニュー(ν)」「クサイ(ξ)」を飛ばして「オミクロン」を用いたのは、発音が似た英単語との混同や人名を避けるためだと説明したと伝えている。記事は以下のように続く。「WHOが26日、新しい変異株を「オミクロン株」と命名したと発表すると、ソーシャルメディアなどで2文字を飛ばしたことが話題になった。「クサイ」は英語で「xi」と表記する。中国の習近平国家主席の「習」の字も英語で「xi」と記されることから、WHOが中国に配慮し「クサイ」を飛ばしたのではないかといった見方が出ていた。WHOは、「ニュー」(英語表記nu)は英単語の「new」と混同しやすいと説明。「xi」は姓として使われ、WHOのガイドラインは新しい感染症に名前をつけるときに地名や人名を疾患名に含めてはならないとしているため、「クサイ」を避けたとしている。」

■WHOに「忖度」があったかは不明だが、少なくとも中国の国際的プレゼンスが大きくなっていることの現れが、こうした憶測を生んだことだけは間違いないようだ。なお、習近平を簡体字で記せば「习近平」、ピンイン(拼音)表記(本コラム「その64」参照)は「Xí Jìnpíng」となる。――最後に、今回のコラムの表題にある「奥密克戎」である。今更説明するまでもないだろうが、中国語の「オミクロン」であり、ピンインは「àomìkèróng」となる。漢字をカタカナ的に用いて近い音に充てているのだ。「戎」という武器・兵器の総称を意味する漢字を用いているところに、「オミクロン株」の脅威を読み込んでいるのかもしれない。



その68 中国作家協会・中国文学芸術界連合会って知ってますか?――習近平国家主席・李克強総理も参加する全国代表大会(2022年3月3日)
■昨年12月14日から17日にかけて北京の人民大会堂で、中国文学芸術界連合会(略称は文連)第11次全国代表大会と中国作家協会(略称は作協)第10次全国代表大会が同時開催された。聞き慣れない団体名・大会名かもしれないが、近年では5年に1度開催されている、中国の文学・芸術の現状を考える上では、極めて重要なイベントなのである。――まず作協とは何か、から始めるよりないようだ。建国直前の1949年7月末、新中国を支持する作家・文学者たちが集められて中華全国文学工作者協会が発足した。これが作協の前身である(53年に改組・改名)。作協の目的は、社会主義国の先輩であったソビエト連邦のソ連作家同盟に倣って、社会主義文化を担う作家たちを組織し保護することにあった。当時、作協に加入を認められた者だけが「専業作家〔プロ作家〕」であり、別に本業がありながら創作活動をする者は「業余作家〔アマ作家〕」と呼ばれて区別された。「専業作家」になれば給与が支給される(当然ながら原稿料や印税は別途支給)など、まさに国家によって安定した創作環境が保障されるのである。だが、これは裏返せば、作協を通じて作家が国家に組織され管理されることでもあり、反体制的な内容の文学を書いた(と認識された)際には、作協から批判を受け排除されることにもなっていくのだ。これが、文革までの、いわゆる毛沢東時代に作家が置かれていた状況だった。

■こうした組織化は、当然ながら作家に限ったことではなかった。作協と同様に、音楽家協会・美術家協会・電影(映画)家協会なども存在しており、こうした各種協会(現在14協会)や文化関連団体を統括する連合組織が文連で、その全体会議に相当するものが文連全国代表大会というわけである。作協は他の協会と比して規模と影響力が極めて大きく、国家における位置づけも高いため(作協は現在、文連と同じく「正部級」団体、即ち、国家が組織する民間団体の中で最高位)、作協と文連の大会は同時に開催されるのが恒例である。

■文革期には、文革が批判し否定した対象に知識人層も含まれていたこともあって、作協も文連も解体され、広範な作家・芸術家が迫害され牢獄や強制労働施設へ送られたことはよく知られていよう。文革後、改革・開放政策が展開される中で作協・文連は再建されたが、社会主義という大枠は残るにせよ、大胆な市場経済政策が導入されていく過程で、作協・文連ともに、その制度設計や役割には大きな変化が生じたのは断わるまでもない。特に、1984年に開催された作協第4次会員代表大会(第5次大会より「会員代表大会」から「全国代表大会」に名称変更)で「創作の自由」が正面から提唱されたことの意味は大きかった。また、作協の「章程〔規約〕」は、入会資格として「本会章程に賛成し、一定の水準を備えた文学創作、理論評論、翻訳作品を発表または出版したことがある者、または文学編集、教学、組織工作に従事して顕著な成果のある者」(第20条)と定め、「会員には退会の自由がある。会員が退会を要求した時は、本会書記処会議が確認してその会籍を終止する」(第24条)として、入退会における作家の主体性を明記している。その意味で、作協は毛沢東時代のような、作家を組織して管理・統制する団体では全くなく、まさに職能団体としての役割が主要な機能となっていることは間違いないだろう。

■ただし、今回の文連大会・作協大会の開幕式には習近平国家主席や李克強総理も出席しており、習近平は1時間近い「重要講話」も行なって、現在の中国に求められている文学・芸術の大枠の方向性に向けて、「5点希望〔5つの期待〕」を提起したのだった。紙幅の関係もあるので、「講話」における章題のみを原文で記しておく。「①心系民族复兴伟业,热忱描绘新时代新征程的恢宏气象/②坚守人民立场,书写生生不息的人民史诗/③坚持守正创新,用跟上时代的精品力作开拓文艺新境界/④用情用力讲好中国故事,向世界展现可信、可爱、可敬的中国形象/⑤坚持弘扬正道,在追求德艺双馨中成就人生价值」。内容の詳細は、機を改めて紹介したいが、この年末年初にかけて、作協の各地域における分会では、この「希望」に向けた討論が展開されていたことは付記しておく。

■ちなみに、今回の文連大会参加者は3000余名、作協大会参加者は1000余名だった。大会で選出された文連主席・作協主席は、女性作家・鉄凝(1957年生/代表作『大浴女』『無雨之城』など)が兼務するという形で再任された。作協副主席には、ノーベル文学賞作家の莫言をはじめ、日本でも名を知られている王安憶・格非など15名が選出されている。



その69 高さ3m×全長20mの絵画「一九四六」を知っていますか?――日中国交回復50周年を象徴する絵画展について(2022年3月26日(土))
■縦3m×横20mという超大作の絵画と言われても、ちょっとイメージできないのではないか。恥ずかしながら、私もまだ実物を鑑賞したことはないのだが、紹介写真を見ただけで、その迫力に圧倒されてしまった。――この絵画は「一九四六」と題されており、切り取られた場面は1946年の中国だが、日本人の生死に関わる出来事が描かれているのだ。作者は中国・遼寧省瀋陽市にある魯迅美術学院中国画系教員の王希奇さん(1960年7月生)。王さんは、東洋の墨絵の要素を西洋の油絵に無理なく融合させた画風で話題になった画家とのことだ。戦後生まれの中国人である王さんが、自分が生まれる前の出来事における数百人もの日本人の姿を、10年半という歳月をかけて描いたことの意味に思いを馳せながら、私なりにこの絵画の紹介をしたいと思う。

■今年が、いわゆる「満州国」(中国では一般に「偽満州」と呼んでいる)建国90周年にあたることを、是非とも思い出してほしい。1931年9月18日、日本軍(関東軍)が奉天(現・瀋陽)郊外で起こした鉄道爆破事件(柳条湖事件)を契機に満州事変が勃発する。いわゆる「日中15年戦争」の起点である。中国東北部に軍事侵攻した日本は、翌32年3月1日、「満州国」を建国するも、当時の国際連盟が満州における中国の主権を認め、「満州国」の傀儡性を明らかにしたため、33年3月末、日本は国際連盟を脱退するに到る。これ以降、37年の日中全面戦争、41年の日米開戦へと一直線に突入していったことは断わるまでもないだろう。

■「満州国」には、国策として全国の農村から「満蒙開拓団」が送り込まれていた。そのため、1945年8月のソ連参戦そして敗戦にともない、中国東北地方には100万人を超える日本の民間人(軍人以外)が取り残されるという事態が生じたのである。だが、こうした日本人の本国引揚げ(中国側は「日本人遣送」と呼ぶ)の具体化は、46年5月11日にアメリカ・中華民国・中国共産党の三者によって締結された「在満日本人の本国送還に関する協定」や、アメリカとソ連の協議に基づく「東北中共管制区の日本人送還の協定書」(7月1日)と「ソ連地区引揚げに関する米ソ協定」(12月19日)などを待たねばならなかった。5月11日締結の協定における三者の代表が、内戦停戦に向けてアメリカ本国から派遣されたマーシャルと国民党の張群そして共産党の周恩来だったことからも分かるように、東北地方は共産党とソ連の勢力下にあり、かつ、当時すでに、全面的にではなかったにせよ、国共内戦が始まっていたからである。日本人の引揚げには、中国国内における各政治勢力のある種の「妥協」が不可欠だったのだ。

■ともあれ、難民状態で厳冬を越した残留日本人たちは、日本への送還の拠点となった遼寧省の葫蘆島に集められ、1946年5月7日に最初の引揚げ船が日本に向けて出港したのだった。葫蘆島からは同年末までに101万7549人(内、捕虜1万6607人)、48年までに総計105万1047人の残留日本人が送還されたのである。

■説明が長くなってしまった。――王希奇さんの絵画「一九四六」は、葫蘆島の岸壁を黙々と歩む数百人の日本人の姿を描いている。最少限の荷物を必死に抱え込むやつれ切った男たち、死んだように眠る幼児を背負った疲れ切った女たち、着の身着のままで立ち尽くす子供たち。王さんは祖父からその話を聞き、当時の写真を見たことから制作を決意したとのことだ。「戦争ほど愚かな行為はない。あの戦争で日本人は加害者でありながら被害者。引揚げの史実を絵にして後世に伝え、平和の尊さを知ってほしかった」と語っている(「中国人画家が描いた「加害者」の引揚げ」、『毎日新聞』2021年9月16日付夕刊/大阪本社版)。

■被害者の子孫で戦後生まれの王さんが、加害者だが被害者でもある日本人の姿を描くことを通じて、平和の意味を問いかけようとしている「一九四六」の絵画展が、本年8月31日から9月4日まで「原田の森ギャラリー」(兵庫県立美術館王子分館)で開催される。日中国交回復50周年を記念するに相応しい取り組みと言えるだろう。立命館孔子学院としても協賛・後援を決めているので、この場でも紹介させていただいた。なお、旧満州地域における日本人の引揚げの状況に関しては、佐藤量「戦後中国における日本人の引揚げと遣送」(『立命館言語文化研究』25巻1号、2013年10月)を参照したことを付記しておく。 【王希奇「一九四六」神戸展実行委員会HP=https://free.yokatsu.com/koube/】

一九四六



その70 中国のネット配信ドラマにハマる日々?!――『原生之罪――Original Sin』について(1)(2022年5月10日(火))
■中国におけるネット配信ドラマ(中国語では「網絡劇」略称「網劇」)の隆盛は、日本の比ではないように見受けられる。――私が指導教員を務めた本学文学研究科東アジア言語・文化学専修の院生だった廖睿文さんの2018年度修士論文「2010年代中期の中国におけるBLネットドラマ」によれば、「網劇」は2000年にはすでに出現していたが、急激に増加したのは2010年代中期、特に2014~17年にかけてとのことである。その後、毎年100本前後の「網劇」が安定的に制作されているが、現在では、高速インターネットの普及により、ネット配信向けに制作される「網劇」よりも、映像会社と動画サイトが共同制作し、ネットで優先配信した後にテレビでも放映する、ないしは、ネット配信とテレビ放映が同時に実施される「網劇」が、全体の大半を占めるようになっているようだ。なお、廖論文は、中国「網劇」第1号と考えられる2000年3月18日配信の『原色』から定着期に到った2017年12月28日配信の『小妖在人間』まで、全1158本の「網劇」リストを資料として所収している。中国の「網劇」の動向が概観できる労作と呼べるだろう。

■ちなみに廖論文には、2017年末までの「網劇」再生回数ランキングのトップ20も示されている。第1位の『老九門』(2016年7月/民国期が舞台の冒険・ミステリ物)の配信回数は48回で、再生回数は何と118億5000万回にも上っているとのことである。中国における「網劇」の隆盛ぶりが看取できるのではないか。

■廖さんに対する修論指導の必要性などもあって、2010年代中期頃には、私も幾つかの「網劇」を視聴した。だが、当時の「網劇」は、パソコンの画面で見るしかなかったところがあり、また、ネット配信向けのみに制作される「網劇」が主流だったこともあって、テレビドラマと比べた際には、迫力にも乏しく完成度もあまり高くないようにも思われて、さほど興味を引かれなかったというのが正直なところだった。だが、最近、中国の「網劇」が日本の「ひかりTV」などでも見ることができることに遅ればせながら気づいて、再び視聴してみたところ、意想外にハマってしまったのである。中国の大手IT企業「百度(Baidu)」傘下の動画配信サイト「愛奇芸(iQIYI)」(中国の「Netflix」と呼ばれている)などが制作に加わったものを大型テレビ受像機で見た場合、中国のみならず、日本のテレビドラマをも超えるレベルの「網劇」が散見されることに気づかされたのである。

■この間、「網劇」にのめり込むきっかけとなった作品が、『原生之罪――Original-Sin』(「北京愛奇芸科技有限公司」制作/2018年12月20日配信開始)である。ただし、日本では、「ひかりTV」が2020年3月1日に一挙配信したのが最初であり、次いで「BS11(イレブン)」が2021年5月7日より毎週月曜から金曜の午前11時半に連続放映したことにより、一部の海外ドラマファンの間で話題になっていたようだ。私は、今年になってから「ひかりTV」の一挙配信(ビデオ)として視聴し始めたに過ぎず、その意味では上述のように、最近になってからの俄かファンに留まっていることはお断りしておく。

■『原生之罪』はいわゆる刑事物の「懸疑推理劇(サスペンス・推理ドラマ)」で、1回45分前後(中国のドラマは、テレビも含めて放映時間は日本のようにパンクチュアルではない)の全24話によって構成されている。その内容紹介から始めようと思ったのだが、例によって、字数が尽きてしまった。以下、「ひかりTV」のHPにアップされた宣伝コピーを要約・紹介した上で、次回を「乞うご期待!」とさせていただくしかないようだ。ご海容下さい。

■池震(字幕表示:チー・ジェン)は母子家庭で育ち努力の末、弁護士になるがその資格を奪われ、今はクラブの支配人をしていた。陸離(同前:ルー・リー)は警察学校に進み、優秀な成績で卒業。その後、捜査局に配属され、今は捜査チームの隊長。対照的な2人だが、ある事件の捜査に池震が協力したのを機に、池震は警察にスカウトされ、2人はタッグを組むことに…。しかし2人には、20年前の連続殺人犯である陸離の父に殺された被害者の1人が池震の姉だったという因縁があった。/全編マレーシアでロケを敢行し、独自の雰囲気を持つ架空都市・樺城を舞台に設定し、そこで起こる様々な犯罪を池震・陸離の刑事コンビが解決していく。4話完結の全6つの事件を横糸に、陸離父の連続殺人事件の真相、捜査局長の死をめぐる疑惑、陸離の前妻の家族が殺された事件の謎などを縦糸に描かれていくクライム・サスペンス。/大手配信サイト「愛奇芸」が年末に行う「網劇」授賞式において、「2019値得期待網劇(2019年 期待のネットドラマ)」部門第1位を獲得し、配信前より注目度の高さが話題となっていたが、配信後には反響がますます大きくなり、再生数はもとより、各「網劇」サイトの話題性ランキング・検索ランキングでも軒並み上位を独占した。/なお、池震役は翟天臨(1987年青島生)、陸離役は尹正(1986年包頭生)が担っている。

原生之罪



その71 「網劇」の殺人事件から中国社会の一端を垣間見る?!――『原生之罪――Original Sin』について(2)(2022年6月30日(木))
□本コラムの5月分を、遂に休載するしかなくなってしまいました。休載は、2019年5・6月分、2021年10月分に続き、4回目となります。改めてお詫び申し上げます。――言い訳にもなりませんが、5月末締め切りの原稿が3種類ほど(研究関係だけではない社会的活動に関わる文章も含まれます)重なってしまい、遂に音を挙げてしまった次第です。それにしても、文章を書くスピードが、年々遅くなっていることを実感せざるを得ません。それこそ歳のせいでしょうか…。可能な範囲に留まりますが必死に頑張る所存ではいますので、今後ともお付き合いのほど、何卒よろしくお願いいたします。

■前回に引き続き、中国の「網劇〔ネット配信ドラマ〕」『原生之罪』に関する話題である。――4月のコラムでは、「4話完結の全6つの事件を横糸に、陸離の父の連続殺人事件の真相、捜査局長の死をめぐる疑惑、陸離の前妻の家族が殺された事件の謎などを縦糸に描かれていくクライム・サスペンス」との紹介に留まってしまった。まず、「横糸」と位置づけられた「6つの事件」とはどんなものだったのか、簡単に見ておくことから始めたい。各事件は、①串刺し殺人事件、②茶畑殺人事件、③樺城ホテル殺人事件、④二次元殺人事件、⑤なりすまし殺人事件、⑥軍用ナイフ殺人事件と名付けられていて(ただし、日本語字幕のみ。中国語では「案件一〔事件1〕」との表記のみで事件名はなし)、トリックや動機、背景をめぐるキーワードと思しきものが並んでおり、興味を惹かれるところではないだろうか。なお、各犯罪の背景として、現実の中国(ドラマの舞台は架空の「蘭雅」国「樺城」市だが)が直面している種々の社会問題が丁寧に描き出されており、それ故に事件や登場人物も極めて迫真性に溢れていると思わされた点は強調しておきたい。

■一例として、⑤を見ておこう。1日16時間働いても貧しさから抜け出せない若いカップルが、知り合った詐欺師の誘いに乗って、青年実業家になりすまして、金持ちの女性から大金を奪い取ろうとする犯罪が描かれる。富裕層が住む超高級マンション(桜花苑)の真向かいに安アパート(梨花苑)が建っている対比的光景や、貧しさ故に生じる墜落死体喪失の謎なども、一定の説得力を持って提示されている。貧しい青年は、「高級品を買うことが上流社会だと思っていたが、実際は暮らし方が違った。生活に必要ない無駄なものを求めているんだ、無用な知識や趣味を楽しんでいる。俺もそうなりたい」「昔の貴族は生活に追われず、詩や恋愛に興じていた。俺の理想の暮らしだ」と口走り、殺人に手を染めていく。想像を絶する格差社会に生きる若者の心情が、如実に示されているのではないだろうか。

■この事件の解決篇に当たる「第20集〔第20回〕」の末尾には、黒い画面に、「习惯了戴着面具生活的人/往往会忘记把面具摘下来/把镜子里那张脸当成最真实的自己/他们在往高处攀爬/他们不遗余力/然后/一张张面具从脸颊上脱落/摔得四分五裂/散落一地」という文章が一行ずつ流れていき、同時に、「己を偽って生きる者は/鏡に映る仮面をつけた自分が/本当の姿だと思い込んでしまう/そして高みに上り続けるうちに/仮面が1枚ずつ剥がれ落ち/本当の自分が露呈するのだ」という字幕も示されて、ドラマのこの回が終了していく。何となくにせよ、このドラマの雰囲気の一端を理解いただけると嬉しく思う。

■こうした「横糸」に当たる6つの事件は、「樺城」市警察捜査局のエリート隊長・陸離と、犯罪組織との関係が疑われて弁護士資格を奪われたものの、捜査局副局長の肝入りで警察にスカウトされた池震によって捜査と謎解きが進められていく。当初は反目し合う2人だが、一緒に捜査に取り組む過程で互いの能力を認め合い、バディとしての信頼を深めていくが、その間の経緯とやりとり、特に、軽妙な会話の応酬はなかなか見ごたえがある。クールなイケメン警察官を演じる尹正は、いつも苦虫を噛み潰したように眉間に皺を寄せているが、たまに見せる微笑とのギャップは、ファンにはたまらないようだ(ネットにはそうした書き込みが散見される)。「樺城」市の裏社会とも微妙な関係がある元弁護士を演じる翟天臨は、味のある顔つき(一見ムロツヨシ(?!)にしか見えない、との声もネットの一部では挙がったらしい)で何とも言えないやさぐれ感そして背徳感を漂わせているが、時々見せる深い人間味が独特の魅力を生んでいる。この主演2人の個性と演技力が、このドラマがヒットした大きな要因の1つと言えそうだ。ちなみに、ドラマの「片尾曲〔エンディング曲〕」、ウォゥウォゥ~というスキットが印象的で耳に残る『与我并肩〔俺と共に/俺と並んで〕』は、主演の2人が歌っている。

■紙数が尽きてしまった。――次回は、物語の「縦糸」に相当する、池震と陸離の間の因縁と全体を貫く捜査局上層部の陰謀などについて紹介して、更に、2019年に発覚した翟天臨の「スキャンダル」にも言及して締め括りたいと考えている。乞うご期待?!

その72 謎の残る結末と池震役・翟天臨の「スキャンダル」をめぐって――『原生之罪――Original Sin』について(3)(2022年7月30日(土))
■中国の「網劇〔ネット配信ドラマ〕」『原生之罪』に関する話題の3回目、いよいよ最終回である。――前回のコラムでは、この「網劇」の「横糸」である「6つの事件」を、ごく簡単にではあるが紹介したので、今回は「縦糸」となっている「陸離の父の連続殺人事件の真相、捜査局長の死をめぐる疑惑、陸離の前妻の家族が殺された事件の謎など」に関して紹介すべきなのだが、実は些か困難なところがあるのだ。その証左として、「華流劇」ウォッチャー・汀羅のブログ「Taylor♥Blogg〔華流汀羅〕」(https://taylorblogg.com/os-final)から、最終回を見終わっての感想を引用しておく。「もう少し分かりやすくもう少しスッキリと終わってくれるとばっかり思っていました!謎が解明されていないですよね?謎がそのまま謎として残っていますよね?この終わり方は中国でもネットをざわつかせており、シーズン2へと続くのでは、ということになっていますが、その詳細は不明です。」

■最終回の内容は汀羅の整理に基づくと、大よそ以下のようになる。――董令其副局長が陸離の前妻・呉文萱を捕まえ殺害しようとするが、陸離と池震が止めに入り格闘になる。銃を持った董は、陸離に池震を殺さねば呉を殺すと迫り、陸離は池震に発砲するが、胸ポケットにスキットルが潜んでいて池震は無事だった(2人はそれを利用して董を欺いた)。池震が怒りのあまり董を殺害。陸離に、自首するから待つように言って去っていく。/索菲(池震に恋心を抱く女性)は、「空港の地下鉄駅で会おう」という池震の伝言メモに気づいて喜ぶ。大怪我を負った陸離と呉文萱は病院に向かう。池震は空港に向かう途中、以前に恨みを買った若者に刺され、乗客のいない最終電車の中で瀕死の状態に陥る。駅で待っている索菲からの着信があるが、床に落ちたスマホを手に取ることもできない。/池震を乗せた電車が夜の街を走っていく。/1年後。陸離は副局長に就任している。陸離は、池震のスキットルを触りながら、昔を思い出す。「当我们回看身后这个世界 回看那些带着原罪来到世界上的人们 能够解救他们的 只有爱和希望〔振り向いて世界を見れば 人々が背負う原罪が見える 彼らを救えるのは 愛と希望だけなのだ〕」という字幕が流れ、幕となる。

■主な「縦糸」である①陸離の父・陸子鳴の連続殺人事件、②捜査局長(と陸離の元バディ)の死をめぐる疑惑、③陸離の前妻・呉文萱の家族が殺された謎という3つの事件の内、②の黒幕が董副局長であったことは明確になり、また、③の真犯人が呉文萱であり、動機も養父母一家における長きに及ぶ呉への虐待だったことも明らかになる(ただし、「横軸」の「⑥軍用ナイフ事件」の犯人は呉ではなかった)。しかも董副局長は、陸離の呉文萱に対する愛情を利用して、陸離を陥れようともしていたのだった。だが、①の事件に関しては、納得できる説明・解決に乏しいのだ。大学の音楽教授だった陸子鳴は、6人もの女性を殺した連続殺人の犯人として監獄に収監されているのだが、虫も殺せないような誠実な人物にしか見えない。6人目の被害者は、実は池震の姉だった(董副局長は当初はそれを利用して、池震に陸離を監視し牽制する役目を担わせようとしたのだった)のだが、陸子鳴は池震に、彼女だけは殺していないと告白するに到る。その当否はどうなのか、そうだとすれば池震の姉を殺したのは誰か、残りの5人は本当に陸子鳴が殺したのか、という点のみは明確に解明してもらわないと、落ち着かない気持ちが残るのも確かである。

■こうした消化不良的な謎が残り、かつ、そもそも池震自身が本当に死んでしまったのかどうかも、実は不明と言えば不明なのだ。汀羅が述べるように、「シーズン2」が予定されているのではないか、との声が中国大陸も含めてファンの間で挙がったというのも、さもありなんと言えそうだ。――だが、非常に残念ながら、「シーズン2」は、まずあり得なくなってしまった。と言うのも、池震役の俳優・翟天臨が、以下のような「スキャンダル」を起こしてしまったため、芸能界への復帰が、ほぼ絶望的な状況にあるからである。

■翟天臨は高学歴俳優として有名だったようだ。映画デビューは2003年、テレビドラマデビューは09年だが、その間の06年には映画学の最高峰大学である北京電影学院表演本科班〔演技専攻クラス〕に入学し10年に卒業、13年に同学院表演系碩士〔修士〕を修了し、翌年、同学院電影学専業〔専攻〕博士研究生〔院生〕に合格・採用され、18年6月には博士学位をも取得する。同年11月には、面接試験により北京大学「博士后〔ポストドクター〕」にも任用されている。だが、19年2月、翟天臨の博士論文が公開されていないことが判明し、かつ過去に公刊された論文は2本の短文のみで、しかもその中には、他の研究者の論文との共通部分がかなり見出せたこと、即ち盗作論文だったことが明らかになったのである。翟天臨も最終的にはそれを認めて謝罪し、北京電影学院は博士号の取り消しと指導教員の処分を実施し、北京大学も「博士后」の取り消しを決定したのだった。――中国の大学では、著名俳優に限らずスポーツ選手や政治家などに対して、各々の専門的技能力量などをも何らかの形で加味して博士号を授与するケースが散見されるが、今回の「翟天臨学術事件」は、そうした風潮に対して一石を投じるものとして、一種の社会問題と化したと言えそうだ。それにしても、『原生之罪』での熱演が印象的だっただけに、少し残念な気がしてならない。



その73 日中戦争とウクライナ戦争の類似性と危険性について――明治大学教授・山田朗先生の講演を聞いて考えたこと(2022年8月23日(火))
■本コラム「その69」で、今年が満洲国(中国では「偽満洲」と呼んでいる)の建国90周年にあたることを、是非とも知ってほしいと記した。――魯迅美術学院教員・王希奇さんの大作である満洲引揚げ絵図「一九四六」を紹介する際の糸口としてであった。満洲国建国の前年に起きた柳条湖事件を契機に満州事変が勃発するが、これこそが、いわゆる日中15年戦争の起点となったことも断わるまでもないだろう。最近、この日中戦争と、本年2月下旬より始まったロシアのウクライナ侵略との類似性を、その危険性の拡大とともに興味深く解説してくれた、極めて示唆に富む講演を聞く機会があったので、その内容の一端を私なりに紹介してみたい。「終戦」(と言うより「敗戦」と呼ぶべきだろうが)から77年目を迎えた年の、8月のコラムのテーマに相応しいとも思ったからである。

■去る7月23日、明治大学教授・平和教育登戸研究所資料館長の山田朗先生の講演会「ウクライナ戦争と日中戦争――その類似性と危険性」が、「第42回 平和のための京都の戦争展」(7月31日~8月7日)のプレ企画として開催された。山田先生は、ウクライナ戦争と日中戦争の類似性を、以下の3点に整理して紹介された。①侵略側は「成功体験」の上に立って、「成功事例」を繰り返せると判断して戦争を始めた点である。日本の国家指導層は、満洲事変から満洲国建国に到る経緯を「成功事例」と認識し、満洲国の外側に類似の傀儡国家を建設しようと画策(「華北分離」工作)する。そして、1937年の盧溝橋事件の勃発を機に、「華北分離」の実現を図ったのだ。一方、ロシアの場合は、2014年のクリミア併合が「成功事例」と認識されたらしい。軍事的に圧倒しつつ住民投票による「併合」を進めた際には、NATOも介入できなかったという経験は、今回、キーウ(キエフ)への急激な侵攻によって、ゼレンスキー政権を崩壊に追い込むことが可能との判断に繋がったようなのだ。②侵略戦争を仕掛けた側に誤算が生じた点である。日本は、「華北分離」から蒋介石政権の打倒へと戦争目的をエスカレートさせるが、首都の南京攻略を果たしたものの、中国は屈服することはなかった。ロシアの場合も、キーウへの急襲により政権崩壊を導けると考えたが、結局は戦力分散を図るしかなく、軍事的攻勢を貫徹できない状況に陥る。③侵略を受けた側が結束を固め、かつ外国からの支援が急速に広がった点である。中国の場合、それまで対立していた国民党と共産党が抗日で結束し、1937年に国共合作を実現する。その後、独そして英・米・仏・ソ連の支援が始まっていく。一方、ウクライナは、脱ロシア化政策を推進して急激にNATOに接近する。ロシアの侵略後は、NATO(日本も含む)などから莫大な武器・物資、財政的支援を受けるに到っているのだ。

■こうした類似性から、山田先生は、日中戦争の教訓とウクライナ戦争の危険性も見えて来ると力説された。過去における日本は、いわゆるABCD包囲網といった形で孤立させられることへの危機感から軍拡へと走り、最終的には日独伊三国同盟から世界戦争へと突き進んだ。なお、戦時期には驚くべきことに、軍事予算が国家予算の40%を占めるまでになったとのことである。一方、現在のウクライナ戦争をめぐっては、これを機に、世界を「専制主義国家と民主主義国家」の対立と捉えるバイデン米大統領の発想に象徴的なように、地球世界が敵対的な2大陣営に強引に区分されていく動向の強まりが看取できそうだ。これは、核兵器を中軸に据えた軍拡と戦争拡大の危険性を高めることにほかならないだろう。

■以上、山田先生の講演内容を紹介させてもらった(もちろん、私なりのバイアスはかかっていよう)。現在の情勢は日中戦争前夜と似ている、もしかしたら今は、「戦後」ではなく「戦前」かもしれない、といった声もよく耳にする。現在における戦争に到る可能性を抑え込んでいくためにも、日中戦争に到る時代を振り返っていくことは、極めて意義深いように思う。

■冒頭で紹介した王希奇「一九四六」絵画展の「原田の森ギャラリー」(兵庫県立美術館王子分館)における開催は、8月31日から9月4日までとなっている。日中戦争に対する反省を基礎に据えた日中国交回復50周年を記念するに相応しい、高さ3m×全長20mの大作を、是非とも見逃さないように改めてお願いしたい。【詳細は、「一九四六」神戸展実行委員会HP=https://free.yokatsu.com/koube/】なお、来年1月には、東京でも絵画展が開催されることになったとの嬉しい情報が入ったことも、最後に付記させていただく。



その74 青樹明子著『家計簿からみる中国 今ほんとうの姿』を推薦する――お金の使い方から中国人の人生観から国家観までもが見えてくる?(2022年10月3日(月))
■中国関連の授業を担当する教師は、当然ながら、今現在の中国人、特に若者たちのリアルな意識・生活実態を把握しておくことが不可欠である。学生たちは等身大の中国人の姿を知りたがっており、そんなトピックを授業の合間に挟むと、俄然食いつきがよくなるのだ。――だが、最新のネタを仕入れ続けるのは、率直に言ってかなりシンドイところがある。急激な変化を遂げつつある中国の新聞やネットの記事は膨大かつ玉石混交で、焦点が絞り切れないのだ。コロナ禍以前には年に数回は中国出張の機会もあって、中国の街をそぞろ歩いたり中国人の友人と話し込んだりする中で、それなりに肌感覚で焦点を実感できることもあったのだが、今はそうもいかない。ということで、以前にも増して、信頼できる(政治レベルというより生活レベルの)チャイナウォッチャーを頼りにすることになる。そんな1人である青樹明子さんが、最近、『家計簿からみる中国 今ほんとうの姿』(日経プレミアシリーズ、2022年5月)を出版したので、その一端を垣間見てみよう。

■近年の結納金(“彩礼”)事情を象徴する言葉として、「三斤三両」「万紫千紅一片緑」「一動不動」を紹介している。斤・両はともに伝統的な重さの単位で、1斤=500g、1両=50gなので「三斤三両」は1650gに相当するが、これは「肉でも野菜でもない。100元札で1650gが必要だという意味である。金額にすると13万6000元(約258万円)ほどになるらしい」とのことだ。また、「万紫千紅とは、花が色とりどりに咲き乱れる様で、この場合、貨幣の色を指す。万の紫、紫色の5元札は1万枚、千の紅、赤い色の100元札は1000枚、それに加えて可能な限りの緑色の50元札が必要だという意味だ。合計すると、最低でも15万元(約285万円)になるという」と説明される。なお、ここの「貨幣」は「紙幣」の誤りで、「一片」は「一面の~」といった意味があることは、説明しておかねばならないようだ。その後、「現金に加え、欠かせないのが「一動不動」である。「一動」とは1台の車、「不動」は1軒の家である。金銀の装飾品から始まり、新居と新車は結婚にあたり「ひとつたりとも欠かせない」重要項目である。これに現金が加わるからたまらない」のだと続いていく。

■こうした記述だけでも十分に授業のネタ足り得る(中国の紙幣を持参して見せると、より受けた!)のだが、以下のような通時的な紹介も記されているところに、青樹さんの目の付け所の良さがあるようだ。「新中国建国以来、結納金については、旧来の陋習として批判を受け、簡略化の方向に進んでいた。/50年代、結婚に必要なものは「魔法瓶、洗面器、ベッド用品、痰壺」くらいで、当時の金額14元ほどで済んだ。しかし60年代にはいると「結婚の条件は36本の脚」といわれ、ベッドやテーブル、洋服ダンス、椅子など、婚礼家具の脚が合計36本以上ないと結婚できなくなった。費用は当時のお金で、だいたい177元だったという。/70年代は、三種の神器ならぬ四種の神器が必要となる。ミシン、腕時計、自転車、ラジオで費用は500元まで上がった。80年代に突入すると、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、VCD(ビデオCD)機などの高級家電となって、費用も一気に2300元にまで上昇した。」

■何故これほどまでに結納金が高額化するのか。40年近く続いた一人っ子政策により、男性の結婚難という現実が存在するからだ。子供は1人だけとなれば、一般的な中国人は男子を選ぶ。家を継ぎ労働力となり老後の保障を担うからだ。従って、一人っ子政策最終年(2014年)の出生人口男女比は、女性100に対して男性115.88となった。現在、結婚適齢期(20~40歳)人口では、男性が女性より1752万人も多いとのデータも示されている。

■なお、「あとがき」で青樹さんの父は、1983年にサラリーマン新党を結成して代表となり、同年の参院選で初当選した青木茂氏(1922~2016年)だったことを初めて知った。サラリーマンの不公平税制の是正を訴えた父がいたからこそ、家計簿から社会を見る視点を身に付けたという青樹さんの言葉には、ハタと膝を打った。――最後に、生活レベルのチャイナウォッチャーとして青樹さんを高く評価するようになったのは、4、5年前に本学文学部の同時代中国の諸相を学ぶ授業のゲスト講師として来学された際の、青樹さんの講義のリアルさに感銘を受けたからに他ならない。最後に一言、付記しておく。



その75 いわゆる「粉物」の注文の仕方について――35年前の「大失敗」の思い出から(2022年10月31日(月))
■先日、本学院「中国理解講座」の一環として、本学の言語教育センター中国語嘱託講師・川浩二さんによる「中国のくいしんぼう文学の挑戦」と題された講演を聴いた。――川さんは中国近世文学の専門家で、翻訳著に『中国くいしんぼう辞典』(崔岱遠著/みすず書房、2019年)、『味の台湾』(焦桐著/同前、2021年)がある。10人の中国文人(といっても大半は20世紀生まれだが)の文章を引用しつつ、食をめぐる多彩な話題を紹介した講演は、幅広い学識に裏付けられた実に興味深いものだった。。

■ただし、ここでは、川さんが講演の「枕」として、ある中国語教科書で見かけたレストランにおける会話に、「您两位吃点儿什么?〔お二人は何を食べますか〕」という店員の問いかけに「来一个麻婆豆腐和一斤水饺〔麻婆豆腐1つと1斤の水餃子を持ってきて〕」と答える例文があったが、麻婆豆腐は四川なので、北方の水餃子が取り合わされるには違和感が残る、「一斤水饺」はせめて「两碗米饭」にしてほしかった、食文化をもっと意識していこう、と語っておられたことから始めたい。なお、「斤」は伝統的に民間で用いられる重さの単位で、約500gに相当する。もちろん、中国でも基本はメートル法(1㎏は「1公斤」という)なのだが、生活に直結する場面では、まだ「斤」が多用されているのだ。

■注目したいのは、水餃子を注文する際に「1斤」を単位としている点である。中国では、庶民的な食堂や市場では、現在でも重さを単位に売り買いがなされ、「斤」やその10分の1の単位である「两」が幅を利かせている。――そのこと自体は知ってはいたのだが、表面的にしか理解していなかったために大失敗した思い出を、以下に記しておこう。本コラムでも幾度か言及した、初めて中国に長期滞在した1987年の天津でのできごとである。

■「到天津一定要吃狗不理包子!〔天津に行ったら必ず狗不理の包子を食べよう!〕」との言葉があるように、天津名物の1つに狗不理の包子(小麦粉の生地に具を包んで蒸したもの。肉饅の類)がある。狗不理とは「狗」は犬で「理」は構う、相手にするという動詞なので、「犬が構わない/犬も食わない」といった意味になる。この逆説的な言い回しが、美味しい包子の老舗の屋号となったと伝えられている(諸説あり)。10月上旬のある日、当時、一時的に中国滞在していた配偶者と2歳半の子供を連れて、高名な狗不理に夕食を食べに行くことになった。和平路にあった本店は改装中と聞いたので、南市食品街の分店に出向いた記憶がある。レストランと言うより食堂と呼んだ方が相応しい庶民的な店で、客も多く活気に満ちていた。ただ、何となく食卓が脂ぎっていたような記憶が残っている。

■野菜・豆腐料理とスープ(確か酸辣湯を頼んだような…?)を注文した上で、最後に包子を頼む。店員が「包子呢,包子几斤?〔包子ね、包子は何斤?〕」と聞いてきたので、やはり重さで注文するんだな、と嬉しくなり、包子1つは100g程度だろうから1斤でも5、6個になるのでいいのではないか、と考えて「1斤吧!〔1斤でしょ!〕」と答えたら、怪訝そうな顔をされる。早口の中国語で何か言われたが聞き取れず、でも配偶者の前なので中国通の振りをして「没问题!〔問題ないよ!〕」と答えたものだった。その後、しばらく生温い(!)ビールを飲みつつ料理を食べていると、いよいよ主食の包子が出されてきた。しかし、一瞬、声を失ってしまった。何と皿(蒸籠ではなかったと思う)に載った30個くらいの包子が所狭しと並べられた、というか積み重ねられたのである。配偶者も呆然として、私の注文間違いを詰問し始める。いったい何が起こったのか……。

■拙い中国語で必死にやり取りしていく中で判明したのは、包子や餃子を注文する際の重さとは、具を生地で包んで蒸したり焼いたりして出来上がったものの重さではなく、その生地に必要な小麦粉の重さを示すという衝撃の事実だった。日本でも「粉物」という言い方があるが、まさに「粉」の重さがポイントだったのだ。従って一般に、少な目な1人前が「1两〔約50g〕」程度、即ち、これで包子なら大よそ3個、餃子なら5、6個となるのだと教えられた。2.5人弱で、何と約10人前を注文していたという失敗談である。

■ちなみに、食べきれなかった20個以上の包子は、隣の食卓にいた家族連れのお客さんに振舞ったものだった。笑われながらも「谢谢!」を連発されたことを思い出す。なお、近年では、「一盘〔皿〕水饺」「包子三个〔個〕」という言い方も一般的になっているようだ。――最後に一言。狗不理の包子は非常にジューシーで、評判通り実に美味だった。だが、あふれる肉汁がGパンの太腿部分にこぼれてできた油染みは、いくら洗っても落ちなかったため、Gパン1本、処分するしかなかったことは付記しておく。



その76 中国共産党員の現況から考えたこと――「二十大」を受けて(2022年11月30日)
■去る10月16~22日にかけて開催された中国共産党第20次全国代表大会(中国では「二十大」と略称)は、日本では、習近平総書記が異例の3期目に入ったことだけが注目されたようにも見受けられる。――だが先日、友人の社会学者に「最近、中国共産党の大会があったようだけど、中国共産党員って何人ぐらいいるの?」と訊かれたので「1億人に数百万人足りないくらいのはずですよ」と答えたら、少し呆然としながら「日本の人口の8割近いんだ。とすれば、いくら何でも、「一枚岩」ってわけにはいかないよなぁ」と感に堪えたように口にしたのが、妙に印象に残ったものである。

■そこで共産党組織部が2022年6月29日に公表した「中国共産党党内統計広報/截至2021底〔2021年末段階〕」を調べてみると、党員総数は9671.2万人で前年比343.4万人増とのことだった。日本の人口が1億2510.4万人(総務省統計局「2022年6月1日人口推計確定値」)なので、その77.3%に相当する。従って毎年の党員増加数が昨年と同数であれば、あと8年余りで、日本の人口が中国共産党員数に追い抜かれることになるのだ。やはり驚愕するしかない。

■各属性ごとの党員数も記されていたので列挙しておく。女性党員2843.1万人(29.4%)。少数民族党員728.5万人(7.5%)。大専(高等専科学校=短大に相当)以上学歴党員5146.1万人(53.2%)。30歳以下党員1262.4万人、61歳以上党員2721.0万人。建国前入党11.9万人、建国~党11期3中全会(1978年12月=「改革・開放」政策の決定)以前入党1417.5万人、党11期3中全会~党18次大会(2012年10月「18大」=習近平総書記時代開幕)入党6082.5万人、「十八大」以降入党2159.4万人。労働者659.4万人、農・牧・漁民2592.3万人、企業・事業・社会組織専門人員1548.7万人、党・政府機関人員780.5万人、学生305.2万人、その他職業人員748.2万人、定年退職者1942.1万人。

■なお、2021年内に正式に共産党員と認められた総数は438.3万人(前年比195.6万人増)とのことである。正式な党員と認められる過程(「発展党員過程〔党員に発展する過程〕」)は、「入党申請段階→入党積極分子段階→発展対象確定・考察段階→予備党員受理段階→正党員転換段階」という5段階で、各段階で教育・審査がなされるため入党申請から正党員になるまで、早くても3年数ヶ月を要するという。ちなみに、第1段階の入党申請者は2062.5万人、第2段階の入党積極分子は1009.1万人とのことである。

■こうしたデータから看取しておくべきことは幾つもあろうが、ここでは2点のみコメントしておきたい。1つは、女性党員の比率の低さである。30%に到っていない点は、中国における女性の社会参加の高さから見ても、少し低すぎるのではないか。また、「二十大」で選出された中央委員205人中、女性はわずか11人に過ぎないこと、更に言えば、16次大会期~19次大会期(2002年10月~2022年10月)までの期間には、政治局委員(「トップ・セブン」と呼ばれる政治局常務委員を含む「トップ24人」)に少なくとも1人は女性が選出されていたが、今期は1人も選出されていないことなどを見ると、男女平等を掲げながらも、中国共産党が現在のところ、「男性中心社会」であることは指摘しないわけにはいかないようだ。

■コメントの2つ目は、冒頭の友人の社会学者の言葉にも関連するが、1億人近い党員を擁し、かつその85%は「改革・開放」後の入党で、かつ高等教育を受けてグローバル化の時代を身をもって生き抜いてきた党員が50%以上を占める中国共産党を、従来の日本における「共産党イメージ」のみで語ることの危険性も存在するのではないか、という点である。数多くの問題や矛盾を内包しているのは間違いないが、かなり成熟した近代政党・国民政党となってきていることも忘れるわけにはいかないだろう。だからこそ私は以前より、中国はいわゆる普通選挙を実施すべきではないか、と密かに考えている。中国は18歳以上に選挙権が付与されるので、有権者総数は10~11億人程度と考えられ、だとすればその1割近くが共産党員ということになる(「発展党員過程」にある者を加えれば、優に1割を超えよう)。これほどの共産党員が存在して、選挙で負けるわけはないと考えるのだが、如何なものだろうか。中国は民主主義に対して、いわゆる西欧型民主主義とは異なる独自の考え方を有しているのは重々承知しているが、普通選挙で第一党を獲得して政権を担当すれば、もう誰も「一党独裁」といった批判はできなくなるのである。半分冗談のような思い付きに見えるかもしれないが、中国共産党には、是非、検討してもらいたいものだ。



その77 「動態清零」って何でしょう?――「零」に触発されて考えたこと(2022年12月24日)
■去る12月7日、中国政府は、新型コロナウイルス感染拡大を厳しい措置で抑え込むいわゆる「ゼロコロナ」政策を、遂に大幅に緩和する通知を発出した。――軽症者の自宅隔離を認めたり、随所でのPCR検査陰性証明の提示を不要としたりする内容で、2年以上に及ぶ市民生活に対する種々の制約が、かなりの規模で取り払われることとなった。

■この政策転換の背景には幾つかの要因が存在しようが、その1つに、11月末に各地で広がった「ゼロコロナ」政策への抗議活動があったのは間違いない。特に、清華大学・北京大学といったエリート集団の構成員たちによる、白い紙をシンボル的に掲げた「白紙運動」の影響などが大きかったようだ。ともあれ、市民・学生の抗議の声が政策を転換させたことの意義の大きさは確認しつつも、その一方で、入念な準備がなされないまま進められた急激な政策転換が、北京などを中心に、大規模感染を導いている現状が存在しているのも事実である。今後の推移から目が離せないところだ。

■では、「ゼロコロナ」政策とは、中国語では何と称されていたのか、ご存知だろうか。一般に、「動態清零」と呼び慣らわされていたのだった。近藤大介『ふしぎな中国』(講談社現代新書、2022年10月)は、34個にも及ぶ新語・流行語・隠語を紹介しながら、昨今の社会事情や若者文化などを紹介した好著なのだが、「「動態」とはダイナミック、「清零」はゼロに清める。すなわち習近平主席が固執した『ゼロコロナ政策』のことだ」との説明に留まっており、少し分かりにくいところもあるようだ。私なりに訳せば、「動向リセット」とでもなろうか。「動態」は「動き」を意味し、「清零」を中英辞典で引けば「reset/zero clearing」などと記されているのである。
■中国語の「零」という漢字には、かなり興味深い意味が内包されていることが気になり出したのは、「零銭」が小銭・バラ銭の意味だと知った時だから、大学院に入った頃ではなかったか。「零」が数字のゼロだけでなく、「細々した、半端な」といった意味の形容詞としても用いられることが、少し奇妙に思われたものだった。そこから広がって、「端数、はした」という名詞の意味も存在している。文言的だが「年已八十有零」の訳は、「齢(よわい)すでに八十有余」となっていく。更に、これまた文言的だが、動詞として「(涙や雨が)こぼれる」「(花や葉が)萎れる、枯れ落ちる」という意味も具わっているのだ。日本語でも、「零落した華族の末裔」といった用法が存在することを思い出す人もいるかもしれない。

■漢字の「零」には、数字のゼロからは類推が効かない幾つもの意味が存在していることが、妙に気になって来るのは、決して私だけではないのではないか。もちろん、数字のゼロや「無」の意味、更には時間や温度などの起点を示す意味が、「零」の漢字の基本に据わっているのは間違いないのだが。なお、中国語で100以上の数を言う場合、途中の位が空位の際には「零」を補うというルールがあることは、中国語初学者を戸惑わせることの1つである。具体例を挙げれば、99は「九十九〔jiu shi jiu〕」、100は「一百〔yibai〕」、101は「一百零一〔yibai ling yi〕」と発音するのである(「一百一〔yibai yi〕」は「一百一十〔yibai yishi〕」の「十」が省略された言い方で110を指す)。これは漢数字で書くと「一〇一」となるので、「yibai ling yi」と発音される意味が分かりやすくなるだろう。ちなみに、ここで用いた「〇」は、「七」「八」「九」などと同じ、れっきとした漢数字=漢字である点は、改めて確認しておく。(日本語では漢字として認めていないようだ。)

■最後に、新しい年を迎えるにあたって、一言。――昨年末も押し迫ってきた時期に、岸田文雄内閣は、「敵基地攻撃能力」の保有や今後5年間の防衛費総額を従来の1.5倍以上の43兆円とすることなどを盛り込んだ、いわゆる「安保関連3文書」を閣議決定した。「敵基地攻撃能力」の保有は、憲法9条のみならず「専守防衛」という戦後日本の大原則をも覆すものであり、あの安倍晋三内閣でさえも公的には提起できなかった内容である。2003年という新しい年を迎えるにあたって、日本が「戦争ができる国」に一歩踏み出そうとしているこの状況を、絶対に「清零」させ、日本を憲法遵守の原点=ゼロ起点に立ち返らせねばならないと改めて思う。もちろん、日中を問わず、コロナ禍の「清零」をも……。



その78 前回・前々回のコラムに対する修正ないし補足について――発表後に知ったこと(2023年2月22日)
□本コラムの2023年1月分を休載してしまいました。休載は、19年5・6月分、21年10月分、22年5月分に続き、5回目となります。少しずつ増えつつあるようで、心を引き締めねばと思う次第です。――私事に渡り、かつ言い訳にもなりませんが、昨年8月中旬に初孫が産まれ、同月下旬に父親が97歳で逝去したことから生じた雑用が、何故か昨年末から今年初にかけて集中的に押し寄せて来てしまい、かなりの時間を割くしかなかったことが最大の要因ではありました。もちろん雑用の中には、96歳の母親と7人目(!)の曾孫との「対面式」を、母の住む東京と孫の住む神戸との中間点である焼津のホテルで、妹夫婦一家ともども計20人の親族が一堂に集まって開催できたことなど、楽しい出来事もありはしたのですが…。ともあれ、改めてご海容のほどを、お願い申し上げるしかありません。

■今回は、前2回のコラム、即ち「その76/中国共産党員の現況から考えたこと」と「その77/「動態清零」って何でしょう?」で紹介した事柄に対する、若干の修正ないし補足を記しておくことにしたい。コラム発表後、関連書籍を新たに読んだり中国人を含む友人たちと話したりする中で、私の記述の不十分さを思い知らされてしまったからである。

■「その76」では、昨年10月に中国共産党第20次大会が開催されたことを受けて、現在、中国共産党員数は9671.2万人に上り、これは日本の人口の約8割、中国の有権者数の約1割に相当することを指摘しつつ、中国共産党は、いわば「国民政党」的側面をも備えていることなどを論じたのだった。その際に、「正式な党員と認められる過程(発展党員過程)は、「入党申請段階→入党積極分子段階→発展対象確定・考察段階→予備党員受理段階→正党員転換段階」という5段階で、各段階で教育・審査がなされる」と記したのだが、この記述(中国共産党HP掲載の解説文を読み、分かりにくい部分を中国人の大学院留学生に確認した上で記したのだが)には、若干の誤解が存在していたようなのだ。

■中国関連新刊書の読破を目指しているとしか思えない読書家の孔子学院事務局長・佐々木浩二さんから教えてもらった、西村晋『中国共産党 世界最強の組織――1億人の入党・教育から活動まで』(星海新書、2022年4月)に基づけば、①入党申請から「入党積極分子」になれるかどうかの段階→②「入党積極分子」が「党員発展対象」になれるかどうかの段階→③「党員発展対象」が「予備党員」になれるかどうかの段階→④「予備党員」段階という、4段階の審査過程と捉えるのが現実的なようなのだ。各段階には、それぞれ研修・実践・審査に相当する3プロセスがあり、計12プロセスをすべてクリアしなければならない。かつ、①④段階は最低1年間が必要であり、④には「留年」に相当する半年ないし1年間の期間延長もあり、それを過ぎてもクリアできない場合は、全てがチャラになるとのことである。従って、正式な党員と認められるには、どんなに早くても3年以上が必要となるのである。ちなみに、「審査が厳格である」のはよいことなのですが、入党する側から見れば、審査のための資料準備がとても大きな負担になります。…あらゆる事務作業がデジタル化・オンライン化されている現代中国であっても、入党の審査プロセスでは手書きの資料の提出が求められている場合が多いようです。コピー&ペーストの防止のためだと思われます」といった実態も存在するとのことである。

■「その77」では、いわゆる「ゼロコロナ」政策の収束動向を受けて、「ゼロコロナ」政策の中国語は「動態清零」であることを紹介した。実体的には、確かにそれで問題ないのだが、直訳すれば「動向リセット」「ダイナミックにゼロ化」となる言葉が、何故「ゼロコロナ」政策を意味するのか、自分でもよく理解できないながらも書き記してしまったため、十全の説明にはなっていなかったようなのだ。そんな折、中国語翻訳者でもある孔子学院職員・脇屋克仁さんが、「コロナが流行する前から、「動態清零」という言葉は使われてましたよ。ある問題状況を一気に解決する際の政治キャンペーン的用語として「動態清零」が用いられているのを読みました」と教えてくれた。そこでネットを検索すると、例えば、2019年1月17日(武漢における新型肺炎集団感染が報じられる、まさに1年前だ)の国務院による就業政策関連の記者会見ニュースの見出しに、「突出実施就業優先政策,確保“零就業家庭”動態清零〔就業優先政策を突出させて実施し、「就業者ゼロ家庭」状況の一掃を確実に保証する〕」とあるのを見つけ出すことができた。

■「動態清零」とはコロナ禍に限らず、問題のある事態を一掃していく政策を指すタームだったのだ。そう言えば、「新冠清零」(「新冠」は新型コロナウイルス肺炎を指す。本コラム「その44/「新冠」って何でしょう…?」参照)という言葉を見たことがあったのを思い出した。ちなみに中国政府が、当初は「零感染」と呼んでいた政策を、早期発見・早期対応・早期一掃の意味で「動態清零」と表現して以降は、「ゼロコロナ」政策=「動態清零」になってしまったらしい。ネット検索で「ゼロコロナ」政策以外の「動態清零」の用例を発見するのに、30分以上を費やしてしまったことをも、言い訳的に付記しておく。

■今回は図らずも、親族や孔子学院職員の皆さんをも巻き込んだ「私事」を記してしまった。本コラムが多くの方々に支えられていることを、忘れてはならないと改めて思う。



その79 日本はテレビ放送開始70周年、中国も意外に早く1958年初放送!――中国「電視〔テレビ〕」事情(1)(2023年3月26日)
■先日、日本テレビ系の「踊る!さんま御殿!!」は「NHK×日テレ/アナウンサーが夢の競演SP」と題して、ゲストに日本テレビとNHKのアナウンサー各6人を招いてトークを繰り広げた。民放のバラエティ番組にNHKアナウンサーが多数出演するなど、まさに異例だろう。――何故こんな番組が放映されたのか。NHKと日本テレビがともに、本年、テレビ放送開始70周年を迎えたからだった。日本初のテレビ放送は、NHKによって1953年2月1日に放映され、8月28日、日本テレビが民放初放送を担ったのである。サラリーマンの平均月給が1~3万円の時代に、テレビ受像機の値段は20万円以上だったため、57年段階のテレビの世帯普及率は29.1%だったという。ちなみに、私はテレビ初放送の翌年の生まれである。つまり物心が着いた時にはテレビがあった世代の「走り」、即ち「初代テレビっ子」に位置づくようなのだ。確かに、テレビ抜きの生活など想像できないところがある……。

■では、中国のテレビ放送はいつ始まったのか。実は予想外に早く、日本に遅れること4年余の58年5月1日=「労働節〔メーデー〕」の夜7時5分、毛沢東の筆による「北京電視台〔テレビ局〕」という文字が映し出され、その後、2時間余に渡って、工農業の先進労働者による座談会、ニュース映画、文芸番組、ソ連の科学教育映画『電視』などが放映されたのが最初である。これほど早期に実現できた背景には、当時のいわゆる東西対立・競争が存在したらしい。アメリカの援助の下、58年の「双十節〔10月10日/辛亥革命の契機である武昌起義が11年の同日に勃発したことに基づく記念日〕」に放送開始を準備していた台湾に後れを取ってはならないという政治的目的から、ソ連の援助を受けて「労働節」に間に合わせたのだった。ただし、この時、北京市内に存在したテレビ受像機は、30数台に過ぎなかったとのことだ。また、初放送を担った北京電視台は現在の中央電視台(CCTV)の前身であって、現在の北京電視台(BTV)とは異なる点も看取しておく必要がある。

■こうして58年に登場したテレビ放送だが、その後、徐々に文革(66~76年)へと向かう動きが強まっていく中で、テレビ放送をめぐる事業は頓挫していく。テレビ放送が急激な発展を遂げるのは、文革終結後の78年5月1日、上述の北京電視台が中央電視台と名称変更して「全国性国家級電視台」が成立したことが契機となった。「改革・開放」政策が軌道に乗った87年末には、テレビの年間生産量は2000万台近くに上り、国内のテレビ台数も1億台を突破してテレビ視聴者は6億人に達した。市場経済の本格化を宣言した鄧小平「南巡講話」直後の93年には、全国の電視台は586局、テレビ視聴者は8.06億人(テレビ視聴可能地域は全国の81.2%)に到って、テレビは中国で最も大きな影響力を持つ大衆メディアとなったのだった。その後、地上波のみならずケーブル放送・衛星放送なども一挙に進み、直近の在外研究(2008年の長期滞在)の際に暮らした清華大学キャンパス内の一般教職員住宅では、「視聴可能なチャンネル数は40強。中央電視台は全17チャンネルの内の13チャンネル、北京電視台(BTV)全13チャンネル中10チャンネルしか視聴できない。その代わり海淀電視台〔清華大学所在地は北京市海淀区〕と清華大学電視台なるものが映る。残りは各地方電視台衛星放送の総合チャンネルと鳳凰衛視中文台〔香港に本拠を置く世界華人向け衛星放送/フェニックスTV〕である」(当時の日記より)という状態にまで到っていた。現在は、本コラム「その70~72」で紹介した「網劇〔ネットドラマ〕」に象徴的なように、インターネットをも媒体とした広義の「テレビ事業」(電視台も制作に関わることも多い)が展開されており、日本と同様に、いやそれ以上のスピードで、テレビが様々な意味における「転換期」を迎えているのは確かなようだ。

■私が中国で在外研究をしたのは、1987年9月~88年3月(南開大学)/93年9月~94年3月(同前)/2001年9月~02年3月(清華大学)/08年10月~09年4月(同前)の4回である。その長期滞在中は「私にとってテレビを見るのは中国語の勉強だ!」と言い訳しながら、宿舎にいる時間帯はテレビをほぼ点けっ放しにしていたと言っていい。その際の視聴経験に限られるが、中国のテレビ事情の諸相について、今後も時折り書かせてもらおうと思う。「初代テレビっ子」ということで、何卒ご海容いただければ有難い。なお、今回のコラムで記した中国のテレビ初放送やその後の発展経過に関しては、郭鎮之『中国電視史』(中国人民大学出版社、97年7月)、千田大介・山下一夫編『北京なるほど文化読本』(大修館書店、2008年7月)の他、中国の「Google」と言われる「百度」のHPにアップされた「中国的電視事業」に関わる記事などを参照したことを、最後に付記しておく。



その80 名作ドラマ『北京人在紐約』の内容面以外(?!)における画期性について――中国「電視〔テレビ〕」事情(2)(2023年4月27日)
■中国でテレビを見ていて驚くことの一つは、「直接播送/直播〔生放送〕」の番組以外には、基本的に字幕が付されているという点ではないだろうか。――断わるまでもないが、日本のテレビの字幕(文字)放送と言えば、外国映画などを原語放送で視聴する場合や、高齢その他によって聴覚に困難が生じた方が見る場合などに切り替えるものであり、一般番組は基本的に字幕付きにはなっていないため、中国の状況に対して驚きが生じるようだ。

■中国テレビの一般放送に字幕が入るようになったのはかなり早く、私の記憶によれば、1993年頃が転機ではなかったか。30年も昔、市場経済政策が本格的に全面展開され始めた時期である。私の第2回目の在外研究時(93年9月~94年3月/天津・南開大学)における見聞・思考を書き記した「天津発“小道消息〔街角こぼれ話〕”Ver.Ⅱ(第1報)」(『中国文芸研究会会報』第145号、93年11月)の一部を、途中を省略しつつ引用しておこう。

■「現在、一番人気のある“電視劇”は、中央電視台が夜8時10分から(実質は15分から/5分間もCMが入る)放映している『北京人在紐約〔ニューヨークの北京人〕』(全21集)らしい。ただし、僕は第5集からしか見れていない。『阿信〔おしん〕』以来の高視聴率だとの説もある。」「1980年代初期に、妻を連れてアメリカに渡った30歳台の北京出身の男が、スラム街での生活、皿洗いの日々から苦労して伸し上がり、セーターの編み物工場を起こして成功し、遂にはミリオンダラーになっていくという、アメリカン・ドリーム的な物語だ。とはいえ、妻とビジネスの双方をめぐってライバルとなるアメリカ人男性や、男を公私に渡って助ける有能で妖艶な台湾出身女性なども登場して、人間関係も単純ではないし、アメリカ社会の矛盾(例えば街娼・賭博・大麻、拝金主義や一夜にしての破産まで)や成功した男の悲哀(離婚や、成功後に北京から呼び寄せた娘の反抗、中国人アイデンティティ堅持の困難など)も興味深く描かれていて、なかなか眼が離せない。主演は映画『紅高粱』の姜文(“電視劇”初出演らしい)、娘役が『北京,你早』の馬曉晴といった豪華キャストである。他にも名のある女優も出演していそうだが、分からずにいる。」

■「最大の魅力は、何といっても、“電視劇”として初めてのアメリカ長期ロケを敢行(『CHINA DAILY』によれば制作費は150万ドル)して、アメリカの生の生活を映し出しているところだろう。『天津日報』は、視聴者から寄せられた、この“電視劇”に描かれるアメリカ人的な生活・行動方式に対する質問に答えるという特集を組んだりもしていた。「この“電視劇”を見て、アメリカ社会に対する盲目的な憧れが減少するだろう」といった意見が、『天津日報』の“読者来信”に掲載されていたが、視聴者は、逆に、ダイナミックなアメリカ社会にいっそう憧れ、そこで成功していく中国人男性に自己を同一化していく傾向が強まるのではないか、といった感想を抱いたのだが、どうだろうか。」

■そしてこの話題の最後を、こんな言葉で締め括っていた。「ともあれ、最終回までじっくりと見て、考えをまとめてみたいと思っている。おそらく、現在の若者(に限らないかもしれないが)の意識状況を探る上でも、おもしろい材料を提供していることは間違いないだろう。――僕の中国語の“聴力水平〔ヒアリング水準〕”で、どうして“電視劇”の細部まで理解できるのか、実は秘密がある。英語の台詞が多いこともあって、全ての台詞(中国語部分にも)に字幕が出るのだ。う~ん、このことは書きたくなかったなぁ。」

■「百度一下」などによれば、『北京人在紐約』の放送開始は1993年9月26日だったらしい。私の南開大学到着は9月29日だったこともあって、「日記」を見ると、10月1日放映の第5集が初めての視聴だった。だが、一話を見ただけで一気にはまって、その後の「日記」には『北京人在紐約』に関わる記述が急増していく。ちなみに最終回の第21集が放映されたのは10月19日で、その直後から、地方の「電視台」が順不同に再放送を始めたので、見逃していた第1~4集も見ることができてホッとしたことを、妙に鮮明に覚えている。

■『北京人在紐約』は、94年の第12回「大衆電視金鷹賞」と第14回「飛天賞」の優秀長編連続ドラマ賞・最優秀男優賞・最優秀女優賞・最優秀撮影賞などを受賞し、かつ2021年には第1回「澳淶塢〔AOLLY WOOD/映画・音楽関係企業〕国際電視節金萱賞」の「建党百年全国優秀電視劇」にも選ばれており、まさに歴史的な名作ドラマに位置づけられている。しかし、こうしたドラマの内容面のみならず、おそらく中国で初めて全面的に字幕が付されたテレビドラマでもあったという画期性をも、看取しておく必要を強調しておきたい。――『北京人在紐約』をめぐっては、まだまだ書き足りないことも多いので、随時、紹介していきたいと思う。乞うご期待?!



その81 『北京人在紐約』周辺の話題を幾つか――中国「電視〔テレビ〕」事情(3)(2023年6月4日)
■前回の本コラムでは、1993年9月からCCTV(中央電視台)で放映された画期的なドラマ『北京人在紐約〔日訳:ニューヨークの北京人/英訳:A Native of Beijing in New York〕』を紹介しつつ、これこそが、中国初の字幕付きドラマだったのではないか、とも指摘した。――薄っすらとした記憶なのだが、その後しばらくして、日本のある中国語学習者向け月刊誌が、このドラマ1回分のビデオテープを毎号の付録にした上で、ドラマの名シーンの会話文に文法的な解説を加えたコラムを連載したりもしたはずである。中国語学習教材にもなったわけで、日本でも、一部ではあるが、話題を呼んだと言えるだろう。ドラマに字幕が付されていたからこその教材化だったと、改めて思わされるところだ。

■ドラマ『北京人在紐約』には、曹桂林(1947年北京生まれ/80年代初めにアメリカに渡り成功した実業家のようだ)による同名の原作小説(中国文聯出版公司、91年8月)がある。本屋に並んでいるのを見て慌てて買い込み、一気に読み切ったのは、「留学日記」によれば、ドラマの最終話が放映された10月19日の直後だったらしい。なお、小説とドラマの間には、当然ながらかなり相違点が存在する。最大の相違は、主人公のライバルであるアメリカ人男性が存在しないこと、従って、主人公も離婚しないことなどにあるだろう。ドラマにおける改編が如何なる効果を上げているのか、少し考えさせられた記憶もある。

■なお、『北京人在紐約』関連本については、「天津発“小道消息”Ver.Ⅱ(第2報)」(『中国文芸研究会会報』第146号、1993年12月)に以下のような記述が残されている。断片的になるが引用しておく。「原作者・曹桂林の第2作『緑卡――北京姑娘在紐約』(新世界出版社、93年〔月日の記述なし〕)が入手できたので読んでみた。いわゆる風俗小説的な面白さ(アメリカ社会の裏情報提供なども含めて)はあるが、率直な印象は「二番煎じ」。人物が類型的に過ぎる気がした。そもそも副題が「ニューヨークの北京娘」だし、タイトルもアメリカ永住権を示す「グリーンカード」の中国語訳である。」

■「任文『在紐約的“北京人”』(中国広播電視出版社、93年9月)も売れているようだ。“電視劇”『北京人在紐約』の制作過程を描いた“報告文学〔ルポルタージュ〕”。これは実にオモシロイ。まず、ゴシップ的な興味を満たしてくれる。例えば、女性主人公の阿春と郭燕の役が比較的無名の王姫(元“北京電視台”の“主持人〔キャスター〕”。撮影当時は妊娠中だった!とのこと)と厳暁頻(北京電影学院卒業後、渡米して華人向け音楽ニュース放送の記者をしていた)に決まるまでの顛末。候補に挙がった中国(出国している女優が多いのにも驚かされる)・香港・台湾の有名女優十数名が実名で登場し、演技が下手、身長をごまかしていたといった理由で落とされていく過程など、ここまで書いていいのかな、と思わされるほどだ(“報告文学”とは何かを改めて考えさせられる)。撮影現場での様々なエピソード(撮影許可が得られなかった墓地での“偸拍〔盗撮/無許可撮影〕”や、撮影時間が限られた状況下で発生した交通事故、等々)も興味深い。だが何よりも、強烈な個性を備えた四十数人のスタッフと俳優たちが巻き起こす様々な次元における矛盾と葛藤、そして中国人とアメリカ人(現地採用の俳優・マネージャー・スタッフたち)との間に存在する発想・行動様式のギャップと、それが引き起こす大小の事件、等々をめぐる鋭い描写の数々だ。集団運営や異文化理解とはいったい何なのかといったことを、考えさせるところであり、単なる便乗本を超えているのではないか、と思った次第だ。」なお、本書の類書に、駱玉蘭・丁人人『飛越太平洋――《北京人在紐約》的幕後鏡頭〔太平洋を越えて――《~》における舞台裏のショット〕』(作家出版社、93年12月)も存在する。ニューヨークロケ中のエピソードを紹介しているが、大半は任文著と重なっているようだ。

■最後に、最大の「二番煎じ」について紹介して、この話題は一先ず閉めたいと思う。実は、1996年に25集ドラマ(「集」はドラマの回数/25話)『上海人在東京〔東京の上海人〕』が制作・放映されているのだ。原作は樊祥達による同名小説で、図らずも東京に追いやられた青年弁護士が、慣れぬ異国の地で奮闘する物語とのことである。キャストには陳道明・葛優といった著名俳優が名を連ね、日本からも風間杜夫・高橋惠子たちが出演しており興味深いところだ。YouTubeでも視聴できるので、じっくり見た上でまた紹介したい。



その82 20世紀末中国におけるテレビCMの周辺――中国「電視〔テレビ〕」事情(4)(2023年7月15日)
             *特別付録クイズ=「木神原鬱恵」って誰でしょう?
□比較的短めのものばかりとはいえ、6月末締切の原稿が4本も重なってしまっていたため、言い訳にもならないが、6月内の本コラム執筆ができなかった。お詫びするしかない。――ある月の第1週目くらいに前月分コラムをHPにアップしたことはあったが、10日以上も過ぎてしまったのでもう休載にするしかないな、と思っていたところ、担当の孔子学院事務職員のAさんより、「15日までなら6月分として掲載もできますよ」という、優しくかつ有り難いお言葉をかけてもらったので、その言葉に甘えて、今、必死に書き始めた次第である。とはいえ時間もないので、引き続き「中国20世紀末のテレビ事情」のこぼれ話を紹介することしかできそうにない。ただし、末尾にお詫びを兼ねた「クイズ」を1問、紹介しておく。

■1993年9月から始まった私の第2回目の在外研究時の日記に、「テレビドラマの途中にCMが入るようになった。従来はドラマの前後に5~10分くらいのCMが流れ続けるというパタンだったが、今回は、途中に3分程度のCMを流すものも眼につく。ただしドラマ自身はCMを意識して制作されていないので、中途半端なところで突然中断されてイラつくことも多い」との記述を見つけた。「従来」とは87年9月からの第1回目の在外研究時を指すようだ。87年の日記を見返すと、「国営テレビ局である中央電視台(CCTV)でさえもCMを流していたのに驚いた、というか違和感を抱いてしまった。日本のNHK以上に国家との距離が近いCCTVがCMを流すなんて、中国の社会主義って何なのだろうと思わされるしかない」との記述が残っている。調べてみると、中国のテレビが最初にCMを流したのは、79年のCCTVらしい。ただ、その年のCM収入は325万元だったが、95年には64億元へと2000倍化したとのことだ。80~90年代における市場経済化の進展の速さには驚くしかない。

■なお、93年の日記には、こんな記述も残っていた。「クイズやバラエティ番組では、従来から日本と同じく、正解が示される直前など、最も盛り上がったところでCMを挟み込んで気を持たせるパタンが多かった。ただ、CM中の画面の片隅に、「広告還有○分○秒〔CMはあと〇分〇秒〕」とカウントダウンが示されたり、「広告後更精彩〔CM後はもっと面白い〕」「○○(ドラマ名)馬上回来〔〇〇はすぐ戻って来ます〕」といった文字が流れるのを見かけるようになったのが今回の特徴だろう。CM中にチャンネルを替えられないようにする涙ぐましいまでの工夫は、日中ともに変わらないようだ。」

■93年12月、天津の街角の「報刊亭〔新聞雑誌の街頭販売所〕」に立ち寄って新聞を買おうした際に、「八開〔全紙八折サイズ=B4サイズ〕」の大型グラフ雑誌『演芸圏』創刊号(総第1期/93年12月8日)を発見して、少し慌てふためいてしまった。――厚手の上質紙を用いた中国では見たことがないタイプの、中国初のいわゆる芸能月刊雑誌だったからだ。「主辧単位〔主宰刊行機関〕」は北京市文化局と北京文化芸術音像出版社で、定価は16元(当時の中国の物価水準で言えば2000円くらいに相当か)だった。早速買い込んで頁をめくると姜文(ドラマ『北京人在紐約』や映画『紅高粱』など)・鞏俐(映画『紅高粱』『覇王別姫』など)や香港映画のスターに関する写真とニュースに満ちている。その中に日本の大手プロダクション「ホリプロ」が広告を出していたのが目に留まった。さすが「ホリプロ」、中国の芸能界関連市場の発展を見越して先行投資していると感心したのだが、その直後に笑い声を上げてしまった。何故か。――鈴木保奈美・石川さゆり・鶴見辰吾といった所属タレントが写真付きで紹介されていたのだが、その中に「木神原鬱恵」!がいたのである。

■どう考えても売れるとは思えない、この名前の女性タレントは誰でしょう? 何故こんな名前に誤植されたのでしょうか?……これを本コラムが2週間遅れたお詫びを兼ねた「特別付録クイズ」とさせていただく。中国語関連の話のネタにはなると思っているのだが、どうだろうか。【正解発表=次回の本コラム】



その83 「国字」(和製漢字)をめぐって――「特別付録クイズ」の正解発表も兼ねて(2023年7月29日)
■前回の本コラム末尾で「特別付録クイズ」を出題した。――1993年12月に創刊された中国初の大型芸能グラフ月刊誌『演芸圏』の創刊号に、日本の大手芸能プロダクション「ホリプロ」が「祝創刊!」という見開き2頁の広告を掲載しており、そこに「ホリプロ」所属の有名女性タレントとして「木神原鬱恵」さんの写真が掲載されていたのだが、さて、この絶対に芸能人とは思えない名前の人は、いったい誰でしょう?……というのが「クイズ」だった。中年以降世代には簡単だったと思うのだが、若い世代は如何だったろうか。

■正解は……榊原郁恵さんである。断わるまでもなく私の学生時代の1976年に「第1回ホリプロタレントスカウトキャラバン」で優勝して芸能界入りしたアイドルで、歌手としては「夏のお嬢さん」などのヒット曲があり、ミュージカル『ピーターパン』でも活躍した。最近はバラエティ番組などでしか見かけなくなってはいたが、昨年末に配偶者の俳優・渡辺徹さんが逝去された際の記者会見で、明るく気丈に受け答えしている姿を見て、「郁恵ちゃんらしいなぁ」と久々に思った記憶がある。

■では何故、こんな誤植が生じてしまったのか。「榊」という漢字は「国字」つまり和製漢字で、伝統的な中国漢字には存在しないため、「榊=木+神」となってしまったことが、まず1つ目の理由である。こうしたミスは、実は、昔の日本でも時折り存在した。私の母の名は「公子」というのだが、たまに「宇野松子」宛の葉書が来ていたことがあった。何かの横書きの手書き名簿に基づくDM葉書だったのだろうが、「木+公」で「松子」になったのだろう。宇野という苗字は多いが宇野木という姓は極めて珍しいことが、いわば拍車をかけたようだ。2つ目は、郁恵の「郁」の字が、実は中国では「鬱」の字の簡体字となっていたことによる(「憂鬱」を簡体字で記すと「忧郁〔yōuyù〕」となる)。日本では簡体字を用いないので、編集者は「郁」をわざわざ正字の「鬱」に変換してしまったとみて間違いないようだ。――和製漢字と簡体字という、中国語を学ぶ際に頻出する「同じ漢字を使ってはいるものの……」という留意点の代表例がよく分かる、興味深い「クイズ」だと思うのだが、どうだろうか。

■少し気になったので、「国字」は幾つぐらい存在するか調べてみた。――中国由来の漢字はおおよそ5万字ある(日本の大修館『大漢和辞典』が5万1110字/中国は清代『康熙字典』が4万7035字、2010年版『漢語大字典』が6万370字)というが、「国字」は約2600字程度だという。ちなみに、小学校で学ぶ教育漢字は全1006字だが、内「国字」は「畑」(3年生配当)と「働」(4年生配当)の2文字のみである。なお、「国字」は、大別すると、①日本独自の文化・生活・風土を表すもの(「峠〔とうげ〕」「辻〔つじ〕」「裃〔かみしも〕」「凩〔こがらし〕」「躾〔しつけ〕」など)、②魚類に関わるもの(「鰯〔いわし〕」「蛯〔えび〕」「鯑〔かずのこ〕」「鯱〔しゃち〕」「鯰〔ネン・なまず〕」など)、③木に関わるもの(「樫〔かし〕」「栃〔とち〕」「柾〔まさ・まさき〕」「枡〔ます〕」「枠〔わく〕」など)、④外来語を表記するもの(「瓩〔キログラム〕」「粁〔キロメートル〕」「竍〔デカリットル〕」「瓰〔デシグラム〕」「噸〔トン〕など)に区別できるらしい。(以上、国語教員の執筆による「ダジャレ先生の面白くてためになるブログ」などを参照。)

■「国字」は①の関係から、苗字に用いられる場合も多い。中国人は日本人の名前を中国語で発音する風習があるが、「国字」では苦労するようだ。多くの場合、似た意味の中国漢字を当てて読む。「畑中」さんは一般に「田中〔Tiánzhōng〕」さんと呼ばれるが、ある中国人から「畑中〔Tiánzhōng〕先生によろしく!」と言われたので、帰国後、田中さんに伝えたのだが怪訝な顔をされてしまったこともあった。学生時代の先輩に「樋口」さんがいたが、中国語では「木通口〔Mùtōngkǒu〕」と自己紹介していたことも思い出す。

■そんな折、中国で最も流布しているポケット版漢字辞書『新華字典』には、何と「畑」が親字として収録されているのに気づいて驚愕したものだった。もちろん、「畑 tián (外)日本人姓名用字。」と説明されている。

その84 愛新覚羅溥傑ってご存知ですか?(1)――ラストエンペラーの実弟と立命館(2023年9月27日)
■去る9月8日、立命館孔子学院が設置されている建物「アカデメイア立命21」のリフレッシュ事業竣工式が挙行された。――この建物の地下から2階までは、「平和と民主主義」を教学理念に掲げる本学の象徴とも言うべき立命館大学国際平和ミュージアムが占めているが、その展示内容も含めたリニューアルと、従来は2階に配置されていた孔子学院を3階に移設して施設・設備の改装を図ることが、今回のリフレッシュ事業の中心課題だった。

■その一環として1階通路の壁面に、新しく平和ミュージアム関連のギャラリースペースが生まれたのだが、そこに、以前はミュージアムの奥にひっそりと収蔵されていた、愛新覚羅溥傑(1907~94年)が揮毫した「反戰 平龢 親鄰 友好〔反戦 平和 親隣 友好〕」という8文字の書【写真参照】が展示されることになった。「立命館大学国際平和博物館創業記念」と記されているように、1992年5月、溥傑が平和ミュージアム開館記念シンポジウムに招待された際に寄贈したものである。著名な書家でもある溥傑は、他に類を見ない、水が流れるような柔らかい書体に特徴があり、私たちも、つい足を止めて見入ってしまうのではないだろうか。

■この溥傑とは一体どんな人物なのだろうか。――清朝最後の皇帝で、辛亥革命により皇帝の座を追われるが、日本が1932年に建国した傀儡政権「満洲国」において、当初は執政、後に皇帝に担ぎ上げられた、いわゆるラストエンペラー・愛新覚羅溥儀(1906~67年)の、実は1歳違いの実弟だった。辛亥革命後に勃興した軍閥などの圧力を避けて、兄ともども日本政府の庇護を受けるようになった溥傑は、1929年に来日して学習院高等科そして陸軍士官学校本科に学び、卒業後の1935年、「満洲国」陸軍に入隊する(最終的階級は「陸軍中校〔中佐〕」)。「満洲国」皇帝となった溥儀は、日本の天皇家と姻戚関係を結びたいと考え、その意向を受けた関東軍が、溥傑と侯爵・嵯峨実勝の長女で昭和天皇の遠縁にあたる嵯峨浩との縁談をまとめて、1937年に2人は結婚する。政略結婚だったが夫婦仲は良好で、二女(長女・慧生、次女・嫮生)に恵まれる。その後は、「満洲国」駐日大使館附武官や「満州国」軍官学校教官などを務めて、日本と「満洲国」を繋ぐ役割を果たした。

■中華人民共和国建国後は、兄の溥儀ともども戦犯とされて撫順戦犯管理所に収監されるが、1960年に模範囚として特赦される。同年、日本にいた妻の浩も帰国して、溥傑とともに暮らせるようになる。その後、市民権を回復して、全国人民代表大会(全人代/衆議院に近い)常務委員会委員、全人代民族委員会(清朝は少数民族である満族の王朝だったので、溥傑は少数民族のシンボル的存在だった)副主任、中国人民政治協商会議(政協会議/参議院に近い)全国委員会文史資料委員会専員(専門家)、中国書法家(書家)協会名誉理事、中国中日関係史研究会副会長などの役職を務めた。1987年6月、長年苦楽をともにした妻・浩が北京で死去。溥傑は1972年の日中国交回復後、7度に及ぶ訪日活動を行ない、「日中の架け橋」として両国の友好に大きく貢献したこともあり、1991年10月、本学は名誉法学博士を授与している。1994年2月28日に逝去、享年86歳だった。

■実は、立命館と「満州国」との間には、かなり深い関係が存在していたのである。1922年、立命館は当時の大学令によって大学(旧制)に昇格するが、「満洲国」が鉱工業の人材養成を重視していることを知って、1939年、前年に北大路校地に開設していた立命館高等工科学校を、「満洲国」の資金援助を受けて、「満洲国」技術者養成機関としての「立命館日満高等工科学校」に発展的に改組して、現在の衣笠キャンパスに移転させたのだった。これが、本学理工学部の前身に相当していく。そんなことが、名誉博士学位の授与にも繋がったのだった。――最後に、私は実は、本学と溥傑との関係性もあって、何と溥傑の葬儀に出席するという極めて貴重な経験をしていたことを告白させていただく。次回の本コラムでは、その経緯と感想その他を記しておこうと思う。乞うご期待?!

□お気づきのように、8月の本コラムを休載してしまいました。夏休みで十分な時間的余裕があったのは間違いなく、言い訳のしようもありません。改めてお詫び申し上げます。これに懲りることなく、今後とも立命館孔子学院を支援いただければ、勝手ながら嬉しく存じます。

溥傑書



その85 愛新覚羅溥傑ってご存知ですか?(2)――追悼式典と畑中和夫先生(2023年11月23日)
■前回の本コラムでは、ラストエンペラー・愛新覚羅溥儀の1歳違いの弟・溥傑と本学との関係などについて紹介したのだが、その末尾で、私は、「溥傑の葬儀に出席するという極めて貴重な経験をしていたことを告白させていただく。次回の本コラムでは、その経緯と感想その他を記しておこうと思う」と書いたものだった。――今回は、記憶が極めて曖昧なのだが(何故か、この時期の留学日記だけが見つからないのだ)、その約束に応えたいと思う。なお、この間、各種学会や3年10カ月ぶりの中国出張(上海)などが重なったため、前回から2カ月が経ってしまっている点は、改めてお詫びするしかないところだ。

■当時のスケジュール手帳のメモ書きによれば、1994年3月2日夕刻、2度目の在外研究として天津・南開大学に滞在していた私のところへ、大学の調査企画室から国際電話が入った。非常に親しい職員だったこともあり、「先生、今いらっしゃる天津から北京って、隣同士だから、すぐに移動できますよね?」といったことを切り出された。「いやいや、中国の鉄道事情は日本とは全く違う。天津から北京に行くには、1時間半に1本程度の「旅游列車」(近郊大都市間を結ぶ近距離特急列車)に乗るしかないのだけど、それでも2時間ちょっとかかるし、しかもその切符を買うには、発車時間の1時間前くらいに天津駅の外国人向け窓口(外貨兌換券を持つ者の優先窓口)に並ばなければならない(それでも売り切れで買えない時もある)といった具合なんだよね。北京の本屋に買い出しに行くだけでも、早朝に出て夜遅く帰るという丸々1日がかりの仕事になるのが、今の中国の実情。京都と大阪のような具合に思ってもらうと困るんだけど……」と答えたのだが、「でも2時間なら近いもんです。じゃ、3月7日の愛新覚羅溥傑の追悼式典に出席して下さい。大学からは常務理事の畑中和夫先生も訪中しますので、同行のほど、何卒よしなにお願いします。一応、業務命令?!ということにもしますので……」と言われてしまったのである。

■溥傑の名前は知ってはいたものの、2月28日に逝去したことは知らず、また、何故わざわざ常務理事が追悼式典に出席するのかもよく分からずにいたにもかかわらず、常務理事をアテンドしながら追悼式典に出ることになってしまったのだった。なお、後から送られてきたファックスによって、本学と溥儀との関係や、畑中常務理事(法学部教授/専門は社会主義法学/当時、本学の中国ネットワークづくりに尽力されており、その関係もあって私も親しくしていた、というか、中国関係若手教員ということで、何かとこき使われていた(?)と言った方がいいかもしれない。以下、普段の呼び方だった「畑中さん」と記させていただく)の斡旋で溥儀に名誉法学博士号を授与したことなどを知った。また、7日の追悼式典の前日に、北京市西城区護国寺街52号の溥儀の自宅へ弔問に訪れることもスケジュールに入っていて、些か困惑した記憶も残っている。

■3月6日7時半に南開大学を出発して、11時半頃に私の北京の定宿・新僑飯店(地下鉄崇文門駅近辺/ゼミ卒業生のS君が島津製作所北京支社で勤務しており、そのオフィスが新僑飯店に入っていたため、彼に電話すれば、確実かつ安く宿泊予約が可能だったのだ)にチェックインし、昼食後、タクシーで畑中さん宿泊の長富宮飯店(ホテルオークラ系列の高級ホテルで、当時、日航北京事務所も入っていた/建国門外大街)に向かう。待ち合わせ時間の2時半にギリギリに間に合って、畑中さんを拾って溥儀の自宅へ向かったのだが、自宅近辺で湖を見かけた曖昧な記憶が蘇る。今調べてみると、どうやら北海だったらしい。自宅は見事な四合院(北京の伝統的高級住宅)だった。溥傑の次女・福永嫮生さん(ご子息は本学卒業生)に会って弔問する予定だったが、嫮生さんは不在で、溥儀の秘書の方と懇談する。畑中さんは、以前に溥傑に招待されてこの自宅を訪問したことがあったそうで、その際には「満漢全席」(満族と漢族の料理を一堂に揃えた豪華絢爛な宴席)でもてなされたとのことだった。「満漢全席」のイメージを初めて知った日となった。

■夕刻に長冨宮飯店に戻り、ホテル内の日本料理店・櫻における宴席に参加する。畑中さんの訪中を知った中国社会科学院法学研究所が手配してくれたとのことである。さすが畑中さん!と思わされたものだった。宴席には、S君と同期のゼミ卒業生で、当時、日航北京事務所で働いていたHさんにも来てもらった。畑中さんは、中国で活躍している本学卒業生が着実に増えていることが嬉しくてたまらなかったらしく、僕の手をギュッと握って、「中国と立命館との未来を切り開いてくれてありがとう!」と言ってくれたことを思い出す。――と、ここまで書いたところで紙数と時間が尽きてしまった。以下、「次回に続く」とさせていただくしかないようだ。

その86 愛新覚羅溥傑ってご存知ですか?(3)――葬儀への参加と「燕瀛比鄰航一葦」(2023年12月1日)
■前回コラムの続きである。――当時のスケジュール手帳のメモ書きによれば、1994年3月7日(月)の朝8時半過ぎに新僑飯店からタクシーに乗り込んで9時少し前に長冨宮飯店に到着、9時5分に畑中和夫さん(本学常務理事/法学部教授)と落ち合い再びタクシーに乗って、10時から愛新覚羅溥傑の葬儀が挙行される八宝山革命公墓大霊堂に向かったのだった。北京市西郊の石景区八宝山の南側に広がる革命公墓は、中国革命に貢献した人物や国家指導者などを埋葬する墓地である。現在の地下鉄1号線(天安門前の大通りである長安街を東西に延長した北京のメインストリートの下を通る北京で最初の地下鉄。ただし94年当時は、苹果園駅から西単駅までという、現在の1号線の西半分しか開通していなかった。なお、いわゆる旧城内をめぐる環状線である地下鉄2号線は、84年には全線開通している)の八宝山駅は、西単から西に数えて9個目の駅、長富宮飯店近辺の建国門駅から数えると14個目の駅に相当する。これは、16㎞を超える距離であり、タクシーの乗り出がかなりあったことは記憶に残っている。

■9時50分に革命公墓大霊堂に到着。すでにかなり多くの人が集まっていたが、参列者は一般市民というより、人民服に身を固めた幹部が中心なように見受けられた。正面入口を入ろうとすると「保安〔警部要員〕」から誰何されてしまった。服装や雰囲気が中国人的でなかったかもしれない。「我々は、愛新覚羅溥傑先生と深い関係のある日本の立命館大学の者である。こちらは学校法人立命館常務理事の畑中和夫法学部教授で、葬儀に参列するために日本からわざわざやって来た。是非とも葬儀に参列させていただきたい」といったことを拙い中国語で述べると、しばらく待たされたが、その後、特に何の説明もなく中に入るように促された。小学校の体育館ほどの広さの大霊堂の中ほどには、周囲を花に埋められた溥傑の遺体が安置されている。ともあれ、葬儀の参列に向けた仕来りや作法などは全く分からないため様子を観察すると、参列者たちは遺体を見つめながら、時に立ち止まって黙祷を捧げつつ、その周囲をゆっくり回っていく。我々もその真似をしながら歩みを進める。溥傑の写真はどこかで目にした記憶(若き日の軍服姿だったと思う)はあったが、そこで目を閉じている溥傑の横顔は穏やかな老人で、写真のイメージとはあまり重ならなかった印象があった。なお、遠くに関係者に囲まれた遺族らしき女性がいて、高級幹部らしき老年の男性と話しているのが見えたので、畑中さんに「あれが次女の福永嫮生さんですか」と聞いたのだが、「遠くてよく分からないなぁ」との返事だった。取り巻きの人も多くて近づきにくく、またその後に、特に追悼式典らしきものが開催される気配もなかったので、そのまま会葬御礼記念品を受け取って退出することにしたのだった。

■帰路は、琉璃廠(書画・骨董などの古物店が並ぶ古文化街)へ行きたいという畑中さんの要望を受けて、八宝山駅から地下鉄1号線に乗って復興門駅まで行き、そこで2号線に乗り換えて和平門駅まで連れていく。畑中さんは、「宇野木くんのお陰で北京の地下鉄に初めて乗れて楽しかった」と嬉しそうに語ってくれた。「琉璃廠を案内してホテルまで送りますけど…」と言ったのだが、「大丈夫、1970年代の社会主義ソ連を一人であちこち歩き回ったんだから、「改革・開放」の北京なら問題ないよ!」が答えだった。手を振って別れた際の畑中さんの笑顔は、今でも脳裏に残っている。なお、畑中さんは2003年12月に逝去された。

■なお、会葬御礼の記念品とは、書家としても著名な溥傑の筆致で、「燕瀛比鄰航一葦」と刻まれたガラス製の文鎮だった(末尾の写真参照)。――「燕」は中国古代の戦国七雄の一国で、現在の河北省北部・遼寧省南部、即ち北京周辺地域に位置していたため、北京の古称も「燕京」なのである。つまり中国を象徴すると考えてよいようだ。「瀛」は海の意だが、日本を「東瀛」とも呼ぶこともあり、また「比鄰」はもちろん、近隣に存在するとの意味である。「葦」はしばしば小さな舟に喩えられ、古詩にも「航一葦」(小舟が航行する)という表現も見かけるとのことだった。即ち、「燕瀛比鄰航一葦」は、「日本と中国は近隣にあり小舟が行き来する」といった意味になるようだ。最後まで日中の友好交流の架け橋になろうとしていた溥傑の思いが、伝わって来るのではないだろうか。(なお、この語句の解釈に関しては、孔子学院副学院長・北京大学副教授の祖人植さんと本学大学院博士課程の李天琪さんの援助を受けたことを付記しておく。)

文鎮



その87 「龍」字は偏(ヘン)や旁(ツクリ)そして冠(カンムリ)にもなる?!――龍/龖/龘/龍×4…(2024年2月14日)

(※事務局より:本号は文字を拡大してお読みいただくことをお勧めします。)

■「甲辰(きのえたつ)」の新年が明けて早くも1ヶ月以上が経った2月10日、中国は春節(旧暦正月)を迎えた。ご存知のように、中国では元旦(新暦1月1日)ではなく、春節こそを新しい年の始まりとして祝う。国が定めた休暇も8日間である。――ところで、春節休みの現在、今年が「辰年」(中国では「龙〔龍〕年」)ということもあって、中国では「龍」の字を3つ重ねた「龘」という字で盛り上がっているのをご存知だろうか。中国の友人たちからの年賀メールに、この初めて見る奇妙な字が用いられていたことから、この流行を知った次第である。何故、流行り出したのか、いったい意味は何なのだろうか。

■「大年三十(旧暦大晦日)」の夜に中央電視総台が放映する「春節聯歓晩会」は、中国の紅白歌合戦とも呼ばれる国民的番組なのだが(歌曲だけでなくコントをはじめ各種エンターテイメントで構成/本年の最大瞬間視聴率は75.61%だったらしい)、この番組の今年のメインテーマが、実は「龙行龘龘,欣欣家国」で、「龘」字がメインロゴだったのだ。「龘」は「龍が天に昇る様子」を示し、「欣」は「喜ぶ様子」を意味するので、「龍は力強く天に昇り、家庭と国家を寿ぐ」といった意味になろうか。ちなみに、「龘」の発音は日本語の音読みが「トウ」、拼音(ピンイン/中国語発音表記法)で記せば「dá」となる。 ■中央電視総台の解説によれば、歴代の字書を集大成しその後の字書の範となった清代の『康煕字典』(1716年刊行/収録字数47000余字)に、中国初の楷書字書である『玉篇』(543年完成)から掲載されている古くからある漢字だとのことである。

■このように「龍×3」の字を見ていたら、遠い昔、おそらく大学低学年の頃の中国文学科の授業で、どの先生からだったかは全く記憶にないのだが、「最も画数の多い漢字は、1マスに「龍」字4つを正方形に並べた字で、画数は「龍」字が16画なので×4で、何と64画なんだよ」と教わったことがあったような薄っすらとした記憶が、ふと浮かんできたのだった。そこで、身近にあった『新漢語林(第二版)』(大修館)で部首「龍」を引くと奇襲の「襲」字などと並んで、「龍×2」の「龖」字を見つけた。読み方は「龘」と同じ「トウ」で、意味は「龍が二つで、龍が重なり合って飛ぶの意味」とある。だが、この漢和辞典には「龘」字は載ってはいなかった。

■そこで、大学院入学祝として親にねだって買ってもらった「親文字5万余字、熟語53万余語を収録した世界最大の漢和辞典」(大修館HP)と言われる諸橋轍次著『大漢和字典(縮写版)』全13巻(大修館)を引っ張り出して来て部首「龍」の項を見ると、「龍×2」の「龖」はもちろん、「龍×3」の「龘」もしっかり載っていた。意味としては「龍の行くさま。〔玉篇〕龘、龍行也。」と『康煕字典』の説明までもが記されていた。なお、ネットで調べていると「龘は龖の異体字」との解説も見かけたことも付記しておく。

■では、「龍×4」の字は本当に存在するのか。結論だけ言うと、ちゃんと存在する。諸橋『大漢和』の「龍」部の最後に掲載され、音読みとして「テツ テチ」が記されている(中国語の発音は記されていないが、ネットで調べた限り「zhé」らしい)。意味としては「言葉が多い。多言。〔字彙補〕龍×4、多言。」との説明があり、龍とは全く関係のない「おしゃべり」の意味になっているところが、何故か不明だが興味深い。なお、この「〔字彙補〕」は、この字が記されている中国の字書名ではなく、「(各種の文章から)集めて補足した」との意味であり、裏返せば、中国古来の各種字書には掲載されていないということを示している。また、諸橋『大漢和』の「親字索引」の中で最多画数の「64画」に位置づけられていた。やはり、大学時代の授業で聞いたとおぼしい記憶には、間違いはなかったようである。ただし、画数「64画」の漢字にはもう一つあって、「興×4」の漢字も収録されていたことは明記しておかねばならないだろう。

■最後に、「龍×3」の「龘」字や「龍×4」の「龍×4」字は、「Microsoft日本語IME」ではカバーしていないので、一般的なワープロソフトには入っていない。中国のネット環境において、「四个繁体字龙」(4個の繁体字の龙)」などと入力して見つけた漢字をコピーして貼り付けている点を付記しておく(繁体字とは、簡体字などのように簡略化する前のいわゆる旧漢字を指す)。――昨年末から本年初まで、個人的な事情もあって何かと慌ただしくしてしまい、本コラムを執筆できずにいた。お詫び申し上げるとともに、立命館孔子学院への相変わらぬご支援をお願いして、「龍年」にあたってのご挨拶とさせていただく。