1999年9月号での発言

秋田市体育協会会長・高橋昌一氏の「注意」に思う

筆者自身の過去のスポ−ツ活動経験などから判断すると、国から地方レベルにある体育協会や開催されてきている体育大会の体制自体がかなり保守的であり、会長職の高橋氏のような方の場合、同様にその言動もかなり保守的・独断的であると容易に推察できる。従って、メデアが連日取り上げていた「日の丸・君が代」問題の最中のことでもあり、「これから来賓として <中略> 出ていっていただきたい。」で始まる来賓祝辞は予想できる言動であったとも言えるであろうし、「厳正なセレモニ−の時、<中略>貧しい心が世の中の荒廃につながる」という後日談も、その方の思想信条の背景から自然と出てくるものとも推測できよう。しかし、総合体育大会への参加者たちは、高橋氏の思想信条に基づく行動に全て応える義務はなく、儀式とはいえ、起立し、「君が代」を歌わない状態で、その会場にいても何ら問題はないと思う。自民党・自由党・公明党の党利党略を優先し、「国民感情を無視した」一連の政策実現行動の一つ「国旗・国歌法」が法制化されつつある状況だとはいえ、高橋氏の言動はあまりにも差別主義的な言動であるとも言えまいか。「内なるもの」には甘く、「外なるもの」には差別する「反民主主義的・反国際主義的な発想」に基づく言動である。少数派の言動をできる限り考慮して、何事進めていくのが民主主義の原則ではないのか。戦前・戦中生まれ、あるいはその時期に教育を受けた多くの方々は、悲しいことではあるが、このことを良く理解していられないのかも知れない。

筆者が危惧することの一つは、「国旗・国歌法」が法制化された後、上記のようなことが特に公的教育現場で頻繁に起こることが予想される。「学習指導要領」という武器で威圧し、校長などの学校管理者を中心に、教員や生徒・学生に、あるいは機会があるごとに父兄にまでも「強制」することをするようになるであろう。それに反する教員は「職務命令に背いた」として、何らかの処分を受けるであろうし、否応無しに憲法で保障されている「思想の自由」が脅かされるであろう。このことが更に「学校・学級崩壊」や「学校側と父兄たちとの亀裂」を助長することになり、問題が大きくならないことを祈るばかりである。

現国会議員を選出したのは、平和ボケして政治に無関心な層を含めた我々国民である。そのツケが回ってきたとも言える。国民本位の政治活動ができる政治家を選ぶには、オ−ストラリアのように選挙において投票を義務つけて欲しいと思うが、すぐには実現できないであろう。メデイアの力を借りながら世論の盛り上がりを期待する一方、今後の選挙で「真に国際感覚があり、大局的に物事を考えた政策立案と行動ができる」政治家を選出するようにしなければならないと思う。そのためにも、今の政治動向をしっかりと把握し、各党の国会議員の言動を評価しておかねばならない。


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