福岡教育大学講演資料
1998年1月29日(木)

国際人・異文化人間の条件とは

野 澤 和 典
豊橋技術科学大学

1. はじめに
 通信技術の発達や航空網の整備で、地球はますます狭くなりつつある。もはや国内に閉じ込もっている時代は終り、世界は国境を超えた「地球村」となり、ボ−ダ−レス社会の時代になりつつある。周りでも、急激に様々な「国際化」が進む一方、いろいろな形態で外国生活や外国旅行をする日本人が大幅に増加(1997年には約1680万人)し、否応なしに異文化との接点は「点から線へ」「線から面へ」と拡大してきている。しかし、このうち何%の人たちが「異文化人間(Intercultural Person)」となっているのであろうか。ダグラス・ラミス(1991)は、自分自身は濡れないでガラスごしに海の中を疑似体験する旅を「潜水艦の旅行」と表現しているが、現地語を使わず、日本語で済ませ、日本人と付き合い、日本食を食べ、さらに日本語放送を聞いたり、見たりして異文化体験をする人たちも結構いるのである。こういった文化的傲慢さは、文化的・政治的・経済的要因から生じるものであるが、自文化再理解をしながらの異文化体験なしでは真の「異文化人間」になることはできない。いつの間にか「国際人」となってしまっている日本人が真の「異文化人間」となる条件を考えてみる。

2. 「自文化の中の異文化」とは
 "一つの国・地域" = "一つの文化"ではないのである。世界のほとんどが複数の民族や文化から成り立つ国・地域ばかりで、均質な国家などないに等しいのである。異文化と接せずに生活することは難しいと言える。  まだ海外に行っていないから異文化体験をしていないとも言えない。均質性が高いと言われる日本でもさまざまな異文化体験ができる。在日の、あるいは一時滞在中の外国人たちとの交流があるからである。また、自国内の異文化と言える階級、性、地域、年齢(世代)、職業などによってつくられるもの、即ち、「サブカルチャ−/下位文化(Subculture)」もある種の異文化世界である。例えば、北海道・東北、関東、中部、関西、中国・四国、九州、沖縄での地域差による違いにはどんなものがあるであろう。

3.「異文化へのステレオタイプ化」
 異文化との出会いによる衝撃は、自分の中にあるステレオタイプを映し出し、自文化を相対比させる。どんなステレオタイプを自身の中にもっているのであろうか。

<ステレオタイプに関する質問表に答えてみよう>

4.「文化」とは何か
 文化の定義は、英語の文献から集めても150以上ある複雑な言葉である。社会学では、「知識、信念、芸術、道徳、法、慣習、その他およそ人間が社会の構成員として獲得した能力や習慣を含む複合的全体」というタイラ−の古典的定義を基本としている。ある社会集団が「いかに生きるか」を表す人工の環境全体であり、世代から世代へと伝達される集団生活の物質的・非物質的なものを含むことになる。それ故、文化には見えるものと見えないものがあり、特に見えない文化は大変重要な役割を演じている。エドワ−ド・T・ホ−ル(1993)は、この隠れた文化を理解しないと、人はそれに操られたままであると言う。それへの気づきは、異文化理解が不可欠なのである。

 異文化理解に不可欠な点は、大きく3つある。第一に文化は生得的なものではなく、環境の学習によって獲得するものであること(= 社会化)。第二に文化は生き物のように絶えず変化しているものであり、決して静的、固定的には捉えられない。第三に、文化と文化が接触する時、力関係が伴う。

5. 「アイデンテイテイ」
 さまざまな状況でIDカ−ド(Indetification Card)を求められることがあるが、自分が何者であるかを社会的に証明するものである。しかし、それは性別、氏名、誕生日、所属などの表面的なものでしかなく、自分が何者でか全てを語るIDカ−ドは、自分自身の中にしか存在しないのである。しかも、常に同じものではなく、修正されながら変化していく。自分の中にあるIDカ−ドがアイデンテイテイである。自分が自分自身をどのように見ているかという自己アイデンテイテイと自分の所属する集団との係りによってもたらされる社会的アイデンテイテイがある。この2つの相互作用によって変化していくが、異文化との接触が影響を及ぼす。

<アイデンテイテイの質問表に答えてみよう>

6. 「さまざまな異文化接触と出会いがもたらす態度」  私たちは、無意識的・意識的な異文化接触によって、何らかの影響を受けて変容を余儀なくされる。「個人や集団が、直接的接触や相互作用を通じて、他の個人や集団の文化的特性を習得する過程」を文化的変容/文化接触変容(Acculturation)という。黒木(1996)は、異文化と出会い、相互作用によって変わっていく個人の過程を自文化変容プロセスと呼んでいるが、変容プロセスの中で自文化の何がどのように変化するか、あるいは変わらないで維持されるかは、異文化との出会いの契機、期間、そして接触するホスト社会での位置などが大きく影響を及ぼすものとも言う。

 異文化と出会ったときに、私たちは何らかの感情を相手に持つ。好感を持ったり、嫌悪感を持ったりするが、金沢(1992)は、異文化に出会った時に生じる異文化および自文化に対する感情を次のような4つのタイプに分けている。

 また、異文化と自文化への態度の変容については、黒木(1996)が変容プロセスの可能性を以下のように示している。但し、異文化接触の契機、期間、異文化への没入度、接触時の年齢など、人によって変容プロセスは異なる。

 「文化相対主義」は、近代西洋思想を支配してきた進歩論への挑戦として現れた。進歩論とは、人類が「野蛮」「未開」の状態を経て、近代西洋文明に「進歩」するという考え方である。その頂点にいるのが欧米の白人であり、その他の有色人種は、この進歩の階段から「取り残された人々」であると考えられてきた。しかし、そういった進歩的文明論への批判として、文化相対主義は、ある文化を理解するには他の文化の基準を当てはめられないという原理を強調するものである。

 文化を相対化することは、多文化意識に至る重要な条件であるが、それが最終目的ではない。なぜなら、文化相対化は2つの可能性をはらんでいるからである。一つは、「何でもあり」を認める態度や「他者を絶対理解できない」といったニヒリズムである。どちらも異文化との接点を見いだせない周辺的態度であり、ここに文化相対主義のジレンマが存在する。

 文化相対化のもう一つの可能性は、多文化意識である。文化の複数性を認め、「違い」を知るだけでなく、「違い」から学ぶ(変容する)ことによってできる。Sue(1981)のマイノリテイ・アイデンテイテイ・モデルによれば、5段階に分かれる。

 2つの文化での経験に基づいて、文化的価値が取捨選択できるようになる第五段階が、多文化意識のある状態であり、バイカルチャリズム(Biculturalism)と相通じるところがあると言えよう。

5. 「国際化」とは?「国際人」の条件とは?
  「地球村化」「国際化」が急速に進んでいる今日では、いつの間にか「国際人」になってしまうという現象が生じている。都市部であるなら自分の家の近くで外国人に出会うとか、職場で一緒に働くとかといった状況は珍しくなくなりつつあるし、海外旅行にしても年間約1,700万人が出かけている。たぶん今の日本人の海外旅行の感覚は、国内旅行をするのと同じで、勇んで「外国へ行く」という類のものではないだろう。「安く行ける」からとか、「安くブランド物が買え、観光旅行も兼ねらえるから」とか、「単にエキゾチックで面白い」とかの単純な理由に過ぎないであろう。

 従って、国際人としての資質を持っていようといまいと、マナ−が悪かろうとたいして自分には関係ないといった感覚で行動をしてしまい、現地の人々からひんしゅくを買ってしまうということが多いようである。いつの間にか「国際人」にさせられてしまったのだから、自分では「国際人」であるといった自覚は持っていないからであるとも言えよう。

 「国際人とはどのような人を言うのですか」という質問をすると、その返答は大きく二通りに分かれる。その一つは、「外国語(英語)が上手な人」。語学力を身に付けただけで「国際人」になれるのであろうか。もう一つは、「西洋の文化、制度、建築などを取り入れている人」。髪を染め、ジ−パンを履いて、ガムを噛み、西洋音楽を聴き、輸入車を乗り回し、輸入住宅に住むといった具合の西洋の上っ面だけを真似している人が「国際人」なのであろうか。いや、決してそうではない。こういった滑稽な発想が、日本ではいわゆる「国際化」としてまかり通っており、先入観あるいは固定観念として日本人の間に定着してしまったように見える。「国際化社会」「情報化社会」へ急速に変貌してきている現在でも、すでに「国際人像」の枠組みが石化してしまっているようにも思える。もう一度、柔軟な素材で基礎を作り直す必要がある。そうしなければ日本人に21世紀への扉は大きく開かれないのである。

 また、大都市レベルばかりでなく、地方自治体のレベルでも「国際化」が進んでいる。外国の都市との姉妹都市あるいは友好都市の関係の提携をしている地方自治体は、全体の6分の1と言う。これまで外国を訪ねたり、外国人と話をしたりすることなど夢にも思わなかった人々が、「国際人」となり、「国際人」として行動することが求められている訳である。多くの市町村で国際交流課を設置し、外国語(特に英語)の堪能な職員を配置して対応している。

 もちろん、大中小の企業を問わず、「国際化」の最先端を行かねばならない企業では、「安かろう悪かろう」の時代から「安くて良いもの」の時代を経て、「現地で一緒に作ろう」の時代へ突入して、海外に生産拠点を移したり、市場を拡大してきている。ここでも海外勤務など夢にも思わなかった営業マンや技術者が家族と共に、十分な心構えや知的準備もなしに思いがけず「国際人」にならざるを得ない現象が生じてきているのである。

 自ら希望しなかったが、会社の命令で仕方なしに海外赴任をして「国際人」にならざるを得なくなった日本人が増加の一途をたどっている訳であるが、その結果、現地にとけ込まず、日本に常に姿勢を向けている人々も多い。言い換えるなら、「やっぱり日本、日本人は最高だ」とか「現地はだめだ」とかと言った自文化(自民族)優越主義が強い人々で、海外での生活や勤務に適正を欠いている(つまり、異文化適応能力を持たない)人々でさえ派遣されているのが現状である。確かに先進諸国であれ、開発途上国であれ、派遣される者とその家族には様々な問題をもたらす。年齢によっては子供への教育問題、帰国後の進学問題があり、マイホ−ムの問題、留守中の年老いた親の世話など多くの問題があることは否めない。また、特に発展途上国の現地とのギャップがあまりに大きいために、相当なカルチャ−・ショックを受けて、正常な生活や企業活動ができなくなって帰国するケ−スも増えてきているとのことである。

 ハルペン(1991)の考える「真の国際人=地球国際人」とは、(1)自分の国さえ良ければなどといった一地方的な考えを超えて、地球レベルで物事を考えること;(2)外国人と上手にコミュニケ−ションができること(コミュニケ−ションとは言語による情報伝達だけではない。心の問題のことっで、相互に理解しあえることだ。);(3)自分のアイデンテイテイ(個性)をしっかりもつこと(自分の国民性、国の文化に誇りを持ち、他の民族に合わせようとしないこと。)という三条が備わった人であるという。

7. 「異文化人間の条件」
 異文化人間とは、古田暁ら(1990)によれば、すべての民族がそれぞれ独自に固有の文化を持ち、文化レベルには上下、優劣はないとする文化相対論を理解し、実践できる人であると定義している。また、世界が異質なものから成り立っていて、異文化、異民族を自己の投影としてではなく、純粋に異なった存在として醒めた目で接近でき、自分の文化と異文化の両方から一定の距離も保ちながら、両者のよい所は積極的に受容し、自分とは異質の民族とも共存していける気質や能力を備えた人間であるとも言える。それでは、どうしたらこういった異文化人間になれるのであろうか。

 我々が住んでいる「地球村」は単一文化ではなく、多くの異文化によって構成されている。しかし、この自明の事実が、しばしば意識下に押し込まれ、実際の言動では、異文化を否定した現象を生じさせてしまう。日本は単一民族であり、単一文化であるが故に、多民族国家、多種文化よりも能率的であるというような根拠の薄い認識が、知性の優位性ということに短絡的にに結び付けられるようなことも生じる。文化的絶対主義、自文化中心(自民族優越)主義に根ざした文化の異質性の理解と受容能力を欠いた態度や言動は、まさしく日本の「国際化」に逆行するものであると言える。言い換えれば、異文化に対するセンシィビィリィティを身につけることが、異文化人間への第1歩なのである。

 日本人のコミュニケ−ション・パタ−ンの一つに、一般的に言葉を省略し、お互いに察し合うという特徴がある。言葉で表現しないのは、「表現できない」からであると外国人に思われてしまう傾向がある。この認識上のギャップ(コミュニケ−ション・ギャップ)が誤解を生み、行き詰まり感を相手に与えることになる。さらに、我々が伝達したいと意図した内容とは違った形で、相手の価値観で判断され、行動に移されてしまう可能性もある。

 このように様々な特徴を持った日本人のコミュニケ−ション・パタ−ンを考えるに当たって、例えば英語を用いて外国人とコミュニケ−ションをする場合にどの様な形で表れ、どの様な問題となるのであろうか。この点についてJ.V.ネウスプトニ−(1982)は、次のように指摘している。

 まず第一に、コミュニケ−ション上の問題が多く生じる。例えば、伝えたい内容が変更されたり、省略されることで、事実が正確に伝わらない場合が多い。第二に、日本語の会話規則がそのまま適応されるために、英会話による規則違反が行われることが多い。例えば、初対面にも拘らず、共通の友人や経験などに触れるといった接触話題は、欧米の個人主義社会では適当ではない。第三に、「ピジン化現象」(話し手が文化的に成人以前の時期に戻るという現象)が多く見られる。いわゆる内容の幼稚化であるが、これは語彙の乏しさというよりは、相手側の言語の規則や体系を使用できないことから生じる話題の簡略化に起因する。第四に、自分のパ−ソナリティを相手に伝えることができないことが多い。第五に、外国のエチケット規則に違反する者が多い。日本では問題にならない人間関係のル−ルが、欧米など人権の平等を重視する国では問題になる。例えば人の前で、自分の妻を不平等に扱うことなどを平気で言うことなどである。

 このような日本人のコミュニケ−ション上の問題を解決する方法として、英語の学習に話し言葉の語彙を強調することや文法以外のコミュニケ−ションの規則(例えば、非言語コミュニケ−ションのル−ルなど)を修得することを特に提唱している。

 ヴァ−ガス(1987)によれば、9つの非言語コミュニケ−ション・メデイアとしての「ことばならざることば(Nonverbal Language)」には、人体(コミュニケ−ション当事者の遺伝因子に関わるもろもろの身体的特徴の中で、なんらかのメッセ−ジを表すもの。例えば、性別、年齢、体格、皮膚の色など)、動作(人体の姿勢や動きで表現されるもの)、目(アイコンタクトと目つき)、周辺言語(話しことばに付随する音声上の性状と特徴)、沈黙、身体接触(相手の身体に接触すること、またはその代替行為による表現)、対人的空間(コミュニケ−ションのために人間が利用する空間)、時間(文化形態と生理学の二つの次元での時間)、色彩があるという。非言語コミュニケ−ション研究者によれば、二者間のコミュニケ−ション状況では、「ことば」によって伝わるメッセ−ジは5〜35%に過ぎなく、残りは「ことば」以外の手段で伝えられると言われている。異文化の「ことば」そのものの修得と同時に、「ことばならざることば」の修得も不可欠なのである。

8. 教師の役割
 英語科教師だけに当てはまるものではないが、教師の役割は「教える(to teach)」ではなく「生徒/学生の学習の手助けをする(to help students learn)」である。文化についても同様で、教えるもの(to teach culture)ではなく、気づかせるもの(to make students develop cultural awareness)である。学習者の異文化理解を深めさせるには知的発見学習や体験学習が不可欠なのである。簡単なものから複雑なものまで、学習者のレベルに合った教材を提供することによって、自文化と異文化との共有部分や相違部分に気づくようにさせるのが教師の主たる役割であると言えるだろう。

8. 「国際人・異文化人間」をめざすには
8.1. 身近な自己研修の方法
○世界旅行が簡単にできてしまう仮想旅行者(Virtual Tourists)になろう
 インタ−ネットで現在最も急速に発展を遂げていると言っても過言でないWWWでは膨大なデ−タベ−ス(情報源)が世界各地に散在している。その中で異文化理解に役立つ場所の一つにCity.Net by Exciteというホ−ムペ−ジがある。訪問したい場所をクリックすれば、どんどん大陸→地域→国→市へと狭まっていき、最終的なデ−タベ−スがあるサ−バ−から公開されている必要な情報が得られる。もちろん、Take me thereという機能を使って、直接どこどこの市へと指定すれば連れていってもくれる。旅行をする前の情報収集や「もっと知りたい」世界中の市町村や異文化についての情報が簡単に得られるのである。日本にいて仮想世界旅行ができる楽しいサイトでもある。

8.2. さらなる発展的研修の方法
○海外旅行を見直せ
 "井の中の蛙、異文化を知らず"とも言えてしまうが、日本人の海外旅行者は、年間1,700万人を超え、ハネム−ンも海外が当たり前の時代になった。しかし、日本人と現地の人との直接的なコミュニケ−ションは非常に少ないという。これは、特に観光地といわれる所には、常駐日本人ガイドがいたり、日本からの添乗員が案内をしてくれ、団体で彼らの後をついて回っているだけの場合が多い。これでは現地の人との直接的な接触がほとんどない。旅行(異文化体験)とは、未知の土地へ出かけ、現地の人との直接的な交流を通じて、異文化を全身で感じ取り、人間的な成長をすることなのである。記念写真を取りまくりながら、あちこちでお土産を買い込み、決められたスケジュ−ルに従って短時間で走り回るといった団体旅行でそれがどれ程の体験ができるであろうか。

○国際感覚を養え
 団体旅行やパックツア−が全く良くないというのではない。時間的な余裕がない旅行の場合は逆に能率的で便利である。問題は、そういった旅行でも積極的に現地の人との接触をすることである。人とのコミュニケ−ションは大変大切である。本や映画などでの知識だけでは、その国や地域の雰囲気を感じたり、微妙な空気を吸収できない。現地の言葉がカタコトでも、世界共通語としての英語力が不十分でも自分から話す機会を求める必要があろう。問題は語学力よりも、現地人とコミュニケ−ションをする時の心の姿勢、積極的に気持ちを伝えようとする態度の問題が大きいのである。なんらかの緊張しない工夫をしながら、間違っても良いという毅然とした態度で相手に接することである。

○一人でやってみよう
 とかく日本人は他人に頼りたいという気持ちが強いようである。家庭でも職場でも、いつも誰かが手助けしてくれるという甘い気持ちがある。しかし、そろそろそういった生活態度から脱却しよう。「タイへは若いうちに行け」などというTVコマ−シャルがあったが、何もかも一人で決めながら旅行する一人旅を特に若いうち(20代前半まで)にするに限る。しかも小旅行から大旅行まで回数を重ねることも必要であり、一度や二度の失敗も恐れないことである。何故なら、失敗を教訓にして次回の成功に結びつけるからである。もちろん、失敗を致命的なものにしないためにも旅行前には、充分関連情報を本などから学んでおき、旅行経験者などから話を聞いておくことも大切である。

○非言語コミュニケ−ション技能を磨け
 日本人は、会話の時に相手の話によく「あいづち」で反応する。「そうですね。(Yeah.)」「なるほど(I see.)」などと無意識的に言ってしまう癖がある。これは誤解を招く恐れがある。日本人は単に"聞いていますよ"という意味でする儀礼的な信号の場合が多く、英語圏をはじめとする人たちにとっては、"理解していますよ"という意味と考えるので、最後になって裏切られたといったショックを受けることになる。できるだけ誤解を招く反応の仕方はやめよう。

9. おわりに
 最後に、国民性とは何かを考えてみよう。こんなジョ−クがある。船が沈み始めた時、船長がイギリス人に向かって、「船を軽くするために海に飛び込め、名誉のためだ」と言うと、イギリス人は紳士的に飛び込んだ。次にドイツ人に向かって「これは命令だ」と言うと、「はい、船長」とドイツ人も飛び込んだ。「国のために飛び込め」と言うと、メキシコ人は「ビバ、ラ、メヒコ!(Viva la Mexico!)」と叫んで飛び込んだ。最後に船長が日本人に向かって何か言うと、日本人も飛び込んだ。何と言ったのだろうか?「・・・みんな飛び込んだよ」と言ったのである。

 また、ドイツ人は考えてから歩きだし、イギリス人は歩きながら考え、スペイン人は走ってから考えるなどと言われるが、これはエスニック・ジョ−ク(ethnic joke)と呼ばれるものである。こういった国民性のほんの一部(一側面)を大げさに表すことは面白いかも知れないが、そういったことを信じてしまいがちであることは否めないにしても、いわゆるステレオタイプ化/典型化して人間を見てしまうことには問題があるのである。

 また、ある社会学者が国民性を調査した結果、異文化間の差より、異なる社会層の差の方が大きいことを発見した報告がある。つまり、異なる職業の同国人同士、例えばオ−ストラリア人歯医者とオ−ストラリア人の美容師よりも、同じ職業で違う国の人同士、例えばオ−ストラリア人の教師と日本人の教師の方が共通点が多く、従って意志の疎通もしやすいということである。

 宇宙空間に美しく青色に輝く地球を周回する衛星から送られてくる地球の映像には、世界地図にあるような塗り分けも境界線もない。幾つかの大陸と、さまざまな島に海。人間には国・地域や文化の違いよりも、宇宙船地球号の乗組員(地球村民)であるという大きな共通点を持っているのである。大いに異(自)文化を理解し、お互いのコミュニケ−ションを重要視し、国際人・異文化人間になるように努力していこう。


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