プロ英語教師に求められるもの

野澤和典(のざわ・かずのり/豊橋技術科学大学)

周知のように英語教師のプロになるのは生易しいことではない。しかし、短大や大学の英文学・英語・言語学等を専攻し卒業して教員免許状を取得さえすれば、公私立学校での教員採用試験に受験できるし、採用されるとその2〜4年間で学んだ”無駄の少ない”専門なるものを引っさげて現場へ入り、その道数十年のベテラン教師と同等の立場で教育者として活動できる。しかし、大学で学んだこと、卒業論文作成のために研究したことがどれだけ役に立つのだろうか。大学では英語及び関連科目を履修したのだから、英語が教えられる筈であるという論理は必ずしも適当ではない。拡大解釈になるが、日本人だから、国語・国文学を専攻したから、外国人に日本語を教えられるとは限らないのと同じである。特にこれまでの英語教員養成プログラムを考えると、プロ英語教師に求められる基本的な英語力、言語材料や教授法に対する全般的な知識や技能がそれ程なくても残念ながら資格は取れるのである。大学卒業まで常に低空飛行(不合格すれすれの合格点)でも卒業は卒業と見なされる。勿論、成績さえよければよいというものでもない。しかし、教師は常にAクラスのあるいはそれを目指す教師であらねばならない職業であると思う。そういった気持ちがないのなら、プロ教師失格ではないだろうか。

高等教育機関である大学の英語教師には、中学・高校と違って、少し厳しい資格条件等が求められるのは当然である。大学院を出てすぐに採用され、常勤教員として大学の教壇に立つことはあまりない。例え採用されても助手として教育現場を多少手助けするぐらいで雑用に追いまくられるのが普通であろう。あるいは、恩師の紹介で職場を求め、非常勤講師としてあちこち走り回るかのいずれかである。数年後に常勤講師以上に昇任あるいは採用されると、最低限の教育・研究活動しかせず、「我に得とならずんば関知せず」というような”非常勤”常勤教師になってしまうような方がいる。「人間は本来なまけものである」という観点に立てば、これもうなずけない訳ではない。しかし、大学のプロ英語教師としては失格である。自分の力を過信し、英語教育界の動向にも、教育者として同僚たちが何を研究しているかにも無関心でいる唯我独尊的教師は、例え英語力は優れていても、よいプロ英語教師とは言えない。学生と同様、教師も常に学び続けていることを示す研究論文等の作成は、自分の専門分野に関する自主的な研究だと言えても、1年に1度あるいは何年に1度かは紀要・学会誌等で発表する姿勢が必要である。また、プロとして欠かせないのは、積極的な自己研修である。語学を教えている以上、常に”生きた”英語の習得やその関連知識の獲得に終始する必要がある。それには、公費による機会を利用するばかりでなく、数年に1度は私費でも内外の短期研修に参加し、自らの語学力アップや文化の習得を目指すと共に、新しい英語教育の動向に敏感でなければならない。私が聴講したある英語科教育法クラス担当の某大学の某教授は、数多い英語教育学会にもほとんど属さず、主たる英語教育関連雑誌も購読せずに自己経験談的に教えていたが、私を含め大半の受講生はその授業内容に物足りなさを感じてたのは否めない。

英語教授法についてもこれまでの調査・研究等で明白なように、その教師が学生時代に恩師から学んだ教え方だけでよいはずはない。また、唯一絶対にして最善であるというものは有り得ない。当然、教師は右往左往しながら、教育環境や学習者の能力・レベルに適応した教授法を見い出し、信念を持って臨んでいく必要がある。そして、先輩や同僚の授業を参観したり、学会等における研修を通して経験を積み、さらにより良いものに改善していく姿勢も不可欠である。また、文書や教材の作成、デ−タ処理等に必要な教育工学補助具であるコンピュ−タの知識と操作技能を修得することが望まれる。

現場の教師に今求められているものは、プロ英語教師としてのより一層の意識改革と行動であり、そのための内外研修への積極的な参加である。また、行政側には教室そのものや視聴覚・情報機器等の教育環境の改善整備、研究予算費や旅費の増額及び優秀な教員確保に不可欠な給与等の大幅な改善であると思う。


*この小論は『現代英語教育』大修館書店、1992年、7月号、p. 6に掲載されたものである。


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