ノザワ一家のカナダ滞在初体験(1)

 筆者が在外研究の地として、これまで長期滞在のなかったカナダを選んだことで、ノザワ一家がバンクーバーに2001年8月13日より2002年3月12日(筆者のみ帰国)滞在することとなった。以下はその滞在中におけるエピソード集である。

0. 出発準備
 当然のことながら、初めてのカナダ滞在であるから、いろいろと情報収集をしていく必要があった。まず、第一に必要だったのは、ビザ取得に不可欠な在外研究先からの招聘状の入手であり、滞在する住居情報とその確保であった。前者はもちろん、勤務先と交流が盛んなThe University of British Columbia (UBC)が第一候補であり、問題なく関係する言語リテラシー教育学部(Department of Language and Literacy Education)の学部長から半年以上前から客員研究員としての許可状をもらうことができた。一時就労ビザとその家族ビザの取得も早くから準備を進めていたこともあり、東京のカナダ大使館との何回かのやり取り後、スムーズに取得できた。しかし、後者の住居の確保には一苦労せざるを得なかった。それは、大学構内にある家族用のアパートを第一に考えていたので、申込書をウエブサイトから印刷し、申込金3ドルを添えて半年以上前に申し込んだ。ところが。待機受付番号は何と33番目だったのである。待てど暮せど、その番号が前の方に進んで行っているとの連絡はなし。2ヶ月後にe-mailで問い合わせてみると、変化なしで、結果が分かるのが出発数週間前となる7月下旬とのこと。これではとても家族全員の冬着を中心とした多量の生活物品を船便で送るにしても住所も確定していなくてはどうにもならない。UBCの友人・知人にアドバイスを得ながら考えた末、Faculty Housing Listなる住宅情報ウエブサイトで探すことにした。地域を絞り、適当な貸家などを探してコンタクトをとったが、しばらく良い貸家が見つからなかった。その原因には家賃が高かかったり、借りる時期が合わなかったりしたからである。UBC近くの地域は高級住宅街も多く、ビーチも近いリゾート的な場所も多く、結構家賃が高いので、夏の間だけの短期貸しが多いようであった。しかし、なんとか、ノザワ一家が住む貸家をKerrisdaleで見つかり、大家さんと何回かe-mail交換をして、一年契約をするに至った。通常は家具なしで借りるのが一般的であるが、家具も少し余分に払うことで貸してもらえることになり、大変助かった。中古であってもバンクーバーについてから一から家具を買い揃えるのは大変なことであるからである。この親切な大家さんについては後で詳しく述べることにしよう。
 住所が確定したので、7月中旬に13個の荷物を船便で送り、そして出発前の8月初旬にも残り10個を同様に送った。家族3人分となると最低限のものと言えども、こんな数になってしまうものである。費用ももちろんバカにならないが、現地で購入するっことを考えると、使っていたものも含め、その方が無駄ができずに良いと判断した結果であった。
 到着してすぐに必要なレンタカーもインターネットで探し、一週間借りる予約をしておいた。久しぶりの左ハンドル、右側走行の運転に少し不安を残しながらである。しかし、後述するが、それは思い過ごしであったと言えよう。

1. いざ出発
 ぎりぎりまで学会出張や講演などに追われていたため、荷造りの多くを妻任せとなってしまった。また、車を自宅マンションの駐車場にバッテリーを外して置いておくのは盗難も含めて問題であると判断し、妻の実家のある長野県南部まで車で行って、車庫に置いてもらうことにした。その結果、出発は関西国際空港ではなく、名古屋国際空港からとなった。スーツケースを宅配便で送っておいたが、研究に不可欠な2台のラップトップ・コンピュータやビデオ・カメラ類はバックパックに背負い、結構な荷物となってしまったが、致し方なかった。4年ぶりの名古屋国際空港であったが、以前よりきれいになっていた。いつも利用していたクレジット会社のラウンジでコーヒーを飲んだり、菓子類をつまみながらのんびりし、出発時間を待って、出国となった。
 夏休みのお盆始めの時期でもあり、当然のことながらバンクーバー直行便のエアカナダは満杯状態であった。出発時間の遅れが少しあったが、約9時間半の空の旅はまあ快適であった。もちろん、エコノミークラスでの席は狭く、ビジネスクラスのような状況ではないので、我慢することも多いが、これも料金の違いでもあり、致し方ない。

2.バンクーバーに到着
 予定到着時間より少し遅れたが、無事バンクーバー国際空港に到着した。荷物を受け取った後、入国審査コーナーで手続きを取ってロビーに出ると、UBCの関係者が数人待っていてくれた。というのも当日は8ヶ月の交流プログラムに参加する学生達第2陣が関西国際空港からの便で来ていたからであった。我々もその関係者の一人がRichmond側にあるレンタカー会社まで送ってくれ、さらに貸家のあるKerrisdaleまで先導してくれた。さらに、荷物まで家まで運んでくれたのである。これがカナダ流の歓迎スタイルなのかどうかは分からない。後日、彼とはオフィスを共有し、いろいろと交流を深めていくことになる。

3. 貸家でちょっと休息
 大家さんには何時頃着くとはe-mailで知らせてあったが、到着が遅れたこともあり、レンタカー会社へ行くことばかり考えていたので、空港から電話する余裕もなく、直接ドアをノックして初対面することとなった。貸家は1920年代に建てられた古い作りの家だったが、改装をし続けてきており、多少の問題はあるものの、それほど深刻なものではなく、その後多少のトラブルはあったが、日常生活を送るには十分なものであった。地下に半分潜ったBasementの2ベッドルーム、半2階〜半3階になるのかUpper floorsにはキッチン、ファミリールーム、リビングルーム、3つのベッドルーム、2つのバスルームなどがある家である。第一便として船便で7月中旬に送った荷物のうち、半分がすでに届いていた。これらは郵便屋が玄関先に置いていったものを大家さんが家の中に入れてくれていたので、早速開けて中身を出したりして整理した。その後も荷物も勝手に玄関先に置いていくスタイルで、メモを残すでもなく、ノックをして受け取り主を確認するわけでもなく、何ともいい加減としか言いようがない。きちんと損失保険をかけてあるのにである。日本での郵便や宅配サービスの良さと比較してしまった。
 少し遅めのお昼に大家さんが案内してくれ、Kerridaleの商店街にある飲茶の美味しい中華レストランへ出かけて、何種類かの料理をシェアしながら堪能した。食べ切れなかった者は持ち帰ることが普通であるので、そうした。一度、家に戻ってから、妻と息子が片づけてしている間に、大家さんが近くのショッピングセンターを案内してくれたので、最低限必要な米(カリフォルニア米)を購入したりした。初めて来た地では右も左も分からないだろうからと世界各地に住んだ経験のある大家さんならではで大変親切であった。夕食は、持参した電気炊飯器を早速使って、ご飯を炊き、中華レストランから持ち帰ったものなどをおかずに食べて、しばしテレビを見た後、シャワーを浴びて、早めの就寝となった。

4.息子の学校登録など
 翌日は息子の転校手続のため、用意してきた書類を持って、バンクーバー教育委員会(Vancouver School Board)へ行ったが、書類に書いてあった住所からはすでに引っ越していたので、メモを頼りに引っ越し先を探しだし、行き着くまで予想外に時間がかかった。しかし、何とか探しだし、到着してみると、そこは中国系の親子が多く来ており、ごった返していた。受付をして、待機番号札をもらい、しばらく待って、息子の英語力チェックや4歳以上に2回目にツベルクリン検査を義務づけていることで、本来必要ないBCGの注射をされた後、後日書類が送られたり、電話があるからと言われたので、British Columbia Newcomer's Guideto Resources and Services (February 2001)という情報誌をもらって帰宅した。この情報誌は本来移民のためのものであるので、中国語版は棚の2/3を占めて置かれており、英語版は1/3しかなかったのに少し驚かされた。それだけBCは中国系移民の多いところである。
 その夜は、筆者の大学とUBCとの学術交流が10周年で各種の行事が企画・実施されていたが、その一つに家族で参加する集会にでかけた。車を駐車するのに、一つに学内駐車場を利用したが、駐車場不足はどこも同じなようで、教職員も駐車料金を取られているようで、そこは何と5時過ぎから翌朝までは3ドルであった。学内のPonderosa Centreでケータリング・サービスによる食事やそれに続く関係者によるギター演奏などのパフォーマンスやゲームがあり、それなりに楽しむことができた。

5. 車探しと購入
 翌朝は大家さんが案内してくれ、Richmond Auto Mallへ中古車探しに出かけた。これまで世界的に実績を積み上げてきている日本車はこのカナダでも人気が高く、特にトヨタやホンダは中古車といえども高く取り引きされている。この日はトヨタとホンダを見回ったが、残念ながら希望していた1万ドル(約80万円)ほどのものはなく、見つからなかった。帰路、Richmond Centre内にある九龍レストランで、大家さんお奨めのワンタン麺を食した。確かにエビ入りワンタンは非常に美味しく、麺も中国麺らしく細いものであったが美味であった。
 数日後、再びRichmond Auto Mallを訪れ、今度はトヨタの外、見ていなかった日産も見てみた。トヨタでは大変良い条件の中古車が見つかったが、デーラーに売られたと同時くらいにすでに買い主が決まってしまったそうで、残念であった。日産に行って、販売員に聞いてみると、少し予算からは高い(1万5千ドル)が、非常に好条件の中古車(92年式Volvo 920)があるという。話を聞いてから、実物を見てみると、確かに年式は古いが、きれいに使用されてきており、走行距離も少ない。こちらでは、多少年式が古くとも、所有していた人数が少なく、きれいに使われ、走行距離が少ない方が価値がある。この車はその条件に合ったものであったので購入することにした。レンタカーを返す期日を過ぎることもあり、数日間日産の車を無料で貸してもらうことになり、サービスを甘受した。また、社長が日本人でもあったため、少し歓談したが、便利職業別電話帳「タウンページ」をいただいた。そして、数日後、必要な手続きの後、自動車保険などを含めて支払い購入して持ち帰った。自動車保険は割引をしてもらうための書類(日本の保険会社からの英文証明書)を持って来なかったため、とりあえず3ケ月分購入した。これは後日割り引きを含めて修正購入することになる。

6. サンセット・デイナー・クルーズを楽しむ
 到着して3日目の夜、English Bayを回遊するサンセット・デイナー・クルーズに家族で参加する機会を得た。Rits-UBC交流10周年記念行事の一つであった。日本からの参加者も含め、関係者50人ほどが夕方出発地へ集まり、快適な天候のもと、ビールやワインを飲みながら、ローストビーフやスモーク・サーモンなどのあるデイナーを楽しんだ後、デッキに出て、参加者たちとの会話とグランビル・アイランドやダウンタウンなどの周りの景色を楽しんだ。

7. 銀行支店で口座開設など
 到着してすぐに大家さんが利用している銀行「香港上海銀行(HSBC)」Kerridale支店を紹介してくれたので、妻と二人でチェックも発行でき、キャッシュ・カードも利用できる口座を開設した。HSBCは世界的なビジネスを展開しており、東京にも支店があるし、ここバンクーバーにはたくさん支店があるようであったので、そこに決めてしまったのである。コーヒーや飲料水も用意してあり、サービス面もよいかなと思った。後日、パスポート、鍵類、日本円などを保管しておく貸金庫(Safe Deposit)も借りたので、しばしば訪れることになる。1週間ほどでチェック・ブックが届き、各種の支払いに利用できるようになった。2週間ほどでキャッシュ・カードが届いたが、予想外にすぐに利用できない状態であったので、その支店でチェックしてもらい、利用可能にしてもらった。唯一不便だったのは日曜日にATMが利用できないことであったが、41st Granvilleの角にある別の支店が可能であり、そこでキャッシュを得られたので、大きな問題ではなかった。しかし、一日に引き出せる額は100ドルまでというのが不便であった。これも日本のように現金社会ではなく、あまり現金も持ち歩かないカード社会のせいなのかも知れない。

8. 地元の商業祭
 8月下旬の週末にKerridale Fairという年一回の商業祭に行ってみた。それぞれのお店の前にはデイスカウントの商品や資金集め目的の食べ物などが並べられていた上に、無料で参加できる子供向けのエアハウスやゲームコーナーもあった。午前中の早めの時間帯に出かけたので、無料駐車場にうまく車を置け、歩き回った。買いたい商品等はなかったが、9月下旬に開催されたCountry Fairでカリフォルニア。ペア旅行が当たる券(2ドル)を購入した。ここでのハプニングとしては、息子が大好きなエアハウスで一列で順番待ちをして先頭に到達した時、悪ガキどもが2列に並んで先頭に出てしまった。その結果、息子が走りだした途端、担当者に止められ、戻されてしまった。英語で何も言えない息子は泣きべそをかいて私のところにきてしまった。すぐに担当者に息子が先頭にいたことを言ったので、戻って参加しなさいと促してくれたが、息子はもうその気をなくしてしまい、いじけてしまった。何度も行ってらっしゃいと促したが、だめだった。きちんと英語で自己主張しないと自分の意見が通らないことを理解したはずである。仕方なく、別の場所へ移り、ゲームをさせたり、ポップコーンを買い与えたりして機嫌を取った。最後に駐車場に戻ろうとした時、世界展開しているコーヒー専門店のStarbucksの前で無料のアイスコーヒーのコーナーがあり、妻と味わった。

9. ケーブルTVとケーブル・ネット
 しばらく数チャンネルしか見られないテレビを見ていたが、息子にできるだけ英語に触れさせたいことやCNNなどのニュースも見たかったため、ShawというケーブルTVに接続することにした。チャンネル数によって料金は異なるが、最初の1ケ月が無料であった。会社の接続担当者へ電話して、フルチャンネル数(2〜59)のアナログ接続をしてもらった。デジタル機器をつけて、さらに追加料金を支払い、NHK放送も含めた日本からの番組を24時間見られるようにまではしなかった。息子は漫画専門チャンネル50のTeltoonが気に入って、その後暇さえあればそのチャンネルで各種の漫画番組を楽しんだ。Untalkative BunnyやMecha Babiesなどは気に入ってよく見ていた。
 インターネットは、同じくShawと契約して接続してもらうことにした。ケーブルTV接続の1週間後ということであったが、約束の日には担当者は現れず、大家さんも協力してくれ、何度か電話連絡してみた結果、さらに2週間程待たなくてはならなかった。が、なんとか2ケ月分無料のスタイルで接続してもらった。当初一台だけの接続を考えたが、近くのLondon Drugという店でハブを購入し、2台でも利用できるようにした。日本の電気製品量販店で購入すれば安く入手できるハブなども結構高かったが、致し方ない。接続状況はというと、朝夕の早い時間や日中ならほとんど問題なく接続できたが、夕方から夜になると少し接続が遅くなり、ゴールデンタイムになるとレスポンスがかなり遅くなり、時々利用を諦めざるを得なかった。特に、週末となる金曜日、土曜日、日曜日の夜はかなりひどく、待ち時間が長く、じれったいばかりであったが、接続状況が良いとされる電話会社のTelusへ乗り換えるにも面倒であったので、そのまま利用し続けた。

10. 友人家族とアフタヌーン・テイ
 8月下旬のある日曜日の午後、フランスでの1年間の研究滞在を終えて戻ったばかりの友人のカナダ人家族がKitslanoの仮の住まいではあったが、近くの海岸での散歩とアフタヌーン・テイに招待してくれた。一度夕方その辺は散歩したことがあったが、何度行っても気持ちの良いところである。まだ日差しも強く、寒いながらも泳いでいる人々、カヤックやヨットを楽しんでいる人々、ビーチ・バレーボールを仲間とプレイしている人々、散歩やサイクリングをしている人々、ビーチに寝転がって本を読んだり、おしゃべりを楽しんでいる人々など、様々な楽しみ方をしていたのが印象に残った。
 散歩の後、滞在先の家に戻って、アフタヌーン・テイとおしゃべりをしながら、楽しい一時を過ごした。息子と同じ年齢の男の子もいた。英語があまり通じなかったが、お互い共通するテレビゲームで交流が少しできたようである。

11. 夏休み中の家族の過ごし方
 息子の学校が始まるまでの夏休み中の家族での過ごし方といっても特別な計画などなかった。というのも、初めてのカナダ長期滞在であり、慌てて動き回る必要はないと考えていたからである。しかも、予定より購入価格が高くなってしまって、その余分な出費分を節約する生活をしなければならないことも外出を控える要因でもあった。しかし、貸家の大家さんが会うたびに「息子を外に連れ出して遊ばせなさい」と言うので、できる限りそうするようにした。カナダに限らず西洋諸国では子供たちの夏休みが長いことから、様々な野外活動などが企画されているので、「その幾つかに参加させてみては」と助言されたが、息子の英語力の問題、プログラムの内容やレベルの問題、日時の問題もあり、結局見送ってしまった。その結果、息子は私のオフィスへパソコンも持ち込んだりして、インターネットゲーム三昧の日々が続いたりした。暑いとは言えないまでもまだ暖かい日中には平日や週末にかかわらず何度かビーチに連れていって遊ばせたりもした。息子は水や砂を使った遊びが大好きであるから、一人で数時間過ごしても平気であるが、親の方は「何か危ないことでもしないか」、「知らない人に連れていかれはしまいか」などといらぬ心配をしながら、じっと待たねばならない辛い時間でもあったのである。また、日没が9時近くであったので、家族で夕方ビーチまで車で出かけ散歩したり、近くの公園で遊具で息子を遊ばせたりすることも何度もした。多くのカナダ人は夕食後の散歩は日課のようにするのであるが、我々もできる限り楽しむことにしたのである。
 週末には、Richmondにある大阪(前ヤオハン)やSuper Storeなどのショッピングセンターを中心に買い物に出かけた。果物はあまり良質とは言えないが、日本野菜や食品加工品が多くあるので便利である。また、その中のFood Courtは手ごろな値段で多量の食事が提供されるのが特色であり、中華料理や韓国料理などのエスニック料理を楽しむこともした。もちろん、Richmondは中国系カナダ人が一大勢力を持つ地域であり、当然多くの中華料理店を含め、様々な店が乱立し、何でもそろっているので便利である。車で5分ほどの近い場所にもSafewayやMarket Placeなどもあるのであるが、20分くらいで行けるので、それほど遠いとは感じなかった。

12. 息子の学校
9月第一週になると、事前登録した子供たち(前年度から戻って来る者や転校生たち)が学校に集合し始める。しかし、息子のように新しく入ってくる者は、その事前登録者がその通りくるのかどうかが分かるまで、自宅待機となる。各学校とも人数がある程度定着したところで、バンクーバー教育委員会(VSB)と協議し、増クラス数と新規教員の採用などを決定する。予定していた教育委員会からの手紙も来ないし、電話をしても、らちがあかないので、焦らざるを得なかった。幸いに大家さんが直接学校へ行ってくれたりして情報収集をしてくれ、住んでいる地区の学校に行くのが普通であるので、Kerrisdale Elementary School (KES)ないしUniversity Hill Elementary School (UHES)に決まりそうだと分かった。希望としては、少し離れているがUHESが施設面でもESLプログラムの充実度から考えても理想的であった。UBCキャンパスに近いこともあり、その関係者の子供たちで満杯状態であると聞いていたので、当然近くのKESであると思い、確認に出かけ事務室で聞いてみると、息子の名前が確かにあった。歩いても15分ぐらいで行けるのであるが、日本のように近所の子供たちがグループを構成し登下校するなどというスタイルではない。ある程度上級学年になると、兄弟同士で歩いて行き来するケースもあるが、西洋社会には多いが基本的には学校側が推奨するSafety Arrival Program(事前登録して親が電話で子供が安全に到着したことなどを確認できるシステム)との関係もあり、親などが責任を持って送り迎えするシステムなのである。朝8時55分のベルが鳴る時間までに送り届け、午後3時の下校時に迎えに行く週日のスタイルが続くこととなる。筆者が車で息子を送ったあと、UBCのオフィスへ行き、日中は妻が車を主として使うので、帰宅も午後5時頃に迎えに来てもらうという基本パターンであった。
<続く>


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