白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/21 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (20)

孔子伝——狭い書庫に籠り執筆

孔子を書くことは、かねてからの念願であった。敗戦のとき、論語と聖書とを手近において、折にふれて読んでいたからである。東洋にとって、孔子を欠かすことはできない。儒教はどうして生まれたのか。孔子はどのようにしてそれを組織したのか。儒教がその教条主義にも拘わらず、滅びなかったのはなぜか。それはむしろ儒教の否定者によって、止揚されたからではないか。そのようなテーマを、私は敗戦のときから考え続けてきた。しかしそれは、何らかの実践的な契機がなくては、具体化しがたいものである。

私は学内では、戦前派として常に疎外される立場にあった。私はいつも逆風の中にあり、逆風の中で、羽ばたき続けてきたようである。京都は新勢力の中心地となり、今にも革命政権が生まれそうで、「未来を信じ、未来に生きる」という暗示的な標語が生まれた。大学の入口の大きな石に、今もその語が刻まれている。

未来の夢も漸く醒めたころ、昭和四十三年の暮近く、大学の学生新聞の発行権を奪取するため、代々木派がその編集室をホース攻めにし、武闘の結果七十数名が負傷し、やがて全国の大学に紛争が起った。そして約半年の後、この学校では、全共闘派がいわば鎮圧された形で終った。数年前に、フランスで文部大臣が引責辞職するほどの学園紛争があったが、それがそのまま、わが国で再現されたようなものであった。その八月、高橋和巳君の「わが解体」が出て、私のことについての伝聞を記している。

高橋和巳君は、かつて私が吉川幸次郎博士に請うて、私の専攻に迎えた人である。学術にすぐれた才能をもつ人であったが、作家的な自己衝動を抑えきれず、「邪宗門」執筆中に辞職された。再び大学に入ることはないと明言されたが、のち東京に出て明治大学に入り、紛争当時は京都大学に戻っておられた。京都の各大学の両派の学生が、それぞれ集団で巡回するので、いろいろ伝聞されたことがあるのであろう。

私は当時、「金文通釈」を年に四回季刊で、また「説文新義」を改稿して、それを同じく季刊で、刊行することを予定していた。一日の放佚(ほういつ)をも許されないという状態であった。紛争に参加している学生には、群不逞の徒もあり、儒侠・墨侠の徒もいた。かれらのある者は、私の日課を知り、それを妨げようとはしなかった。

紛争明けの騒擾(そうじょう)がまだ余韻を残し、校庭には立て看が所狭しと乱立している翌年の夏の休暇中に、当時中央公論社の発行する「歴史と人物」の編集長であった粕谷一希氏が、研究室を訪ねてこられた。「孔子伝」の執筆を依頼されるためであった。人の気配のない研究室棟では、暑い夏には、私はステゝコ姿であった。粕谷氏は私を小使いさんと間違えて、私の室を問われた。私がその室の主(あるじ)であった。冷房もないコンクリートの室の中では、ステゝコと濡らしたタオルとが、私の銷夏(しょうか)法であった。

校庭はなお喧噪が甚しく、あまり喧(かまびす)しい時には、私は梅若六郎の曲を、小さくカセットでかけ流した。美しいリズムが、騒音を吸収して、時には私の思索を助けてくれるのである。来客の多い時には、研究室の前の、予備の狭い書庫に籠って執筆した。書きあげたその年の暮に、台湾に渡った私は、元旦の朝、桴(いかだ)に乗じて今ここにある孔子廟にお詣りをした。

(立命館大学名誉教授)