野澤家2年ぶりのオ−ストラリア避暑滞在

1996-97年は種々の事情で野澤家は渡豪できなかった。特に1997年は1998年3月まで住んでいた町内会の役員(61軒分を担当する区長)をしていたので、ゴ−ルドコ−ストで催された若い友人の結婚式・披露宴に参加できなく、残念に思っていた。しかし、1998年の夏はどうしても家族で渡豪したいと計画していたが、なんとか実現できた。当初7月31日以前に出発したいと考えていたが、仕事の関係や航空券の入手困難な状況などから、8月1日の出発となった。今回は2年ぶりということで、友人へのお土産なども嵩張り、大きなス−ツケ−スが2つと持ち込み可能なサイズのキャリングバック1つ、さらにコンピュ−タ類一式などの手荷物が各自あったので、大きなス−ツケ−ス2つは2日前に宅配便で送って、関西国際空港(以下、関空)で受け取ることにしておいた。通常なら自宅から近い大津プリンスホテルから関空への直通バスで行けるのであるが、夜の便には6時間以上待たなければならない時間帯でしか利用できないような運行サ−ビスなので、一人ならともかく家族連れとなると時間を持て余してしまうので、京都駅からの直通バスを利用した。JR線の「はるか」を利用して行くことも可能だが、直通バスの方が割安となるし、京都駅で最後の買い物もでき、1時間に1本あるから便利である。こうして著者自身を除いて野澤家は初めての関空利用での渡豪となった。

第一週(8月2日〜8日)


 関空発ANA 115便(B767-300)にて、途中の気流が不安定な所で何度か不安な気持ちにされながらも、予定通りに早朝ブリスベン国際空港へ到着した。税関では持参した日本食のうち、ハウス食品のカレ−・ル−がビ−フ・エキス濃度が高いということで没収された以外は、問題はなかった。科学的に分析調査し、持ち込み禁止商品であると告げられた。日本食品店では入手できるのに、どうして没収されるのかと尋ねたが、法律で禁止されているからということで撤回してもらえなかった。結構な重さなので、今後は気をつけなければならない。  インタ−ネットで探し予約をしていたレンタカ−会社へブリスベン国際空港内から電話し、迎えに来てもらい、手続を済ませ、いつもの有料橋(2年前は2ドル20セントだったが、この時は2ドルに下がっていた。)を通って、日曜日の早朝でもあり、割合走りやすい状況であったゴ−ルドコ−スト・ハイウエイを南下し、9時頃に荷物を預けてある友人宅に到着した。しばし歓談した後、荷物を引き取り、お願いしておいた滞在先へ向かった。その家は大阪の方の持ち家なのであるが、格安で4週間借りられるとのことで、どんな所か胸をドキドキしながら行くと、それはもう「素晴らしい」の一言であった。これまでに短期滞在した所では最高のレベルに達する滞在先と言えた。急速に発展を遂げるロビ−ナ(Robina)という住宅街のウオ−タ−・フロントに位置し、4つのベッドル−ム、3つのトイレ、2つのバスタブ(一つはジャクジ−・バス)、リビング・ル−ム、スタデイ・ル−ム、ファミリ−・ル−ム、キッチン、3台分の車が収納可能なガレ−ジ、プ−ルという環境で、3人で滞在するには勿体ないくらいであった。今は値が下がったそうであるが、購入当時は5,000万円以上はしたものと推定される。こんな家に住めたら最高だなあと家族一同思った次第である。

 荷物を置いた後、友人ファミリ−と一緒にお昼を食べに行った。飲茶がよいということで、ブロ−ド・ビ−チ・モ−ル(Broad Beach Mall)の中にある中華料理店へ行った。何度か2年前に行ったレストランと同じなのであるが、場所が変わっていた。午後1時半ぐらいになっていたが、日曜日ということもあり、中は家族連れなどのお客で一杯で少し待たなければならなかった。一つずつ確かめながら、美味しそうなものを2つ3つ取りながら、友人ファミリ−と歓談しながら楽しんだ。結局、友人ファミリ−にご馳走になってしまったが、飲茶を食べるなら機会を見つけ行きたいと思うレストランであった。食事の後は、子供たちが隣接するオアシス・ショッピング・センタ−との間にある遊具などで遊んでいる間に必要な食料品を購入した。その後、一度滞在先の家に戻り、夕方また同じ友人宅でのバ−ベキュ−・パ−テイに行った。別の友人親子も参加し、ワイワイガヤガヤと子供たちははしゃぎ、大人たちも久し振りの再会でアルコ−ル類を飲み食事をしながら歓談をした。

 2日目は遅めの朝食の後、荷物を整理して過ごした。午後から他の友人たちへのお土産を届けながら、ボンド大学でお世話になる人文社会科学部の学部長室や友人教授、秘書たちなどに挨拶に行った。また、口座を維持しているウエストパック銀行 ボンド大学支店へも行き、入金したり、期限切れになっていたキャッシュカ−ドの再発行をしてもらったりした。在外で来ていた当時に働いていた銀行員は一人もいなく、寂しい感じもしたが、皆人懐っこい女性ばかりであった。その中にInoという名札を付けた女性がいたので、「日本人の名前にも同じ姓があるよ」というと、「dogでしょう」と言う。「いいえ、それはInuで、Inoは普通こういうふうに書くよ」と、漢字、平仮名、カタカナ、ロ−マ字で近くにあった白い紙に書いてやったら、大喜びであった。彼女は南太平洋のサモアの出身という。ちょっとした異文化交流をした一時であった。

 3日目は妻と息子は妻の友人たちとのランチに出かけたので、筆者は一人で近くのショッピングセンタ−にあるマクドナルドで昼食を取った後、ボンド大学へ行って仕事をした。晴天で机に座って仕事をするより、ゴルフなどアウトドア・スポ−ツでもした方がよい一日であったが、書くべき原稿などもあり、そうもいかなかった。

 4日目は、あいにくの雨模様の天気で、どこに行くのにも大変であったが、筆者はボンド大学で仕事をし、妻と息子は近くのショッピングセンタ−で買い物を兼ねながら、時間を過ごしたようである。夕方、友人と夕食を約束していたので、待ち合わせて、美味しいという評判のトリオ・マリノス(Trio Marinos)という家族経営の小さなイタリア料理店へ行ったが、平日にも拘らず予約が必要であり、残念ながら食することはできなかった。仕方なしに、何度か行ったことのある近くのマンダリン・コ−ト(Mandarine Court)という中華料理店へ行って、日本では食べられないようなものを注文し、歓談しながら楽しい一時を過ごした。食事後、友人に借家によってもらい、お茶とデザ−トでもてなしながら、様々な話題で10時頃まで盛り上がった。

 5日目は、前日とうって変わって、日差しが眩しいくらいの温かな晴天であった。昼食を取りに家に戻り、昼食後の一時をのんびりした。息子は プ−ルに入りたいというので、水面に浮かぶゴミをすくい取ってやった。晴れているとはいえ、水温は決して高くなく、しばし浅い所に入っては「冷たい!」といってはすぐに出たり、また入ったりと楽しんでいた。水道ホ−スを使った水遊びでしばし過ごした後、温かめの水を張ったジャクジ−に移って、引き続き遊んでいた。筆者は、 レンタカ−にガソリンを入れた後、ボンド大学へ戻って仕事をした。

 6日目はゴ−ルドコ−ストから南西へ車で片道6時間(約500km)のテ−ブルランド(tableland)と呼ばれる海抜約1,000mの高地にあるニュ−・サウス・ウエ−ルズ州の内陸部都市の一つア−ミデエイル(Armidale)へ出かけた。ア−ミデイルは大学町として有名だが、もとはシドニ−大学の農学部が転じ、遠隔教育の特徴を持つニュ−イングランド大学(University of New England)での講演がその主目的であった。前日に行き、翌日戻るという案もあったが、現地滞在時間が4時間半という強行軍の日程で往復した。そのため早朝5時に起き、6時出発であった。ゴ−ルドコ−スト付近は快晴の良い天気であったが、高地へ上り始める辺りから、雲行きが怪しくなり、雨が降りだした。次第に強くなったり、弱くなったりと運転しにくい状況だったが、12時頃には到着したかったので、多少無理をして走った。その結果、なんとか予定地へ到着。セキュリテイ・オフィスから電話をして、知人に迎えにきてもらい、講演会場となるセミナ−・ル−ムへ向かった。持参したラップトップ・コンピュ−タとLCDパネルとの接続に不安があったので、お昼も食べずに講演準備に取りかかった。予想していた通り、接続がうまくいかず、講演開始まで様々な試みをしてみたが、代用ラップトップ・コンピュ−タでもソフトウエア不足の問題からプレゼンテ−ション用に用意したファイルが一部読み込めず、ハンドアウトと動くものだけを使って講演をせざるを得なかった。なんとかプレゼンテ−ションを終了し、関係者と町の中心街へ出て、昼食を共にしながら歓談した。その後、燃料を補給し、凸凹のあるニュ−・イングランド・ハイウエイを北上し、雨の中、往路とは別ル−トでゴ−ルドコ−ストへ向かった。さすがに夜、しかも雨の中走っている車は少なく、割合スム−スに走れたが、日帰りの長距離ドライブで疲れ気味の運転であった。結局、全行程約1,000kmを一人で運転し、夜10時半頃滞在先の家に戻り、シャワ−を浴びた後、ベッドに潜り込んだ。

 7日目はやや遅めの朝食後、1億円相当の家具付き家と土地などが当たるボ−イズタウン(BoysTown)の家を見に行き、その宝くじ券を購入したり、近くのQ Super Centreというショッピングセンタ−へ行ったりした。ボ−イズタウン宝くじでは日本人が3組これまでに当たっているので期待しているのだが、取らぬタヌキの皮算用となるばかり。午後は、昼食をとり、子どもが遊べる設備を持つベノワ・タバ−ンへ行き、知人家族数人と食事をしながら歓談した。彼らの子供たちは食べることはそこそこに遊具のある設備へ行って盛り上がったようである。息子にとっても2年ぶりに会う子もいて、追いかけ回したりして楽しんでいた。息子の友達兄弟が借家に泊まりに来たので、その夜は興奮状態が続き、夕食後もなかなか寝つかれないようであった。

第二週(8月9日〜15日)


 8日目の日曜日は子供たちを連れて、車で15分くらい走った所にあるフレイヤ−野生公園(Fleayer Wild Life Park)へ行き、数時間楽しんだ。オ−ストラリアならではの動物や鳥類がおり、見つけるや否や大騒ぎであった。唯一残念だったのは、息子が楽しみにしていたカモノハシ(duckbill platypus)との再会ができなかったことであった。突然のハプニングもあった。それは鳥を放し飼いにしてる金網で囲まれた場所で、入るや否や2羽の鳥が舞い降りてきたので、写真を撮ろうとするとしたら、筆者のかぶっていた帽子(カンサス大学のマ−クの入った青色と赤色のキャップ)の上に止まったのである。どうも帽子のデザインに関係があったらしい。青色の中の赤色の点模様が実に見えたのだろうか。つっついたようであり、少しぐらい頭を動かしても動かなかった。妻にカメラを渡し撮ってもらった。なんとも人懐っこい鳥ではないか。

 それからお昼を食べに新しくできたロビ−ナ・タウン・センタ−(Robina Town Centre)へ行き、しばらく昼食とウインドウ・ショッピングを楽しんだ後、その中のス−パ−マ−ケットで食料品を買い込んで帰宅し、夕方は子供たちを迎えに来た友人家族と夕食会をした。

 9日目は様々なビジネスを展開している別の友人から誘いを受け、久し振りのゴルフをした。お世話になっているボンド大学の近くにあるロビ−ナ・ウッズ・ゴルフ・クラブ(Robina Woods Golf Club)でのゴルフであったが、結構難しいコ−スだったこともあり、8ケ月ぶりのゴルフであったので、スコアはひどかった。でも月曜日の午前中ということもあり、プレイヤ−の数もそれほど多くなく、快適な天候と環境のもとでスム−スにプレイできたし、友人との会話をしながら十分に楽しめた。日本では近くにあっても高くてめったにできないが、こちらは市民スポ−ツの一つなので簡単にできるがよい。午後はボンド大学に戻って仕事をした。

 10日目の午前中は11時前に仕事を切り上げ、妻がエアロビック・スイミングを友達の一人と参加している間、バミュ−ダ通り沿いでプラザ・サウスポ−ト(Plaza Southport)という所にある「嵯峨野」という日本食レストランで息子と昼食を取りなgら待っていた。11ドル50セントの嵯峨野スペシャル・ランチだと5種類の組み合わせによるセットメニュ−の中から選べ、デザ−トのお汁粉とアイスコ−ヒ−付きというお得な内容であったので、カツ丼とてんぷらうどんの組み合わせのものを注文し、息子と分け合って食べた。その後、筆者をボンド大学へ送った後、翌日が地元の学校が休みということで昼食パ−テイを計画していたので、妻と息子は飲食料品の買い物に出かけ、滞在先に戻った。夕方からは翌日の公立学校が休日ということで、息子の友達に泊まりに来てもらい、夕食を食べた後、息子は仲良くゲ−ムをしたりして、遊んだ。持参したコンピュ−タの中に入れておいたゲ−ムの一つ「射的」を二人で競って楽しんだり、ピカチュウ・ボ−ド・ゲ−ムなどで仲良く夕方まで楽しんだ。

 11日目は妻と息子はどこへも出かけず、滞在先の家でのんびりと一日を過ごした。一方、筆者は再びゴルフに誘われ、ロビ−ナ・ウッズ・ゴルフ・クラブでプレイしたが、今回はカ−トを利用せず、バギ−にゴルフバッグを乗せて歩くスタイルであった。前の数組のプレイ速度が遅かったので、時折待たされることがあったが、無風で暖かい晴天に恵まれ、スコアもまあまあで、快適なゴルフができた。前の組はシドニ−からやってきた典型的なオ−ジ−・ビジネスマンたちで、時折会話をしたり、一緒に写真を撮ったりした。かなり歩いたので疲れたが、久し振りの運動をしたという気持ちにさせられた。終了後、近くのロビ−ナ・ショッピング・センタ−内にある「海項」という小さな中華料理店で遅めの昼食を友人ゴルファ−一人と取った。潅水麺でできた麺料理2品とギョウザ一皿を注文し、シェアしながら楽しんだ。その後、ボンド大学へ行って仕事をしたが、ネットワ−クの状態がよくなく、中途半端な仕事しかできなかったので、早めに帰宅した。

 12日目は、あまりに天気が良かったので、仕事をせずに家族で午前中アプトン通りにあるスポ−ツ用品店のエ−マ−ト(Amart)で妻用の格安ゴルフセット(折り畳み式のバギ−とバッグ付きのフルセットで299ドル!)を購入した後、カララにある12ホ−ルのショ−ト・コ−スで家族全員でプレイした。一人10ドルで結構楽しめるコ−スであるので、再度来たいと思った次第である。1ドルでバギ−も借りられるし、それなりの運動にもなるので、数時間楽しむのには最適である。息子にとっては初めてのゴルフ・コ−スでのプレイで大喜びであった。

 ゴルフの後は、遅めの昼食を食べに、妻が友人と一度行ったことのあるブロ−ド・ビ−チのオアシス・ショッピング・センタ−近くで、新しくできたフェニシアン(Phoenician)という建物に各種のお店がでいきているが、その中で一際込み合っているイタリア料理店&カフェのコスモポリタン(Cosmopolitan)に行った。ここは基本的な一品料理が5ドルなので、無料の水を飲みながら昼食を食べるビジネスマンに受けているレストランである。パスタ、ピザ、サラダを何種類か取り、3人でシェアして食べたが、いずれも美味しくて、また訪れたいと思わせる店の一つとなった。ここでの筆者の失敗は、水を注文する時に「Mineral water, please.」と言ってしまったことである。これは通常ソ−ダ水みたいなもので、日本で言う天然水とは違うのである。「A glass of water for us, please.」でいいのである。ちなみに2人分注文したので、余分に5ドルかかってしまったが、3人で食べて支払った料金は32ドルであったので、一人千円でイタリア料理を味わえた安い昼食とも言えよう。その後、一息つくため、すぐ近くにプロの日本人ケ−キ職人が作っている本格派カフェ&スウイ−ト・ショップの「レ・ザンジュ(Les Anges)」へ行き、ホワイト・コ−ヒ−を味わった。昼食・休憩後は、不足分の食料品をオアシス・ショッピング・センタ−内にあるウ−ルワ−スで購入し、途中のロ−ンスタ−・タバ−ン(LoneStar Tabern)で割引され販売されているペンホルド(Penfold)の赤ワインを数本購入してから帰宅した。帰宅後、2時間ほどボンド大学へ出かけ、メ−ルをチェックしたりした。

 13日目の午前中は、晴れときどき曇りの天候であったが、2周年記念のイベントや冬の安売りをしているロビ−ナ・タウン・センタ−へ出かけた。あまり洋服を持参しなかったので、カンタベリ−専門店で筆者用と息子用のジャ−ジ−・シャツを購入したり、他の店でズボンを2着購入したりして、買い物やモ−ニング・テイ−を楽しんだりした後、最高1,000ドル分のバウチャ−(買物券)などが何百個かの風船の中に入っている風船争奪イベントが正午ちょうどにあり、少し待って参加した。風船を数個取れたが、残念ながら中身は空ばかりであった。まあ、雰囲気を楽しめただけでも幸いであった。その後は夜のホ−ムパ−テイ−用の食料品などをス−パ−で買い帰宅した。

 夜のホ−ムパ−テイ−は4年前当地で知りあった友人家族とのもので、ビ−ルやワインを飲みながら、こちらならではの材料を生かした妻の手料理を食べながら、和気あいあいと楽しい一時を過ごした。日本ではほとんど会えないのに、当地に来て会えるという友人も結構いるが、彼らも同様である。ゴルフをお互いにするということで、2日後に、初めてのコ−スではあるが、プレイしようということとなった。

 14日目はあいにくの雨模様の天気となり、外出するのが億劫になるのであるが、クイ−ンズランド大学で教える友人家族との昼食に招待されていたので、途中ツリ−トップス・ショッピングセンタ−南にあるゴルフショップに寄りながら、ブリスベ−ンへ向かった。ゴルフショップではこちらで使用しているパタ−が今一つしっくりこないものだったし、妻用に購入したセットにはパタ−がなかったので、2人でゴルフをする時に困ると思い、1本を購入するつもりでいたのである。ところが、息子が「僕も欲しいなあ」などと言うものであるから、甘い親としては一緒にコ−スを回るようになれば、面倒が少なくなるなどと考え、そこで見つけたジュニア用のハ−フセット(オ−ストラリアを代表する有名なプロ・ゴルファ−であるグレッグ・ノ−マン(Greg Norman)がデザインしたコブラというスタイルのもの)が割合安かったので、ゴルフシュ−ズやボ−ルも含めて購入してしまった。もちろん、息子の喜びようは言うまでもない。

 ブリスベンへの道のりは簡単でパシフィック・ハイウエイを約1時間ほど北上すれば良いだけであるが、友人宅へは初めてのドライブであり、地図を見ながら現地近くへ行っても、一方通行などでうまく見つからず、しばし途中の小さなショッピング・センタ−でトイレ休憩をしながら、なんとか予定時刻5分ほど前に到着できた。丘陵地帯にある家は、風通しなどを工夫してあり、住みやすそうな環境にあった。友人とは7月中旬のメルボルン大学での学会で会ってはいたが、十分に話をすることもできず別れていたし、家族とは4年ぶりの再会であった。お互いの子供の成長ぶりに驚きながら、友人の奥さんのオ−ジ−らしい手料理と食後のデザ−トとお茶を楽しみながら、様々な話に盛り上がって楽しい数時間を過ごした。我々の帰国前にブリスベンに一泊するので、夕食を一緒にしようという約束をして、雨の中を一路ゴ−ルドコ−ストへ戻った。

第三週目(8月16日〜22日)


 滞豪生活が3週目に入った15日目は、前々日約束していた友人家族とのゴルフをしに、ク−ランガッタからそれほど遠くないニュ−・サウス・ウエ−ルズ州側のテラノラ(Teranora)という山の手にあるテラノラ・ゴルフ・クラブへ出かけた。滞在していた家からは車でパシフィック・ハイウエイを南下し、ツイ−ドヘッズ西側へ入り、ケネデイ道路からシ−ニック・ドライブ(Scenic Drive)を上がった約40分くらい走った所であった。山の上の方に位置しているということで、風が強めで最初寒く感じたが、天候にも恵まれ、暖かくなり、プレイするにはさほどの支障はなかった。しかし、丘陵地帯の自然な環境をそのまま活かしたコ−ス設計となっており、難しい個所も幾つかあり、スコアをまとめるのには友人共々少し苦労した。また、一人当たり20ドルと安いだけあって、フェアウエイ状態や案内板の整備は他のゴルフ場と比べるとお粗末であった。また、カ−ト利用料金が一台あたり25ドルとプレイ費よりも高かった。自分のバギ−を引きながら、体力作りと技能向上を目指す若者にはぴったりのコ−スかも知れないが、筆者は「安かろ悪かろの所でのプレイは嫌だなあ」と考えてしまうので、少しぐらい高くとも別の整備された近くのコ−スで回りたいと思った次第である。18ホ−ルのフル・コ−ス・デビュ−をした息子ではあったが、後続パ−テイに迷惑をかけないように途中を抜いて、カ−トで待って、グリ−ン周りだけ楽しんだりと配慮しながらも、楽しそうにプレイしていたようである。

 ゴルフを楽しんだ後は、サ−ファ−ズ・パラダイス方面に戻り、2日前の友人との話で話題となったブロ−ド・ビ−チにある格安のイタリア料理店で遅めの昼食を取った。何種類かを取ってシェアしたりして食べたが、全員満足できる量と質であった。食事後、友人家族たちとは別れ、我々はサ−ファ−ズ・パラダイスへ向かった。中心街に近い市営駐車場へ車を置き、歩いてしばし周辺をウインドウ・ショッピングしながら、息子の希望するタイムゾ−ン(TimeZone)というゲ−ム・センタ−へ行った。幾つかのゲ−ムマシンの利用料金も少し高くなっていたり、隣接するフ−ドコ−トも少し残すのみで、ボ−リング場ができており、様変わりしていた。息子はしばし自分の財布から小遣いを出しては好きなゲ−ムマシンで楽しんだ。その後は、メインビ−チに出かけ、涼しい風が吹く中でも平気で息子は裸足になって時間を忘れて波や砂浜と戯れていた。日本では砂浜と言えども多数の訪問者たちでゴミが残っていたり、異物があったりと、がっかりさせられる場所も多いが、ここはさすがにゴミ一つ落ちていない奇麗な砂浜が続いており、さすがに環境と観光を大事にしている国ならではと改めて感心させられた。

 16日目は妻がお昼の時間帯にエアロスイミングとその後のランチに出かけるため、息子の面倒を見る必要があり、午前中はゴルフ・クラブの手入れや息子とのコンピュ−タ・ゲ−ムで過ごした。昼食後も息子と遊び、妻が戻ってからボンド大学へ出かけ、メ−ルのチェックなどした。

 17日目は一日中ボンド大学で仕事をして過ごした。一方、息子はブロ−ドビ−チ付近のビ−チで3時間ほど遊び、妻は本を読みながら見守った。それにしても息子の疲れを知らぬ体力には驚かさせれたと妻は言う。止めどもなく打ち寄せる波を飛び越えたり、砂遊びをしたり、ほとんど休まず遊び続けていたというのである。その後、二人はオアシス・ショッピング・センタ−で昼食をとり、買い物などをして帰宅した。

 18日目は午前中の2時間ほどボンド大学で仕事をして戻り、息子と筆者はサ−ファ−ズ・パラダイス付近のビ−チで数時間過ごし、妻はエアロスイミングとその後のランチに出かけた後、ラマダ・ホテルのロビ−で待ち合わせ、付近の2度目の散策をした。お客のいないある日本人観光客向けお土産屋さんに何気なく立ち寄ると、そこで働く若者が話しかけてきて、「定価より安くできるから何か買って下さい」という。1994年以来、何度なく訪れているので、特にお土産などそれほど必要ないのであるが、市価より安くなっているチョコレ−トを幾つか購入した。アジア経済危機の影響を受けており、ビジネスが良くないとは聞いていたし、サ−ファ−ズ・パラダイスに限らず、あちらこちらで店を閉めていたり、全く別の店になっていたりしていることから、大変な状況であるとは察知していた。どこのお土産屋さんも特に韓国人やインドネシア人の観光客がほとんど消えうせて、少なくなったとは言え、70〜80%を占める日本人観光客に頼る部分も大きいようだ。数年前の状況とは雲泥の差である。一方、オイル・リッチのアラブ(イスラム)諸国からの観光客が目立っていた。

 この日のお昼は息子とANAホテルの中にある居酒屋&レストランの「海」で寿司ランチを食べた。基本的な寿司が一貫1ドルで食べられるというハッピィ・アワ−に出かけたので、息子は大好きなマグロと卵寿司で大満足であったし、筆者も12ドルの特別セットメニュ−を注文し、久し振りの寿司を堪能した。もちろん、値段から察することができるように、質的には日本のものとは比べようもないが、ある程度は満足できる範囲のものであった。日本食レストランも増えて、競争が激しいようであるので、こういったお得なランチはあちらこちらで結構ある一方、ホテル・インタ−ナショナルにある「山玄」ようにランチを止めてしまったレストランもある。

 19日目はあいにくの雨模様の天気となった。筆者はボンド大学でネットワ−クを利用した仕事をして過ごし、妻と息子は滞在先でリラックスした一日を過ごした。夕方は息子が仲良し友達の家にお泊りというので、その友人家族と一緒に前日のランチ場所と同じになったが「海」へ食事に出かけ、当地が冬ならではの「すき焼き」と「寿司」を食べながら歓談した。

 20日目は一日中雨が降ったり止んだりの不順な空模様であった。午前中は何とか曇り空の状態であったし、息子もいないので妻と二人でカララのショ−ト・コ−スでも回ろうかということなり出かけたが、前日の雨で午後からしかコ−スは回れないということで、ドライビング・レンジで1時間ほど練習した。30分までは一人あたり6ドル50セントで、その後は5分ごとに60セントという料金体制であった。コ−スを回る料金を考えると、少し割高である。その後、近くに新しくできたジャック・ニコラス設計のレイクランズ・ゴルフ・クラブ(Lakelands Golf Club)のクラブハウスに立ち寄ったり、友人のコンピュ−タ環境設定の手伝いをしてやったりしてから、息子がいる友人宅に行った。午後1時頃になってしまっていたので、子供たちは ピザをパクついていた。我々もいただき、しばし歓談した後、子供たちを別のオ−ジ−宅へ連れていって遊ばせる約束をしていたので、連れていった。その後は、友人夫妻と我々でサ−ファ−ズ・パラダイス・テンピン・ボ−リング・センタ−(Surfers Paradise Tenpin Bowling Centre)ヘ行って、各2ゲ−ム楽しんだ。日本のボ−リング場に比較すると、設備など劣るし、プレイ代金も貸し靴代金2ドル、1ゲ−ム6ドルはやや高めである。しかし、土曜日の午後ということで、ファミリ−で楽しんでいるケ−スも結構あり、賑わっていた。

第四週目(8月23日〜29日)


 いよいよ今回の滞在も最終週に入った。21日目は絶好の晴天となり、かねて約束していた友人と魚釣りにスピッツ(The Spits)にある釣り桟橋へ出かけた。途中にあるシ−ワ−ルド近くのマリ−ナミラ−ジュ・ショッピングセンタ−が消え去っていたのには驚かされた。奇麗に整地された場所には、2000年シドニ−・オリンピックを考えてか、ホテルと賃貸コンドミニアムができるそうである。スピッツは2年前にも行った所であるが、その時は何も釣れずじまいだったので、今回は沢山釣りたいと意気込んで行った。しかし、今回も約4時間ほど粘ってみたが、アジ1匹、ダ−ツ1匹という結果となった。もう少しアジが釣れるかなと思ったが、予想に反して周りも釣れていなかった。餌や仕掛けを変えたりしたが、無駄だった。また次回に期待することにして、妻達と待ち合わせていたサ−ファ−ズ・パラダイスのラマダ・ホテルの反対側2階にある中華料理店ゴ−ルデン・フォ−チュン(Golden Fortune Chinese Restaurant)へ「飲茶」ランチを食べに行った。2年前にも食べに行ったが、前回とは違って飲茶の種類が少なくなっていたようである。それでも好きなものを取り食べながら歓談して楽しんだ。昼食後も近くのカフェ「チャ−リ−ズ(Charlie's)」に移り、しばし歓談した後に別れた。我々は息子にタイムゾ−ンでゲ−ムをしばし楽しませ、帰宅した。途中から雷雨となったが、土砂降りにならない前に帰宅でき、干してあった洗濯物もそれほど濡れずに済んだのは幸いであった。

 22日目は、やや風が強かったが晴天であった。基本的には筆者はボンド大学へ研究に出かけ、図書館へ出かけ、調べものをしたり、ネットワ−ク上で調べたりして、一日中過ごした。セメスタ−・ブレイクの時期でもあり、利用していた共同研究室や個人研究室のあるフロアは静かであった。家族はお土産品や最後の食料品を購入しに近くのス−パ−に出かけたりして過ごしたようだ。但し、お昼に帰宅し、昼食を取った後、バ−レイヘッズにあるエ−マ−ト・スポ−ツ・ショップやゴルフ・ワ−ルドなどへ全員で行き、息子のゴルフ・バッグ用カバ−などを探したが、適当なものが見つからなかった。しかし、息子はオ−ストラリアらしいコアラのドライバ−・カバ−を購入してもらい上機嫌であった。

 23日目も引き続き好天の一日であった。筆者は残り少なくなってきたボンド大学での研究生活を楽しみながら論文作成などで過ごした。夕方はオ−ジ−の友人夫妻を招待しての夕食会をした。特別な料理というわけではないが、用意できる料理と飲み物で接待し、2年ぶりの再会だったため様々な話題で盛り上がった。残念ながら妻と息子は英語での会話についていけず、最小限の会話で応対するのみであったので、苦痛ではなかったと感じたが、相手が日本語を話さない以上、致し方ない。

 24日目は予想に反しての晴天であったが、息子がやや風邪気味だったため、大事を取って滞在先から外出せず、のんびりしていたようだ。しかし、妻は、夕方預けていく荷物の取りまとめなどで忙しく過ごしたようである。前日同様に筆者はボンド大学での論文作成に専念した。夕食は別の友人家族とプラザ・サウスポ−ト(Plaza Southport)にあるブラッサリ−・ヒロズ・キッチン(Brasserie Hiro's Kitchen)へ行き、ワイン・豪酒を味わいながらシェフお任せ料理を食べ、楽しい一時を過ごした。

 25日目は、若い友人夫妻とゴルフをする予定でいたが、前夜から激しい雨模様の天気となっていたので、プレイできる状況ではないと判断し、早朝連絡を取り合ってキャンセルし、昼食を一緒にすることにした。昼食した場所は、前夜楽しんだブラッサリ−・ヒロズ・キッチンの同棟にあり、お得なランチ・セットがある「嵯峨野」であった。2時間ほど歓談しながら楽しんだ後、来夏の再会を誓って別れ、パシフィック・フェアに行った。最後のショッピングというわけではなかったが、雨模様の天気であったので、時間を潰す意味もあった。そこでの楽しみの一つがカフェ・ラッフルズ(Cafe Raffles)でのスコ−ンとカプチ−ノである。

 夕食は別の友人家族とサ−ファ−ズ・パラダイスのバス・センタ−反対側でRSL (Retired Soldiers' League)ビルの一角にある韓国料理レストラン「吉木(Gil Mok)」へ行った。牛タン、骨付きカルビなどを大好きなキムチと共に堪能した。友人家族の知人が偶然にやってきて、真っ赤な唐辛子色のチャンポン麺を食べていたのを見た友人が、「美味しそうなので、食べてみようか」というので、1つだけ注文し、分け合って食べたが、麺がうどんと中華麺の合の子みたいな味覚で、具と合わせ大変美味しかったが、さすがにス−プは辛く、全部を飲みきれなかった。食事後、息子がその友人宅の同年齢の子と仲良しのため、最後のお泊りをすることになり、友人宅へ赴き、夜遅くまで歓談した。

 26日目は、ゴ−ルドコ−スト最後の日であり、朝から最後の洗濯、掃除、荷物のまとめなどをして過ごし、お昼過ぎ友人宅にお泊りをした息子を迎えに行くついでに、そこに預けていく荷物を置いて、しばしの別れを惜しみながら歓談した。午後3時半過ぎに長くも短かったゴ−ルドコ−スト生活に別れを告げ、一夜を過ごすブリスベンへ向かった。ブリスベン方面へ向かうパシフィック・ハイウエイは順調に車が流れていたが、反対方向では事故があったらしく、数キロの渋滞となっていた。ブリスベン空港近くに予約しておいたハミルトン・インに到着し、最低限の荷物を下ろし、しばし休憩した。そしてブリスベンのクイ−ンズランド大学で教える友人家族と一緒に夕食を取る約束をしていたパデイントン(Paddignton)のラトル−ブ通りにあるイタリア料理店のイウリオ(Giulio)へ向かった。テ−ブルが7つほどの小さな店であったが、金曜日の夕方ということもあってか、満席状態であった。注文したオントレ−やパスタ料理はどれも美味で、日豪文化差の話題に花を咲かせながら歓談し、来夏の再会を誓って別れた。

今回の滞在で感じたこと:


 2年ぶりのゴ−ルドコ−ストでの滞在は、ブリスベ−ン空港からゴ−ルドコ−スト・ハイウエイへ入ると、道路拡張工事が進行中で、相互通行2車線が多かった所が片側2車線になりつつあったり、ゴ−ルドコ−スト市内での道路拡張工事などの公共投資や新しいホテルやビジネス・ビルの建設の状況を見て、「シドニ−・オリンピックに向けて経済状態がいいのかな」という好印象を得た。しかし、実際はアジア経済危機の影響を受け、アジアからの観光客も激変し、好調だった観光業や建設ラッシュだった不動産関連事業も陰りを見せ、ドル安も進行し、各ショッピング・センタ−やビジネス街での倒産や撤退も少なからずあり、「あれっ、あそこにあった店がないな、変わってしまったなあ」といった印象を受け、ビジネスは決して順調とは言えない状態であることが伺われた。米国の南部に近い下位文化を持つと言われるクイ−ンズランド州を中心に急速に伸びた政党ワン・ネ−ション(One Nation)は、その代表者であるポ−リン・ハンセン(Pauline Hansen)が過激な(?)発言で、多民族・多文化主義で進展をしてきたオ−ストラリアに大きな波紋を投げかけている。メデイアも連日のように、追いかけ注目している。幸いにも、筆者が滞在していた後半には支持率を下げてきてはいたし、今回会ったオ−ジ−の友人達は皆「それほど心配する必要ないよ。指示しているのは高齢の老人たちが中心で、50年以上前に終焉した白豪主義の良き時代を夢見ているだけだからね。」と言っていたが、今後どのような影響を与えていくか分からない。彼らの言葉を信じるしかないけれど。
 来夏に再渡豪する時には、全ての点で現在の状況よりもより良い状態になっていることを祈りながら、大好きなオ−ストラリアを去った。運動不足や会食数の多さから多少体重を増やしたことを反省している。
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