1995年1月、阪神淡路大震災(以下:震災)が神戸の町を襲ったとき、生後2ヶ月の赤ちゃんだった横山玖未子さん。5歳になると震災から5年目、10歳のときは10年目。自分の成長と震災後の時間、節目を同時に刻んできた。当時の記憶はないものの、小中学校から震災の授業や追悼行事を重ねるなかで、震災は切っては切り離せない身近なものになっていた。

2015年1月、横山さんは成人に、神戸は震災から20年目を向かえた。「注目が集まる20年目の区切りが過ぎたら、私よりも後に生まれた世代にとって、震災が自分とは遠い“過去の出来事”になってしまうのではないかと心配になりました。」横山さんの中で強まっていく震災への思い。防災センターでのボランティアなど、地震や災害について自ら関わりをもっていった。

淡路市にある北端震災記念公園。横山さんは保存されている野島断層や遺留品を目にし、改めて被害の大きさを知った。さらに「南海トラフ巨大地震・想定死者数30万人」という予測に大きな衝撃を受け、とてつもない恐怖を感じたという。そしてボランティアスタッフの話から災害への備えについても関心が高まっていった。「もし、瓦礫に埋まったら、大声で助けを呼んで体力を消耗したり、雑音で声がかき消されたりします。だからこそ周りに自分を知らせる笛が大事であると。しかし自分も持っていないし、周りの人も持っていない。被害にあった人たちのアドバイスを実行していたら防げたはずの被害を、やらずに被害にあってしまうのはもったいないって思ったんです。」

何か行動を起こそうと考えた横山さん。笛の製作やモニュメントの設置、追悼イベントの開催など、初めの企画は資金が思うように集まらず頓挫した。一度は諦めようとしたが「ここで、辞めたらあかん!もし何十年後かに災害が起こったら、絶対後悔する!」と、救命に直結する笛の製作に的を絞り、2015年春、大学の仲間と共に再スタートを切った。

内向的な性格で企画を推し進めるタイプではなく、自分が中心になることや、知らない人と関わりを持つこと自体、恥ずかしさがあったというが、繋がった人からの応援が原動力になり、必ず完成させる!という強い思いで進めてきた。苦手なことから逃げずに取り組んだからこそ、躊躇せずに行動できる自分になれたと横山さんは語る。また、笛づくりを進めるなかで、周りの人に話したり、相談したりすることの大切さを実感したという。実際、資金集めや製造には、アドバイスから工場の紹介に至るまで、多くの人の支援や協力を受けたそうだ。

製作にあたってこだわったのは、身につけやすく、邪魔にならい、笛っぽくない笛。また大切な人の命が助かるようにと思いを込めた“プレゼント”としても広めていく。「この笛が大切な人とのコミュニケーションのひとつになってくれたら嬉しい」と話す横山さん。完成した笛を携えて今月、宮城県仙台市を訪れた。笛のデザインや価格についてアンケートを実施し、販売方法を検討している。そして、東北の小学生には寄付として無料配布する予定だ。「この笛を身につけても、いざというときに必ず役に立つのか自信はないけれど、見るたびに”防災・減災”を思い出すきっかけにしてほしい」

自分の周りに防災に興味がある子はいない。そういう中にいた自分が活動することで、身近な人が関心をもってくれるはず。「友達を増やすのも大事な防災の一つ」と横山さんは目を輝かせた。「今回の笛の完成だけに満足していません。これからも笛をPRして防災を呼びかけていきたいです」

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