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<懐かしの立命館>小林祝之助の生涯 ―異国の大空に翔けた夢― 後編

  • 2014年04月22日更新
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小林祝之助の生涯 ―異国の大空に翔けた夢― 前編へ


3.第1次世界大戦に参戦―仏国陸軍飛行隊

 

 小林祝之助は大正4619日、京都駅を出発、21日に神戸から出港する香取丸に乗船しフランスに旅立った。パリに着いたのは86日、23歳となっていた。

 小林は日本大使館を訪ねたが、既にフランスは第1次世界大戦下にあり、フランス語ができずに航空術を学ぶことは至難のわざということで、大使から翻意をすすめられた。

しかし小林はあきらめなかった。山名男爵から紹介を受けた滋野清武に初めて会ったのがいつなのかはっきりしないが、大使館を訪ねたあとほどなく滋野を訪ねたと思われる。二人が会った日付がはっきりしているのは1019日で、磯部鈇吉(16)とともに会った。かねて滋野が約束していた飛行機工場に案内されることになったのである。当日3人はイッシー・レー・ムリノー飛行場にあるヴォアザン飛行機工場を見学した。

それから20日ほど経った1110日、日本大使館で大正天皇即位の御大典奉祝の宴があり100名余りの邦人が集い小林も参加した。小林は故郷の友人にその模様を書き送ったが、その中には小原大佐、磯部小佐、滋野男、石橋飛行家、田付代理大使などの名がある。代理大使から尺八と薩摩琵琶をやるように勧められ、その演奏で拍手喝采を浴びたと言っている。このとき磯部は33歳、石橋勝浪は小林と同じ23歳であった。

 

当初は民間飛行家を目指したようであるが、戦時中の事で民間飛行家は認められなかったため、クラリ伯爵と陸軍大臣ビジョン氏に飛行隊の従軍を申し出た。

10ヵ月ほどフランス語を学び、大正56月、陸軍航空局の入学試験に合格し、ビュック陸軍普通学校、コロトア軍事航空技術学校など各地の学校で航空技術を学んだのち、大正63月から予備隊に従軍しパリに近いG30飛行大隊で正規のピロット(パイロット)を命じられ前線の配置に就いた。

彼の任務は

「朝な夕な敵機と敵砲台から撃ち出す雨あられの弾丸中を僕のオブセルヴァートル(同乗者)なる一中尉と共に砲兵狙線の修正、偵察通報、無線電信等の重大任務を帯びて戦線上空を飛ぶこと」であったという。

 その時のことであろうか、小林は次のように記している。

 「僕がいるこの戦線は、パリに最も近い某地点で今は大攻撃の真最中である。今朝、命令を受けとった僕は、僕のオブセルヴァートルでない少尉と同乗して遠く数千㍍の敵地に、しかも僕達の最も忌み嫌う強烈な追風を背負って特別任務を有する偵察に出かけた。……敵は目早くわが機を見出して砲撃をはじめ、その真黒な煙球がわが機の10㍍、5㍍の前方左右に発射されて爆発するのみならず、四台の敵機は1,000㍍の前方より機翼を揃えて接近してきた。……そのうちに快速の敵機は既に250㍍を距てぬところまで肉薄して盛んに機関銃を浴びせかける。上からも横からもまるで雨のようで到底助からぬと覚悟したが、……今は最後と発動機の電流を切断して昇降の舵を胸まで引きつけて、総ての速力を棄てて自ら下方に墜落したが高度計を見れば40㍍である。敵機はわが機を地上に墜落せしめたものと見て引き上げて行ったので漸く危地を免かれた。……」 (17)

 この頃であろうか、小林は戦いによる負傷からか病を得て数ヵ月入院している。

 

 この頃の航空機について、大正61月の『立命館学誌』第7号に校友井上勝好(18)が「航空機の発達」と題し寄稿している。

 そのなかで第1次世界大戦に関して次のように述べている。

 「……英仏連合軍ノ飛行機隊ガ常ニ独軍陣地上ニ飛行シテ、偵察ニ攻撃ニ有ユル手段ヲ尽シ、独逸ノ飛行機、飛行船ガ之ニ対抗シテ強襲ヲ敢行シ、互ニ非常ノ成果ヲ齎ラセリ。……今日ニテハ、機体ノ構造漸次強大トナリ、発動機ハ之ニ伴ツテ増大進歩シ、開戦当時百馬力内外ナリシモノ、今ヤ二三百馬力ヨリ五六百馬力ノ強力ニ達シ、搭載力モ次第ニ増加シテ、完全ナル武装ヲ為セル上、空中戦ニ備フルガ為メニハ機関銃ノ装置アリテ、長時間ノ継続飛行モ容易ナルニ至レリ。……連合軍ノ飛行機隊ガ、六七十台空中陣ヲ作リテ、敵軍陣地上ニ飛行シ、爆弾ヲ投下シテ、敵ノ施設物ヲ破壊シ、独軍ノ飛行船ガ遠ク倫敦ヲ襲イテ爆弾ヲ投下セルガ如キ、何レモ直接ニ相当ノ損害ヲ与フルト共ニ、敵膽ヲ寒カラシムル間接ノ効果ハ更ニ偉大ナルモノアリテ倫敦、巴里ニ於ケル恐ツエペリン熱ヲ見ルモ明白ニ之ヲ証明セリ。」

 

 小林は大正6611(1917.JUIN.11)、念願の飛行免許状を手にした。


 第2航空旅団第11飛行大隊付となり、明くる大正71月にはスパッド第86中隊に移り伍長から軍曹となった。2月には追撃隊に配属された。

 下京区に住んでいた親友の高見孝一にはしばしば手紙を送ってよこしているが、

「今はルノー300馬力を自由に操縦している。これを操縦できるのは日本人では滋野男と長尾中尉と自分だけだ、唯連合国と大和民族のため大いに働きたい」

とのことであった。

そうした戦地ではあったが、小林は詩的な面を持ち合わせ、音楽好きでもあったため、

「今夜の月は実に清しい。塹壕の外の林檎の樹迄クッキリ僕の眼に見える。……僕は独り心行く迄僕の愛人明笛を吹いて静かに故郷の空を仰ぎ見ておる」

などとも送ってきたという。

また、315日付けの弟常喜氏あての手紙では、

「老ませし父君始め皆様の御起居や如何に!!絶えて便りに接せざるこそうたてけれ。東風吹きて花の香迷ふ朝夕、胸に懐郷の情迫り慰めん術だになし。されど此の渾々たる花の匂ひ父愛しますと思へばいとも懐かし。吾家を立ちてより已に三歳の春は閲しぬ。かのわが造りおきし庭と共に老います父がみ姿こそそも如何に見ままほしけれ。乞ふ御身よわがこの心察して父が写身恵まれんことを。一度是非共御父君自ら御恵筆あらんことを切望してやまず。 東風吹きて梅か香匂ふ朝な夕な 父慕ひつゝ花めづるかな」

と、父親への思いを綴った。

 

そして523日付けの高見孝一あての手紙が最後の消息となった。

「空中射撃学校にをった僕は、先日無事に修業して昨日当隊付を命ぜられ、この北海地方へやってき空中の撃者になったよ、これからは僕は運ひとつ運ひとつだ、僕が墜すか落されるか、危いことは風前の灯火以上だ、しかし僕達の飛行機は今のところ世界のオーソリティだよ、尚スパードと云ふは一時間の速力約二百九粁米、これに完全に近い機関銃を備へているのだが、むろん一人乗りだ、鳥の如くに小さい飛行機だ、この飛行機に乗り得るものは飛行家の中の飛行家だ、僕はたぶん戦死するものと思っているが本望だ、この上僕が習ふべき飛行機はないのだもの、久しい間の僕の希望の一つは成功したのだもの――、僕がまだ中学にいるころだった、なんでも構はないからどうかして日本一になって見たいものだと希望したことがある、この夢のやうな頑是ない希望が今やっと遂げられたのだ、別段嬉しくもないがそれでも悪い気分はしない、仏蘭西ではスパードのピロット(操縦者)は若き美しい花と見なされているのだから、休暇で巴里へ行ってグランブルバー(京都の京極)をブラつくものなら、巴里婦人らが憧憬の的となる訳だ全く望み次第だ、多分胸間の粋な飛行家の徽章に酔はされるのだろう、諸兄によろしく」

この手紙が高見に届いたのは、小林の戦死した1ヵ月後の77日であった。

 

小林祝之助は大正767日の戦闘において壮烈な最期を遂げた。渡仏して3年、7月には26歳を迎えようとする若さであった。

小林がスパッド戦闘機で実戦に参加したのはわずか半月ほどのことであったと思われる。

『大阪朝日新聞』および『京都日出新聞』は625日の新聞で小林祝之助戦死のハバース社巴里発の記事を掲載した。

「氏は最近航空隊勤務に就きたるものにして六月七日の戦闘に於て戦死したるものなり。当日小林氏は敵の数機と戦ひたるが突然敵の焼夷弾は彼の機体に命中発火せしめたため機は火焔に包まれて墜落せり。彼は些かも躊躇することなく約1万呎の高空に於て空間に飛出せり。彼の身体は地上に落ちて粉鼻せられたるが右は仏国胸甲騎兵によりて拾ひ上げられたり。仏国新聞は一斉に自ら進んで連合国行動の為めに戦へる日本人勇士の驚嘆すべき勇気を称讃せり。而して彼の死体は今や正義と自由との表象たる仏国国旗に包まれて埋葬せられたり」

『京都日出新聞』は続いて26日、29日と小林家の様子や友人高見孝一やゆかりの人の談話など小林祝之助に関する記事を掲載した。

またフランス共和国陸軍省から遺族あてに届いた死亡証明書は京都市役所で訳されたが、操縦軍曹小林祝之助は

「仏国第二飛行隊、戦闘陣地第百十四号ヴィレル、マットレー森林ノ上空ニ於テ西暦千九百十八年/大正七年/六月七日午後六時ニ於テ墜落。モンゴベール邑ニ於テ死亡」

とあった。

父忠一氏は祝之助の戦死の報に接しその思いを歌に託した。

  矢面てに立ちて落せる玉の緒も 国のためにと放つけなげさ

  まなな子もとこよの国で痛手死す 大和男子の心つくして

  凉風も時しきぬれば落にけり ますら健男の子よもうせける

「凉風」は祝之助の号で、愛機の名称でもあった。

それからわずか5ヵ月後の1111日、ドイツは休戦協定に調印し第1次世界大戦は終結する。

日本人でフランスに渡り飛行隊で戦闘に従軍した者には、小林祝之助のほか滋野清武、磯部鈇吉、馬詰駿太郎、石橋勝浪、茂呂五六らがいた。しかしそのなかで小林祝之助は帰らぬ人となったのである(19)

  

4.その後の小林祝之助

 

 (1) 南座での活動写真上映

 大正71028日、四条の南座で活動写真の上映が始まった。「武装せる佛國敵中の佛軍」である。京都日出新聞の1028日の興行案内によると、「京都洛北鹿ヶ谷出身飛行家故小林祝之助氏戦死実況 名誉の負傷にて帰郷せる馬詰(ママ)太郎氏特に同氏の為に講演す 大活動写真」との広告である。更に31日、1日、2日、3日は2回開演とある。この広告は1026日から115日まで続いている。

 1026日の大阪朝日新聞と京都日出新聞が「写真は全5巻に渉りたる最長尺のものにて最近戦争実写大活動写真」としたほか、京都日出新聞は、演芸欄で27日以降も連日紹介している。東京飛行学校主催で「活動写真は近頃稀な鮮明な写真で、当写真も大使館の都合により113日限り(7日間)日延をしないとの事である。尚各在郷軍人、学校生徒、各連隊よりの団体見物もあり31日と111日、2日、3日は特に昼夜2回開演する」(1030)、「活動写真は非常なる大好評にて連日大入を占めて居る。故小林祝之助氏の飛行機戦死実況が大好評を博して居る。1日は在郷軍人の為め昼の部全部売切の大盛況」(112)などである。その内容の一部は『近代歌舞伎年表 京都編』でも紹介されている(20)

 111日の京都日出新聞は演芸欄・興行欄以外に「敵中の佛軍」の記事を掲載した。

 「南座では目下佛国政府撮影に係る『武装せる佛国敵中の佛軍』全5巻なる特別映画を上演して居る。謂ふ迄もなく時局実写物で所有権は佛国大使館、主催者は中央飛行学校とある。……我国最初名誉の空中戦死者として佛国に於て壮烈なる奮闘をなせし京都出身青年飛行家故小林祝之助氏の戦友たる佛国陸軍飛行家馬詰駿太郎氏の同氏に関する真摯な講演も錦上更に華を添ふる慨があった。……此「敵中の佛軍」は其通弊を打破して全国民の自覚し努力しつつある佛の現状を露骨に現はした所に価値がある。近来の意義あり趣味ある映画であった」と評している。

 

 この上映で解説を行った馬詰駿太郎は、南座の活動写真上映に先立ち、帰国後間もなく早稲田大学の科外講義で「仏国飛行機について」と題し講演をしている。翌大正8530日から65日までやはり南座で開演された「仏国航空隊活動写真」でも解説をした。内容は仏白国境の惨状実写、大統領ポアンカレ、ホーン総司令官、敵機50台を射落し名誉の戦死を遂げたギンメル大尉などが登場する活動写真であった。

 

 (2) 小林祝之助追悼―立命館中学『清和』の記事―

小林がフランスで戦死したのち立命館の資料にその名が出たのは大正83月の『清和』第8号であった。

○清和中学を4年級までやった小林祝之助君は退校後佛国に渡って飛行家となり義勇兵

として戦場に飛翔し多大の功績を揚げたが遂に今春悲壮なる戦死を遂げられた。詳細は

当時の新聞に出ていたから諸君も御存知と思う。茲に謹んで弔意を表したい。君が死の

少し前洛北鹿ヶ谷なる老父を懐うて詠んだ

  東風吹きて梅が香匂ふ朝な夕な

    父慕ひつゝ花めづるかな

の一首は永久吾人の脳裡を去らない。

 

 次いで大正102月の『清和』第10号に、「故小林祝之(ママ)氏追悼琵琶歌」が掲載された。

      国のほまれ

  敷島の大和をのこの外国の 雲井に高く飛び翔り

  赤き心にさきがけて その身は花と散りにけり

  頃しも大正七年の 六月七日の夕つ方

  処は佛蘭西ヴィルコットレー 雲霞の如き敵味方

  火花を散らす戦の 上にぞ翔る飛行隊

  かずも知られぬ隼の入り乱れたるが如くなり

  中にも目立つ操縦の 手並さやかに驀地

  敵機追ひ打つスパードの 乗手は日本の勇士にて

  開戦以来大空に 樹てし勲功もいと高き

  小林凉風と知られたり 追ひつ追はれつ縦横に

  飛び交ふ様はさながらに 秋の嵐に紅葉の

  葉ひるがへる如くにて 互ひに打出す銃の音

  雲をつんざき百雷の 鳴りはためくにさも似たり

  勇敢無比の小林は 敵の五六機射落して

  尚も追撃なさばやと いと迅速に追ひ翔る

  折しもあれや一発の 焼痍弾はスパードの

  翼にどっと命中し 炎は忽ち機を包み

  あはや墜落なさんとす 早これ迄と覚悟をば

  屹と定めて逸はやく 操縦席より身をはずし

  万尺高き虚空より ひらりと下に飛び降りぬ

  やがて屍は佛蘭西の 胸甲騎兵に見出され

  自由の標章三色の 国旗に包み軍装の

  儀式もいとど厳に 葬られしぞほまれなる

  すめら御国の古への 京の都のみやしろに

  神に仕ふる家に生ひ 少壮国の外に出で

  義戦に玉と潔く 砕けし君が芳き

  名は賀茂の流の末遠く 後の世までも残るらん

後の世までも残るらん

 小林君は本校の(ママ)年級まで在学し佛国にて壮烈なる戦死を遂げたる事は前号に記したり。

 今回君の知己の作りし琵琶歌を海軍少佐飛行家磯部氏(21)が補正したるを丸山巴水氏が作曲せ

しものを山名氏が所持せらるるを請ひて掲げたり。

 

(3) 顕彰―小林君之碑

 真如堂境内、本堂の南側に1基の石碑が建っている。高さ190cm、幅84cmで、大正14年に建立された「小林君之碑」である。

  

 この碑は、199983日の京都新聞に「真如堂の小林君之碑」と題し紹介された。

 新聞には、大豊神社宮司で祝之助のおいにあたる方が、「寺の周辺に住んでいた幼なじみ

が祝之助の業績を記念するために寄付を募って建てたと聞いています」と話されている。

 碑文を書いた杉村勇次郎はのちの昭和3年には京都1区から衆議院議員選挙に出馬、昭和13年から14年にかけて帝国在郷軍人会京都支部長を務めている経歴から、碑の建立時に記念事業会の誰かと関係があったものと思われる。

 題額を揮毫した元帥川村景明(18501926)は日清・日露両戦争に出征した軍人で、碑が建立された翌大正15年に亡くなっているが、大正812月から帝国在郷軍人会会長を務めているので、記念事業会の関係者か杉村勇次郎と関係があったのであろう。

 碑文を刻んだ芳村茂右衛門は、石茂の当主で京都の社寺に石燈籠や狛犬、石仏などを数多く残している名匠である。

 

(4) ポアンカレの勲章


 小林祝之助が戦死した翌年の大正8(1919)年、フランス大統領ポアンカレから小林家に勲章と表彰状が授与された。勲章はクロワドゲール、表彰状にはポアンカレのサインがある。

 19771023(関東地区は20)NHKテレビの番組でスポットライト「ポアンカレの勲章」が放送された。出演者は祝之助の弟・常喜氏、作家・岡本好古氏、航空評論家・木村秀政氏、落語家・桂枝太郎氏、航空史研究家・平木国夫氏、司会は鈴木健二アナウンサーである。


 そのなかで常喜氏が祝之助の人となりを語っている。

 「9歳ちがいの兄はやんちゃできかん気。勉強はそっちのけで、いつも、人とかわった突拍子もないことをやる男だった。木登りがすごくうまかった。神戸の方まで自動車の練習にいったりしていた。一面ハイカラというかシャレッ気もあり、又、粋なところもあった。うらから竹を切ってきて尺八や笛を作って吹いたりしたものだった。

 (飛行機のりを志したのは) 新しい、人の知らないものにひかれる性質ではあった。当時民間飛行家が京都に飛んできて練兵場で落ちて、それで決心したと聞いている。それで日本では勉強できないのでフランスへ行きたいと言いだした。

 みんな反対したが、兄は決心をまげなかった。それで父もついに許すことになった。」


 戦争に対する当時の空気はあったにしろ、おそらく小林祝之助は、飛行機に乗りたい、飛行機に乗って大空を飛びたい、その一念でフランスに渡ったのであろう。フランスに渡ってからも、むろん戦争に参加するなかで連合国と大和民族のために働きたいと言っているが、ひたすら飛行機を操縦することに自らの夢を見出していたに違いない。

 フランスから勲章を授与されたその年の1月、戦争終結のパリ講和会議が開催されている。平和の時代に大空を羽ばたいていたなら……。

 





むすび

 

 この数奇な運命をたどった清和中学校、立命館大学に在学したことのある小林祝之助を知ったのは2013年3月であった。

 立命館百年史編纂室参与で元常務理事であった吉田幸彦さんから1冊のファイルを渡された。小林祝之助に関する資料であった。

 正直なところ驚くべき人生であった。今から100年も前、飛行機自体がようやくこの世に現れた時代に飛行機に乗ることを夢見て、しかもフランスに渡り陸軍飛行隊に入りドイツ軍と戦い空中戦で戦死する。想像もつかない人生であった。

 この青年の人生を少しでも書きとめておきたい、限られた資料からではあるが、なにがしかを残したいというのがこの拙稿である。

 614日、大豊神社において宮司さんからお話をうかがった。資料からは得られなかったお話をお伺いでき、また貴重な資料も拝見させていただいた。ここにあらためてお礼申し上げます。

 

 【注】 

(16) 磯部鈇吉(おのきち)。磯部は大正元(1912)12月、日本航空協会を発足させ、協会は翌年帝国飛行協会と合併した。協会は民間航空の振興を図り、航空に関する訓練・指導を実施、航空思想の普及などを図った。磯部は大正4(1915)年に帝国飛行協会を辞すと8月にフランスに渡り、フランス航空隊パイロットとして第1次世界大戦に従軍した。大正711月の大戦終結により日本に帰国した。磯部については、平木国夫『黎明期のイカロス群像』の「日仏2つの空を駆けた飛行家・磯部鈇吉」。また磯部自身の著書『空の戦』(冨山房 1918)

(17)
 『日本航空史 明治・大正編』 日本航空協会 1956


(18)
 井上勝好(18841942)は明治39年に京都法政大学を卒業、この記事を書いた時は報知新聞社の政
治部記者であった。退社後石原産業で石原廣一郎を補佐し、昭和15年に立命館理事となっている。

(19) フランスにおける小林祝之助については、前掲 平木国夫『鳥人(イカロス)たちの夜明け』、「大阪朝日新聞」大正7625日・26日、「京都日出新聞」大正7625日・26日・29

(20) 近代歌舞伎年表編纂室『近代歌舞伎年表 京都編』第7巻  八木書店 2001

(21) 磯部鈇吉は前掲の注(13)

                        (20137月 立命館史資料センター準備室 久保田謙次)

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