立命館あの日あの時

<懐かしの立命館>小林祝之助の生涯 ―異国の大空に翔けた夢― 前編

  • 2014年04月22日更新
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目次

 はじめに

 1.清和中学校から立命館大学へ

 2.飛行機との出会い―フランスへの決意

  (1) 武石浩玻との出会い

  (2) 荻田常三郎を知る

  (3) フランスへ

 3.第1次世界大戦に参戦―仏国陸軍飛行隊

 4.その後の小林祝之助

  (1) 南座での活動写真上映

(2) 追悼―立命館中学『清和』の記事

  (3) 顕彰―小林君之碑

  (4) ポアンカレの勲章

 むすび

 

はじめに


 左京区浄土寺真如町の真如堂境内に「小林君之碑」(おばやしくんのひ)が建っている。小林祝之助(おばやし・しゅくのすけ)(1)を顕彰する碑である。第一次世界大戦の際にフランス軍航空兵としてドイツ軍機と戦い戦死した小林祝之助の記念碑である。

 戦死したのは大正7(1918)年、生年は明治25(1892)年であり26歳を迎えようとする若さで異国の地、いや空で亡くなった。しかもヨーロッパの戦争で。

明治36(1903)年ライト兄弟が初飛行に成功し、大正3(1914)年の第1次世界大戦開戦により初めて飛行機が軍用機として使用されるようになった時代であった。

そのような時代に、遠い異国の空で若い命を終えた小林祝之助とは、一体どのような人物だったのだろうか。

 

1.清和中学校から立命館大学へ

 

 小林祝之助は明治25715日、京都市上京区(現在は左京区)鹿ヶ谷の大豊神社の神職小林忠一の長男として生まれた(2)

 父忠一は鳥取県の出身で、祝之助が鳥取県で生まれたのち京都に移住した(3)。忠一は大豊神社の宮司となる前に、一時期宇治市木幡の許波多神社(木幡神社)の神職をしている。祝之助が錦林小学校にあがる前のことである。

 大豊神社は哲学の道から疏水に架かる大豊橋を渡り参道を東にのぼる。神社は平安時代前期の仁和3(887)年に東山の椿ヶ峰を御神体として創建され、現在の地に鎮座したのは寛仁年間(10171021)という。祭神は少彦名命、菅原道真、応神天皇である(4)。境内には珍しい阿吽の狛ねずみがいて子歳の初詣は大いに賑わいをみせる。狛ねずみは昭和44年の建立で、小林祝之助の実弟常喜氏の考案という。他にも狛猿や狛鳶がいる。

 

 大豊神社で育った祝之助少年は学齢になると岡崎町入江(平安神宮北側)の京都市第一錦林尋常小学校(以下、錦林小学校とする)に通った。2年の高等科修学を経て(5)、明治40(1907)年に寺町広小路にあった清和中学校に進む。のちの立命館中学である。無試験で第1学年に入学、入学の日は418日である。しかし明治42927日に家事都合ということで一度退学している。

 明治45年補欠試験に合格し48日再び清和中学校に入学、学年は第3学年に入学することとなった。

 しかし祝之助少年は大正2(1913)325日、清和中学校を再度退学した。退学理由は校則第15条第5項となっている。清和中学校は大正212月に財団法人立命館が設立されるとともに校名を立命館中学と改称したが、このときの立命館中学規則の同条同項は「出席常ならざるもの」となっているから、出席日数の不足によるものであろう。

 祝之助少年の学業成績表には、明治41年第1学年と明治42年第2学年の履修科目が記録されている。明治41年はおそらく明治413月時点での第1学年時の、明治42年は明治423月時点での第2学年時をさしていると思われる。

 2年間にわたり履修している科目と1年のみの科目があるが、祝之助少年だけでなく他の生徒も同様であり、同一科目を2年続けて履修するのは当時の履修制度によると思われる。

 祝之助少年が2年にわたって履修した教科・科目は修身、国語及漢文(国語、漢文、作文習字)、英語(読方解釈、文法作文、会話書取習字)、歴史(日本)、地理、数学(算術)、図画、体操である。また1年のみの履修は、1学年で博物(鉱物)2学年で数学(代数)、博物(植物)であった。



 再入学した明治45(大正元年)の履修については記録されていない(6)

 大正元年12月発行の『清和』第2号に掲載された「在学生一覧」によると、小林祝之助は第4学年2組に名を連ねている。同じ4学年の1組には宮崎周三、南部吉郎、2組には大野木秀次郎らの名が見える。南部吉郎は、2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎の父である。大野木秀次郎は、戦後参議院議員・国務大臣などを務めた。なお第3学年に安田嘉一の名が見える(7)

 翌年の『清和』第3号には小林祝之助の名は見当たらない。

 

 前述のように大正212月に財団法人立命館が設立され清和中学校が立命館中学になると、同時に京都法政大学も立命館大学と改称した。西園寺公望の私塾立命館の名を継承したのである。大正43月発行の『立命館学報』第2号に小林祝之助の名が掲載されている。同号の「立命館大学部並専門部学生氏名(大正41月末調)」の専門部第一学年法律科に名を連ねている。同期には後に立命館専務理事となった竹上孝太郎の名もある。

 それ以外に資料が確認できないので推測であるが、当時の学制からすると立命館大学には大正39月に入学し(立命館大学の名称となって最初の入学である)、翌年の2月から5月頃の間に退学したか、在学のままフランスに渡ったと思われる。なお、当時専門部への入学資格は中学を卒業していなくても同等の学力があればよいとされていた。

 

2.飛行機との出会い―フランスへの決意

 

 小林祝之助の退学のきっかけは何であったのか、飛行機への夢をどのように育んでいったのだろうか。

 

 (1) 武石浩玻との出会い

 日本における飛行機の初飛行は明治4312月、徳川好敏、日野熊蔵両大尉に始まるとされ、この頃から日本では飛行機への関心が高まっていった。そうした中で飛行機に魅せられた一人に茨城県出身の武石浩玻(18841913)がいた。武石は明治35年旧制水戸中学の卒業を前に外国への志を抱き、翌年アメリカに渡りその後飛行術を習い、明治45年アメリカにおいて万国飛行免状を取得した。翌大正24月に帰国すると、大阪朝日新聞社は武石浩玻に成功すれば功労金1万円を出すという約束で京阪都市連絡飛行を計画した。

 飛行は西宮の鳴尾競馬場を発ち大阪城東練兵場を経由して京都の深草練兵場を往復するというものであった。

 54日、その日は日曜日で快晴であった。1022分に鳴尾を発ち、1040分大阪城東練兵場に着陸。1231分に京都深草練兵場に向けて飛び立った。1250分には練兵場から機影が見え練兵場に接近したが、1255分過ぎに墜落し、武石浩玻は搬送された病院で絶命した。287ヵ月であった。

 錦林小学校、清和中学校と最も親しい友人であった高見孝一(8)によると小林祝之助が飛行家になろうとした動機は武石浩玻が深草で犠牲になった頃からというから、小林祝之助も深草練兵場でこの事故を目撃したと思われる。

 深草練兵場は陸軍第十六師団の軍事施設の一つで、明治41年に設置された。現在の龍谷大学深草学舎の南側で、師団街道と竹田街道に囲まれた周囲約4km35万坪ほどの広さがあり、東に稲荷山を望むことができた。

その深草練兵場に初めて飛行機が飛来したのが、上記の武石浩玻による京阪都市連絡飛行であった。

 練兵場は武石を迎えようと、久邇宮連隊長、長岡外史師団長、知事、市長などをはじめ観衆山の如くであったという。

 武石は国内での民間飛行初の犠牲者となった(9)

 

 (2) 荻田常三郎を知る

 武石浩玻に影響を受けて飛行家を志した青年に荻田常三郎(18851915)がいた。荻田は滋賀県愛知郡八木荘村(現愛荘町)の生まれで京都で呉服屋を継いでいたが、帝国飛行協会の磯部鈇吉を訪ね欧州の航空事情を知ると、大正29月フランスに渡り、飛行学校に入学して万国飛行一等免状を取得した。

大正35月に帰国、6月には西宮の鳴尾競馬場で開催された民間飛行競技大会に参加し1等となった。この大会には番外として磯部鈇吉も参加した。荻田は10月には滋賀県で初の飛行を行った。

 滋賀県での初飛行に先立って、荻田の講演が8月10日に小林祝之助の母校錦林小学校で行われた。小林は荻田にフランス航空界の様子を尋ね、また世界で一番よい飛行機は何かと尋ねると荻田は自分が持ち帰ったモラーヌ・ソラニエだと答えた。小林は自分もフランスへ行くつもりだと言って益々飛行家になる決意を固めた。

 しかし荻田は、翌大正412日、大阪から深草練兵場に飛来し、翌日練兵場から京都上空に飛び立ったが発動機の故障で助手とともに墜落、即死した。奇しくも武石浩玻と同じ地で最期を遂げたのである。荻田もまた30歳という若さで亡くなった(10)

 

 なお、小林がフランスに発った翌年のことであるが、大正5511日、深草練兵場でスミス氏の飛行があり、立命館中学の職員生徒一同は午後の授業を休み参観している(11)

 大正612月には、『清和』第7号に「武石荻田二氏を懐ふ」として詩歌17首が掲載された。そのうちの3首に次の歌がある。

  さまざまの術を尽くして深草の 野を飛ぶヒコーキに心空なり

  天翔ける鳥も驚き地に仰ぐ 人も魂消す飛行機いみじや

  深草の野を吹く風の悲し悲し 其のひびきにも益荒雄のしのばる  (鶴田 多)(12)

 立命館中学の教員であった鶴田は、飛行機に魅せられながらその飛行機を操縦して逝った武石や荻田への思いを詠った。

一部の青年のみならず多くの人々が深草練兵場に飛行機を一目見ようと集まったことから、飛行機に対する当時の関心の高さが窺える。

 

 (3) フランスへ

 大正3(1914)6月オーストリア皇太子がサラエボで暗殺された事件をきっかけにして、7月オーストリアがセルビアに宣戦布告して第1次世界大戦が始まった。戦争はドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアの同盟国と、イギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国の戦いに発展した。

日本も日英同盟を結んでいたことから、大正3823日ドイツに宣戦布告し、第1次世界大戦に参戦した。当時の立命館中学の生徒が、「軍国の青年」というテーマで決意を語っている。「823日から日本帝国は軍国となった。我々も軍国の青年となった。我々は国家の為に確乎たる覚悟と責任を持たなくてはならない」と(13)

 

 小林祝之助は武石浩玻や荻田常三郎の墜落死を身近で目撃したにもかかわらず、フランスに行く決意を変えなかった。それどころか一層決意を固めたとも思える。父親は最初のうちは反対であったが、武士気質の人で、最終的には家宝の書画を売って渡航費用1,000円を用意し祝之助を送りだした。

 花園に住んでいた山名男爵(14)が小林家の遠縁で、その遠縁に滋野男爵がいるということから山名男爵の紹介で滋野男爵を頼ってフランスへと旅立った。

 滋野男爵とは、滋野清武、通称バロン滋野という。明治43年に渡仏したがもともとは音楽の勉強をすることが目的であった。ところが当時の飛行機熱の影響を受けてフランス各地の飛行学校で操縦術を学び、明治45年日本人飛行家として徳川好敏に続きフランス飛行クラブ発行の万国飛行免状を取得した。一時帰国するが、大正3年に再びフランスに渡った。滞仏中に第1次世界大戦が勃発すると従軍を志願しフランス陸軍飛行隊に入り陸軍飛行大尉となった(15)

 

小林祝之助の生涯 ―異国の大空に翔けた夢― 後編へ

 

 【注】 

(1) 姓の「小林」は、オバヤシであるが、祝之助自身はフランスにおいてコバヤシと名乗っていた。(木国夫『鳥人(イカロス)たちの夜明け』朝日新聞社 1978)

(2) 小林祝之助の生年月日は726日とするものもあるが、本稿では清和中学校の学籍簿によった。(3) 小林忠一・祝之助は、鳥取県気高郡青谷村字青谷(現鳥取市青谷町青谷)の出身という(大豊神社の宮司さんによる)

(4)
 「大豊神社由緒略記」

(5)
 明治366月、第一錦林小学校は修業年限2年の高等科を併置し、錦林尋常高等小学校となった。しかし414月には義務教育期間が4ヵ年から6ヵ年となったため高等小学校は廃止となった。

(6)
 清和中学校における小林祝之助の履歴は「学籍簿・学業成績表」による。

(7) 明治454月第3学年に入学(再入学)と大正元年12月現在の「在学生一覧」が第4学年としているのは齟齬があるが資料のママとした。また宮崎周三・南部吉郎と安田嘉一の学年が違うが、3名は大正3(1914)3月に卒業している。これも資料のママとした。清和中学校における小林祝之助の学籍・履修については、前記(6)と同じく「学籍簿・学業成績表」によった。

(8) 高見孝一は、『清和』第1(明治4412)によると第5学年に在学している。

(9) 武石浩玻については、前掲 平木国夫『鳥人(イカロス)たちの夜明け』、日本航空協会『航空と文化』98(2009115)、同103(2011715)

(10) 荻田常三郎については、前掲『航空と文化』98

(11) 『立命館学誌』第4号  立命館大学 大正5715

(12) 鶴田多は鶴田多八。明治15年生まれ、明治40年東京帝国大学卒業。同年9月清和中学校教員、大正9年まで改称となった立命館中学教員。同年9月に京都府立医学専門学校教授となり同年12月に医専から昇格設立された京都府立医科大学予科教授(国語)となる。昭和26月現職で死去、45歳。(『京都府立医科大学八十年史』『京都府立医科大学百年史』)

(13)
 『清和』第4号  立命館中学同窓会 大正312

(14) 山名男爵は最後の但馬村岡藩藩主の山名義路。義路は明治から大正にかけて一時期花園の妙心寺東林院に住んだ。東林院は村岡藩の京都藩邸で、村岡の山名家菩提寺は東林山法雲寺という。小林家は鳥取山名家の家臣であったという。

(15) 前掲 平木国夫『鳥人(イカロス)たちの夜明け』

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