キャンパス移転と教学改革

1998年以降の経営学部との移転は、その4年前に移転を果たした理工学部との文理融合を目指す新しいタイプの教学展開が試みられたといえよう。キャンパス移転後の教学展開は、前半期(1998-2005年)、後半期(2006-2017年)に分けることができる。

まず、前半期の特徴は、既に述べた経済学部を3コース制、インスティチュート3コースによる展開に加え、ゼミを従来の3、4回生から2、3回生に変更し、専門学習の学ぶ意欲を一層高めることを目指した点にある。あわせて4年次後半より卒業研究を導入した。更に、1996年度より導入された社会人入学制度は、最高時期には60名を越える社会人が入学し、高校卒業と同時に入学するいわゆる一般学生にも学ぶ意欲に大きな刺激を与えた。

後半期は、国際化の要請にもこたえるため、経済学科と国際経済学科の学科制を導入した。学科制の導入に伴い、学生の4年間の充実した学びを保証するため、卒業要件に語学到達基準、学生評価基準、4年次の学びを設定した。語学到達基準は、二つの学科によって異なるが、TOEICの最低水準を卒業時まで、そして学生評価基準として専門科目のGPA3.2以上を卒業要件として求めた。更に、必修科目等に必要要件を満たしたうえで、4年次にはリクワイアード経済学を履修し、単位を取得することが卒業要件として求められた。

2017年度のカリキュラム改革を契機として、2学科制は廃止となり、国際経済学科は語学運用能力や海外留学体験をより重視して国際専攻へと改変された。4年間の学びを更に充実すべく、ゼミを2回生後期から開始し、4回生の卒業研究と連結することにより、2年半のゼミの学びを保証している。2018年度より開設された食マネージメント学部は、その学問分野が経済学部と隣接するカリキュラムを有していると同時に、経営、人文、そして自然科学分野に及び、今後文理融合を目指したキャンパス展開が期待される。

BKC移転前夜の苦悩と期待

杉野 圀明(経済学部名誉教授)

私が学部長に就任したのは、1996年4月である。当時は、学部のBKCへの移転が大きな問題になっていた。教授会構成員の意見も、移転派と反対派に分かれていた。

学部がキャンパスを移転することは、学部の研究と教育に大きな影響をもたらす。BKCへの移転を決定するには、教授会構成員の三分の二の賛成が必要である。しかし、賛成と反対の意見は五分五分である。もし、教授会で強行して、その是非を採決すれば、その結果は、「三分の二」条項との関連で、移転できなくなる可能性が高い。そうなると学部と大学執行部の方針とが食い違う。そんな訳で、教授会で安易に採決を行って、移転の賛否を明らかにすることは極めて困難な状況にあった。

そうした状況を知ってか知らずか、大学執行部は、BKCへの移転を催促してくる。私としては、大学執行部が焦る理由が判らない。このまま、突き進めば、大学と学部との対立になる。まして、この対立がマスコミなどの話題となれば、立命館大学の社会的ステイタスがマイナスとなる。大学の醜聞は、百害あって一利なしである。この対立だけは、なんとしても避けたい。これが私の大いなる悩みであった。恥ずかしながら、後頭部に、いつの間にか、大きな一銭禿ができた。それほどの苦悩であった。

この間、「学部長は住居が龍安寺にあるから移転に反対している」「学部長は大学運営の理念など理解していない」「学部長には協力するな」という非難が囁かれていた。それが耳に入ってくる。情けなく思ったが、そんなことで怒っても事態は解決しない。

そこで、私は「無為而人筝、人筝而論定、論定而有為、有為而事成」と腹をきめた。
人々の議論を踏まえながら、時を待てば、事は然るべきところに落ちつくということである。無責任のようだが、:学部長の一存を無理押しするのではなく、時間をかけて人々の意見がまとまるように指導し、それを踏まえて方針を決定するという方法である。大学は一般企業のような経営体ではない。学部長の一存を強要して事を決することはできない。時間は掛かるが、これが「民主的な指導」ではないかと考えたからである。

この方針を理解してか、「なるようにしかなりませんね」と言ってくれたのが主事(副学部長)の稲葉和夫教授であり、そして次年度の主事、松野周治教授の「成り行きに任せましょうや」という同調の言葉であった。私にとって、学部執行部の意見が一致したことがひどく嬉しかった。
それ以降は、坂本和一副学長の指導のもとに若林洋夫教授が「BKC新展開委員会」を主導して、BKCにおける経済・経営両学部の諸々の構想とその実現へむけての努力がなされた。
この委員会は、単なる学舎の「移転」だけではなく、両学部の教学システムの刷新、文理融合型の教学システム導入という、教学面でも「新展開」を図ることとした。
経済学部教授会では、この委員会で、教学システムの具体的な刷新内容や移転後における学舎の配置、さらには新展開に必要な教員の採用人事まで検討し、その結果を両学部に報告し、かつ承認を受けるという意思決定方式を承認した。今にして思えば、その時点で、移転に関する教授会の方向性が決まったと見なしてもよいであろう。

こうした動きに対して、移転に反対する意見はあっても、その具体的な動きはみられなかった。移転反対派とみられた学部長を選んだのに、その学部長が動かない。それに失望したのか、私に対する非難の声はあっても、学部移転に積極的な、また組織的な反対運動はなかった。私の苦悩を察して、あえて反対しなかったのか、あるいは、それが反対派教員の私に対する温情であったのかもしれない。

BKC移転前夜における私の立場とその苦悩を察してくれたのは両主事をはじめ、多くの教職員であった。時は流れたが、このことについては、今でも感謝している。
結果としてみれば、草津市の人口、それも若手人口の増加、南草津駅の発展、新市街地の形成など、地域経済の振興に、既存の理工学部に加えて、経済・経営学部の移転が大きく寄与したと思う。なお、BKC移転のもう一つの課題であった経済学部における教学の刷新や共同研究の推進化がどうなったかについては、他者の評を待つことにしよう。

BKCへの移転を契機に、私が学部長として提案し、教授会として取り組んだのは、「学部同窓会」の設立である。これは学部卒業生の相互交流を図り、学部から卒業生に対して学術的な援助協力を行い、かつ学部基金(研究基金)の確保という三点を目的としたものであった。その後、卒業生の自主的な努力もあって、「学部同窓会」が発足し、大学校友会の一翼として、それなりの発展をしてきている。

BKCへの新展開を主導した故若林洋一教授が私へ最後に残した言葉は、「残念」という一語であった。その真意を私は推測するしかない。おそらく、彼は、BKCへの新展開で、教学面での飛躍的な発展を期待し、それを夢みていたのではなかろうか。

経済学部がBKCへ移転して20年、今は老学の私も、経済学部における教学の更なる発展を期待してやまない。

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学生の研究活動とキャリア形成

学部ゼミナール大会は、1980年代後半より実施され、今や500名を超える参加者の下、200を超える報告と論文の発表の場となり、年々その質を高め、特に選抜されたチームによる優秀者発表会での報告は、他の学生の学習にも模範となる内容を持っている。

2013年度より開始された、卒業生OBによる現役学生へのキャリア形成の指導(メントレ)は、今や200名を超える現役学生と100名を超えるOBOGが参加し、単に就職面接の指導にとどまるのではなく、その内容は働き方を通じて人格形成、人間としての成長などにもおよんでいる。まさに、勉学、課外活動等を通じて得た考える力をいかに実社会に繋げていくかを学ぶ場でもある。また、OBOGとのネットワークを一層強めていく場としても大きな意味を持っている。

ALBUM: 2000-2018

大学院の拡充

大学院修了生は、大学等の研究機関を中心として優秀な人材を輩出してきたが、その規模は限定されていた。キャンパス移転前後に、高度職業人としての大学院政策を積極的に展開し、とりわけ税理士志望者を支援する「税理財務コース」を設立、多数の税理士を輩出している。また、2000年代に入り留学生受け入れのプログラムが進んだ。その一つが中国の大学との協定に基づくもので、「理論政策コース」に4年次に学部に編入、そして経済学研究科に進学をしている。もう一つは、JICA、ADB、IMF、世界銀行、文部科学省などの奨学金による英語のみの授業での「経済開発プログラム(MPED)」で、2000年代以降より毎年20名を越える社会人を中心とした院生が入学している。その結果、近年では3コースで毎年50名前後の院生が進学している。その多くが海外からの留学生からなり、日本人院生、学部学生との交流も見られ、学内での国際化が進んでいる。

課外活動の展開

新キャンパスでの学習が定着するにつれ、学生の地域に根ざした学習、ボランティア活動など課外活動の広がりが顕著になってきている。また、学術・学芸分野にもキャンパスの特長を生かした活動も見られる。体育会では、充実した施設のもとアメリカンフットボール、陸上競技、ラグビーをはじめとして、全国のみならず海外でも活躍するアスリートを輩出している。