2000年1月号での発言

「お受験」の是非を一言

最近東京都文京区で起こった幼女誘拐殺人事件では、一方で幼稚園レベルから始まる過剰なまでの受験競争の中でのいわゆる「お受験」という社会現象と、物質的に恵まれた中で育ったが精神的な脆さを合い持つ世代の「人間関係の破綻」との因果関係が現段階では不明確であり、現段階では殺人という残虐な行為に至った原因については討議する段階でなく必要もなかろう。犯人の持つ複雑な心理状態は、平常心を取り戻し、犯した罪の大きさを真摯に認識する時まで解明されないかも知れない。

これまで「お受験」は、しばしばマスメデイアなどで取り上げられ、その是非が専門家などによって論じられてきているので、詳細な分析結果を含めた討議は彼らにまかせることにする。「お受験」後の上級学校への進学が容易であったり、教育・学習環境が他の学校より良いといった特定のメリットがあるから生じることは言うまでもない。また、そのためには「お受験」し易い住環境に転居するなど、「親ばか」的な行動も起こる。一方、「お受験」に特化した塾によるものばかりでなく、インタ−ネット上にもそういった「お受験」対策講座が提供され、また、個人的な経験談などの関係者にとっては様々な有益な情報が入手できる時代となってきている。

子供たち一人ひとりが個性を持ち、知識量も技能にも差があるのであるから、教育現場では、そういった能力を正確に評価し指導し、向上を目指す個別・集団のプログラムが提供されるのが理想的であるが、現実にはそうはうまくいかない。また、理想的な教育・学習環境を提供することを考えれば考えるほど、有能な人材の確保や最新の設備などコスト高にもなる。どんな親でも子供には親が経験してきた以上の条件整備をしてやって、親を超える人物になって欲しいとか、苦労しない道を歩んで欲しいとか、幸せになって欲しいとか思うものであり、「お受験」という異常な状況が必ずしも子供たちに良いとは限らないと理解しながらも、そういった状況に親自らのめり込んでいってしまう傾向がある。これは致し方ないことなのかも知れないが、親も子供も苦しむことなどない方が良い。いくら「平等な」「公平な」教育環境を提供していこうと言っても、実際には「親の教育哲学」「親の収入」「住環境」「子供の能力」などの差が生じている以上、教育環境の選択肢にも格差が生じてしまうからである。筆者は幼児期からの「お受験」は必要ないと考えていたし、これまで我が家の息子にもそういったことはさせてきていない。しかし、少子化が進む状況下とはいえ、一般的に「お受験」は残念ながら将来的になくならないであろう。

我が息子には「異文化相互主義」に基づく広い解釈幅を持ち柔軟性に長けた「異文化人間」になって欲しいと思うがゆえに、幼少の頃から積極的に「異文化接触」をさせ、「自文化理解」と「異文化理解」を助長させてきた。その方が21世紀を生きる息子にとって必要不可欠な能力と言えるからである。これもまた、「親ばか」の夢なのかも知れないが。


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