白川先生のことをもっと知る日本経済新聞 「私の履歴書」

1999/12/29 日本経済新聞 朝刊

立命館大学名誉教授白川静氏 (28)

文字講話——年4回芸に遊ぶ境地

私が二年前、前任の中田勇次郎先生から受け継いだ文字文化研究所は、創立以来丁度十年を迎えていた。その間、年四回の研究発表を、公開講演の形で続けてきている。講演記録の刊行なども企画のうちにあるが、いまの経済状況ではどうしようもないという状態である。それである程度の会員数を得て活動を継続したいと考え、私が連続講話をすることにした。最も不得意として避けていたことを、しかも継続してすることは、私にもそれなりの決意を必要とすることであった。

私は明ければ九十歳になる。何時まで健康を保ちうるかは知らないが、一応できるだけ欲張った計画を立てることにした。

まず著作集をまとめよう。いわば無秩序に、著作集など予定せずに書いてきたので、まとめるとなると色々過不足のところがある。テーマ別に編集することにして、十巻か十二巻が適当であろう。いまは出版も困難な時期であり、学校や図書館など公的な機関だけでは部数に限度がある。出版社にあまり負担をかけてもならぬ。私も老憊(ろうはい)の身であるから、編集には中国芸文研究会の若い研究者にも参加してもらおう。こうして著作集十二巻の刊行が定まり、平凡社では岸本武士氏が特任の形で担当されることになった。

この機会に、私が別途に刊行した幾つかの出版物を再編集したいと思った。まず初期論文を謄写版で出した「甲骨金文学論叢」十集を、上下二冊とする。「説文新義」十六巻を二巻ずつ併せて八冊に、「金文通釈」五十六集は周の金文のみであるから、殷の金文四集を「殷文札記」として加え、全六十集、合冊して全十冊とする。

二玄社から「書跡名品叢刊」の一部として出した甲骨文集一冊、金文集四冊に、新たに続金文集四冊を加えて九冊とする。この続金文集四冊の編集については、既にその目録を上海博物館長の馬承源先生にお渡しして、協力を依頼してある。これらをすべて刊了するのには、月一冊の割合を以て刊行するとしても、少くとも五年を要する。まだ五年間は仕事を継続しなければならない。いまの健康状態からいえば、特別の支障が生じない限り、しばらくは継続できそうである。

仕事を継続するのには、適度の緊張を保ちうる定期的な企画をもつのがよい。五年という期間を想定すれば、年に四回、五年で完結するような企画を予定してはどうか。文字文化の事業を理解して頂くために、年四回の公開講座を、私の文字講話に充てて、二百人から三百人規模の楽しい会を催すことにしてはどうか。著作集のことも決定したので、この文字講話も早速開始することにした。二十回分の講話のテーマを定め、とりあえず第一回は「文字以前」、第二回は「身体に関する文字」、第三回は「身分と職掌」、第四回は「数について」のように基本語彙に関するところからとし、今年三月から講話を開始した。

新聞に案内を出して頂き、第一回から二百五十人を超える方が参加された。十枚程の資料をお渡ししておいて、時間を見ながら一時間半、少憩ののち質疑応答三十分である。楽しんで文字学に親しんでもらうのが目的であるから、私も屈託なく話し、質疑応答にも興味がもたれて、意外の盛況であった。

第二回には三百の席が殆ど満席で、テープの保存、ビデオの頒布、記録の刊行など次々に提案があり、私の道楽のようなことが容易ならぬ仕事になりかけている。しかし参加して下さる方が楽しく遊んで頂けるならば、私も楽しく遊び続ける外はない。孔子も「芸に遊ぶ」ことを、人生の至境とされた。芸とは六芸(りくげい)、文字はその基本中の基本である。私もここに人生の至境を求めようと、今後は京都国際会議場の一室を定例の会場として、会員の諸君と文字の世界に遊び続けるつもりである。

(立命館大学名誉教授)