立命館大学障害学生支援室10周年記念シンポジウム 大学と障害学生 University and Students with Disabilities 障害学生への合理的配慮ってなに? 編集/立命館大学障害学生支援室 p2 はじめに 2016年、立命館大学障害学生支援室は10年目を迎えました。この冊子は、10周年を記念して行われたシンポジウム「障害者差別解消法『意思の表明』から始まる合理的配慮を考える~学生との対話に着目して~」をまとめたものです。 時を同じくして、2016年は障害者差別解消法が施行された年でもあり、大学には障害を理由とした差別の禁止と合理的配慮の提供が求められることになりました。 本学にも多くの障害のある学生が学んでおり、昨今、大学での学びの多様化に伴い、障害学生が直面する困りごとも多様化しています。そうした障害のある学生に、教員や職員にはどのような配慮ができるのかが問われています。 シンポジウムでは、これまで本学の障害学生支援において取り組まれてきた「ピア・サポート」や「対話」の重要性が、サポート学生やサポートを受けている当事者学生の立場から改めて提起されました。 障害学生を含むすべての学生の主体的な学修環境の実現に向けて、この冊子が一人でも多くの立命館大学教職員のみなさんの目に留まり、これからのアクションにつながるきっかけになることを願っています。 障害学生支援室 p3 学生発表 話し合いが気軽にできる環境づくりから 米田 大樹 (理工学部 物理科学科4回生)サポート学生 僕がサポートを担当する松波さんは視覚障害を持っています。松波さんが所属する理系では、複雑な数式や図、グラフなどはほとんど黒板に書かれます。しかし、これらは松波さんにはほとんど見えないので、僕たちは松波さんの目の代わりになって板書をノートに書き写す支援をしています。 月に一回、松波さんのサポートを行う学生スタッフが集まってミーティングを行います。このサポーター同士の話し合いの中で気づくことも多いです。 その学生ミーティングで、次のような授業の説明方法が問題になったことがあります。数式を使う授業でよくあるのですが、自分は黒板が見えない学生だと思って、今から僕がする話を想像してみてください。黒板には数式が書かれています。そして先生がこう説明します。「この式をここに代入して、結果こうなる。そして最初の関係式からこの結論が導かれます。」 指示語が多く、黒板が見える学生でも追いかけるのが大変です。これは例えば、式番号をつけるだけで状況は変わるだろうと思いました。 ここで教員の方なら「そうならそう言ってくれよ」と当然思われると思いますし、僕もまったくその通りだと思います。授業を受けているのは学生なので、「もっとこう説明してほしい」ということは、しっかり先生に伝えていくべきでしょう。ただ、学生の立場として言わせてもらうと、あまり教員に図々しいことは言えないし、自分が馴染めていないだけかもしれないし、授業が受けられないわけではないから、「まぁ良いか」となってしまいがちです。 学生も教員も、授業を有意義にしたいことに変わりはないのです。しかし、アクションを起こすのはそう簡単ではありません。また障害者への配慮なんてどうしたら良いのか、その答えも出ていません。 僕はその一つの策として、対話を持つことが重要だと考えるようになりました。「相手の立場に立って考える」なんて限界があるからです。だから、自分が何をしてほしいのか、相手は何をしてほしいのか、自分で何ができるのか。そういった話し合いが学生同士や学生と教員の間で、気軽にできるようになれば良いなと考えています。 松波 実咲 (理工学部 物理科学科3回生)サポート利用学生 私は生まれつき「弱視」があり、メガネなどの矯正がききません。小学生の頃から周りと一緒に授業を受けながら、様々な配慮やサポートをお願いしてきました。大学では1回生の頃からサポートを受けています。現在受けている配慮には板書の文字を調整してもらうこと、レジュメの拡大印刷、紙や映像資料の事前配布・貸出などがあります。 それでも、一人で授業を受けるには限界があります。特に専門科目は板書が多く、そのスピードも速いため、板書が追いつかないだけでなく、先生が口頭で説明している内容をとりこぼすことが多々ありました。そのため、板書代筆のサポートをお願いするようになりました。 先生にはセメスターが始まった頃、個別に配慮依頼文をお渡しするとともに、事前にシラバスなどで授業形態を確認した上で、必要と思われる配慮を口頭でもお願いしています。しかし、それでもうまくいかないことがあります。 パワーポイントを使用したある授業で、語句が穴空きになっているレジュメが配布され、前面のスライドを見ながらその穴埋めをするということがありました。 しかし私は、背景色と文字色の組み合わせから、その語句が読み取れませんでした。埋めなければならない語句は重要な語句だと思うのですが、それが見え辛く、事前にスライドをmanaba+Rにアップロードしてもらえないかとお願いしたところ、他の学生も見ているため、アップロードすると出席しなくなる学生が出てくると断られました。それでは、他の学生には見せないので私宛にメールで送ってほしいと頼んだり、他にもいろいろ頼んでみましたが、どれも許可されませんでした。 これはあくまでも一例です。先生にもこれまで培われてきた授業方針がある中、突如現れた視覚障害学生に引っ掻き回されるのですから、やり辛い部分が出てくると思います。 しかし授業は先生一人では成り立たず、学生がいなければ「授業をする」という行為は起こり得ないと思います。私も一受講生です。もし、どうしても無理なことを頼んでいるようであれば、話し合って、他の方策を考えられたらと思います。教職員と学生の対話がこれまで以上に行われれれば、さらにより良い授業に近づくのではないのでしょうか。 p4 パネルディスカッション 障害学生への合理的配慮を考える 障害者への合理的配慮は、当事者からの支援意思の表明があってから提供するという認識が一般的ですが、実際に支援意思を表明することが困難 な当事者学生も多い中、そもそも支援を受けるにあたり、学生からの意思の表明は不可欠なのか、あるいは、どのようにすれば意思の表明を引き出すことができるのかといったことを、3名のパネリストにそれぞれ、法律学、発達心理学、支援者の観点から話し合っていただきました。 パネリストのご紹介 [法律学の視点から] 川島 聡 氏 (岡山理科大学総合情報学部 准教授) 主な研究分野は、国際人権法、障害法。東京大学大学院経済学研究科特任研究員、ハーバード・ロースクール客員研究員、東京大学先端科学技術研究 センター客員研究員などを経て現職。内閣府障がい者制度改革推進会議(障害者政策委員会)差別禁止部会構成員(2010-2012年)。 [支援者の視点から] 村田 淳 氏 (京都大学学生総合支援センター 助教/障害学生支援ルームチーフコーディネーター) 支援現場で、組織的な支援体制の構築や合理的配慮の提供に従事する一方、新たな視点でのバリアフリーマップ制作や発達障害のある学生のグループプログラムを実施するなど様々な取り組みを行う。全国高等教育障害学生支援協議会理事、文部科学省・障害のある学生の修学支援に関する検討会委員、日本学生支援機構・障害学生修学支援実態調査分析協力者 他 [発達心理学の視点から] 竹内 謙彰 氏 (立命館大学産業社会学部 教授) 自閉症スペクトラムの人たちの発達的特徴や支援のあり方に関心を持ち、調査等の研究に関わる。また、当事者やその家族の真のニーズに迫ることを重視する視点から、立命館大学の障害学生支援室アドバイザーとして学生の支援にも関わる。 授業改善の教育文化を醸成する 「障害学生のニーズ」 司会(立命館大学 障害学生支援室コーディネーター) 「意思の表明から始まる合理的配慮を考える」というテーマのもと、事例から合理的配慮のポイントをディスカッションしていきたいと思います。 まずは一つ目の事例として、先ほど、松波さんが発表してくれた実際の授業で困ったという話(p.3)について考えてみたいと思います。 竹内 まずは、口火を切らせていただきます、産業社会学部教員の竹内と申します。専門は発達心理学です。発達障害のある子どもや大人たちへの支援 にも若干関わるようになりまして、学内では特別ニーズ学生支援室(1)アドバイザーから引き続き、障害学生支援室のアドバイザーをしております。 松波さんのお話について、支援を主体的に活用できている例かと思いました。もちろん、いろんな意味で完璧ではないし、課題も様々にあるわけです。例えば、松波さんの中にある「おもんぱかり」というか、心配や気遣い。自分が授業に参加することで、授業を引っ掻き回していると思われるんじゃないかということがあったわけです。でも、ある意味で、このハードルを乗り越えやすくするものが、合理的配慮じゃないかと思います。 障害者差別解消法が2016年4月に施行され、障害のある人たちが適切な配慮を求めることが当然の権利だということに根拠を与えるものになりました。 またこの事例は、大学の教育文化を変えることに関わる気がします。自分が必要な要望を出しにくかったり、あるいは、一応言ったけれども断られてしまったりするのはあり得ることです。実際、教育の本質やカリキュラムの実質的な変更があるような場合には、当然、断らないといけないことも出てくるわけです。しかし、なぜそうなのかという説明がいるし、じゃあ、ダメならダメで、具体的にどうしていったらより良い方向になるかという、そこの対話が必要になります。 そういうことに関わって、自分も教員として受け止めながら、対話のキャッチボールができるようにしていく。そういう大学の中の教育文化をちょっとずつ変えていくことが、大事な課題じゃないかと思いました。 もう一つは、権利主体として障害を持っている学生さんたちが、自分の今の状況をきちんと捉えた上でそれを表明し、自己の権利を擁護していくためにどうしてほしいのかということを伝える。それも一方的ではなくて、やり取りをしながらということができるようになっていくこと。まずそうしたやりとりが成り立つことが必要でしょう。 私自身は、発達障害のある人への支援を学ぶ中で、「障害表明」、すなわちdisclosureと「自己権利擁護」、この2つがとても大事だということを学んできました。これらのことは発達障害、その中でも特に自閉症スペクトラムのある人たちには、とても苦手なものです。そのこと自体が大きな課題になるわけです。でも実は、困難があるのは自閉症スペクトラムの人たちだけではないんです。何らかの困難を抱えるすべての人にとって、「障害表明」と「自己利擁護」をきちんと行っていくことは、非常に大事な課題になると思います。まとめるならば、当事者学生の側は、合理的配慮のための自主的なコミュニケーションを深めていけるようになること、そして受け止める側は、対話のチャンネルをきちんと開いていくことが大事じゃないかと思います。 村田 私は京都大学の学生総合支援センターという組織のなかにある障害学生 p5 支援ルームに所属しています。業務内容のほとんどは、障害のある学生の相談や支援コーディネート、それに伴うコンサルテーション、また支援ルーム全体のマネジメントで、ひとことで言えば支援者です。今日は支援者という立場から、様々なお話ができればと思います。 松波さんの事例は、率直に言って、とてもいい雰囲気の中で支援のことが自然に語り合えているなと思いました。私自身も現場にいる人間として、とても嬉しい光景だと思いました。 どうしても障害のことや支援のことというのは、構えて話をするような側面がまだ強いと思うんですが、それを教育という場所を介して、ともに考えていく姿があるというのは非常に素晴らしいなと思って聞いていました。 支援というのは、どうしても白黒つけるというか、イエスかノーかみたいな話になりがちなんですね。いわゆる対立的なものに見えてしまう。そこで、コミュニケーションを図ることの重要性を松波さん自身も感じていて、こういうことをやってほしいと言うだけじゃダメということに至ったんだと思います。より良い支援を受けるために、つまり、より良い教育の出発点に立てるように、コミュニケーションを図りながら、お互いに近づき合っていくというところは非常に良いなと思いました。もちろん、これは合理的配慮ということとはまた違う文脈かもしれないんですが、教育機関として教育的視点に立てば、非常に重要な要素ですね。 合理的配慮とは 個々のニーズに応じた「変更・調整」 村田 合理的配慮も絡めながら、少し次の話をします。 例えば、分かりやすい事例としてスライドの話が出ていました。読み辛いという話です。多くの学生にとっても読み辛かったと思うんですが、このスライドの話をどういうふうに切り取るかということが大事だと思います。 私は支援者なので、見えない学生がいたら、どうしても見えないということや困っているという文脈からスタートしがちです。しかし、少し俯瞰して見れば、教育現場で教員がいろんな教材を使って教育をする。それは責務なわけです。学修環境を保障していくという意味では、それは障害の有無に関わらず必要なことです。ただ、そこで使用している教材や教育の方法が、学生にとって受け取りにくいものであったとすれば、そもそも責務である教育というものが成立していないともいえるわけです。 例えば非常に簡単な例で言うと、私は今マイクを使っています。「マイクを使ってください」と会場の後ろの方からお願いされたわけではありません。ただ、もし急にマイクを使わなくしたら、このシンポジウムは成立しない可能性があるわけです。 今日ここに呼んでいただいて、前に出て発言するわけだから、皆さんに私の考えをお伝えするというミッションがあるわけです。けれどもマイクを使わないと、それを放棄してしまうことになってしまう。この場が成立しなくなる。 そういう意味では、先ほどの松波さんのスライドの話も、先生は従来そういう方法でやってこられたかもしれないし、授業の内容によっては、どうしてもやらないといけないこともあるかもしれないのですが、あくまでもそれは方法のひとつで、他のやり方も考えなければいけないのではないかと思うわけです。 合理的配慮(reasonable accommodation)という言葉は、accommodationという言葉が「配慮」と訳されていますけれども、権利条約のなかの定義でも示されているように、「適当な変更、及び調整」ということが本来の意味ではないでしょうか。教育の現場でニーズがあるとき、どういうふうに調整していくかという視点に立てば、非常に分かりやすい話ではないかと思うんです。 障害学生支援というのは、まだまだ新しいものというふうに見られがちです。多くの教職員にとっては今までなかったものだから、オプショナルなものとして、プラスアルファのものとして見えがちですが、決してそうではないということを伝えないといけない。 調整という視点に立って、教員のほうも教育をするという責務をどうやったらまっとうできるかということを確認しながら、進めなければならない。「今までこうしてきたから」ではなくて、今いる学生たちに対して、自分の責務をどう果たせるのかという、教員側の主体性というものも非常に重要な要素になってくると思います。 司会 最後に、川島先生に法律の枠組みからお話しいただきたいと思います。 川島 竹内先生からは、まず「権利主体」というお話がありました。学生は合理的配慮を大学に求める権利がある。これは、法律上、条約上認められた権利ということですね。学生は堂々とこの権利を主張することができます。もう一つ、竹内先生から、障害者のニーズに対応した教育文化を作らなくてはいけないというお話もありました。これは対話の条件にも関係します。対話が円滑に進む条件というものも、まさに大学の教育文化の中に含めていかなくてはいけない、と私は理解しました。 障害者差別解消法について言いますと、私は先ほどの講演(P.10参照)の中で「事前的改善措置」に言及しました。これは、合理的配慮を的確に行うために、あらかじめやっておくべき「環境の整備(2)」のことです。対話を円滑にするための条件整備も「環境の整備」のひとつなので、法律上も重要になります。これは「努力義務」ではあるけれども、きちんとやらないといけないということです。村田先生からは、accommodationは「配慮」と言われているけど「変更・調整」なのではないか、というご指摘がありました。たしかに日本が批准した障害者権利条約に定める合理的配慮の定義は「変更・調整」という言葉を使っています。合理的配慮を説明するときに、障害のある人に対する「配慮」という説明よりも、障害のある人の個々のニーズに応じて現状を「変更」し「調整」する、と言ったほうが分かりやすいかもしれません。 p6 本人が支援の要請をできないときに、 どうするか 司会 ありがとうございます。 二つ目の事例にいきたいのですが、こちらは、さらに込み入った話になると思います。先ほどの松波さんの事例は、支援を主体的に活用できている事例ということだったのですが、二つ目の事例はその真逆と言いますか、そこに本人がいない、主体的ということが成立しないような内容になっています。 事例詳細:<基本情報> 名前:Aさん(1回生) 診断:うつ・パニック(診断時期不明) 主訴:出席配慮 ※この事例は、複数の実際の事例の要素を合成して作成したものです。 <状況> 1)Aさんは、1回生前期の小集団授業(必修)に出席できずに単位を落とす。 2)1回生後期、前期成績表を見て驚いたAさんの母親が、大学に来談した。 3)Aさんの母親は診断書を持参し、うつ病・パニック障害による過度な緊張・焦り・不安症状があり、グループワークやディスカッションなどの場に参加できないことを、大学関係者に説明。その上で、後期小集団授業(必須)における出席配慮を求めた。 4)Aさんの母親によると、Aさんは中学・高校と、うつ病・パニック障害を根拠に、出席配慮を受けていた。 5)Aさんの母親によると、Aさんがこれまで受けてきた出席配慮とは、 ① グループワークやディスカッションなどAさんが明らかに苦手とする課題の一切を個別学習やレポートに代替する ② ①以外にもAさんが教室にいることが難しいと感じた場合には、保健室で個別に学習し、その結果を評価するであった。これらの出席配慮の内容はAさんと教員が判断し実施していた。 6)Aさんは現在、「大学が怖い」と言いながら引きこもっている。 7)Aさんの母親は、「とにかく大学まで来られたのだから、何とか卒業させてほしい」と訴えている。 実質的なコミュニケーションを成立させることが大事だけれども、そこまでたどり着かない学生も非常に多いという実態がある。そこでこのような事例を挙げさせていただきました。 村田 まずは、先ほどの話と重なるかもしれないですが、合理的配慮が今回のテーマになっていますけれども、何も大学は合理的配慮をすることを目的とした場所ではないですよね。 教育をしたり学ぶことが本質なわけで、そこで合理的配慮が必要であったとすれば、それをどういうふうに展開していくかという整理が必要です。なので、合理的配慮がどのように提供できるかという視点だけでは語り切れない部分があると思います。 「意思の表明」や「建設的対話」というプロセスを通じて合理的配慮を実施するうえで、どう合意形成していけるかということが大事だと思っています。 ただ、支援を受けるほうも、合理的配慮を提供するほうも、まだまだ経験やノウハウの蓄積が不十分であるというのが現状です。その中で何をどの程度やるのかというあたりは、合意形成のプロセスをいかにアレンジしていくかということにかかってきます。ここは支援者の腕のみせどころかもしれません。 単純に「こういう障害があって困っているので、支援してください」というだけで済むような内容であれば話は早いですが、必ずしもそうではない。このケースもそうですね。社会的障壁があり、授業に参加できないということは明確です。そこに対してアプローチが始まっていくけれども、具体的な意思表明がどうかというと、この事例を読む限りでは本人が何か言ってきているという場面はない。親御さんが言ってきているだけ。ただ本人が困っているというのは明らかなので、法の趣旨に照らせば、そこに対する何か働きかけを行わなければならないと思います。 もう一つのポイントは、グループワークやディスカッションに参加できないということ。ここで代替措置などを検討していくにあたって、そもそもその授業が何を求めているのか、何が評価の対象になっているのかが重要なポイントになると思います。例えばこの授業が、「グループディスカッション入門」という授業だとしたら、グループディスカッションを代替することができるのかどうか。ただ、これが例えば「経済学入門」という授業でグループディスカッションという手法を採用しているだけだとしたら、我々の考える合理的配慮の可能性は変わってきます。このあたりは授業を行っている教員と対話して、授業で求めていることを丁寧に確認していく必要があると思います。 もう一方で、必ずしも診断書や手帳がないと配慮ができないということではないのですが、ある程度その社会的障壁を除去、軽減するための理由づけが必要になってきます。 そのとき難しいと思うのは、この事例の中では、本人に会えていないという部分です。つまり、本人側へのアセスメントというのが支援者としてほとんどできていない状態。情報としては聞いていますが、必ずしもその情報と本人のニーズが合致しているのか分からない。あるいは、客観的にみて妥当かというところも重要な部分だと思います。 困っているのは明確です。ただ、それをどう説明していくかというプロセスでは、もう少し情報がほしいというのが正直なところかと思います。 現在の高等教育機関で何が起こっているかというと、法律ができて、急にそういう概念が出てきて、何をどこまでやるのかというのは試行錯誤しながらやっているところです。つまり、そういう文化があまり馴染んでいない。 これが何年か経って、様々な障害や特性のある人たちが、生まれたときからそういう文化のなかで小学校や中学校時代を歩んできたというのなら、高等教育段階でも状況は変わるかもしれない。教職員の受け止め方も変わってくるはずです。そういう過渡期ゆえのジレンマは、やはりあるかなと。 学生の成長を見据えた 合理的配慮のあり方 村田 ここで先ほどの話に戻りますが、合理的配慮をするかどうかだけが目的ではありません。 高等教育機関というのは、教育的視点を持つということも根本にあるわけです。こ p7 こでは合理的配慮というものがテーマになっていますが、場合によっては、幅広く教育的視点としてその学生にアプローチしていく。その中で本人が将来、主体的に合理的配慮を使っていくことを目指して関わっていくという視点もあると思います。だから、合理的配慮というものにすんなり乗れないから対象外ですという話ではなくて、具体的な意思表明がなかったり、アセスメントが不十分な状況でも教育的視点に立って、本人と一緒に合理的配慮を考えていくようなプロセスが大切ではないかと思います。 場合によっては「意思の表明」というものに対しても、事後的な場合があるんじゃないかと。教育的視点に立てば、このようにも考えられると思うんです。 時間はかかるかもしれませんが、最終的には本人が意思表明をして合理的配慮を受ける。その結果として、自分が学びやすくなるという経験を共有していく。大学としても幅広く、彼らのキャリアを支えていくという使命があるわけですから、このように本人の将来に対しても、支援というプロセスを通じてアプローチしていけるのではないでしょうか。 司会 ありがとうございます。川島先生が最初に整理して下さった、合理的配慮提供のプロセスにおける3つのポイントとして、「個別的」・「事後的」・「対話的性格」(p.10「合理的配慮を提供するときのポイント」参照)ということがあり、合理的配慮が「意思の表明」の後に提供されるという意味で、「事後的」であるということでした。しかしながら、実はその逆もあって、「意思の表明」の方が合理的配慮の後に成立する場合もあり得るんじゃないかということでしょうか。 竹内 そのご指摘は、非常に大事な点かなと思います。 意思の表明は事後的でもあり得るということを、まず考えたいと思います。要は、本人の変化です。私自身は発達心理学者であるためか、「変わり得る」という観点はとても大事じゃないかと思っています。回復をするとか、成長、発達をするとか、そういうことがあり得る。もちろん、大学は4年間なので年限があるけれども、そういうことは、やはり時間軸の中で見通すということが、大事なことでしょう。 もう一つは、悠長なことを言うかもしれないですが、やはり社会も変わっていく。障害者の権利条約ができるとか、こういうものが国内法としてきちんと成立するということを、私自身は残念ながら20年前には具体的に想像できませんでした。何らかの教育上の配慮という点で言えば、「丸々出席しないで、単位なんか出せないよね」というのはその通りですが、たとえば、体調を崩した学生が、1、2週間来れず、その間に小テストをしたというような場合、「もう小テストをやったから、あなたは30点分ないよ」という話かというと、そうではなくて、やはり配慮することはあり得るわけです。 実際こうした場合には、「別のレポートで何とかやりましょう」とか、「個別にもう1回、あなただけ試験をしましょう」とか、そういうことをやられている先生もいると思うし、私もやったことがあります。ですからそのような場合、別の可能性を追求することはあり得るかなと思います。少なくとも、単純に門前払いという話ではない。 卒業要件に関わっているという場合はなかなか難しくて、これはカリキュラムの実質的改変になってしまいますから、ことは簡単ではありません。おそらく、卒業要件から簡単に外せるとは言えないと思います。でも、必須科目として位置付けているということ自体がどうかという場合、これは、実は教育を行う側の理念が問われる問題でもあるので、そのことに関しても何らか検討する余地があると思います。もちろん、すぐに解決できる話ではないですが、最初からダメということでもない、少なくとも対話の回路を開いておくことはできるのではないでしょうか。すっきりしない話だと思われるかもしれませんが、そういうことを考えること自体が、大事なことだと言うべきでしょう。 「意思の表明」は、 あくまでもきっかけ 川島 今、お二人の先生方から、意思の表明という論点についてお話がありました。本日の中心的なテーマになると思うのですが、法律学の観点からお話しいたします。まず、合理的配慮の「事後的性格」について、私は講演の中では、分かりやすさを重視して、意思の表明というのが合理的配慮をする際のトリガー、キッカケになるということ、意思の表現がなされた後に対話のプロセスが始まるということをお話しさせていただきました。 ですが、より正確に言えば、この「事後的性格」がなぜ必要になるかというところが重要です。「事後的性格」が必要なのは、基本的に、障害者と相手方の間には「情報の非共有性」という状況があるからです。つまり、相手方は、その人が障害者であるかどうか分からないから、またその人が何をしてほしいのか分からないから、まずは意思を聞いて、それで情報を得て、初めて配慮に向けて行動を起こすことになります。相手方は、障害者からの意思の表明がなければ、何をしていいのか分かりません。勝手に配慮するわけにもいきません。余計なお世話になるかもしれないからです。 このように、「情報の非共有性」があるので、基本的には、意思の表明がなされた後に配慮の提供に向けたプロセスが始まることになります。ここでは「情報の非共有性」というのがポイントになるので、もしも当事者間で情報がある程度共有されている状況では、たとえ意思の表明がなくても、合理的配慮に向けて行動するべき場面があるというふうに理解しています。教育場面では障害者差別解消法が適用され、雇用関係では障害者雇用促進法が適用されます。障害者雇用促進法も、合理的配慮の提供の義務を定めていますが、採用後の合理的配慮については「意思の表明」(申出(3))の要件がありません。 募集・採用時の場合は、その人が配慮を必要とする障害者であるかどうか分からないので、障害者からの申出が合理的配慮の契機になるとされています(4)。これに対して、一般に、採用後の場合は、使用者側は労働者の状況をある程度把握しているという関係性があります。そうなると、いちいち個々の障害のある労働者から意思の表明がなされなくても、特有の関係性がある以上は、使用者側には障害者に配慮の必要性を確認することが求められます。なお、確認を待たずに、障害者から事業者に配慮の必要性を申し出ることもできます。そのうえ p8 で、対話や話合いをして、合理的配慮の内容を確定していくことになります。 この考えを応用すると、実は、例えばゼミなどにおいて学生との関係性が構築され、その学生に障害があることをすでに教員も分かっている場面では、教員から「何か必要なことはありませんか」と配慮の必要性を聞いていくことが求められるのかもしれません。学生が「ない」と言えば、それでその話は終わります。先ほどの竹内先生のお話で言いますと、教育文化とも関わると思います。 村田先生からは法律の趣旨というご指摘がありましたが、厳密にいえば、「意思の表明」というよりも、むしろ「情報の非共有性」のほうが「事後的性格」のキーポイントになります。「情報の非共有性」の観点から合理的配慮の義務をとらえる理解が法律の趣旨に沿っていると思います。 それともう一つ、本人が意思を表明できない場合というのがあります。それは、精神障害、知的障害があって、コミュニケーションがうまく取れない場合が考えられます。その場合は、家族や介助者が本人を補佐して意思を表明することも障害者からの「意思の表明」に含まれる、と政府の基本方針には記されています。ただ、いったん意思の表明があって配慮の提供がスタートしても、その後も引き続き、その方の意思を確認することが重要です。本人のニーズが日によって変わる場合もあります。その都度、対話を通じて個々のニーズに応じて柔軟に配慮を決めていかなくてはいけない。それはまさしく個々のニーズに応じるという合理的配慮の要素になると思います。 障害のカミングアウトと プライバシーのジレンマを超えて 川島 あと最後に一つ言いますと、合理的配慮は一般にカミングアウトを伴うものです。そこで大切なのは、必要に応じて、プライバシーを守るような形で配慮を提供するということです。そして配慮の内容は、本人のニーズと意向、プライバシーの必要、授業の内容など様々な要素で決まってくるので、お互いに知恵を出し合って配慮の中身を決めていく、という対話がまさに必要なところかと思います。 村田 非常にクリアにしていただいたと思います。要は、情報が共有されているということが明らかであればゴーサインを出せるんじゃないか。ただし、本人に対して確認するプロセスが重要だということだと思います。 教育文化というか、日本人の文化かもしれませんが、これは聞いてはいけないんじゃないかみたいなこともまだまだ多いと思います。ただし今の流れでいけば、むしろ責務というと硬いかもしれませんが、社会的障壁が明らかな場合には合理的配慮が求められるということになり、本人に対して対話を進めていくスタンスが必要になると思います。 もう一つ、カミングアウトやプライバシーの課題というのは、現場でも実感のある部分。本人としては「これくらいやってほしい」となったとしても、合意形成のプロセスのなかでは、ある程度の情報の開示はいるんじゃないかということはよくあります。ただ、本人が「それは嫌だ」となった場合、対話的にやっていくという流れになります。 支援者のコツとして思うのは、難しいケースこそ小さなステップにするということです。例えば、合理的配慮を本人と一緒に確認していくプロセスの中で、プライバシーに対する考え方が変化する場合があると感じます。プライバシーというか、カミングアウトの幅というのが正しいかもしれません。それが変化してくるような印象を持っています。 本人が合理的配慮を受けたことの効果や実感を確認しやすいようなプロセスを踏んで、そこから、こういうことをやってもらうと自分は能力を発揮できるんだとか、ほかの人と同じように勉強できるんだということを実感する。それによって、次の一歩を進めるということが、実際の支援現場の姿ではないかと思います。 竹内 カミングアウトとプライバシーをどう両立させるかということに関してですが、私自身の発達障害のある人たちとの関わりや特別ニーズ学生支援室のアドバイザーとしての経験から見ても、実際にそうした事態はよく生じ得るものだと思います。 発達障害のような場合には、障害があるということがなかなか見えない。また 本人も、できれば特別扱いしてほしくない。だけど一定、必要な配慮はほしい。これはワガママではなくて、多くの人に障害を知られること自体が、一種のスティグマと感じられていると捉えざるを得ない。 実際にそういう経験をしてきた人たちもいるわけなので、そこに注意を払うことも含めて配慮なんだと思います。それゆえ、支援や配慮を行う人たちは、一定、情報を広げる範囲を限定しながら必要な配慮を行っていくことが大事になるでしょう。でもそのことに関して、本人がどう感じているのか、また、実際にそれで学修が進んでいるのかどうかなどをおさえておくことも必要になる。結局、対話が大事だという話になるんだと思います。 ただ、社会のあり様や雰囲気、文化が変わってくることで、障害表明をすることや、きちんと自己権利擁護をしていくということ自体が当然のものになってくれば、障害を周囲の人に知られることへの心理的な障壁というのも、ずいぶん低くなるのではないかと思います。 注釈 (1)本学の発達障害やその可能性のある学生の修学相談窓口(2011年度~2015年度)(p.9参照) (2)障害者差別解消法第5条 (3)障害者差別解消法7条2項・8条2項の「意思の表明」に相当する文言として、障害者雇用促進法36条の2は次のように「申出」を用いる。「事業主は、労働者の募集及び採用について、障害者と障害者でない者との均等な機会の確保の支障となつている事情を改善するため、労働者の募集及び採用に当たり障害者からの申出により当該障害者の障害の特性に配慮した必要な措置を講じなければならない。ただし、事業主に対して過重な負担を及ぼすこととなるときは、この限りでない。」 (4)厚生労働省「障害者雇用促進法に基づく障害者差別禁止・合理的配慮に関するQ&A(第二版)」(2016年) p9 ご挨拶 10年間の蓄積をもとに、さらなる前進を 山本 忠 障害学生支援室長・学生部長 障害学生支援室は、2006年に開設されました。その後、本学の学修支援方針の中で、2010年に包括的学修者支援が掲げられ、多様な学生の学びと成長を支援していくという方向性が確認されました。そして、2011年に発達障害の学生を念頭に置いた特別ニーズ学生支援室ができました。それらを背景にして、2016年、身体障害を主に対象にしてきた障害学生支援室と、発達障害を主に対象にしていた特別ニーズ学生支援室が統合され、障害学生支援室という名称のもとに歩み出したところでございます。 今は障害者権利条約の時代です。あらゆる人に開かれたインクルーシブな大学づくりということが、どの大学にも求められており、本学でも、その課題は非常に大きいと思います。そのインクルーシブな大学づくりをするにあたって、本学ではあらゆる場面で、学生同士の学び合い、支え合い、育ち合いということを重視し、ピア・サポートやピア・ラーニングの仕組みをいろんな形で展開してきたわけですが、障害学生支援室の取り組みの中でも、学生サポーターを重視し、組織化して活動してきました。 また、障害者差別解消法や障害者権利条約の中で求められている合理的配慮というのは、具体的な場面では非常に難しい判断が求められます。障害自体が、非常に個別的で多様なものでありますから、例えば具体的な授業の中でどうするのかといったことについては、当事者同士が非常に頭を悩ますところであります。ですが、決して画一的なマニュアルでは対応できない課題でもあるのです。 そういった課題に対し、本学がピア・サポートと同時にもう一つ重視してきたのが、「対話」ということです。対話の中から、本人の本当のニーズを見つけ出し、本人の意思を確認しながら、合理的配慮のあり方を丁寧に具体化していくことに取り組んできました。その中で、障害学生本人も支援する学生も、障害についての理解を深め成長していくことができたのではないかと思います。 私なりに考えると、この2つのテーマが、本学の障害学生支援室の大事な取り組みだったと思います。この10年間の取り組み、経験を活かして、今後さらに前進していきたいというふうに考えております。 (シンポジウム「開会の挨拶」より) p10 解説 合理的配慮 Reasonable accommodation 大学が障害学生と向き合うために。 2006年に国連総会で障害者の権利に関する条約が採択され、障害者に対して合理的配慮を提供しないことが差別と定義されました。日本は2014年にこの条約を批准し、国内の法律(障害者基本法、障害者差別解消法、改正障害者雇用促進法)は合理的配慮の規定を設けました。そして、私立大学は、政府の基本方針に沿って主務大臣(大学の場合は文部科学大臣)が作成する対応指針のもとで、合理的配慮を提供する努力義務を負う主体として位置づけられました。 こうした流れを受け、立命館大学においても、立命館憲章の本旨やこれまでの支援方針を踏まえ、2016年に「立命館大学障害学生支援方針」を策定して、個々の障害学生に合理的配慮を提供することになりました。 合理的配慮とは 1 個々の必要(ニーズ)に応じて、 POINT 大学が合理的配慮を提供しなければならないのは、個々の場面において障害者個人の具体的なニーズが現に存在している場合です。その内容は、個々の場面、個人ごとに異なることが想定されています。 *たとえば同じくスロープを設置する行為であっても、障害者個人が配慮を求める前に、あらかじめ不特定多数の車いす利用者を想定して行うようなものは事前的改善措置と呼ばれ、合理的配慮とは区別されます(たとえば建築物のバリアフリー化、情報アクセシビリティの向上、職員研修など)。事前的改善措置は、障害者差別解消法第5条に定める「環境の整備」にあたり、私立大学も努力義務を負います。 2過重負担を伴わない範囲で、 POINT 過重な負担を課すような配慮は、大学は提供する必要はありません。ある配慮が大学にとって過重負担になるかどうかは、一般的・抽象的にではなく、「具体的場面や状況に応じて総合的・客観的」に判断します。 POINT 過重負担かどうかを判断する際には、①事業への影響の程度、②実現可能性、③費用・負担の程度、④事業規模、⑤財務状況という要素を考慮に入れます。 POINT 過重負担の文脈で判断するかどうかは必ずしも明らかではありませんが、機会の不平等を招く配慮、事柄の本質的な変更を伴う配慮、本来の業務に付随しない配慮は、いずれも大学は提供する必要はありません。 3社会的障壁を除去すること POINT 「社会的障壁」は、障害者が生活を営むうえで障壁となる外的な要因全般(「社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のもの」)と、かなり広く定義されています(障害者差別解消法第2条第2号)。 合理的配慮の例(校正者注:イラスト省略) Aさんの例 車いす利用者のAさんが、段差があるために、受講している授業の教室に入ることができない場合→段差を取り除いたり、スロープを設置するといった配慮などが考えられる Bさんの例 視覚障害のあるBさんが、授業中配布された墨字プリントを読むことができない場合→担当教員が、事前にテキストデータでレジュメ資料を送付したり、文字を拡大段差を取り除いたり、スロープを設置するといった配慮などが考えられるして印刷する、点字資料を渡すことなどが考えられる Cさんの例 聴覚障害のあるCさんが、授業中に教員の講義内容を聞き取ることができない場合→パソコン/ノートテイクなどの文字通訳をつけたり、手話通訳をつけることなどが考えられる 合理的配慮を提供するときのポイント 1意思の表明から始まる 2建設的な対話を行う 3各事情に応じて多様となる POINT 配慮が必要な学生は、大学にその意思を表明する必要があります。大学は、どのような配慮が必要なのか、また提供可能なのかといったことを、学生の意向を尊重しつつ、建設的な対話(話し合い)を通して決めていくことになります。そうして決まった配慮の中身は、個々の具体的な事情に応じて多様なものとなります。 例(校正者注:イラスト省略) 視覚障害のあるDさんが、授業担当教員に対して、授業中配布された墨字プリントを読むことができないと申し出てきた(→ポイント1)。担当教員がDさんに対し、どのようにすれば読むことができるのかたずねたところ、レジュメのデータさえもらえればPCのソフトで文字情報を読み上げることができると答えた。しかしながらレジュメには絵や図が多く、すべてを読み上げできないことが分かった。→そこで両者の話し合いの結果(→ポイント2)、担当教員がレジュメの絵や図のキャプションをつけることにし、また必要に応じて授業中に教員が口頭で補足説明をすることになった(→ポイント3)。 p11 教員のみなさんは、障害のある学生から、授業中に困っている、困りそうだといった相談があれば、まずはどんなことで困っているのか聞くところから始めてみてください。 そしてその困りごとに対し、どのようなことができるのか検討や判断に迷われたら、当該学生の所属する学部事務室や障害学生支援室にご相談ください。 「立命館大学障害学生支援方針」 立命館大学では、障害学生が立命館大学での学びの経験を通じて「自ら学び・自ら行動する」人材に成長し、社会につながるプロセスを支援します。そのために、障害学生の主体性を尊重しつつ、障害学生本人と大学が協同して、個別のニーズに応じた支援のあり方を検討・形成・調整し、学の関係者が連携・協力して支援に取組みます。 【参考情報・WEBサイト】 ・ 障害者の権利に関する条約(外務省WEBサイト) ・ 障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律(内閣府WEBサイト) ・ 障害を理由とする差別の解消の推進に関する基本方針(内閣府WEBサイト) ・ 文部科学省所管事業分野における障害を理由とする差別の解消の推進に関する対応指針(文部科学省のWEBサイト) ・ 立命館大学障害学生支援方針(立命館大学障害学生支援室WEBサイト) 作成:立命館大学 障害学生支援室 監修:川島 聡(岡山理科大学 総合情報学部社会情報学科 准教授) 2017年3月発行 発行 立命館大学障害学生支援室 http://www.ritsumei.ac.jp/drc/